夏恋。 1
   〈1〉

「……先生?」
 ──ずいぶんと久しぶりに聞いた気がする、そんな呼びかけに、それでも振り向いてしまったのは、条件反射だろうか。
 高原の朝は清々しく涼やかで、清浄な光に満ちている。足元を濡らす露、やわらかに目覚める緑、水面を流れる靄、まだ充分に冷たい空気。
 濃さを増していく青空を背景に、すっくりと伸び行く若木のような青年が立っていた。高い。ジェンセンでさえも見上げなくてはならないほどのところに、顔がある。
 そうして、その顔に、ジェンセンは確かに見覚えがあったのだった。
「……お前……ジャレッド?」
「やっぱり、先生だ!」
 わあ、と子どもみたいな歓声をあげて、でもとても子どもとは言えない長身が走り出した。その両わきにいた二頭の犬が、主人の興奮につられて、一緒に走ってくる。
 そうして、ジェンセンは、巨大な人間と巨大な犬に正面から抱きつかれ、どうする術もないままに、うわあ、と間抜けな声をあげながら、まだちょっとばかり濡れた地面へと仰向けに倒れこんだ。


 五年前、ジャレッドは、ジェンセンの生徒だった。と言っても、家庭教師の話だ。ジェンセンは大学一年生、ジャレッドは中学三年生にそれぞれなったばかりだった。
 ひょろっと背の高い、けれど、人懐こい笑顔の子ども。それがジェンセンの記憶にあるジャレッドの姿だった。決して細いわけではなかったけれど、まだ骨格は成長途中の少年のもので、ベビーフェイスとも相まって、どこまでも「子ども」という印象しかなかったのに。
 それが、どうだ。五年の間に、縦の長さにふさわしいだけの厚みがついて、胸とか腕とか、もうえらいことになっている。
 どれくらいえらいことかと言えば、のっしり抱きつかれたジェンセンが押し返すこともできないほどだ。
「重、重い、重いって、ジャレ、どけ、つぶれる……!」
 犬もどけろって、こら、とさんざん暴れたが、ジャレッドは嬉しそうにしがみついたまま「ほんとに先生だ、嘘みたい」と、彼こそが犬のようにジェンセンのTシャツにすりすりと頭を擦り付けていた。
「……ああもう、お前今年で二十歳だろ」
 大きくなったのは見た目ばかりか、と、洗い立てのシャツについただろう、草の汁や土の汚れのことを思いながら、ジェンセンは、相手の後頭部を軽くこづいた。
「痛いよ、先生」
「俺は重いよ。どけってば」
「どいても消えないよね?」
「何で俺がお前から逃げなきゃならないんだよ」
「そうじゃなくて」
 朝夕の散歩はジャレッドと彼の飼い犬たちの日課で、ことにこの避暑地に来てからは、早朝の澄んだ空気を楽しむために、いつもより一時間早く起きることにしていた。ゴミゴミして常時雑音のする都会と違って、ここの朝は、自然の音と自然の匂いしかしないから、彼の愛犬たちもご機嫌だ。
 ひとけのない林を抜けて、ここのシンボルになっている大きな湖の縁を歩く。気がすむまで歩いたところでUターンするか、あるいは、別の小道に入り込んでみたりする。迷わない程度に適当に。自分たちだけなら迷ったって気にしないけれど、ジャレッドはバイトでここへ来ているので、時間までにはきちんと帰らなくてはならないからだ。
 今日もそうして、気の向くまま、入ったことのない小道に足を踏み入れた。手入れのされていない様子に、誰も使っていないか、どこにも通じていない道なのだろうと思っていたから、なかなか立派なコテージが現れたときにはちょっと驚いた。こんなところに建物があったとは。
 もっとも、避暑地と言うのは、都会の暑さと共に、喧騒をも忘れるために来るひとも多いから、プライヴァシーを重視して、奥まったところに別荘を建てる人間も珍しくはない。
 大きさはそれほどでもないけれども、なかなか凝った造りの建物だ。ひっそりしていて、人がいるかどうかはわからなかった。まだ眠っていてもおかしくはない時間だ。
 それきり興味をなくして、ジャレッドはコテージの前を通り抜け、もう少し奥まで進んでみることにした。まだ時間に余裕がある。
 葉先に露を残す草を避けるために、ややうつむき加減になっていたジャレッドは、だから、最初、そこにひとがいることに気づかなかった。まだ薄く残る朝靄の中に立つひとは、まるで奇跡のように、そこに突然現れたかに見えた。
 ジャレッドから見えたのは、背中側からの横顔で、顔立ちまではわからなかった。けれども、そのひとのまとっている空気はとても静かで、あまりにひっそりとしていたので、ジャレッドは、瞬間、呼吸さえ止めてそのひとに魅入った。どこか生身の人間らしくないほどのはかない風情に、ひょっとして声をかけたら消えてしまいやしないかと、ほんの一瞬だけれど、半ば本気でそんなことを考えたので。
 しかしながら、こうして見下ろした相手は、どう見ても普通の人間の男性で、確かに、公平に見てずいぶん、──かなり、────とてもきれいな顔立ちなのだけれど、別段、妖精めいたところも幽霊めいたところもない。むしろ、ジャレッドが知っていた頃よりもずっと大人びて男っぽくなっている。
 ──当たり前か、もう彼は社会人だ。
 教わったのは一年だ。無事高校に受かったとわかったとき、合格おめでとう、と財布をくれた。それは今でもまだ大事に使っている。クリスマスカードと、月数回のメールはやりとりしているから、近況くらいは知っているけれど、顔を会わせたのはあれ以来のことだった。
「こっち来るなら、教えてくれれば良かったのに」
 ジェンセンを引き起こしながら、そう言ったら、お前だって何も言ってなかったじゃないか、と言い返された。
「そうか、そうだね。俺ね、この近くにあるカフェでバイトしてんの。知ってる? ガイドブックなんかにもけっこう載ってるんだけど」
「知ってる」
 コーヒーがおいしいので有名な店だ。あと、女の人にはチョコレートケーキが人気だとか。
「そう、それ! ほんとにおいしいんだよ、先生も来てみてよ。クルミ入りでさ、チョコレート苦くて、全体的にそんなに甘くないから、男の人でも気に入るひと多いよ」
 コーヒーおごるよ、とジャレッドはニコニコしている。たぶん、彼もそのケーキのファンなのだろう。甘いものが……というか、食べ物全般が好きなので。
 後ねー、ナッツ入りのクッキーとブルーベリーマフィンがおいしいんだよ、それからホットサンドもイケるし、サーモンとレタスのサンドイッチも、と、お勧めメニューを指折り数えている。彼の話を聞いていると、お勧めばかりで何が一番なのかわからなくなる。
 ジェンセンが家庭教師をしているときもそうだった。ときおり、良かったら一緒に、と家族の食事に誘われることがあったが、いったい、どこに消えるのだろう、というような量の食べ物を平らげて、けろりとしていた。手土産に菓子など持って行ってやると、飛び上がるほど大喜びをしたものだ。それが、その辺のコンビニで売ってるようなたあいないものでも、鞄に入れたきり忘れていたようなチョコレート一枚、キャンディひとつでも、同じように喜んだ。
 あの頃は、成長期だし、と思っていたのだが、今も変わってないようだ。
 そんなに食べるから伸びるのか、伸びるから食べないともたないのだろうか。
「お前……どれだけ伸びたんだよ……」
 並んで立つと、ジャレッドの背の高さをまざまざと思い知らされる。たしか、以前は同じくらいの目の高さだったはずなのに、もう完全に目線がずれる。成長痛で夜も眠れない、などと時折暗い顔をしていたけれど、伸びていたのはあの時期ばかりではなかったらしい。
「えーと、春に計ったとき191cmだったかな」
「191!?」
「今は、あれよりまだちょっと伸びてると思う」
 さらさらとした口調で恐ろしいことを言う。
「……ゴジラにでもなる気か」
「えー」
 ゴジラって、何メートルあるの、と訊きかえされ、50メートルくらい? と適当に答えた。
「そんなに大きくなったら、さすがにジムに追い出されちゃうな」
「ジムって?」
「あの店のオーナー。……兼、パティシエ、かな? ケーキ作ってるのもあのひとだから。友達の伯父さんでね、ほんとはその友達がここでバイトするはずだったんだけどさ、夏休み直前にガールフレンドが出来たんだ。出来立ての恋人、三週間もほっといたらふられちゃうだろ? だから、俺が代理で来たってわけ。セイディとハーリーも喜んでるし、すごく楽しい」
 いいバイトだよー、賄いもすごくおいしいし、とニコニコしている。
「でもほら、俺ってばすごく食べるから、ジムに呆れられてんの。けど、しょうがないと思うんだよね。だって、ジムのご飯、おいしいんだもん」
 どうやら、寝泊まりしているのも、そのオーナーの家らしい。この欠食児童が満足するだけの食事を三度用意するのは、さぞや大変だろう、とジェンセンは、まだ見ぬ「ジム伯父さん」に同情した。
「先生も夏休み? ひょっとして、そこのコテージ借りてるの?」
「……ああ」
「そっかあ、こんなに近くにいるのに、全然知らなかったな」
 会えて嬉しい、と他意なく言われ、ジェンセンもつられるように微笑んだ。
 五年前よりゴジラに近づいて、頭のほうだって、もともと優秀だとは知っていたが、名前を聞けば大概の人間が「ほう」と感心するような大学に入って、そこでも良い成績を収めているらしいけれど、一番中心にあるジャレッドらしい明るさは、相変わらずのようだった。
 俺も、と控えめな声で同意すれば、ぽこんとえくぼを作って、良かった、と言った。
「いつもこの時間に起きてるの」
「いつも、っつーか、昨日ついたとこなんだけど」
 眠れなかった。あまり。それで、朝日が射すのと同時くらいに起き出したのだ。けれど行く場所もなく、しかたなしに、その辺を歩くことにした。
 一人でいると、どうしても考え事をしてしまう。考えたくないことに限って頭をよぎる。ここへ来たのは失敗だったかと、一日も経たずに後悔をしかけたところで、「先生」と明るい声がジェンセンの意識を引いた。
 家庭教師としては、三人の子どもを教えたことがあるけれど、ジャレッドが一番印象深い生徒だった。期間が長かったせいもあるが、それだって、お互いの相性が良かったからだ。合わない相手だと、長続きしない。メールもカードも、いまだにやりとりしているのはジャレッドだけだ。
 先生、とジャレッドはこの身長差でどうやって、と思うほど器用に上目遣いをすると、ジェンセンの顔色をうかがうようにそっと言った。
「明日も、会いに来てもいい?」
「あー……この時間?」
「大体は」
 正直、早起きは得意ではない。今日はたまたま、かもしれない。でも。
「……いいよ。いいけど……起きてないかも。そしたら、チャイムを鳴らしてくれ」
「え、あ、いいよ、そこまでしなくても……っ」
 起きてなかったらいいから、と両手を振るジャレッドに、ちょっと笑った。
「だって、昼はお前、バイトだろ。──いいよ、せっかくだし。言っただろ、会えて嬉しいんだって、俺も」
「あ、うん」
 こくりと首を上下させたりして、子どもみたいだ。
「じゃあ、明日。……ね、ほんとに良かったら、店のほうにも来てみて。歓迎するから!」
 じゃあね、と手を振って、ジャレッドは振り返り振り返り、犬と一緒に駆け出した。もしかすると、いつもより帰りが遅くなったのかもしれない。大きなストライドで一直線に遠くなる姿は、二頭の犬とその飼い主、というより、三頭の仲のいい犬たちみたいに見えて、ジェンセンはつい、声をたてて笑ってしまった。

   ***

「何だ、ご機嫌だな、ジャレ坊」
 朝食を並べる手伝いをしながら鼻歌を歌っているジャレッドに、ジムはからかうような視線を向けた。土壇場で甥と交替してやってきたアルバイトだったけれど、ジムは、この青年が気に入っていた。身内の甘えがどこかに残る甥より礼儀正しくてよく働くし、何より明るくて気さくなところが接客向きだ。
 連れてきた犬たちの面倒もよく見ている。ジム自身も、今は飼ってはいないが、元々犬好きなので、そういうところにも好感を持った。
 三食三食の賄いも、量さえ把握してしまえば、特に面倒だとは思わない。もともとそういったことが好きで仕事にしたのだし、「おいしいねえ」と満面の笑みで言われれば気分の悪いはずもない。作りすぎたか、と思っても、未だ残飯の出たことがないのには驚くが。
「あ、うん、あのね、思いがけないひとに会ったんだ。前に家庭教師してくれてたひとなんだけど」
「へえ?」
「夏休みなんだって。ここから歩いて二十分くらいのところにあるコテージ借りてるって」
「学生か?」
「ううん、もう社会人」
「恩人との再会ってわけだな」
 そういうことだね、と、ジャレッドはまた嬉しそうに笑った。そうして、もりもりと料理を片づける合間に、先生はとても教え方の上手なひとで、優しくて、あの頃は週三日の〈授業時間〉が楽しみだった、というようなことを、つらつらと歌うように語って聞かせた。そうしてジャレッドが、うっとりと言っていいような目つきをするものだから、ジムは、ははあ、と人生の先輩らしい気の回し方をした。
「彼女は、ずいぶん美人だったんだな?」
「え? あ、や、そ……うかな、うん、とてもきれいなひとだけど」
 でも、『彼』だよ、と言われて、やっぱりなーなどと笑ってやろうとしていたジムは、飲みかけのコーヒーを吹くところだった。
「え、お前の言ってたの、男の話か、ジャレ坊」
「そうだよ?」
 何で、ときょとんとした顔で聞き返されれば、答えにつまる。
「今度店に来てよ、って言ったんだ。もしほんとに来てくれたら、ジムにも紹介するからね!」
 コーヒーおごるって約束した、いつも色々してもらってばっかりだったから、ちょっと大人になったみたいな気がするね、などとジャレッドのほうは楽しそうだ。興奮しているのか、ちょっと顔が赤い。
「…………」
 それは本当に男なんだろうな、と再度確認したい衝動に駆られたが、まあ、本人が喜んでいるなら口を出すことでもないだろう。ジムは大人の分別を見せ、そうか、それは楽しみだ、とだけ言ってコーヒーをすすった。
   
2010.8.23