夏恋。 3
 まだ彼らが師弟だったころ、二度、一緒に出かけたことがある。
 一度は近所の大きな花火大会。夏休みなのにどこにも遊びに行けない、学校だって補習があるから毎日通ってるし(ジャレッドの名誉のために言うなら、それは成績不良の生徒のためのものではなくて、三年生は全員出席が義務付けられた、補習という名の通常授業である。進学校で名高い彼の中学は、夏休みの間に教科書ノルマをなるべく消化して、受験体制に入る、というのが通例だった)、全然休みっぽくない! とキレかけ半分、泣きべそ半分の彼のストレス発散のためだった。夜になっても気温が下がらない中、汗をかきながら、ジャレッドは人ごみをかき分けかき分け、ひょっとして全店制覇するつもりじゃなかろうな、という勢いで、食べ物の屋台を片端から攻略していた。見ていただけのジェンセンのほうが、胃が痛くなる思いをしたが、当の本人はけろりとしたものだった。終始きょろきょろと周囲を見回していた彼が、肝心の花火を見たかどうかは定かではない。
 もう一度は受験の後だ。誘われて、一緒に映画を観に行った。話題のアクションコメディだったが、隣の席に座ったジャレッドは、ストーリーが始まる前から、洗面器みたいな大きさのポップコーンをもりもり食べていて、とてもそれは一人で片付くような量だとは思えなかったのに、主人公が最初のピンチに陥った頃にはもう器は空になっていた。画面より、なくなったポップコーンに気を取られているらしいジャレッドが、まったく哀しそうな顔をしていたので、ジェンセンは自分のポップコーンを器ごと譲ってやった。
 あいにく洗面器サイズでなかったそれは、主人公が二度のピンチを迎える前に消えてなくなり、その後、ジャレッドがちゃんと画面に集中していたかどうかも、やっぱり定かではない。
 そんなふうだったから、翌朝早くにやってきたジャレッドが、どこの登山隊ですか、みたいなでっかい荷物を背負っていても、それほど驚きはしなかった。
「……一応確認しとくけど、それ何だ」
「何って、ランチだよ? 必要でしょ」
「そんな膨大な量は必要じゃない」
 ジェンセンの常識で言うなら、ランチなんてものは、手ごろな紙袋に入るくらいのサイズであって、別途陶器の皿だとかナイフだとかフォークだとか、あるいはフライパンなんかの調理器具を用意してるのでもない限り、そんな大荷物になるはずがないのだが。
 たとえ、二人と二頭分、という大義名分があったとしても、だ。
「大丈夫だよー、運動してた後で、空気のいいところで食べるんだもん、いつもよりたくさんお腹空くよ!」
 俺が作ったんだよ、と言うから、それもジムの直伝か、と訊けば、そう、と嬉しそうな返事が帰ってきた。
「エビとアボカドのサンドイッチもあるよ、先生好きだったよね」
「……お前は、何でも覚えてるんだな」
 内容はともかく、その記憶力には素直に感心すると、ジャレッドは曖昧に笑って「先生のことだから」と言った。ふうん、とうなずいたジェンセンは、その言葉の深い意味を考えなかった。


 平日のせいもあったろうか、サイクリングロードは、思ったほど混んではいなかった。急がなかったので、コースの三分の二ほどまで来たところで、正午になった。そこかしこにある休憩所のベンチで、ジャレッドは荷物をほどいた。
 商売物ほど見目良く美しく、とはいかなかったが、個人の昼食としては充分に豪華で見た目も悪くなかった。サンドイッチだけでも、エビだのサラミだの卵だのチーズだのと色とりどりで、そこへ、チキンやポテトの揚げ物が並び、野菜も食べないとね、とサラダが出てきてた後に、パスタまで加わった。これ先生の分、とポットに入ったコーヒーを渡されて、とどめに、デザートね、とりんごが二個出て来て、ようやく彼のリュックは空になった。これで、セイディとハーリーの食事はまた別口だというのだから、ジェンセンは堪えきれずに大笑いした。
 いったい、何人分だ。
「何言ってるの、二人分だよー」
「余るよ」
「余りません」
 ジャレッドは自信満々で、ジェンセンは彼の自信を疑っていたのだが、驚いたことに──というより、恐るべきことに、一時間後、ジャレッドが正しかったことが証明されてしまった。
「いつかこの国はお前に食い尽くされる」
 ゴジラより怖い、ゴジラって何食べるの、知らないけど、でもサンドイッチじゃないと思う、きっとフライドポテトも食べないだろうね。
 膨れた腹を撫でながら、ちょうどいい枝振りの木の下に陣取って、そんなくだらない会話で食後の時間をすごした。太陽は高く、水面はきらきらと光を反射してまぶしいが、風は涼やかで、汗ばんだ肌を冷やしていく。セイディとハーリーは飼い主の傍にうつぶせて、すこしばかり眠そうだ。
「きれいだねえ」
 目を細めて、ジャレッドは湖を誉めた。水深があるのに、透明度が高いので、かなり向こうまで見通せる。
 この辺りが観光地として注目を浴びて、開発が進んだ頃、いっときかなり水質が悪化したらしい。それではいけない、というので、地域住民が中心になって、周辺の清掃や汚染対策に乗り出した。このきれいな水は、自分たちが守ったのだ、というのが、ここに住むひとたちの自慢だ。
 それは、立派なことだと思う。
「でも、あんまりきれいだと、寂しくなるのかも知れないね」
「へえ? 詩人みたいなこと言うんだな」
「いや、俺にはわかんないけど。でも、一年に一人か二人くらい、ここで自殺するひとが出るらしいって聞いたから」
 そう言って、反射光に目を細めていたジャレッドは、隣に座るひとが、表情をこわばらせたことに気づかなかった。気づかないまま、一人で見てたら寂しい風景なのかなあ、と言った。
「…………ひとが自殺すんのは、風景のせいじゃないだろ」
 都会の真ん中でだって、人は死ぬ。そのときはきっと、人がいるからこそ孤独は深まる、と言い訳がたつのだ。
「まあそりゃそうだけど、……先生……」
「何」
「珍しいよね? そんな言い方」
 責めるわけではないのだろう。むしろいたわりを持った眸を向けられ、そのてらいなさにジェンセンはそっと視線を外した。
 理由はある。けれど、それをジャレッドに知られたくはなかった。
「──なんか眠い」
 セイディたちにつられたかな、とジャレッドは大きく伸びをすると、そのまま仰向けに倒れこんだ。
「気持ちいい。ほんとに寝そう」
「動物的だな」
 話題が変わったことに安堵する。気遣われたとわかっていて、その優しさにすがった。
「先生も寝てみたらわかるよ。快適なんだもん」
「二人とも眠ったらまずくないか?」
「セイディたちがいるから大丈夫だよ。寝てても、人間よりはずっと敏感だから」
 それもそうか、とジェンセンは、ジャレッドと同じように、組んだ両手を枕に寝転んだ。閉じたまぶたの裏に木漏れ日を感じる。隣では、すでにジャレッドが睡眠時特有の深い呼吸を繰り返していた。
 寝つきのいいことだ、と感心して、ふと、今朝は早かったのかも知れない、と気がついた。あんな量のランチ、そう短時間には作れないだろう。
 早朝からキッチンで奮戦しているジャレッドを想像して、目を閉じたまま、含み笑いをする。そうしてジェンセンは、彼の姿を思い描きながら、いつになく平和な気持ちで、まどろみの中へと意識を放った。
   
2010.8.23