■ 四章 ■
「ダディ、どこ見てるの?」
きょろきょろと左右を見回している父親の背中に、後ろから、さもおかしいと言いたげな、明るい笑い声がかぶさった。それも、三重唱だ。
「My lovely girls!」
そんなところにいたのか、とリッチは笑顔で振り返った。
わあい、と末娘が飛びついてくるのを抱き上げて、姉二人を見下ろす。先月あったばかりなのに、三人とも、また大きくなったみたいだな、とやや感慨深げに考えた。
けれど、それは親の感傷に過ぎなかったようで、どこへ行こうか、と訊ねれば、まずはケーキよ! と、以前と変らぬ元気のいい返事が、中娘から返って来た。
雑誌に紹介されていた、というティールームは、さざめきのような話し声と、暖かな陽光、そして色とりどりの菓子で満ちていた。
「ママは元気にしてるか?」
「うん、相変わらず忙しい、忙しいって言ってる」
「ママのそれは『楽しい、楽しい』と同じだろう?」
あはは、そうだよね、と上の二人が笑う。末っ子は意味がわかっているのかいないのか、それでも姉たちにつられて、一緒に笑った。その口の周りには、クリームがぺったりついている。リッチは苦笑しながら、ふくふくと健やかそうな頬をナプキンでぬぐってやった。
離れていた期間を埋めるように、三人の話に耳を傾ける。一人前らしいことを言うようになってきた長姉、懸命に背伸びをしようとしているらしい次女、まだ、やや意味不明な発言が多い三女、とそれぞれではあるけれど、彼女達は彼女達なりに色々な経験をし、色々なことを考えているのだと思うと微笑ましい。生意気言うようになっちゃって大変よ、と彼女達の母親は苦笑いしていたけれど。
今は「今年の夏はキャンプに行きたい」と言う長女と、「ディズニーワールドがいい」という次女の間で熱心な話し合いが行われている(スポンサーたるリッチには、決定権は与えられていないらしい)。
そこへ、三女の元気な声が割って入った。
「ダディ、アイスクリーム食べたい」
「ええ? ケーキ食べただろう」
「うん」
だから、次はアイスクリームなの、とまるで当然のことのように言う。
「お腹壊すよ」
「壊さないもん」
「昼ごはんが食べられなくなるよ」
食べれる、と主張する末っ子に、次女が「こないだもそう言って、ランチ残したじゃないの」と、笑った。
「……食べれるもん……」
アイスクリーム、と、小声で、でも頑固に言い張る三女に、他の三人はやれやれと顔を見合わせた。妥協案を出したのは長女だ。
「じゃあ、こうしたら? あんたたち二人で一つ買って来て、半分こするのよ。それならいいでしょ」
「お姉ちゃんは?」
「ダイエット中なの。ケーキでもう、今日の予定カロリーオーバーよ」
ちらりと上目遣いに父親を見、そこに「しかたないなあ」という許諾を読み取った末っ子は、嬉々として、すぐ上の姉の手を引いて、ショーウインドウへ行ってしまった。小さな背中が浮かれている。
リッチは微笑を浮かべてその後姿に目を向けてから、姉娘にも柔らかな笑みを見せた。
なあに、と、不機嫌そうに唇をとがらせたのは、照れ隠しだろう。
「いや、見事なものだと感心したんだ」
「ママに知れたら怒られるけどね」
「たまのことだし、いいじゃないか」
「やや甘やかしすぎだよね、ダディは」
あたしたちはいいんだけどさ、と、言い、フォークに残ったクリームを舐めて、すこしばかり名残惜しげに皿に戻した。年頃の少女らしい正直な目の動きに、リッチは助け舟を出してみた。
「ダイエットするほどには見えないけどね?」
「娘には甘々の、ダディの評価なんか、あてにならないもん」
それから、ふと彼女は真顔になった。
「ダディのほうこそ、ちょっとやせたんじゃない? 仕事忙しいの?」
「え」
反射的に頬に手を当てた。自分ではわからない。
「そうかな? ダイエットはしてないんだけどね。光の加減じゃないかな」
「そう? それならいいけど。あんまり無理しちゃダメよ。パイロットは身体が資本でしょ。飛べなくなったら大変………あ………」
とっさに彼女は唇を覆った。つやつやとピンク色に輝くそれは、普段接するフライトアテンダントたちの、隙ない美しさとは違う、あどけない自己主張だ。
父娘は、お互いに気まずい顔で目を伏せた。
事故の報せが来たとき、長女はリッチの側にいた。顔色を変えた父親に、いったい何事かと詰め寄り、そういう事情なら、すぐに会社へ行って、と彼女のほうから言いだした。彼女も彼を知っている。ブラッドは何度もリッチの家を訪れたことがあるし、幼い彼女たちの遊び相手も、倦まずに務めてくれたからだ。
「大丈夫よ、あの子の熱も下がったし、もうママも帰ってくるもの。あと二時間くらいでしょ、私一人で何とかなるから」
「しかし……」
「大丈夫」
行って、と強く言われて、後ろ髪をひかれながらも病院を後にした。もし、そういう事情がなければ、彼女に事故の話を聞かせはしなかっただろう。今も、知るのは彼女と母親だけだ。
「──ブラッドはどうしてるの? あの……元気かしら」
ためらいがちに長女が訊ね、元気ってことはないわよね、と自らの失言を責めるように言った。
「ママね、気にしてるの。あの時、ママが家にいたら、そしたら、もしかしたら、って。私にはそんなこと言わないけど、でも、見てればわかるわ」
「……うん、知ってる」
彼はそんなふうに思って欲しくないはずだよ、と、彼女本人にも言った言葉を、もう一度繰り返した。それは嘘ではない。ブラッドは、彼女たちがそうして胸を痛めていると知ったら、大いに驚くだろうし、気にすることではない、と強く言うことだろう。
二人きりでいるときには、ブラッドの望むことや、考えていることがわからなくなって、たびたび混乱するのに、誰かに彼のことを話そうとすると、確信を持って答えることができるなんて、奇妙なことだ、とリッチは思った。
「そう……そうよね。大丈夫よね」
「うん」
大丈夫だよ、と、安心させるように微笑んでみる。こんな陽射しの中なら、それも実現可能なことである気がした。
「ブラッドはねえ」
うふふ、と笑い、彼女は、「あたしの初恋のひとだったのよね」と秘密を明かした。
「え……っ」
驚いたあまり、リッチは空のカップを倒しそうになった。
「ほ、ほんとかい?」
「そうよ。ダディが彼を連れてきてくれるのが、とっても楽しみだった」
「…………」
確かに、彼女はずいぶんブラッドに懐いていた。でもそれは、気さくで、子ども好きなブラッドの性格ゆえだろう、と思っていたのに。
初恋だったなんて。
「Jesus……」
「やあだ、真面目にならないで。昔の話よ、子どものころの」
あたし、ボーイフレンドいるもん、と肩を叩かれ、それについても初耳だったリッチは、喜べばいいのかショックを受ければいいのかわからなくなって、黙り込んでしまった。
「──うん、ブラッドはね、色んな空の話をしてくれたわ。あとは、ダディの話ね。あたしの知らない、飛行機の中のダディの話を、いっぱい」
「…………」
パイロットという職業は、孤独なのだとブラッドは教えてくれた。独りで飛んでいても、たくさんのお客さんがいても、こんなふうにオート化が進んでも、やっぱりいざというときの判断は人間に委ねられているし、旅客機の機長というのは、多くの人間に対する責任も、その肩に負わねばならないのだ、と。大変な仕事だけど、君のお父さんはとても立派な機長なんだよ、ということも。
正直、ブラッドの言ってることは、難しくてちんぷんかんぷんだったけれど、とにかく、父親がとても大切な仕事をしているんだ、ということはわかった。嬉しさで胸がいっぱいになるようなその気持ちを、〈誇らしい〉と言うのだと、そう知ったのはもっと大きくなってからだ。
「あたしはダディのことも、ブラッドのことも大好きだったから、彼がダディのことを誉めてくれて、すごく嬉しかったの」
抱き上げてくれた温かな手や、明るい笑顔のことも覚えてる。
「だから、彼が早く、元気なブラッドに戻ってくれることを祈るわ」
もしそれが許されるなら、彼にそう伝えてね、と彼女は言い、リッチは必ずそうするよ、と娘に約束した。
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