■ 二章 ■
何でもする、とそのひとは言った。
自分にできることなら、何でも、と。
深い後悔に、翡翠色の目を潤ませたそのひとは、贖罪の方法を一途に求める殉教者のようであった。
ブラッドは、その哀しみに心を動かされはしなかった。たぶん、あのとき、自分は半分くらい壊れていたからだ。投与されていた何種類もの薬品と、思い通りにならない身体への苛立ち、そして突然閉ざされた未来への絶望とで。
それよりも、何てうかつなんだろう、と目の前に立つひとを滑稽にすら思った。
馬鹿だな、この俺に、そんなふうに、何もかもをさらけ出して。
馬鹿だな、そんなに無防備な顔で。
とっくに、諦めていたのだ。
決して手に入らないと心を決めて、秘密は、自分が天に召されるまで秘密のままで持っていこうと、そう誓った。もしかして、この想いが神の園に相応しくないというなら、〈下〉へ落されるのかもしれないけれど、それなら、そのときまで、だ。
あまりにも。
ひとは、あまりにも深く恋をすると、欲しいと願うことすら恐ろしくなるのだと、そんなにも臆病になるのだと──ブラッドは、リッチに出会って、初めて知った。
自分が男に興味を持つなんて、夢にさえ思ったことはなかったのに、リッチへの想いを自覚した途端、ブラッドの中からは、それまでに経験した、過去のいくつかの恋愛や、恋人の記憶など、全部消去されてしまった。
けれど、出会ったときには、彼はもう指輪をはめていたし、女性とすら浮いた話一つないキャプテンが、同性の自分の気持ちになど、気づくはずもなければ、応えてくれるはずもないと初めからわかっていた。
ただ、それでも。
彼でなかったならば、他の相手だったなら、自分はきっと、もう少し行動することができたはずだ、とブラッドは思う。わかりやすい形で好意を示してみせただろうし、できることなら、奪い取ってしまおうと、──すくなくとも、そのための努力くらいはしただろう。
彼が──彼の属していた〈家庭〉というカテゴリが、二つに分かれることになったときも、自分の友人にだったら「今がチャンスじゃないか、ダメで元々なんだから行ってこいよ!」と背中を叩いて送り出すことができたはずだ。
けれど、彼に対してだけは、とてもそんなことをする勇気はなかった。「気の合う友人」で「信頼できる同僚」。それ以上に近づけなくても、そこから遠ざかるのは怖かった。幸い、それぞれの接頭と接尾に「一番」と「の一人」を添えてもらえるくらいには親しくなった。
ブラッドには、都度都度の恋人もいたけれど、それは、初めから「二番目以下」と決まっている恋愛で、当然、どれも、さほど長続きはしなかった。移り気の早さを、当のリッチにからかわれたこともある。若かったから、それが辛いと思ったこともある。いっそ言ってしまおうか、それとも、離れてしまえば楽になれるかもしれない、とも考えた。でも、結局は思いきれずに側にいた。意外といじらしいところがあるんだ、と自分で自分に驚いたくらいだ。
そうして、もう、どちらかが引退するまで──あるいは、リタイアしてからも──このままの関係が続くのだと思っていたのに。
「私はいったい……どうやって君に謝ればいい? どう、償えば──」
あんたのせいじゃないよ、と言ってやりたかった。そうするべきだとわかっていた。でも、ブラッドの受けた衝撃はあまりに大きく、そして、差し出された誘惑は、どうしようもなく魅力的だった。
これは、神の情けか? それとも、罪の実だろうか。
──たとえ、そうだとしたところで。
かまうものか、と投げやりに思った。
「……マーク」
祈りの形に組み合った美しい指を、ブラッドはベッドから伸ばした手で握りこんだ。
***
あの日──あの運命の日。
ニューヨーク発パリ行のシップには、リッチがキャプテンとして搭乗するはずだった。
その日の朝早く、リッチから、末の娘が急に高熱を出して入院した、と会社に連絡が入った。他州まで出張していて、入れ違いで帰ってくるはずだった母親が、現地の天候不順とそれに伴う空港閉鎖で戻れなくなった、今は自分しか側にいてやれない、という打ちひしがれた声に、社のほうも交替の許可を出した。スタンバイだったブラッドは、スケジューラーからの指示を受け、「リッチキャプらしい理由だな」と笑ってコックピットに乗り込んだ。
そして──事故に遭ったのだ。
無事、ド・ゴール空港に着陸したあと。
泥酔した運転手の起こした交通事故に巻き込まれた。
トラックを含む車四台の大規模な事故は、死者五名、重軽傷者は合わせて八名に上った。ことに、ブラッドたちAALTO社のクルーたちが乗っていたマイクロバスは、中央線を越えてきたトラックとほぼ直角にぶつかる形になり、運転手は死者の一人だった。前方席にいたブラッドは、左大腿骨を折って病院に運ばれた。折れた骨が皮膚を破って見えていた、と手術をした医者から後で聞かされた。他のクルーたちにも、程度の差はあれ、数名の負傷者が出た。
事故の規模を考えれば、生き残れただけで幸運だった、と、そういう人間もいるだろう。
リハビリをすれば、また歩けるようになる、必ず普通の生活に戻れる、と医師も保証した。
けれど。
「それだけだ」
真っ青になってかけつけたリッチに、ブラッドはうつろな笑顔を見せた。
「歩けるだけだって言うんだ。自分のことだけ。もう、何百人の人間を乗せて飛ぶことはできないって……」
たとえ、どれほどリハビリを繰り返したところで、もう二度とコックピットには戻れないだろう、と医者は辛そうに事実を告げた。フランス語と英語を織り交ぜた、丁寧な説明を聞かされたブラッドは、途中で「ありがとう、もういい」と医師の言葉をさえぎり、一人にしてくれと要請した。ブラッドより十ほど年上の医者は、同情のこもった目線を投げかけて、病室を出て行った。
ぼんやりと天井を見上げる。強い麻酔のおかげで痛みはなかったが、身体のあちらこちらが固定され、身動きもままならない。思考を集中させるのも難しく、まるきり、何を考えればいいのかわからなかった。
ああもう俺は飛べないんだな、とその事実だけが胸に染みた。そういう未来図は、もう長いこと──三十年以上だ──想像したこともなかったので、空を飛んでいない自分は、呼吸の仕方を忘れた生き物になったような気持ちになった。それは、あまりに絶望的なことで、だから、涙すら出なかった。
──俺たちはパイロットだ!
──飛べない奴ァ、死んじまえ!
まだプロ・パイロットどころか、その卵とすら呼べない、航空学生だったころ。地上学科訓練をようやく終えて、フライト訓練に入った同期生たちと、浮かれてそんなことを言い合っていたときがある。思い返せば、あんな状態でよく「パイロットだ」などと胸をはれたものだと赤面するけれど、空を飛ぶ、という行為には、それほどの高揚感があった。飛べないくらいなら死んだ方がましだ、と、あの頃は本気でそんなことを考えていたのだ。
病院のベッドで、ブラッドはしきりとその時のことを思い出していた。
まさかに、そんなことを実行しようと考えたわけではなかったが、後になって母親から「あのときの私たちは、あなたから目を離すのが怖かったわ」と打ち明けられた。自殺でもしたらどうしようかと心配した、ということらしい。
ということは、よほどひどい様子だったのだろう。
そのときのことは、実はあまり覚えてない。
幾つかのシーンや、台詞が記憶の中でバラバラになっていて、言うなれば、整理の出来てないアルバムみたいなものだ。薬品の影響もあるだろうけれど、単に思い出したくないだけなのかもしれない。
ただ、そうして自分があまりに危険に見えたから、リッチは、あんなにも簡単に、ブラッドの要求に応えたのだろうか、とは思った。
理不尽で、自分勝手な、あんな行為に。
──ブラッドは、覚えていない。
自分でもそう言っていた。
フランスの病院にいたあたりのことは、あんまり記憶に残ってない、と。
だったら、そのほうがいい、とリッチは思う。
病室に足を踏み入れたリッチは、予想以上に憔悴しているブラッドの様子に、愕然とした。
白いシーツの中で、身体の大半をギプスや包帯に覆われたブラッドは、腹の上で両手を組み、まっすぐ天井を見上げていた。
ドアが開いたのに、その視線は動きもしない。
大怪我だということだけは聞いていたが、具体的にどれくらいの損傷だったかは知らなかった。
生きている、生命に別状はない、と、それだけを聞いて、飛びだしてきたから。あの事故のど真ん中にいて、生き残ったなんて奇蹟のようだ、と、そんなことで安堵してしまったから。
どうして、一度でも安心なんてしてしまったのだろう、とリッチはその時の自分を呪ってやりたかった。もちろん、助かったことには感謝せねばなるまい。それを拒絶するほどには不遜ではない。
けれど、それだけでは。
おそるおそる近づいたリッチに、ブラッドは、ようやく気付いたのか、ゆるゆると首をひねって客を見た。数秒の沈黙の後で、ブラッドは「ハイ」と笑顔を見せた。
「わざわざ……」
「──ブラッド」
「来てくれたのか?」
「ブラッド」
「彼女は? もう大丈夫?」
「ブラッド」
「──何だよ、そんな青い顔して……」
大丈夫、治るって言ってた。治るって。また、歩けるようになるって。
でも。
それだけだ、と笑ったブラッドに、いっそ、罵声と共に物でも投げつけられたほうが、よほど良かった、とリッチは恐れ、哀しんだ。笑っていられるはずがないのに、笑っている友人を、どう扱えばいいのかわからなかった。それは強さではない。与えられた加重に気づかないでいれば、いずれ、心はその負荷に耐え切れずに折れてしまう。
Sorry、と言いかけて咽喉がふさいだ。そんな言葉で、いったい何を表せるというのか。
ブラッドの失ったものに引きあうだけの、価値のある言葉など、この世のどこにも存在しないのに。
「飛べないってことはさあ」
どうやって生きてったらいいか、わかんなくなるってことかな。
歌うようにそう言った言葉は、むしろのんびりとした語感でもって、立ちすくむリッチの耳へと届き、ゆっくりとした速度で、彼を後悔の縁へと追いつめた。
***
寝室に足を踏み入れたときも、まだリッチは、ブラッドの本心を量りかねていた。
償いをしたいと乞うリッチに、じゃあ、あんたをくれよ、とブラッドは言った。まるで何でもないことのように言われたその言葉の意味を、リッチは最初、理解できなかった。
たとえば、自分が若く美しい女性だったら、そのことを自覚していたとすれば、そんな言い方に驚きはするだろうけれど、ブラッドが言いたいことが何か、というのはすぐにわかったはずだ。でもまさか彼が、同性で、しかも年上である自分に対して、そういった欲求を持っているだなんて、リッチにはまるで想像の範疇外だった。
それでなくとも、彼は本当に女性には騒がれるタイプで、ニューヨークの病院に転院してからはAALTOの女性職員が入れ替わり立ち変わり見舞いに現れるので、最後には面会謝絶になっただとか、看護師の間でも誰が担当になるかで騒ぎになったとか、真偽はともかく、そんな話が聞こえてくるほどだったのだから。
これは何か、手の込んだ冗談であるか──あるいは、リッチの「何でもする」という言葉を確かめるために、ためしにブラッドが言ってみただけのことなのではないかと、頭のどこかでは、そんなふうにも思っていた。
けれど、今、ブラッドはベッドの上に腰掛けてリッチが来るのを待っている。
「どしたの。そんなとこ突っ立ってないで、こっち来なよ」
二、三秒ためらってから、リッチはさしのべられた手に向かって、足を踏み出した。
「座って」
立つのしんどいから、とブラッドは、リッチの手をひいた。ブラッドの左側に持たせかけられた
肘杖
が、その理由を語らずとも証明していた。
「ブラッド……君……」
「何? 話があるなら、今すぐか、後にしてくれよな。しばらくは、それどころじゃないはずだから」
手をとられたまま、隣に座って、リッチは完全に混乱していた。
彼は、本当に、本気で、ことを進めようと思っているのだろうか? ──つまり、こんな自分を抱きたい、だなどと……でも、まさか。
まっすぐ目をのぞきこんで来たブラッドが、不意に目を細めた。
「……まだ半信半疑なんだな、あんた」
「ブラ……」
「『悪い悪い、ジョークだよ、本気になるなよ』って、俺がそう言うと思ってるんだ?」
「ブラッド」
「それ、あんたの悪い癖だね。前にも言ったろ? ぼんやりしてたら喰われちまうって。あれは、さ──」
俺のことだよ、と、いいざまベッドに押し付けられた。視界が回って、天井が見えたが、それも一瞬で、すぐに、のしかかるブラッドで一杯になった。
「あ、の、……ブラッド、だけど……」
「男に迫られたことなんかない、って言ってたけど、あれも違う。あんたが気づかなかっただけだ。──な、思い出してみなよ。やたら丁寧だった教官とか、親切だった同期生とか、絶対いたはずだぜ?」
「そ……、……ん……っ」
答えかけた言葉は、唇にふさがれた。口付けは初めから深く、無防備だったリッチは、喉の奥のほうまで簡単に暴かれて、反射的に目を閉じた。
「ん、ふ……、ぅ……」
長いキスに、息が苦しくなる。押しのけようとした手を逆にとられて、身体の両脇で拘束されてしまう。
ようやく唇が離れたときには、リッチの口元は、二人分の唾液で濡れ光っていた。
「………………っ」
はあ、はあ、と軽く息を上げて、リッチがブラッドを見上げる。瞳が潤んでいるのは、昂ぶった感情のせいか、苦しかった呼吸のせいなのか。
「……ブラ……ド……」
「逃げる?」
獲物を捕らえた大型動物のような目で、ブラッドは腕の中のひとを見下ろした。
「ブラッド……」
「いいよ、逃げても。俺は、あんたを追いかけられやしねえもの」
このフラットどころか、寝室から先でさえ、追いつくこともできやしない。
だから。
走って逃げ出して、もう二度とここに近寄らなければいいんだよ、と、子供にさとすような口調でブラッドは言った。
リッチは、その先の行為ではなく、そのブラッドの台詞におびえたような顔をした。
──あれはレイプだった、と、ブラッドは思い返す。後から気付いたのではない。あの時既に自分は、わかっていたのだ。
ああ言えば、リッチが逃げ出せるはずがないと言うことを。
ブラッドの言うなりに、自分を差し出すだろう、と言うことを。
そうまでして。
そうまでして、でも。
彼が欲しかった。
リッチは、何も言わなかった。逃げ出すこともしなかった。ただ一度、その長い睫毛を上下させると、静かに身体の力を抜いた。
抱かれる、ということがどういうことであるのか、リッチは、たった今、この瞬間まで、考えてみたこともなかった。そうして、想像する前に、行為は実践で行われ、思いがけず強い力で、リッチの理性を押し流そうとしていた。
たどたどしく、どう反応していいのか、それを表す術すらわからないでいるリッチに、ブラッドはその愉悦を引きずり出そうと丁寧に、執拗に、愛撫を与えた。
滑らかな肌を手のひらでなぞり、相手が息を乱すところ、明確に反応を返してくるところを探していく。リッチは、ブラッドがそれまでに想像した──実際のところ、何度もそういうことは考えた。まるでティーンエイジャーのように、だ──よりもはるかに敏感で、ひとつひとつのしぐさまでが、なんともセクシーだった。
手の甲を口元に強く押し当てているのは、声を出すまいとしているからだ。恥なのか意地なのかは知らないが、それでも、殺しきれない呻きが、次々にこぼれ出る。
グラマラス、とでも、言えばいいのだろうか。それは、耳元に蜜を注ぎ込まれているかのように濃厚で、甘い。
まだ、シャツをはいだばかり、白くなだらかに隆起した胸の先で、淡く色づいた乳首を口に含む。舌の先でくすぐるように舐めあげると、リッチの身体がびくりと跳ねた。
「……ぁ……っ………」
見開かれた翡翠色の瞳は、驚愕を浮かべていた。
痛みではない。ちらりとそこから、下のほうへ走った何か。軽い、痺れのような。
「悦かった?」
「……、……?」
「されたことねえの?」
してくれる女の子もいるけどなあ、と、ブラッドは上目でリッチを見ておいて、もう一度そこに舌を絡めた。
「んん……っ……」
今度ははっきりと快感だとわかった。甘くうずくような感覚が、ブラッドに触れられたところからじわりと広がっていく。反対側には指が伸びてきて、立ち上がったそこを、柔らかく摘み上げられた。
「い……ブラッド、やめ……っ……」
リッチは力なく首を振る。ブラッドは、まるで聞こえてないような顔をして、軽く歯を立てたり、爪で引っかいてみたり、その周囲にも舌を這わせてみたりして、遠慮もなくリッチを昂ぶらせていった。リッチが、肩をつかむように指を立ててくる。すがるようなその仕草と、込められた力の強さに、ブラッドは満足を感じた。
もっと。
そうやって、彼が自分のことだけを考えてしまうように、追い詰められてしまえばいい、と思う。
やがて、リッチの呼吸が乱れ出す頃、ブラッドは、肌の上を辿りながら、もっと下へと身体をスライドさせた。みぞおちをやり過ごし、臍のくぼみに舌先をねじこむと、リッチは悲鳴を上げ、魚のように身をくねらせた。
「や……っ……!」
嫌だ、どうしてこんな。
こんなところで。
「ここも、いいんだ」
「ち…………」
敏感なんだな、と笑われて、違う、とリッチは赤くなった。
けれど、スラックスの生地の上から触れてみれば、そこはすでに、やんわりとした兆しを見せ始めている。そっと撫でてやるだけで、さらにあからさまな反応を見せた。
もちろん、それはリッチ自身にもわかっていて、もう、首筋までを薄桃色に染めている。
「ひょっとして、久しぶり?」
誰かに、触られたことが。
こうして、肌を合わせることが。
今は独り身なのだし──仮に、結婚したままだったとしても、その気になれば、いくらでも相手はいると思うけど。
「そ……、もう、二十歳やそこらの子どもじゃない……っ……」
そんなに盛ってられるか、と、震える息で、途切れ途切れにリッチは言った。
「まあ、俺はそれでいいんだけどね」
ベルトを抜いて、ボタンに手をかける。リッチは、何かを堪えるように、顔を背けて目を閉じた。露になった肌の白さに、めまいがしそうだ。
きれいだと、ためらいもなく思った。
実のところ、ブラッドは基本的にはヘテロなわけで、例えば、人形のように可愛い造作の青年を見ても、暑苦しく筋肉質な男を見ても、何かを感じたりはしない。つまり、女性の、大胆に盛り上がったバストや、くびれたウエスト、丸いヒップなんかを見たときに、男ならついちょっと目を向けてしまうような、条件反射的な性衝動については、だ。
でも今、リッチの身体を余さず見下ろして、ブラッドは、ひどく、喉が渇くのを感じた。
初めて、そういったことをしたとき(女の子とだ)よりも、ずっと。
白い肌が、ところどころ、うっすらと色づいている。それは例えば、頬だとか耳だとか、首筋、薄く柔らかい唇、立ち上がったままの乳首といった、ブラッドの触れたところばかりで、そう思うといっそう愛おしくなる。
もう一度それらを手と舌で辿りなおせば、リッチの口から切なそうな声が漏れた。
そして、足の間。淡い金色の体毛の中で、形を変え始めているものを、手のひらに包み込むと、リッチは、鋭く息を飲んだ。
「あ……っ……」
とっさに口を押さえたが、間に合わなかった。
それは、短かったけれども、明らかに悦びの声で、誰より、言った本人が驚いた顔で目を丸くした。
「あ……わ……私は……」
「そんな驚いた顔しなくったって」
ふふ、とブラッドが機嫌よく笑った。
「弄られたら、誰だって気持ちよくなるもんだろ」
こんなふうに、と、手の中の物をやわやわと愛撫する。手に収まるほどだったそれは、じきに熱を凝らせ、張り詰めて、その存在を主張した。根元から先へ向かって、丁寧に擦り上げ、リッチを呻かせた後、先端の割れ目に指先を立てた。
「……ひ……っ……あ………!」
鋭敏な箇所を遠慮なく扱われて、本能的な恐怖に、リッチは反射的に身をすくめた。
「──傷つけるつもりはないよ、マーク」
「い……、あ……っ」
大丈夫、となだめるように今度は優しい動きで、鈴口をなぞる。もうそれだけで、リッチのものは蕩けて、たらたらと透明な蜜をこぼしていた。滑らかな下腹が上下して、柔毛がしっとりと水分を帯びる。
強く目を閉じて、快楽を堪えている姿は扇情的で、ブラッドは、何の前触れもなく、その膝をすくい上げると、左右に押し開いた。
「あ……っ……」
突如、両脚を広げさせられて、そのあられもない姿勢にリッチは突如我に返った。
頭では、その先の行為についてもわかってはいたつもりだ。けれど、元々、覚悟を持って始めた行為ではなかったから、本能的な嫌悪と恐怖が、一瞬、感情の全てを多い尽くし、リッチは反射的に全身で逃げをうった。
「やめ………」
けれど。
「うあ……っ!」
より大きな声をあげたのはブラッドのほうだった。
弾かれるように身体を離し、何かを堪えて背を丸め、声を殺している。
両手で左足の付け根を、懸命に押さえていた。
「ブラッド!」
「……ってぇ……」
リッチが蒼白になって身体を起こした。
閉じようとした脚が、彼の、ようやく癒えたばかりの傷口を打ったのだ。
「ああ、すまない、そんなつもりじゃなかったのに……」
おろおろとリッチはブラッドを覗き込んだ。ブラッドは、額に脂汗を滲ませて、息を詰めている。リッチは、相手の強張った肩に手をかけ、なだめるように、二度三度、腕を撫でた。
「ブラッド、傷口を見せて。開いてるようなら病院にいかないと」
狼狽しながらも、リッチはぐずぐずと迷ったりはしなかった。手早く、最良と思われる判断を下してしまうのは、仕事柄だ。
「いや……大丈夫……。収まりそうだ……」
痛みは確かに激しかったけれど、それは、傷口の上に当たったからで、傷が開いたり、内部が損傷したり、という感覚はなかった。
案の定、いくらもたたないうちに、痛みは引いた。大きく息をついたブラッドに、リッチは小さく震えながら、何度も謝罪を口にした。
「ごめん、私はまた……」
君を、傷つけてしまうところだった。
打ちひしがれたリッチは言い、ブラッドはきつく眉を寄せた。
そんなふうに思って欲しかったわけではなかった。でも、そう思っていてくれなくては、彼をここに引き止めてはおけないのは事実だ。
彼の罪悪感につけこんで、何でもする、という言葉を盾にとって、ここに。
自分の、側に。
心よりも、傍らに添う体温を選んだのは自分じゃないか、とブラッドは自身を嘲った。
だから、彼は、できるだけ酷薄に見えるように言った。
「だったら、マーク」
もう、抵抗しないで。
「は……、あ、……ブラッド……!」
せわしなく胸が上下して、熱を帯びた呼吸が漏れる。
自分の与える愛撫に、そうして反応する同僚の姿に煽られて、ブラッドの身体の中からも、熱が収束していく。ブラッド、ブラッド、としゃくりあげながら、名前を呼び続けるリッチに、ブラッドは一度口を離すと、わざと冷たい声で笑った。
「バカだな、あんた、フェラなんて、誰にされたって一緒だろうに。好きな女でも想像してりゃいいものを」
「そ、んなの……」
無理だ、と唇を震わせて、リッチは、子どものように首を振った。
目を閉じているのに、ブラッドの存在を感じている。他の誰かだなんて、想像することすらできない。
形を辿るようにブラッドの指が、肌の上を流れていく。乱暴でも投げやりでもなく、女性にするように、優しく、いたわりを持った動きは、やすやすとリッチを追い詰めた。そうして、充分に煽ったところで、ブラッドは身体をずらすと、さしてためらいもせず、リッチの雄を口に含んだ。
驚いたのは、奉仕されているリッチのほうで、飛び上がりこそしなかったものの、肘をついて半身を持ち上げると、眼前で行われている行為に呆然と見入った。
「ブ……ブラッド、や、……そんなこと……」
ダメだ、と震える手で、ブラッドの髪をつかみしめた。けれど、一向に力のこもらないそれは、制止ではなく、快楽への反応でしかなかった。
喉の奥まで受け入れられて、強く吸い上げられると、急速に熱が集まるのを感じる。また、ベッドに背を投げ出したところで、重さを増した袋を手の中で転がすように撫でられ、とうとう、リッチは、半ば泣き声をあげて、自分の腕で視界をふさいでしまった。
「いや……、嫌だ、ブラッド……、やめ……」
けれど、視覚が断たれてしまったことで、感じる快楽はかえってリアルにリッチを責めた。温かな粘膜に包まれた雄は、きつく勃ちあがって、解放される瞬間を待ち望んでいた。
「こ……こんなこと……、お、………」
おかしい、とリッチは細い声でいった。
とても、こんなことが現実だとは思えない。
同僚であり、大切な友人であった相手に押さえ込まれて、服を奪われて、これが彼の報復であるというなら、まだ理解もできるのに、こんなふうに、恋人同士がするような甘い、戯れを。
「ブラッド、もう……離し……」
限界だった。本能的に、腰がうねる。ブラッドはリッチのペニスを吐き出すと、強く、手で擦りあげた。
「う、ん…………ああっ……!」
一瞬、身体を硬くすると、リッチはなす術もなく、ブラッドの手の中に白濁を放った。がくがくと身体が震える。あふれ出したものは、ブラッドの手を伝って脚の間を辿り、裏側にまで白い筋を作った。
目を閉じて、荒い息を吐く。
下半身に残る気だるさは、快楽の残滓だ。
戸惑いながらも、確かに悦楽を感じてしまったことがいたたまれなくて、リッチは顔を背けたまま、呼吸を震わせていた。
目元が濡れているのは、身体ではなく、感情の昂ぶりが急激だったせいだ。
傷ついた子どものように無防備な姿は、ひどく扇情的だった。ブラッドには嗜虐趣味はなかったけれど、もっと追い詰めてしまいたい、とそんなことを思わせるには充分なほど。
シーツに頬を埋めたまま、リッチは寄る辺ない様子で目を閉じ、きつく唇を結んでいた。
煽られるまま、快楽に流されてしまったことを、恥じているのだろう。あのときブラッドを押しのけて逃げ出さなかったことを、後悔しているのかもしれない。
良かった? とわざと訊ねてみたい気もしたが、さすがにそれは悪趣味が過ぎると思いなおした。今でさえ、リッチは追い詰められ、もう、キャパシティはいっぱいいっぱいに違いない(彼の生真面目さを、『英国人らしい』と皆で揶揄したものだ)。ましてや、これから自分が彼に何をしようとしているかを思えば。
ブラッドは、薄紅色に染まった耳朶にひとつキスを落とすと、脚の間のまだぬるつく場所を辿り、さらに奥へと指を差し込んだ。
放たれた体液は、その辺りまでも濡らしていたけれど、探り当てたそこは、当然固く閉じたままで、異物を受入れる用意などしてない。
「……あ……っ……!」
自分でさえもろくろく触れたことのないような場所を指先で押され、リッチは驚きに身をすくめた。
「ブラッド……、や……、」
「力抜いて」
まだ大丈夫、と指の腹で入口を優しく撫でた。ちいさい円を描くような動きで、少しずつ中へと埋めていく。
「い、や……だ、ブラッド……」
怯え竦んでいるリッチは、懇願するようにブラッドを呼んだ。
「痛くないから」
つぷりと入り込んだ指先は、一つ目の関節を越えて、ちょうど半分の長さのあたりまで沈み込んだ。あ、とリッチが息を呑み、呼吸と連動したかのように、秘所は侵入して来たものを締め付けた。
「あ、……い………」
「マーク」
震える息を吐いて、力を抜こうとするのだけれど、意識すればするほど、そこは狭く、きつく、異物を追い出そうと躍起になる。
「嫌だ、だめ……、で……」
できない、と、リッチは泣き声をあげた。すっかり混乱してしまっていて、その慣れない精神状態にパニックを起こしそうになっている。
ブラッドは少し考え、差し込んだ指はそのままにして、身体を前へ倒すと、震えている唇にキスを落した。
「ん、」
舌を差し込んで、口腔を犯す。けれど、乱暴な動作は極力避けて、優しく、深く、お互いの粘膜を合わせるように丁寧に口付けた。すがるものを見つけて、リッチは両腕でブラッドの首を抱きしめた。
長いキスの合間に、んん、とリッチの鼻からやわらかい息が漏れる。がちがちに強張っていた身体から、ようやくすこし力が抜けた。
その隙に、ブラッドは一息に、長さいっぱいまで、指を差し込んだ。
「ん……ん、……はぁ……」
狭いそこを、肉壁を崩すようにして徐々に押し広げていく。リッチは奥歯をかみしめて、馴染まない感覚に耐えようとした。
「……痛くないだろ、まだ?」
「……………い、…………」
痛くはないけど、と上ずった声で告げて、語尾を飲み込んだ。
そろりと二本目が添えられて、リッチはぎゅっ、と目を閉じた。ブラッドは焦ろうとはしないで、入口が緩むまで、根気よくそのあたりを撫で擦り、とうとう、新しい指を飲み込ませた。
「ひ…………、あ、き……つ……」
いきなり倍になった圧迫感に、リッチののどがひきつった。
逃げをうって伸び上がる身体を、もう一度腕の中に囲い閉じ込める。背中に、爪が食い込んだ痛みを感じた。
「マーク」
きつく眉を寄せ、顔を逸らして、羞恥や苦痛や、その他色々な感情を堪えているリッチは、子どものように頼りなく、いたいけと言ってもいいほどだ。なのに、傷つけないように、と自制していなければ、今すぐ力づくに奪ってしまいそうになる。
二本目の指も根元まで埋め込み、そろそろと奥の壁をさぐった。
「あ……っ……」
突如背を走った悦びに、リッチは目を見開いてブラッドを見た。今のは何だったのか、とその表情は問うていた。
「見つけた」
ここ、ともう一度その膨らみを押さえつける。そのあまりにダイレクトな快楽に、リッチが背がのけぞらせて悲鳴のような声をあげた。
「ああ……っ、ブラッド……!」
ついさっき放ったばかりのはずのリッチのものが、再び欲を漲らせて、形を変え始めた。
「う……、あ、ん……っ」
懸命に声をこらえようとしてみたけれど、その度に押えきれない呻きがこぼれた。
「我慢しなくてもいいよ、マーク」
「ぃ……や、……」
「声を、聞かせて」
甘やか、とすら言ってもいいような声音で囁きながらも、ブラッドは、後ろを弄る手は止めていない。徐々にではあるけれど確実にそこを押し開き、新たにもう一本、指を差し込んだ。
「……ぁ……」
苦しい、ととぎれとぎれに訴えた。指の先だけで、もう限界であるように思うのに、そこから、更に奥までを暴かれようとしている。恐ろしいのは、痛みではなく、底知れない悦びのほうだった。直接的な愛撫はほとんど与えられていないのに、ペニスは先端から滲みをあふれさせている。身体の奥深くに触れられると、どうしたって腰を動かさずにはいられなかった。
そんな快楽は知らない。こんなふうに、少しずつ慣らされて、受入れさせられるようなセックスも。
生理的なものと、心理的な理由の両方から、涙が浮かんで来て目の端からあふれ出した。
「マーク」
潤んだ翡翠色の眸がきれいだと思う。泣かせたいわけではなかったが、そんな表情すらも愛おしいと思った。
後孔を解していた指を引き抜き、代わりに、自身の昂ぶりをあてがった。リッチは一瞬、その瞳にありありと怯えを浮かべ、けれど、すぐに、震える息を吐きだすと、諦めたように目を閉じた。
そうして、心の暴力で身体を拘束して、リッチを奪った。馴染まない感覚は彼を苛んだに違いなく、可哀相に、終わった時には打ち捨てられた人形のようだった。
憎しみも怒りも、あまりにキャパシティを越えてしまうと、感情が麻痺してしまうのかもしれない。
リッチは、だらりと四肢を投げ出して、視点の合わない目で、ぼんやり天井を見つめていた。
「……これ、が」
君のしたかったことか、とかすれた声でささやき、次の瞬間、疲労のあまりにか眠ってしまった。
情交の痕を色濃く残し、目を閉じて眠る人に、ようやく聞き取る相手のいなくなったブラッドは、愛してるよ、と消えそうな声でささやいた。
そうして始まった、二人の歪な関係は、歪なバランスの上で歪な形のまま、途切れることなく続いている。ブラッドは、気ままに見えるようでいて、リッチのスケジュールに割り込まないように彼を呼びつけ、リッチは律儀にその要請に応じて、ブラッドの許を訪ね、自らのシフトを連絡することも忘れない。どうして、というひと言を呪いの呪文のように封印したまま、会えば、セックスをした。ときおり、やや変わった行為を強要されることもあったけれど、リッチは、決して逆らわない。
ただ、一度、目隠しをさせられたことがあって、あれは怖かったから、嫌だった、と伝えた。視界が利かないことではなく、行為の間、ブラッドが終始無言だったことが不安を煽った。
もしかして──そんなことがあるはずはないのに──、相手がブラッドでなかったら、と、そんなことを考えてしまったので。
納得したのか、面倒だったのか、それ以来、同じようなことはされていない。わかってくれたのだろう、とリッチはひとりで納得した。
(君じゃなかったら、どうしようかと)
よくもそんなことを言える、とブラッドが嘆息したのを、リッチは知らないでいる。それはまるで自分ならいい、と受け入れられているかのような錯覚を起こさせる。すがってはいけない期待にすがりたくて、吐き気がしそうだ。
うっかりそんなことを口にすれば、かのキャプテンはたいそう真面目な顔で「気分が悪いのか。病院に行くかい」と訊ねてくれるだろう、と、その様子をリアルに想像して、ブラッドは無理矢理のように笑った。
回数を重ねるたびに、身体は馴染んでいくのに、心の在り処は変わらず遠い。会った瞬間から、別れの言葉を探しているような関係に、心の近さなど必要ないのかもしれないけれども。
リッチは、長居してはなるまいと思っている。
ブラッドは、引き止める権利はないと思っている。
側にいて、とそんな願いは、天を欲しがるのと同じほどに、大それた望みに思えた。
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