Azure
  ■ 三章 ■

「マークス」
 定期訓練を終えたところで、リッチは後ろから声をかけられた。振り向くと、人懐こい笑顔を浮かべた同年代の男が手招きしていた。
「ジョージ」
 ジョージは人事課の部長だ。そのうえ、ブラッドの古い友人で、その関係でリッチとも親しい。どれくらい古いかと言えば、ハイスクール時代にまでさかのぼるというから、ずいぶん年季の入ったことだ。卒業と同時に、一旦は道を分かったのに、AALTO社で意図せぬ再会を果たしたというのだから、よほど強い縁があるのだろう。腐れ縁だ、悪友だ、俺は何て不幸なんだろう、こいつと一生顔を合わせなくてもいい幸運な人間がたくさんいるってのに、と、口を開けばそんなことを言い合う、実に仲のいい友人同士だ。
「ちょっといいかな」
「はい。何か……?」
「ん、ちょっと」
 こっち、と人気のない小部屋に招かれた。
「実は、あいつのことなんだけどね」
「……はい」
 たぶん、そうだろうと思った。ただ、彼の用件が、友人としてなのか、人事部長としてなのかはわからないけれど。
 ブラッドは、今は傷病休暇の形で長期休養をもらっている。今後、会社に戻るつもりがあるのかどうかは不明だ。リハビリは、と訊ねても、「別に」と答えるばかりで、それは良くないことだと、リッチは憂える。
 例え、もうパイロットには戻れないとしても、ずっと閉じこもっているわけにはいかないのだから。
 歩けるようになる、と医者は言った。走ることさえ、可能だと。
 そうしてほしいと、リッチは願っている。杖に頼りながらではなく、自分の足で歩けるなら、そのチャンスがあるなら、努力を放棄するべきではないはずだ。
 どうしたんだ、こんなの、全然君らしくないじゃないか、と、そう言えたら、どんなにかいいのに、と思う。
 以前の二人なら、それを言っても許されるほどの距離にいた。
 でも、今は。
 心配なんだ、と、ただそれを告げるのさえためらわれてしまう。
 自分がそう言うことで、ブラッドを追いつめはしないかと、そんなことを恐れている。

「最近、マークスは、ブラッドに会ってる?」
「はい……時々は」
「あ、そうか」
 そうか、それならまあいいんだけど、とジョージはホッとしたように胸に手を当てた。
「いや、どうもここのところ、電話しても出ないし、出かけてっても返事がないし、居留守使ってるみたいなんだよな、あいつ。どうしても独りでいたいなら余計なお世話ってもんだけどさ、ほら、やっぱそういうのってあんまり良くないだろ? 考え込みすぎたりするし。だからちょっと心配してて」
 でも、あんたが会ってるなら大丈夫だな、と一応は安心したらしい。
 良くない、むしろ、自分がいることで、彼を傷つけているのではないか、とリッチは申し訳なくなって、目を伏せた。
「まだ、気持ちの整理もつかないんだろうとは思うんだけどね……」
 パイロットになるんだ、空を飛ぶんだ、と、学生時代から、そればかりを夢見ていたのだから。
「でも、このまま牡蠣みたいに閉じこもってるわけにはいかないだろ? こんな言い方は酷だけどさ、起こっちまったことはしょうがない。これからどうするか、ってことを、考えないわけにはいかないんだから」
「それは、そうですが」
 リッチは、ジョージの突き放した言い方に、ほんの少し眉を寄せた。それに気付いたのか、ジョージはちょっと肩をすくめ、冗談のように言った。
「冷たいと思う?」
「正論だと思います。でも……」
 そうだ、彼の言うことは正しい。本来なら、リッチも同じことを考えたし、そうも言っただろう。
 けれど、ブラッドにとって飛べなくなる、ということが、どんな意味を持つのかを知っているのはジョージも同じはずなのに、と、そう思ったことが顔に出た。
「うん、『でも』な。あんたはそう言うんだろうと思ったよ、リッチキャプ」
 ちゃんと気遣いを忘れない。それが彼の人柄だ。
「だからブラッドは、俺には会いたくなくて、あんたには会ってるんだと思う。俺だと、遠慮なしに、ずけずけ言われんのがわかってるからさ。甘えてんだよ、マークスに」
 子どもみたいだよなあ、とジョージは笑い、リッチは曖昧にうなずいた。
「そう、でしょうか」
 甘えてるのだろうか。
 彼は。
 支えを必要としている、ということなのか。
 ジョージは、両手をポケットに突っ込むと、肺の中の空気をすべて押し出すような、深々としたため息をついた。気鬱ではなく、何かを吹っ切るような。
「俺はさ、マークス。あいつの強さを信じてんだよ」
「え?」
 信じたいんじゃなくて、信じてるんだ、と彼の親友は言った。
「だって、あいつに引きこもりとかさ、できるはずないからね」
 嫌になるくらいアクティブに出来てるからな、繊細な俺とは違うんだ、とジョージは両手を広げて見せた。
「……はあ」
 たぶんそれは、彼ら流の誉め言葉なのだろうけれど、確信は持てなかったので、リッチはやや曖昧にうなずいた。
「だから、放っといても立ち直って、自分で歩き出すって、信じてる。それで、もし、今、あいつがあんたに甘えたいなら、そうしてもいいとは思うんだ。けどな、キャプテン」
 あんたはあいつに取り込まれちゃダメだ、と、ジョージは真剣な顔をした。
「マークスが、ブラッドに、負い目みたいなものを感じてるのはわかってる。でも、あれは不幸な事故だ。あんたは悪くないし、ブラッドだってもちろん悪くない。責任を負うべき人間は他にいるんだ。そこを間違えちゃいけない」
「ジョージ……」
 リッチの瞳が、頼りなく揺れた。彼が、本当に言いたかったのはそれか。旧友とその友人の関係を心配して。
「わかって、います……」
 わかっている。
 このままではいけない、ということ。
 でも、どうすればいいのか、どこまでが許されているのか、リッチはその距離をまだつかめていない。自分のしたいように、正しいと思ったことをするだけだ、と、そう思い切るには、色々なものを重ねすぎた。
 ひっそりと目を伏せてしまったリッチに、ジョージは「君も、子どもみたいだな」と言った。
「え?」
「トランプをこう、──三角に積み上げてくゲームがあるだろ? あれ、やってるみたいな顔してる」
 真剣で、不安定で、慎重な感じの。
 こんなふうに、と、指先を合わせて、三角形を作ってみせるジョージに、リッチはようやくはっきりとした笑顔を見せた。
「さすが、人事部長」
「よく見てるだろう」
「はい」
「ブラッドは」
 Hide-and-seekかな、ととぼけた様子で首をひねった。探してやる気なんかないけどね、と付け加えるのも忘れずに。
「ジョージ」
「でも、手助けが必要なら、いつでも力を貸すつもりでいるよ。──もちろん、友達として」
「……はい」
 面倒な奴だけど、よろしく、と手を上げ、ジョージは飄々とした後ろ姿を見せてその場を去って行った。
 残されたリッチは、「彼も心配しているよ」と、そう伝えられればいいのに、と思った。

 
2013.10.16再録