■ 一章 ■
「手を」
出して、と言われて、リッチは素直に両手をさし出した。
きれいな形をしている、と目の前のひとは愛おしそうに甲を撫で、その手首に、かちりと金属の環をはめた。もう片方の手にも。双つの環をつなぐ短い鎖が、冷たい音をたてた。
精巧なつくりのそれは、さすがに本物ではないと思うけれど、簡単に外れるようなものでもなさそうだ。手錠の重さが手首にのしかかる。
けれど、科人のような扱いにも、リッチは表情を変えなかった。今までも、幾度かこうしたことをされたたことがある。物理的に、身体の一部を拘束するような、そういうこと、を。
そうすることで、ブラッドが何をしたいのか、何を思っているのか、リッチにはよくわからない。こういった趣味を持つ人間がいることは知っていても、ブラッドがそうだとは思えなかった。好きでやることなら、もうすこし楽しそうにするのではないかと思うからだ。
でも、ブラッドはいつも、苦しそうな顔をしている。
そういうときの彼は、リッチに手ひどくしようとしては、失敗しているように思う。リッチのほうは、それで彼の気がすこしでも晴れるのなら、どんな暴力にも、暴言にも耐えよう、耐えなくてはならない、と覚悟しているのに、いつだって、結局、こと半ばでリッチは解放され、たとえば、無機質な金属ではなく、温かなブラッドの両腕や唇に絡め取られる。それは、拘束ではなく、ただの抱擁だ。
だから、ブラッドがわざとらしく、リッチの目の前で小さな鍵を揺らして見せても、その意図するところを即座に察することが出来なかった。
「なあ、もし、俺がこの鍵を捨てたらどうする?」
うっすらと笑みを浮かべて、ブラッドはそう訊ねた。
もちろん、工具を使えば、簡単に外れはするだろうけれど。
誰にどうやって外してもらえばいい?
品行方正な機長が、いったい、何と言い訳をして。
リッチは両手を拘束する金具を、まじまじと検分してから、真面目な顔で「困る」とだけ言った。
「困る? 困るだけ?」
「……うん」
他にどう答えたら? という顔を向けられ、ブラッドはやや呆れる。
幾多のパイロットを抱えるAALTO社の中でも、確実に五指に入ると言われる有能なキャプテンは、空の上、コクピットの中にいる ときは、どんな事態にも対応できる頼りになる相手だけれど、その冷静さが仇になるのか、およそ想像力や創造力というものを持ち合わせていないように思える。
もちろん、手錠の鍵を捨てられれば困るのは間違いないが、普通なら、もっと他に答えようがあるだろう。
第一、口ではそうと言いながらも、到底、本当に困っているように見えない。ブラッドがそんなことをするはずがない、と信じているらしい。
三歳の幼児ですら、もうすこし警戒心ってものを持ち合わせてるだろう、とブラッドは思う。
こんなふうにいかがわしい行為を強要されておきながら、自分を信用するなんて、どうかしてるんじゃないのか、と。
「……まあ、そういうところもリッチキャプらしいけどね」
あのとき以来、伸ばしっぱなしの髪が、うっとうしげに顔の周りに落ちかかる。その金糸の間で、ブラッドの瞳が冥い色を帯びた。口元は、自嘲気味の笑みを浮かべている。
自由を奪う金属の枷よりも、ブラッドのそんな表情のほうが、はるかにリッチを苛む。
あの頃。
二人が、ただの──けれど、とても仲のいい──同僚だった頃。
他社からの移動組だったリッチに比べ、ブラッドはAALTOの生え抜きで、出会ったときの階級こそリッチより下だったけれど、晴れがましく三本のラインが引かれた肩章をつけ、「ようこそ、キャプテン」と彼を迎えてくれたのだ。
キャプテンとコパイとして初めて同じシップに乗ったときも、その後すぐにブラッドが機長に昇進したときも、その査察役としてリッチが同乗したときも、移行訓練に共に苦労したときも、いつだって彼は、笑っていた。怒ることも、落ち込むことも、不満をもらすこともあったけれど、それでも、最後には笑顔を見せた。
空色の眸をして、それと同じ蒼さの中を、まっすぐに飛んでいくような明るさに、幾度も助けられたのに。
もう、あんな顔で笑うブラッドを見ることはできない──少なくとも、自分だけは──ということが、身を切られるように辛い。
「来なよ、キャプテン」
こっち、と先に立ってブラッドは寝室へと誘う。
リッチはそれを自身に与えられた罰だと考え、ブラッドは、それを自分の罪だと思っている。
歩くたびに、ブラッドが左手についた杖が、こつりこつりと軽い音をたて、そのすこし歪んだ背中のラインに、リッチは静かに目を伏せた。
***
両手をつながれているせいで、脱ぎきれなかったシャツが、汗で身体にまとわりついている。それ以外は何一つ身にまとっていないような状態で、けれど、もうそれを恥ずかしいと思う余裕もなかった。過ぎた快楽はほとんど痛みにも等しい、ということをリッチに教えたのは、ブラッドだ。両ひじの中に頭を埋めて腰だけを高く上げ、尊厳も何もない体勢で、強制的に引きずり出された挙句に、解放されない熱を持てあましている。リッチが身動きするたびに、スプリングがちいさくきしんだ音をたてた。
身体の内部、信じられないような場所を指で弄られ、そこから沸き上がるダイレクトな悦びに、リッチの雄は限界まで勃ちあがっているのに、根元を押さえつけられて、最後の快楽は留め置かれたままだ。どう押さえつけようとしても、本能の支配力は圧倒的で、焦れたように腰を振る姿がだらしないほど淫らがましくて、でも、どうしようもなく綺麗だと思う。
「……はあ……、ぁ、あ……、ん……っ……」
ブラッド、ブラッド、と泣きそうな声で名前を呼び、けれども、その先の望みを言葉にはできないでいる。
潔癖で生真面目で、シャイな彼は、こんなときにもまだ、失くし切れない理性がどこかに残っているらしい。
早く流されてしまえばいいのに。
ブラッドは、上半身を傾けると、ぴったりとリッチの背中に寄り添った。
「どうして欲しいの、キャプ」
「ブ……ラ、ド……」
「ちゃんと言いなよ」
ねえ? と耳元の囁きは、冷たい。腕の中にいる情人を、もっと困らせて、泣かせて、傷つけてやりたいと思う。それは、大切にしたいと思うのと同じだけの激しさを持った、正反対の衝動だ。
シーツをつかんだ白い手が、緩く、開いたり閉じたりした。
ほとんど肌を隠す役にはたっていないシャツの中で、背中が慄いている。それは、ちいさく丸まって、本能と理性の間で揺れ動く。
玉のような汗が、皮膚の表面を滑って落ちた。
その背がまっすぐ、健やかに伸ばされた姿を知っている。それは、数百名の生命を背負って空を往くにふさわしい真っ当さで、否、今だって、ブラッドの部屋を一歩出れば、清廉で頼もしいキャプテンであることに変わりはないだろう。
今、ここでだけ。
こうしてブラッドに抱き取られ、責められているときだけは、抗う術も持たない頼りない存在に成り下がる。まるで、いかがわしいことに使われるだけの、人形のように。
手の中に収めた猛りからは、じわじわと蜜がこぼれ続けて、雫を落とすほどになっていた。
「……も……、……っ……」
リッチの唇が震える。答えをうながすように、後孔を犯す指がぐちぐちと蠢いて、リッチに悲鳴を上げさせた。
意図せずとも、上げさせられた腰がゆらゆらと揺れる。
自分の呼吸に溺れそうになって、リッチが喉を引きつらせた。
どうして欲しいか、なんて──そんなことは、ブラッドのほうがよくわかっているはずなのに。何を言わせたくて、そうすることで、何を得たいのか。
リッチは固く目を閉じた。愉悦と苦痛と生理反応で潤んでいた目から、涙がこぼれてシーツに染みを作った。
「い……、きた……」
達きたい。身の内を灼く甘い痛みを解放してしまいたい。
「ブラッド……頼……」
途切れ途切れで言葉足らずではあったけれど、精一杯のねだりごとに、後ろを抉っていた指が引き抜かれ、突然そこから圧迫感が消えた。けれど、それに安堵する間もなく、熱の塊が押し付けられる。ぐ、とその凶器をねじこまれ、リッチは嬌声を上げた。
「あぁ……っ、ん……っ」
時間をかけて解きほぐされたそこは、もう滴るほど充分な潤いを与えられていて、ブラッドが、己のものを収めてしまうまで、それほどの時間はかからなかった。
「あ……、は………」
酸素を求めて、リッチが大きく息をする。そんなささいな動きですら、きつい腹部を圧迫していて、つながった場所を嫌でも意識せずにはいられない。内壁が蠕動するたびに、受け入れたもののすべてが、ありありと感じ取れた。
「ん、……あ……っ」
ブラッドが動き始めて、内側の粘膜を擦るようにされると、リッチはシーツに額を埋めて、身体を震わせ、突き上げられるたびに、悲鳴と言うには甘い声を上げ続けた。抑えられた欲望の泉は、すでにブラッドの手を伝って足の間にまで流れ落ちている。
「……いい?」
「ん、……い……っ」
いい、と短い叫びが漏れた。ギリギリまで焦らされたせいで、快楽はよりいっそう深くなる。
けれど、それも、もう限界に達しようとしていた。
早く、と泣きながら、リッチが身体を揺する。手首をつないだ鎖が、ちりちりと乱暴な音をたてた。
「あ、」
突如として締め付けを弛められ、意識が一瞬ついていけなかった。ふわりと、浮遊するほどの解放感を感じた後、リッチは、声もなく快楽に身を震わせ、長くとどめ置かれた熱を放った。
疲労困憊して、くたりと力の抜けた身体を離さずに、ブラッドは、狭い内部を穿ち続ける。そのたびに、リッチの後孔は反射的な締め付けを繰り返し、終わりのない快楽を双方に与えた。
「……っ……ぅ、ん、……はあ……っ」
リッチは細い声を上げるのが精一杯で、ただ、ブラッドの望むまま、望む形で身体を投げ出している。それでも、背中に唇で触れられたり、胸の飾りを弄られたりしているうちに、ゆっくりとではあるけれど、下腹部に再び熱が集まりはじめた。
今度は、焦らすような真似はしないで、ブラッドは、リッチの昂ぶりを、直接的に育て上げる。そうして、前後からの刺激に、すすり泣くような声が出始める頃には、ブラッドの頂点も近づいていた。
「あ、ん、ブラ……ブラッド……、あ、いく……、もう……っ」
ブラッドを受け入れた場所が、きゅう、と締まり、ブラッドは、うめくような声をあげて、それをやり過ごすと、一番奥深いところにまで突き上げて、そこに己の欲を放った。
「あ……ああ───っ!」
注ぎ込まれた体液の熱さに、悲鳴が上がる。そうして、その衝撃で、リッチもブラッドの手の中に二度目の精を放った。
「………………」
ようやく、自身から、ブラッドのものが引き抜かれて、リッチは今度こそ、全身でベッドに沈んだ。熱を持った後ろから、とろりと白いものが伝い落ちても、リッチは、悩ましい風情で眉を寄せ、目を閉じて、ただ、粗く呼吸を繰り返すので精一杯だ。
きしりと、スプリングが鳴って、ブラッドが身を起こした気配がした。軽い金属の音がして、すぐに両手の枷が外されたのを知った。
疲労と余韻にぼんやりしていたリッチは、自分では気づかなかったのだけれど、「ああ」と言う後悔を滲ませた声と共に、手首の辺りに触れられて、そこに傷が出来ているのに気がついた。薄目を開けてみれば、そこにはわずかばかりの血が滲んで、赤い輪のようになっている。
たいした傷ではない。二〜三日、痕が残って見えるくらいだ。
なのに。
「……ごめん」
「ブラッド……」
ごめんよ、とブラッドは、打ちひしがれた顔をして、手首の傷に、そっと唇を押し当てた。
***
先に目を覚ましたのは、リッチだった。
まだ、夜中と呼んでも差し支えのないような時刻だ。
昨日フライトから戻ったばかりで、まだ時差が残っていたらしい。隣からは、ブラッドの深い寝息が聞こえた。
身体は重く疲労を残していたけれど、どうしようもないほどの傷や痛みはどこにもない。身体も、いつの間にか清められていた。ことの始めから、ブラッドは、乱暴にリッチを扱ったことはない。
すくなくとも、リッチはそう思っている。
すり切れた手首の皮膚に口付けられた感触を、その優しい仕種を思い出して、哀しくなった。
凝る疲れも、どこか甘さを含んでいるようで、リッチにはそれが自身の錯覚であるのか、事実であるのかがわからないでいる。錯覚だとするなら、それはたいそうな自惚れと背信であるだろうし、事実であるなら、自分たちは、いっそう救われないのだろう。
否、リッチ自身が救われないのは、それは仕方のないことだ。それがお前に課せられた罰なのだと言われれば、リッチは唯々としてそれに従うつもりでいる。
けれど、ブラッドは。
「…………ん…………」
ちいさく声を上げて、ブラッドが身じろいだ。リッチの心臓は驚きのあまりに跳ね上がったけれど、ブラッドは、すう、と穏やかな呼気を漏らして眠りの国へ帰ってしまった。
安らかな表情だ。いい夢を見ているのだろうか。
そうであってほしい、とリッチは祈った。自分のためでなく、彼のために。
せめて眠りの中でくらいは。
彼が、もう二度と空を飛べないという、冷徹な現実に比べればそれが、いかほどの恩寵だろうか、とリッチは、静かに眠るひとを見下ろした。
もう、十年以上も前のことだ。
子どものころ、コックピットに入れてもらったことがあるんだ、とブラッドは言った。
どうしてパイロットになろうと思ったのか、という質問への答えとして。
あれは、まだずっと以前、そう、ブラッドが機長に昇進して一年目くらいのことだっただろうか。
スケジュールのすれ違いで、ひと月ぶりにようやく顔を合わせたので、飲みにでも行こうか、という話になった。
隠れ家みたいなバーのさらに片隅のテーブルで、人目を避けるみたいにして二人、静かに杯を重ねた。
七〇年代に激増したハイジャック事件を皮切りに、徐々にエスカレートしてゆく空の犯罪は、9・11で最悪の事態を招いてしまったけれど、まだそこまで世界が壊れていなかった昔には、願えば、飛行中のシップの操縦室に出入りすることも許されていた。
肘が触れ合うような近さで、無数の機械に囲まれたパイロット達は、子どもにとっては、生涯の憧れとなるに充分なほど、ヒーローの資格を持っていた。
──いつか、自分もこんなふうに、飛行機の一番前に座って、このたくさんの機械を操り、巨大な鉄の塊を飛ばそう。
「齢八歳にして、俺はそう誓ったのさ」
それが優秀なるキャプテン・ピットの輝ける第一歩だったってわけ、と誓いを果たした男は笑い、そうして、今は、そんなふうに子どもを招き入れてやれないのが残念だ、と言った。
地上を離れ、引力の束縛に抗って、天空へと。雲を突き抜け、大気ですら薄く、視界は一層クリアになる。
そうして見る空がどんなに見事であるかということ。時にそれが、脅威や恐怖と背中合わせの場所であるとしても、それは、人間側の都合であって、その雄大さ、美しさはすこしも損なわれはしない。
抜けるような蒼穹や、銀粉のような星空、沈みゆく太陽の紅さ。巨大な積乱雲の放電現象は、どんなに手の込んだ花火よりも芸術的だ(ただし、近づくのはまっぴらごめんだが)。
「見せてやりてえよなあ」
「どうかな。近頃の子どもなら、シュミレーターのほうが喜ぶかも知れない」
ゲーム馴れしてしまっている今どきの少年たちなら、自分に操縦させろと言い出すんじゃないか、とリッチは笑った。あながち冗談でもない。
確か、フライトゲームのマニアが、そんな動機でハイジャック事件を起こしたことがあったはずだ。
「ちぇ、冗談じゃねえよ。あの景色をちっちぇえテレビの画面と一緒にされてたまるかっての」
それに、何度でもやり直しの利くプログラムなんかとも。
「俺たちは生命を背負って飛んでんだぜ」
たとえ、乗っているのが自分だけ、たった一人だったとしても、すべてを簡単にリセットできるゲームとは違うのだ。
空の交通は安全だと言う。事実、その通りだ。交通事故と航空事故による死者の数は、それぞれ三か月分と六十年分がイコールだというデータもある。
もちろん、分母の数が違いすぎる、ということもあるだろう。利用頻度の差もあろう。
けれど、紛れもない事実として、マナーとモラルの徹底度の違いがそこにはある。
空の安全は、厳しい訓練と、繰り返される検査、そして、ルールを遵守することを何より優先する、パイロットたちの姿勢の上に成り立っているのだ。そうするべく、叩き込まれている、と言ってもいい。
それはなぜかと言うなら、パイロットという職業が、ひとの生命を握っているからに他ならない。その自覚と責任が、自分たちの誇りだと思っている。
「そうだろ、マーキー」
「マーキー」
まるで十代の友達同士のような呼びかけに、リッチは唇を弛める。
「マーク……マークス。それとも、キャプテン・リッチって呼ばなきゃ、返事もしてもらえない?」
「ブラッド、酔ってるのか?」
リッチは、クスクスと声をこぼして笑った。
わざとだらしないふうに頬づえをついてこちらを見上げるブラッドは、まだ充分に少年の気配を残している。独り身のパイロットたちは、アテンダントたちの絶好のターゲットだけれど、中でもこの若手機長は、そのハンサムな容貌が「ハリウッドスターみたい」だともっぱらの評判で、新人・ベテラン・未婚・既婚を問わず、女性陣の中ではダントツの人気を誇る。
なるほど、それも無理はない、と思う。同性の目から見ても、ブラッドが魅力的だと言うのはよくわかるからだ。
そう言えば、ブラッドは「おやおや」と呆れたように両手を広げた。
「他人事みたいなこと言うんだな」
「他人事みたいな?」
リッチはちょっと首をかしげた。
だって、他人事だろう、と言った年上の友人に、ブラッドは大げさに驚いて見せた。
「ええ? ひょっとして知らねえの?」
「何を?」
「彼女たちの噂だよ。──曰く、『リッチキャプも、指輪してなけりゃねー』『舞台俳優みたいよね、素敵!』『笑うと可愛いしねー』……ってことなんだけど」
ブラッドは、わざわざ裏声を使って彼女たちの台詞を繰り返し、ご丁寧に、しぱしぱと媚びを含んだ瞬きまでして見せた。
「はあ?」
そんなことはまったくの初耳だったので、リッチはあやうくビールを吹き出すところだった。
「ほんとに知らなかったの」
「知らない、全然。君のジョークじゃなくて?」
「のんきだなあ、あんた。らしいっちゃらしいけど」
あはは、とくったくなく笑い、ブラッドはちょいちょいと秘密めいた手招きをした。
「じゃあ、これも知らないんだろ?」
「何だい?」
顔を寄せたリッチの耳元で、ブラッドは、ひそめた小声で数名の人物の部署と名前を数え上げた。そのほとんどは、リッチも知っている人間だ。コクピット・キャビンのクルーもいれば、地上勤務、社内勤務の者もいるが、全員がアルト社の社員である。ついでに言えば、全員が男だ。
「彼らが何か?」
「狙われてるよ、あんた」
「……は?」
狙われるって、何を。きょとん、として訊き返す先輩パイロットに、ブラッドは、もう一度「やれやれ」と肩をすくめた。
「ほんと、こういうことには鈍いんだな、マーク」
呆れたように言われても、リッチには何のことだかさっぱりわからない。
「つまりさ、彼らは同性愛者なわけ。厳格で有能なキャプテン・リッチは、女性のみならず、男性にもモテるってこと」
「は…………え…………?」
ええ!? と、リッチは、反射的に大声を出してしまい、周囲の目を集めてしまった。しぃ、と笑いながらブラッドが人差し指を立てる。彼らしからぬ態度がおかしかったのだろう。
赤くなって、周りの客に謝罪すると、リッチは小声で同僚を責めた。
「ブラッド、冗談にもほどがあるぞ」
「ばっか、冗談じゃねえって」
「だって、一人は結婚してる」
知ってるんだぞ、と証拠をつかんだつもりで言ったのに、「ああ、あれ、偽装婚」とあっさり返されて、リッチはまたあやうく大きな声をあげるところだった。
「ぎ……偽装?」
「うん、……内緒にしといてくれよ? 奥さんのほうも、ゲイなんだってさ。どっちも同性の恋人がいるよ」
同居はしていても、いわゆる『夫婦』の関係ではないのだ、と何でもないことのように言われ、リッチは、「はあ……」と、やや間の抜けたあいづちを打つので精一杯だった。
「あんた、そんなに隙だらけじゃ、ほんとに喰われちまうぜ? 気をつけなよ」
「喰わ……」
喰われるって──私がか?
リッチは途方に暮れた顔で絶句している。
「前の会社でそういうのなかった? 手ぇ握られたりとかさ、尻触られたりとかさ」
「あ、あるわけないだろう」
そういったセクハラは、女性アテンダントたちにとっては、身近なことだけれども。
「まあそうか、コックピットから出てかなけりゃ、危険も少ないよな」
あんた、FA目指さなくて良かったよなあ、と、笑うブラッドは、心底楽しそうだ。ひょっとして何もかもが、彼の冗談なのではないか、と、リッチはまだ疑い深い目で上機嫌の同僚を見つめた。
「君は何故、そういうことにくわしいんだ?」
「だって、友達だから」
「友達?」
「うん」
さっきの、偽装婚してるやつ、とブラッドはけろりとしている。
「彼の奥さんとも仲いいよ」
彼の〈恋人〉と彼の奥さんは、どちらもセミプロ級の料理上手で、だから二人がそろって腕をふるったパーティなんかは、どこのホテルのデリバリーかと見まごうばかりなんだ、あいつ、あんな二人に側にいられちゃ、将来はウエストサイズ倍増の危険性大さ。
グラスを傾ける間に、さらさらとそんな話をする。リッチは、曖昧に「ふうん」などと言いながら、ブラッドは、どこにでも友人がいるな、とそんなことに感心していた。そんなリッチの反応を、はかばかしくないと思ったのか、ブラッドはやや心配そうに上目遣いになった。
「あんたはそういうの、ダメ? マイノリティな性的嗜好は受け付けないほう?」
「え? ──ああ、いや、偏見とか、そういうのはないよ。ちょっと……そう、驚いただけだ」
そう言うと、ブラッドは、そっか、と安心したように微笑んだ。
リッチはそれを、自分の友人を否定されるのは嫌な気持ちになるものだから、と、解釈した。それ以外の含みがあろうとは夢にも思わなかった。
「マークは、大事な家族がいるもんな」
市の職員として、市民のために懸命に働いている妻と、可愛い娘たちと。
「ま、あいつには高望みしないで、今の恋人を大事にしろって言ってあるから」
「高望み、ねえ」
とてもそうは思えないけど、とリッチは笑い、それきり、長い間、そんな会話をしたことは忘れていた。
「あんたが欲しい」と、当のブラッドに言われるまでは。
次に目を覚ましたのは、ブラッドだった。
もう、夜明けも近い時刻だ。
一度目を覚ましたリッチは、あれからもう一度、眠りのふちを越えてしまった。枕に頬を埋めて、すうすうと安らかな寝息をたてている。
帰ってきたら、その足で会いに来いよ、と要請したのはブラッドのほうで、リッチは、素直にそのとおりにやってきたのだから、まだ、体内時計がこの国の時間ではないのだろうし、疲労も深いに違いない。……昨夜、自分がしたことを考慮に入れなくても、だ。
でも、だからと言って。
こうして、無防備に眠る彼が、ブラッドは愛おしくもあれば、苛立たしくもある。
自分なんかの隣で、よくそんな顔で。
すぐにでもここから逃げ出して、何ならそのまま、警察に駆け込むくらいのことをしたらどうなんだ、と、八つ当たりと言うにしてもあまりに自分勝手なことを考えた。
投げ出された手首に薄く残された擦過傷が、ブラッドの理性をちくちくと責める。
馬鹿なことをした、と、朝の光が射す中では、いつも素直にそう思う。
──いや。それがどんなに愚かな行為であるかということくらいは、実行する前、考え付いた時点でわかっていた。
当然だ。
双方の合意の下で──暗黙の了解のうちにでも──そういったことを楽しむつもりでないならば、こんなことは、ただの暴力でしかない。
そんなことは。
「……わかってる……俺だって……」
わかってるんだよ、マーク。
聞いてはいない相手に、ブラッドは、深く懺悔するように頭を垂れた。想い合った恋人同士なら決してするはずのないことだ。
それでも、どうしようもなくそういった衝動に流されてしまうのは、不安だからだ。心がないから、せめて物理的な方法で彼を捕えておきたい、とそんなふうに思う。
リッチは、ブラッドを拒まない。言葉でも、動作でも、抗うようなことは何一つせず、何をされようとも、ただ、ブラッドの意志を受け入れる。そして、そうされるたびに、ブラッドは打ちのめされた気持ちになった。
いっそ彼が抵抗してくれれば、自分は満足感を得られるのだろうか。嫌だと言うのを残酷に押さえつけて、無理矢理身体を暴くようなことをすれば、こんな、──惨めな気持ちではない何かを?
「……は、……」
こぼれた声は、乾いていて、軽い。胸の内に巣くうのは、後悔と絶望ばかりで、他には何も入っていないからだろう。
欲しいと思っていたものを手に入れたのに、どうしてこんなに苦しいのだろう、と、誰かに訊ねてみたかった。
答えは自分が知っている、と、それもわかってはいたけれど。
「──起きねえと、な」
そっと身を起こして、寝起きには(気温が上がりきらない朝は特に)感覚が鈍る左足を、なだめるようにさすった。リッチは目覚める様子もなく、深い呼吸を繰り返している。
こんなところを見れば、彼はまた、申し訳なさそうな顔をして、傷ついた目を伏せるだろう。
彼が目を覚まさないように、とブラッドは、静かに両手を動かした。
もう少しだけ。
あと、そう、十五分から二十分。その間にこのいまいましい足も目を覚ますだろうし、コーヒーを淹れておくくらいはできるだろう。そうしたら、リッチを起こさねばならない。
朝だよ、帰れよ、と。Your girlsが会いに来るんだろう、と、言ってやらねば。
彼女たち。His lovely girls.
今は離れて暮らす三人の娘たちを、リッチはそれはそれは大切に慈しんでいた。
ブラッドも、彼女たちとは顔見知りだ。最近は疎遠になってしまったけれど、三人とも、元気で可愛い少女ばかり、子どもに夢中なリッチの気持ちも、わからないでもない。
たぶん、今日も一日彼女たちに振り回されるんだろう、とごく当然に想像した。
案の定、起き出してきたリッチは「ショッピングに付き合えって言われてるんだ」と、さもうんざりしたような、でもまんざらでもなさそうな顔で、そんなことを言い出した。
そうして、昨夜の出来事など、まるでなかったかのように清潔な顔で身支度を整えるリッチを、ブラッドはだらしなくソファに寝そべったままの体勢で見上げた。
陽の下で見るリッチは付け入る隙もなく真っ当に見えて、ブラッドは、目を眇めたいような気持ちになる。
「忘れ物」
「え?」
「それ」
ブラッドの指がさした先を見やって、リッチは「ああ」と自分の左手に目を落とした。
うっかりしていたのも無理はない。昨日、薬指のそれを外してリビングのテーブルに置いたのは、リッチではなくブラッドだからだ。
シンプルな金色の輪を取り上げて、リッチはしばらく迷ったあと、結局それを胸ポケットに入れた。
「緩んでるよな、それ。詰めたほうがいいんじゃねえ?」
「うん……でも、落としても、別に……。どうせ、……自分で買った物だし」
元々左手にはまっていた指輪は、家にある。引出しの中にしまわれたままだ。──彼女と、別れて以来、ずっと。
あれから、もう四年になる。
それは、例えばどちらか一方(もしくは両方)が浮気をしたとか、暴力を振るった、あるいは性格の不一致というような、家庭内の問題ではなかった。
二〇〇一年に起きた、同時多発テロ。史上最悪と言われたあの事件が、二人の間に溝を作った。
市の職員だった妻は、あの事件の悲惨な部分をいくつも目にすることになり、それは彼女の精神に、ひどい負担をかけた。彼女は明るく、健康で、強い心の持ち主だったから、現実を見失うこともなければ、そこから逃げ出すこともしなかった。
ただ、どうしても、夫の仕事に不安を抱くことをやめられなかった。フライトに行くリッチを見送るたびに、これが最後の別れになるのではないかと案じ、電話が鳴るたびに、テロの報せではないかと怯えた。
結局、そうして徐々に疲弊していく彼女を見かねて、離婚を言い出したのは、リッチのほうだ。離れていれば彼女の不安も薄らぐだろうと思い、それは実際、その通りだったと思っている。残念な結末ではあるけれども、それも運命だったのだろう、と思うことで、自分の中では決着をつけた。
三人の娘たちの親権は平等に保有しているけれど、基本的に子どもたちは母親と住んでいる。リッチは長く留守にすることも多いから、それは仕方がないことだ。それでも、月に二度や三度は顔を合わせているし、時には泊まりがけで遊びに来たり、短い旅行をすることもある。子どもたちはそれぞれを「マムの家、ダディの家」と呼んで、別荘感覚でいるらしい、と、この間久しぶりに電話したときに、そんなことを話していた。
今でも指輪をはめたままなのは、あれこれのわずらわしさを避けるためだ。キャビンを預かるのは、その多くが女性で、彼女たちは、実に目端が利いて、鋭く、情報の伝達能力ときたら、受送信共にインターネット並に長けているのだ。それは、仕事の面では得がたい才能だったが、プライベートという面から見ると恐ろしいばかりである。
というわけで、リッチが指輪を外していった日、同じシップに乗っていたFAたちは、全員が目ざとくそれに気づき、その話は、リッチの知らない間に知らないところで、別の大陸にいたはずのFAにまで、ちゃんと伝わっていたらしい。
たった三日の間に「指輪、どうしたんですか?」と聞き飽きるほどに訊ねられて、リッチは深々とため息をつく羽目になった。
ブラッドは、それを聞いて大声で笑うと、
「うっかり外したら見当たらなくなって、とか何とか適当なこと言っておきなよ。で、同じようなのはめとくことをお勧めするね」
というアドバイスをしてよこした。
「だから言ったろ? あんたモテるんだから、気をつけないと」
「……君だって、指輪も結婚もしてないじゃないか」
恨めしげにそう言った友人に、ブラッドは、一瞬の間を空けた後、穏やかに言った。
「──俺は、結婚しない主義だって、宣言してあるもの」
それはリッチも知っていた。ブラッドは、本人が何もしなくとも、女性のほうから声をかけてくるから、恋人候補には事欠かず、そうして、付き合っていることもあるようだ。けれど、そのインターバルは限りなく短い。君は美の女神クラスの完璧な美女が理想なのか? とからかったこともある。ブラッドは笑うばかりで何も言わなかったけれど、どれだけ彼を傷つけただろうか、と思うと、後悔で胸がうずくような気がした。
ブラッドが、そんなものを望んではいないと、わかってはいても、だ。
「じゃあ……帰るよ」
「ん。気をつけて。ショッピング楽しんできな」
笑いながらそう言ってやれば、リッチはわずかばかりの苦笑を返した。そうして、やりとりする言葉ばかりは、普通の友人同士のようだ。
じゃあまた、と優しい台詞を残して、リッチは部屋を出て行った。もう二度と来ない、と言い出すつもりはないのだろうか。
そこにあるのは責任感と罪悪感ばかりのくせに、と卑屈に考え、ブラッドは、その自分の想像に打ちのめされて目を閉じた。
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