夏恋。 2
   〈2〉

 翌日、ジャレッドは宣言通りにやってきて、案の定まだベッドの中にいたジェンセンを、遠慮がちなチャイムの音で、起こしてくれた。
 寝ぼけ眼でドアを開けたとたん、ジェンセンは、また犬と人間に飛びつかれ、今度はフローリングマットの上にひっくり返る羽目に陥ったのだった。


「もう平気?」
「平気じゃない」
「……ごめんなさい……」
 ぎろりと眼鏡越しの厳しい視線を向けられて、ジャレッドはしょんぼりとうなだれた。寝起きだったジェンセンは、三頭分の推進力をうまくかわせずに、まともに床に頭をぶつけたのだ。一瞬遠くなりかけた気を引戻したのは「先生!」という悲痛な叫び声だった。
 何でお前がショック受けてんだよ、当の傷害犯のくせに。
 そうして、後頭部を濡れタオルで冷やしたままのジェンセンに、お前は加減というものを知らない、自分の図体のサイズもわかってないし、犬たちのしつけもなってない、とみっしり叱られて、ジャレッドは反論の余地もなくただただ、ごめんなさい、とひたすらに謝りたおした。
 セイディとハーリーも彼らなりに感じるものがあるのだろう、しょぼくれている主人の両側で、同じようにうなだれている。
 その様子があまりにそっくりなので、ジェンセンはとうとうこらえ切れずに吹き出した。
「先生……」
「お前ら、ほんとそっくりだな」
「……それって誉め言葉じゃないよね?」
「お前に関してはな」
 お前達は違うぞ、とセイディたちの頭をなでれば、二頭は嬉しげに尻尾を振ってジェンセンに応えた。裏切り者、とジャレッドが口を尖らせる。けれど、大事な愛犬とジェンセンが親しんでくれたのが嬉しいようで、目元は柔らかく緩んでいた。
「来いよ、ジャレ犬。コーヒーくらい淹れてやる」
「あ、じゃあ俺がやる。やらせて。ジムにならったんだよ、おいしいコーヒーの淹れ方」
「……そんないい豆じゃないぞ?」
 わずかばかりの休暇の間しかいないのだから、と、近くのスーパーで適当に買ってきたものだ。コーヒーが自慢のカフェオーナー直伝の技など披露してもらう価値があるとは思えない。
「大丈夫。先生は座ってて。ね」
 ジャレッドがいそいそとお湯をわかしはじめたので、ジェンセンは彼の犬を従えて、素直に出来上がりを待つことにした。一人暮らしなので、誰かに家事(というほど大げさなことではないが)をしてもらうのは珍しい。オーナーの教え通りなのだろう、過程のひとつひとつを丁寧に行なっているジャレッドのきまじめな様子がおかしかった。
「店でもお前が淹れるの?」
「ジムの手が離せないときはね。もう常連さんにも区別がつかないって言われるよ」
 まあ、ちょっとお世辞込みだと思うけど、とはにかんで肩をすくめる。
 物覚えはいいし、飲食に絶大な情熱をそそいでいるジャレッドなら、優秀な生徒になるだろうと思われた。
「どうぞ。ブラックで良かったよね?」
 ちょっと濃い目、と言ったジャレッドは、五年も経つのに、ジェンセンの好みを忘れていなかったらしい。温めたカップから、いい香りが立ち昇った。同じ豆なのに、適当に淹れたのとでは、全然違うものだと驚いた。
 どう、と訊ねるジャレッドの眼は、見るからに誉め言葉を期待していて、そういう可愛らしさは変わっていない。家庭教師をしていた頃も、テストの点数が良かっただとか、指定時間より早く問題が解けただとか、ささいなことでも、誉めてやると喜んだ。
 ──今と同じような満面の笑顔で。
「旨いよ」
「でしょ!」
 湯気に曇ってしまった眼鏡を外し、ジェンセンはゆったりと目を細めて芳香を楽しんでいる。彼の金色がかった緑の瞳は、陽に透ける植物のようだ。旨い、と、本気で言ってくれているのがわかるから、ジャレッドは満たされる思いがした。
「いつから──バイトしてるんだっけ?」
「先々週からだよ。えっと、今日で十一日目だから、ちょうど半分だね。先生はいつまで夏休み? ずっとここにいるの?」
「……一応、来週の水曜日まで」
 もしかすると、早めに引き上げるかもしれない、とは言わずにおいた。こんな穏やかな朝なら、思い出したくないような過去とも、折り合いがつけられる気がする。
 そう思えるのは、ジャレッドと会ったからだろう。一人なら、今頃帰り支度をしていたかもしれない。
 昨夜も、眠りに着く前に何度も部屋の鍵を確かめた。そんな自分に腹が立ち、けれど、そうしなければ眠れなかった。
「そうなんだ! ね、俺明日休みなんだよ、どこか一緒に出かけようよ。まだ、ほとんどどこも行ってないんだもん」
 カフェは、普段からジムとアルバイト一人で切り回しているちいさな店だ。ただし、夏はオンシーズンなので、ジャレッドのような臨時のバイト一人か二人入る。定休日は月曜日で、ジャレッドがバイトを始めてから二回目になる。一回目のときは、疲れていたのもあって、愛犬たちと一緒に近所を散歩する程度で終わった。
「ダメ?」
「あー、いやまあ、いいけど……どこ行きたいんだ?」
「ほんと? 先生となら、どこでもいいよ! 先生は、どこか行きたいところある?」
 避暑地として有名な観光地だから、遊ぶところはいくらでもある。
「釣りとか、乗馬ができることろもあるってさ。ゴルフはやったことないからパスね」
「あー、乗馬とか、あんまり……他には?」
「んーと、じゃあ、自転車レンタルしてサイクリングは?」
 湖沿いのサイクリングコースも有名だ。広く、長く、ぐるりとほとりを一周している。水を渡る風は涼しく、人気スポットのひとつだ。
「そうだな、いいかも」
「じゃ、決まりね。セイディとハーリーも一緒に連れてってもいいかなあ?」
 名前を呼ばれて、足元に寝そべっていた犬たちがぴくりと耳を動かした。言葉がわかるかのように期待に満ちた目を向けられて、ジェンセンは、もちろん、とうなずいた。
 ジャレッドは、それじゃあ、明日ね、絶対ね、と子どものように念を押し、それからやっと時計を見て、「遅刻する!」と大声で叫んで飛び出して行った。
 一度振り返って「後で電話、電話するから!」とだけ言い残し、全速力で走っていく。
 昨日とまるで同じように、見る見る小さくなる後姿を見送りながら、ジェンセンは手の中に残されたコーヒーを一息で飲み干した。
   
2010.8.23