Pas de Chat
  〈5〉

 驚いたことに一週間が経っても、まだサムはディーンを彼の仲間の許へ追い返せないでいた。むしろ逆に、彼がいる生活になじみつつある。
 ディーンはチーズバーガーが好きで、ピザも好きで、ネコらしいというべきか、寝ることもとても好きらしい。ちょっと目を離すとベッドやソファや、時には椅子に座ったままですやすや寝息を立てている。よく寝違えないな、と思うような格好で眠っていることもあるが、やはりネコだけにずいぶん身体が柔らかい。相変わらず炭酸はダメだ。ミネラルウォーターもガスの入ったものは嫌う。ぱちぱちすんのイヤだ、と難しい顔をする。野菜も嫌いだ。食べろ、食べない、でちょくちょく言い争いになる。近頃はコーヒーの味がわかってきたらしく、徐々に砂糖やミルクの量が減ってきた。サムの飲むバニララテを見て、甘すぎねえ? などと生意気なことを言うようになった。大きなお世話だ。
 間で狩りをひとつ片付けた。やっぱり彼の能力はハンター向きだ。何より、背中を守る存在があることが頼もしい。気を引き締めないと、うっかりそれに慣れてしまったら危険だとさえ思う。
 独りでいるほうが気楽だし、何と言っても安全だ。自分にとっても、相手にとっても。生涯を共にしたいと願った女性を失ったときにそう思った。その決意は間違ってなかったはずだ。
 近頃ますますサムの周囲の空気は不穏で、緊迫感を増している。この間やりあったハンターを思い出した。遠からず、彼はまた自分の前に姿を見せるだろうと思うとうんざりした気持ちになる。
 何ならもう、今、サムの背中にずっしり重みがかかっているのも、いっそそいつのせいにしてしまいたいくらいだ。
「……ぅん……にゃ……」
 ふにゃあ、と本物のネコっぽい声をあげてサムの背中に懐いているディーンは、全身がくったくたで、骨の所在を疑うほどにふにゃふにゃだ。もともと高い体温がさらに高く、肩に押し付けられた額など、発熱しているのかと思うほどだった。
 そして、吐き出される息はアルコール臭い。
「飲むなって僕、言ったよね」
 言っても無駄だと思いながらも、サムは釘を刺さずにはいられない。情報収集に必要で立ち寄ったバーだった。炭酸飲料さえ飲めないディーンにアルコールを飲ませるなどとんでもなく、サムが話を聞きに行ってる間、大人しく待っているように、とジュースのグラスと共にテーブル席の隅に座らせておいたのに。
 踏んだ場数の割りに、こうした場所での会話が得意でないサムがそれでも何とか必要な情報を手に入れて席に戻ると、そこには見知らぬ男と空になったグラスが数個、そして耳の先までをアルコールに染めてご機嫌で笑っているディーンがいた、というわけだ。
 サムサム、これ奢ってもらった、すげぇうめえよ、お前にも飲ませてやろうと思って半分残しておいたからさ、はい! と底から一センチほどしか入っていないグラスを渡された。飲んでみろよ、と例のキラキラした顔で見つめられて、うっかり叱責しそこねた。とりあえず、その様子を見て下心付きでディーンに酒を貢いでいた男が肩をすくめて席を立ったので、よしとしよう。
 慣れないアルコールはディーンの脊髄までを酒びたしにしたようで、支えて立ち上がらせることさえできないほどにベロベロだった。気が緩んだ拍子に耳や尻尾が飛び出してないのが不思議なほどだ。内心で冷や汗をかきながらディーンをおぶって店を出た。寸前、先ほどディーンの前に陣取っていた男と目が合う。そこには極上の獲物を逃したな、という未練と、サムに対する嫉妬の色があった。誤解なんだけど、まあいいか。
 弛緩しきって、まるで協力してくれないディーンの身体はどうにも重く、落とさないようにゆすり上げるたび、えへへ〜、と甘ったれた笑い声が背中から聞こえてきた。ものすごく幸せそうだ。人の迷惑も顧みないで、と思わないではなかったが、そんなふうにあけっぴろげに笑う人間(人ネコだけど)は長らくサムの周りにはいなくて、何だか妙に新鮮だった。
 モーテルの入口で管理人と鉢合わせた。まだ三十そこそこくらいのその女性は、あらまあ大変そうね、と笑って、部屋のドアを開くのを手伝ってくれた。ずいぶん仲がいいのね、兄弟なの? と訊かれて驚いた。全然似てないのに、ということと、仲がいい、と言われたことについて、だ。深入りするつもりはないのに、そんなふうに見えるのだろうか。
 楽しい夢でも見ているのか、緩く微笑んだままのディーンをベッドに投げ出した。靴だけは脱がせてやることにする。くるん、と自分の膝を抱えるみたいな寝姿も、ここ一週間で見慣れてしまった。夜中に自分以外の寝息が聞こえることも、狭いモーテルや車内で視界の端に常に他人の姿があることにも、一日一度くらいの割合でチーズバーガーを食べることにも、なあサミー、この裸の女が映ってるチャンネルが見たい、とものすごい直球な要求をされることにも、だ。
 見たら、女性への欲求を思い出してサムの許から出て行ってくれるかな、と思って一度見せたことがある。ちゃんと興味津々ではあったが、興奮したのか、「サム、ヤろう!」と上からのしかかられて閉口したので、もう二度と見せる気はない。最初から同性が好きだというならともかく、基本的には女性を好むようなのに、どうしてその発露先にサムを選ぼうとするのかがさっぱりわからない。
 ぐうぐう、と酔っ払い特有のいびきをかいて眠っている人ネコを見ながら、サムは振り切るようにひとつ息をついた。ずるずるとここまで一緒に来てしまったが、そろそろ本気で別離を考えねばならないだろう。
 ディーンのいる生活は思いがけず楽しかった──そうだ、楽しかったのだ。誰かとくだらない話をしたり、くだらないケンカをしたり、有耶無耶のまま、何となく仲直りしたり、そうした日々は、サムにとってかつて恋人と暮らしたわずかな期間を除けば、ほとんど初めての経験で、自分でも驚くほどに気持ちがはずんだ。
 ストレートに向けられる恋情も、驚いたけれど嫌悪は少ない。たぶん、振る舞いは奔放でも、根っこのところは子供みたいに一途だからだ。見た目だけは一人前だが、今日みたいに、あんなあからさまな下心にさえ気付かないのだからしょうがない。もっとも、素直にお持ち帰りされるほどに従順なネコではないだろうが。
 訊いてみたことはないが、ヤろうだの何だの言うのも、「結婚するんだからセックスはしとかないと」くらいの知識から出ているだけに違いないと思う。ディーンの金緑の目はくるくると多彩な感情を映し出すけれども、触れて、体温を高めあって、汗に濡れた身体を重ねてぬるぬるとした粘膜同士を擦り合わせ、狭く熱い場所を開いて開かれて、硬くなったものを押し込まれ、淫靡な水音を立てながら快楽を分け合い開放を目指していく──というような、生々しいむき出しの欲を秘めていたことはない。せいぜい、思春期の子供が持つ、あの直裁的かつ短絡的な熱情程度だ。
 お前にも発情期が来たか、と送り出された、ということは、ディーンにとってこれが初めての、恋らしい恋なのかもしれない。もったいない、もっといい子に出会えば良かったのに。何も美人でスタイル良くて性格が可愛らしくて、料理が得意で(ネズミは無理だろうけど)掃除の好きな子、なんて欲張りな相手でなくっても、もうすこし普通の。
「ディーン、あんたとの毎日は意外と楽しかったよ。……まあ、うるさくもあったけど」
 サムは長い上半身をかがめて、平和な眠りを貪るディーンを起こさないように、そっと静かに囁いた。まだアルコールの影響が残っているのだろう、眠るディーンの頬や目許はほんのりピンク色に染まっている。ぐったり力の抜けた身体の中で、尻尾の一番先だけが、ときどきふらりと揺れた。ケンカするたび、二倍くらいの大きさに膨らむのがおかしかった。その後、沈黙が続く中、本人は怒った振りでそっぽを向いているのに、尻尾だけがサムのほうに向かってパタパタとアピールをしてくるから、堪えきれずに笑い出すことが多かった。
「あんたと一緒にいられたらいいと思うけど、僕は……僕の好きになった人は、みんな死んでしまうんだ。デキの悪い怪談みたいだけど、本当なんだよ」
 本当に、何てことだろう。言葉に出せば、安っぽいパルプフィクションかB級映画のストーリーじみているのに、これが事実なんだからおそれ入る。そこにはサム自身の意志は介在していない。あるのは純粋な悪意の存在だ。『それ』はサムに、あるいはウィンチェスター親子に執着していて、だから彼の周りの人間を邪魔になると思えばためらうことなく排除していく。おそらく人間が羽虫を追い払うほどの思い入れもなく。
 それは、サムを怯えさせ、他人との付き合いを希薄にさせるには充分な理由になった。
 ちょうどいい、今夜が踏ん切りの付け時なのかもしれない。このままディーンは眠らせておこう。
 一度眠るとちょっとやそっとでは目が覚めないディーンだから、静かに身支度をすれば大丈夫だろうと思った。インパラの低いエンジン音は響きすぎるけれども、駐車場まではすこし遠い。気付かれる可能性はそれほど高くない。そう言えばディーンはあの車をずいぶんと気に入っていた。運転なんかしたこともないくせに、ハンドルを握らせろとひとしきり騒いだものだ。もちろん、サムとしては、日々のハンターの仕事だけで充分に危険なのに、そんなところに不必要なリスクを積み重ねる気はない。絶対ダメだ、と断ったら、すねてしばらく後部座席で寝転がっていた。
 そんなふうに思い出を数えていたものだから、背後から「俺を捨てるのか、卑怯者」と静かな怒りがこもった声が聞こえてきたときは本気でギョッとした。振り向けば、不機嫌全開で尻尾を膨らませたネコがいた。
「ディ、ディーン」
「俺を置いてく気だったろ。サムの阿呆、馬鹿、ボケ、おたんこなす、くそったれ、冷血漢、守銭奴」
「守銭奴は違うよ」
 どこで覚えてきたのか知らないが、何もそんな方向にボキャブラリ増やさなくても。
「なあディーン……」
「俺はお前の傍で死んだりしねえ。強いんだ。狩りだってお前より上手だ。お前なんか、あのピーピー鳴る機械がなけりゃ霊が隣にいたって気付かねえじゃないか」
 ──起きてたのか。ぐっすり眠ってると思ったのに。
 しょうがない。サムはまとめかけていた荷物を脇へ置いて、怒れる人ネコの説得を試みることにした。迷える霊魂の説得とどっちが難しいかは神のみぞ知る、だ。
「ディーン、さっきのあれは、偶然とか僕の気のせいとかじゃないんだ。詳しくは話せないけど、あるモノの意志が働いてる。もしそいつがあんたのことを邪魔だと思ったら、指先一本動かさずにあんたを殺してしまえるんだ」
 あの黄色い目の悪魔は、サムが穏やかで平和な生活を送ることを嫌っているらしい。ディーンが傍にいて、毎日の生活が穏やかになるとは思えないけれど(むしろ騒がしさが増すだろう)、心理的な安定は増す(気がする)。
 結婚しよう、とにこにこ笑い、チーズバーガーで頬袋を作り、インパラさいこー、と黒いボディにぺたぺたと指紋を残し、お前のために半分残してやった、と1センチしかない酒を渡してくれる。ディーンがいたこの一週間で、普段のサムの一か月分くらいは笑い、怒り、しゃべって、食べたと思う。その彼が、母や恋人みたいに天井に貼り付けられて殺された姿なんて、想像するのもイヤだ。
「心配すんなよサミー、俺がお前を守ってやるから」
「狙われるのはあんたなんだったら!」
 ちゃんと事情がわかってんのかな、このネコ。
 ふてぶてしく唇をゆがめて笑っている様子を見ると、何だかとても不安だ。
「ディーン……本当に本当に冗談ごとじゃないんだよ。そんな楽しそうにしてる場合じゃ、」
「だって、楽しいだろ。その『何か』に俺が狙われるってことは、お前が俺のこと好きになってるってことなんだから」
 俺と結婚する気になったんだろ、と例のキラキラを振りまいてサムを見上げてくる。……やっぱり、事の次第をあまり理解はできてないようだ。挙句、自分のTシャツを引っ張って、「これからヤる?」などと訊いて来た。
「……ヤらない。いいか、ディーン、」
「何だよ、つまんねえの」
 ヤらねえなら寝る、とディーンは布団にもぐりこんでしまった。
「ちょ、ディーン!」
 大事なことなんですけど!
「うるさいな、守銭奴。出てくなら出てけばいいだろ。また絶対、後追ってくから」
 逃げたって無駄だからな、とむやみにえらそうにディーンは言った。
「いいか、サミー、お前が俺を嫌ってんなら、俺だって諦めるかも知れない。でもそうじゃないんだろ? だったら、絶対諦めてやらねえ」
 大体、サムはディーンが危ないと言うが、そんなよくわかんないモノに取り憑かれてるサムのほうが本当は危ないはずだ。目的が何かはわからなくても、人類愛や世界平和のために彼の力が必要だ、とかそんなんじゃないのは絶対確かなんだから。
「お前は俺が守ってやる。俺のことが心配なら、お前が守ればいいだろ」
「…………ディーン」
 サム本人を含め、サムの置かれた立場や彼の持つ力を厭う人間は多くいたが、サム自身を心配してくれるひとはそうはいない。父やボビー、その他、ごくごく親しい間柄の相手だけだ。そして彼らは皆、プロのハンターだから、守ってやる、なんて気楽な気休めは言わないし、ただサムの傍にいてその不安や孤独を理解するよりは、根本的な解決策を探し出すほうが正しい、と知っている。もちろん、サム自身も彼らの判断を支持するし、そのほうが断然効率的だ。
 でも。
「…………ディーン?」
 ディーンはさっきの今で、すでに眠りに入るための、深い呼吸をし始めている。サムはとまどいながらも、そっとその枕元に腰を降ろした。スプリングが揺れる。ディーンは美しい金緑色の目だけを怠惰に動かして、何だよ、とサムの顔を見上げた。その表情は、気ままに広がる癖っ毛の下で逆光になっている。けれどネコの目を持つディーンには、その程度の影は白昼とさして変らない。
 一目ぼれして押しかけてきた相手は、今初めて見るほど穏やかな笑みを浮かべていた。
 何だろう。ドキドキする。とても。
 サムの目が水分を含んでいつもよりいっそう深い色合いになっている。
「危険なんだよ、とても。僕もだけど、あんただって」
「──ああ。そうなんだろうな」
 サムは、詳しくは話せない、と言ったから、想像するしかない。でも、サムは普段から冷静で堅実だ。事実を大げさに言い立ててセンセーショナルに脚色して聞かせるタイプではないと知っている。
「僕の傍にいないほうがいい。これは本気で言ってるんだ」
「サム、」
「でも……でもね、ディーン」
 傍にいてくれたら嬉しいとも思ってる。
 それは、聞こえなかったらいいけど、くらいの小さな声だった。でもディーンには聞こえてしまう。そのネコ耳何の意味があるの、とサムにしばしば指摘されたけれど、今、こうしてサムの声を聞くことが出来たのだから、充分に役に立ったじゃないか。
 ディーンは答えの代わりに腕を伸ばして、サムの頭を撫でてやった。サムは一瞬身体を硬くした後、素直に首を垂れて、ディーンが触りやすいようにした。もっと撫でて、と身体を寄せてくる犬みたいだ。
 結婚するならセックスもしないと、と、ことあるごとに「ヤるか」と誘ってみたのだが(そのたびに断られたけど)、こうしてただ髪に触れているだけで、ひどく満たされるような気になった。きっとサムも同じように感じている。彼がそう感じていることを、自分の手のひらから感じる。
「サム……傍にいるから」
「うん」
「何なら結婚してやってもいいぞ」
「……一応、考えとくよ」
 いつもなら「しないよ!」とつれないばかりのサムが、悪戯っぽく笑いながらではあるが、そんなふうに答えてくれた。嬉しくて、布団の下で尻尾の先がぱたぱた動く。それを見たサムが遠慮なく吹き出した。
「ディーンもけっこう犬みたいだ」
「じゃあお前と相性がいいはずだ」
「僕は人間だよ!」
「俺はネコだ」
 くだらない主張だ。でも、ひとりじゃくだらないこともできやしないと知っている。ましてや、こんなふうに笑い合うなんてことは。仮にひとりでやってたら、ただの危ない人だ。
 色々と前途は多難で、むしろ問題ばかりが転がっている気もするけれど、誰かと一緒なら、例え転んでも助け合うことができるだろう。第一の困難は、サムの父親だ。一般社会人として大事なところはときどき抜けてるくせに、狩りに関しては鋭いひとだから、うかつなことを言えば、早々とディーンは「狩られて」しまう。
 もしかして、これが最初にして最大の難関かもしれない。さてどういえば一番穏便に伝わるか、とサムはさっそく一つ目の課題にとりかかることにしたのだった。


【終わり】
 
2014.6.22再録