■ 五章 ■
リッチは、ベッドサイドに備え付けられた電話機の前で、もう三十分近くもの間、思い悩んでいた。
ブラッドに電話をしたほうがいいのだろうか、と。
このフライトの前、ブラッドから「風邪気味だから、来るな」という電話が入った。「フライトを控えたキャプテンに感染しちまったらマズイだろ」と、聞き取りにくい声でそう言っていた。ひどいのか、と訊けば、寝てれば治るよ、と言っていたけれど。
ブラッドが、あの部屋で、一人で臥せっているのを想像すると、気になって仕方がなかった。もちろん、こんな遠くからでは何ができるわけでもないし、もしかしたら、今頃は眠っているかもしれないし、そうだとしたら、せっかく休息をとっているのを邪魔することになる。
どうしよう、どうするべきだろうか、と、そんなことを考えていたら、いつの間にか半時間も経ってしまっていたのだ。
これでは埒が明かない、と、思い切って、リッチは受話器を取り上げた。コール三度で出なかったら切ろう、とルールを決めた。
そんなリッチの逡巡を見透かしたように、コール一回で通話がつながった。
「……Hello?」
「あ、ブラッド……その……」
ん、と一瞬の間があって、ブラッドは、電話の相手に気がついた。
「マークスか?」
「ああ」
「どしたの。今どこ?」
「ベルリンだ。すこし前に、ホテルについたところなんだ」
三十分もあれこれ考え込んでいたことは言わなかった。
「Sure. 問題はなかった?」
「おおむね順調なフライトだったよ。……それで、ええと、君は?」
「俺?」
「風邪をひいたって言うから……具合はどうかと……」
は、とブラッドが笑ったのが聞こえた。投げやりでも、嘲りでもない、ただ、楽しそうな声だ。
リッチの心臓が、とくん、と鳴った。
こんな笑い声を聞いたのは、ずいぶんと久しぶりな気がしたからだ。
「それでわざわざ連絡してくれたの? 律義だなあ、相変わらず」
「り……律儀とかじゃなくて……ただ、どうしてるかと……もしかして、寝てたなら邪魔をしたが……」
「んん、寝てない。そんな大げさにいうほどの風邪でもねえし。ちょっと熱があるのと、そこから来る頭痛だけ」
あんたが帰ってくる頃には、治ってると思う。
「そう……」
そうか、なら良かった、とリッチが言いかけるのを、ブラッドが慌てたようにさえぎった。
「あ、違うんだぜ? そんなつもりで言ったわけじゃ……」
「え? ──ああ」
ブラッドの言う『そんなつもり』の意味がわかって、リッチは唇を緩めた。「帰ってくる頃には治ってる」というのは、「だから会いに来い」という意味だと──リッチがそう解釈するだろう、と、そんなふうにブラッドが考えた、ということだ。だから、「違う」と言い添えた。
リッチは別にそこまで考えてはいなかったので、ブラッドの気の回し方がおかしかった。
「わかってる。──早く治るように、祈ってるよ」
「ん……サンキュ」
やわらかな沈黙が落ちて、二人はそれぞれに戸惑っていた。その穏やかさに、だ。
こんな時間は。
以前には、珍しくもなかったけれど。
「……あの、さ」
やや口ごもりながら、ブラッドが何か言いかけた。
「うん」
何、と、リッチは耳をすましたが、機械から流れてきたのは彼の言葉ではなかった。
「ブラーッド、ねえ、このレンジの使い方がわかんないのよ」
それは、かすかな、けれど確かな女性の声だった。親しい──とても仲のいい相手にだけ許される、遠慮のなさがそこにはあった。
リッチはそのことにうろたえ、うろたえたことに驚いて、髪の先まで赤くなった。
自分の、勝手な思い込みに気付いたからだ。
どうして自分は、ブラッドが一人で寝込んでいるかも知れないなんて、思い込んでしまったのだろう。
もっと正しく言うなれば。
彼が、夜を共にする相手が──あの寝台を分け合って眠る相手が──自分だけだなんて、何故思い込んでいたのだろう、ということだ。自分がこうして、遠く何千マイルも離れた場所で彼の心配をしなくとも、ちゃんと傍にいて、面倒をみてくれる相手がいるのだ。
おかしなことに、それはリッチにとっては、二人の関係に変化をもたらす予兆かもしれないというのに、なぜかすこしも希望だとは思えなかった。
うるせえな、電話してるんだ、適当にやってくれよ、とブラッドは怒鳴り返し、「ごめん」と会話に戻ってきた。
「あの……すまなかった、私のほうこそ、邪魔をしてしまって……」
「あ? 起きてたって言ったじゃん」
「そうじゃなくて……、そのう、誰かそこにいるんだろう?」
「ああ」
ごめんな、うるさくて、とブラッドは不機嫌そうに言った。
「妹なんだよ。ときどき、母さんに言われて、不肖の兄貴の様子見に来んの。──ってのを口実にして、うちに泊まって遊び歩いてるだけだけど」
「え」
リッチは、再び受話器を持ったまま固まった。
そう言えば、弟と妹がひとりずついる、と、そう、そんな話を聞いたこともあった。
「い、妹?」
「うん。……あれ?」
何か誤解した、と、とたんに意地悪そうな声になって、ブラッドが訊ねた。
「あいにく、恋人とかじゃねえよ。あんたには、残念かもしれないけど?」
「そ……んな……」
「それとも、ひょっとして」
妬いた? と、笑いを含んだ声で言われ、リッチは動揺した。
嫉妬だなんて、そんなことは。
「ち──違う、よ」
どうしてそんなことを言い出すのだろう。
違う、そんなんじゃなくて。ただ、すこし──驚いただけで。
けれど、それを上手く言葉にして伝えることはできなかった。
「……そうだな」
そんな理由、ねえもんな、とブラッドは呟くように言った。
「電話、サンキュ。あんたの声が聞けてよかった」
「あ、ま……待って」
何だか、永の別れのような言い方をするから、とっさにリッチはブラッドを引き止めた。
「──ん? 何?」
「いや……えーと、その……、」
どうしたの、と訊かれても、自分にも理由などわからなかった。しどろもどろになって言葉を探す。その間の沈黙が痛い。
遠くから、ブラッドが、ふっと笑ったのが聞こえた。
「何、ひょっとして独り寝が寂しいんだったら、このまま、する?」
「するって、何を?」
「Telephone sex」
「は?」
テレフォン……何だって?
何だかありえない単語を聞いたような気がするが。聞き間違いだろうかと、リッチは受話器を握りなおした。
「すまない、今何て──」
「だから、テレフォンセックス。──想像してみて。俺がいつも、どんなふうにあんたに触るか」
最初はキスからな。舌の、一番先のとこが敏感だよね、そこばっか舐めたら、あんた、すぐに赤くなる。
くすくす笑いながら、ブラッドは歌うように言った。
「な……何、何言って……君……っ」
「それから、どうしたい? やっぱ、シャツは脱がせた方がいいかな。ね。あんたって、すごく手触りがいいし。知ってた、自分で?」
常日頃、堅苦しい制服に包まれている身体は、驚くほど肌理が細かく、手のひらに馴染むかのようだった。特別な対策をとっているわけでもないのに(少なくとも、ブラッドの知る限りでは)、日焼けらしい日焼けをしているようにも見えない。
「色が白いから、簡単に痕がついちまうしね。あ、でも簡単に見えるところに残したことはないだろ?」
もっとも、パイロットの制服は夏でも露出度は低いから、隠れる場所はたくさんあるけれど。
温かい首筋から、生命の流れを辿るようにして、濃い影を落す鎖骨へ。それから緩く隆起した胸を手のひらで包み込む。女性のような質量もなければ柔らかさもないのに、楽しいのか、と問われたことがある。楽しい、と言下に返せば、リッチは真っ赤になって目を閉じてしまった。
深い口付けを繰り返しながら、そういった意図でもって、身体の線を撫でて行けば、リッチは敏感に反応を返して息を上げる。そうなるころには、目じりや、耳や、その他色々なところがふわりと色を帯びてくる。
「乳首もね。可愛いピンク色」
「ブラッド!」
とうとうリッチが、大声を上げた。怒りではなく、悲鳴に近い。
「何? まだ始まったばっかじゃん」
「もういい、それ以上言うな、口をふさぐんだ」
何も言わないでくれ、と声までを羞恥に染めて、リッチは懇願した。これは何の嫌がらせなんだと、片手で顔を覆ってしまう。
あんなことをしている最中の自分がどんなふうか、なんて、絶対に絶対に絶対に知りたくないし、電話越しにそんな話をするのも、絶対にごめんだ。
ましてや、テ──なんて。
「やってみたら楽しいかもしれないのに」
「そ……、そんなのは、盛りの最中の若い奴らか、特殊な趣味がある奴だけだ」
リッチは、意外と狭量なことを言い出したけれど、それも予想外ではない。彼は、こうしたことには案外と保守的であるからだ。
「そりゃ、手当たり次第に電話かけて、『今日の下着の色は?』とか言ってるようなら、おかしい奴だけど」
「と……とにかくっ、君が元気ならいいんだ、それじゃ、お大事に!」
帰ったら連絡するから、とせわしなく最後の言葉が付け加えられ、ぷつん、と通話は切れた。それは、容赦ない、と言っていいほどの斟酌のなさだったけれど、リッチにその行動を取らせた原因はわかっているから、ブラッドは携帯電話を片手に、ベッドに転がり、腹を抱えて笑い出した。
あの生真面目な機長は、これ以上会話を続けて、パンツの色でも訊かれたら困ると思ったのに違いない!
息が切れるほど笑い続けたブラッドは、とうとう激しくむせこんで、すっかり喉を痛めてしまい、妹に携帯電話を取り上げられて、当面の間、会話禁止を言い渡された。
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