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「悪いことは、必ず三つセットでやってくる」。
この古い俗信は、案外世の真理なのではないか、と、ブラッドはごくごく真剣な顔で考え込んだ。
一つ目は、二日前に。
一年近く付き合った恋人との決定的な破局が決まった。二カ月ほど前から、ギクシャクしているのはわかっていて、その齟齬は、おそらく軌道修正できないたぐいのものだということもわかっていて、だからこそ仕事にかこつけてあえて追求しないでいた問題だったが、とうとう、おとといの夜に。
半月ぶりのデートだったけれど、顔を合わせた瞬間の彼女の表情で、ブラッドは、この夜の会話の流れを悟った。悟らざるを得なかった。
ブラッドも、彼女のほうも、頂点とは言わないまでも、ハリウッドではかなり知られるようになった役者であり、「Most Beautiful People 云々」と言ったランキングにも選ばれるような美男美女ではあるが、別れの言葉は、「私たち、合わないみたいね」という実にありきたりなものだった。そんなことはないよ、と答えるには、心当たりが多すぎたので、ブラッドは「そうかな」と軽い疑問形で答えるのが精一杯だ。
ただ、それは、馴染んできたものを取り上げられることに対する不満であり、心底彼女を引き止めたいと願っているからではなかったように思う。世間が思うほどにはまだ傲慢さを身に付けてはいないから、恋愛をゲームのように軽く考えているわけではない。彼女のことはとても好きで、だから口説きもしたし、付き合ってる間も大事にしていたつもりだ。楽しい時間だったと思う。けれど、すこしずつ気持ちがずれていくのを感じてもいた。それとも、最初からあった齟齬に気付かなかっただけなのか。
ひとつひとつはささいなことだ。食事に行く店のチョイスや、休日の過ごしかた、花束の種類に、アクセサリーの趣味、仕事が理由ですれ違う時間。最初はフォローさえ楽しかったそうした掛け違いが、徐々に「面倒なこと」に分類されていき、今ではわずらわしさゆえに、お互いのそういう態度に腹を立てることさえしなくなった。
今さらそういったことを全部やりなおそうと思うだけの情熱はもうどこにもなくて、なるほどこの辺りが自分と彼女との限界であるらしい、とブラッドは考えた。先に決意を固めた彼女は、そんな恋人の葛藤をわかっているらしく、きれいにカールしたまつげの下で、いたずらっぽく瞳をひらめかせた。ドライと言えばドライだが、シリアスになるほどの理由がないのだから無理もない。これが、どちらかの裏切りが原因だとでも言うなら、また展開は違っただろうけれど。
じゃあね、という言葉とともに彼女がさしだしたのは、唇ではなく握手のための右手であり、これまで二人が過ごしてきた時間は、そんな動作で終止符を打たれたのだった。
二つ目は、昨日。
再来月から撮影が始まることになっていた新作について、監督との意見がどうしても合わずに、結局降板することになったことだ。それ自体は、仕方がないと思っている。何度も話し合ったが、どうしても合意点を見つけられなかった。そういう主張ができるくらいにはキャリアを積んできたのだ。まだ時間はあるから、撮影遅延でスタッフに迷惑をかけることもないだろう。
ただ、昨日発売になった大衆紙でその出来事が取り上げられていて、まるで全部がブラッドの我がままから起こった出来事であるかのような書かれ方をしていて、そこにヘコんだ。いちいちそんなことに傷つくほどの新人ではないが、まるきり鼻で笑い飛ばせるには、まだ実績が足りない。
こうした記事に踊らされて、非難めいた言葉をかけてくるひとには慣れたけれども(中には、映画やドラマのキャラクターの言動にさえ文句をつける輩もいる。そんなのは監督か脚本家に言ってくれ)、監督の談話として、主演俳優の身勝手を責める言葉が載っていたのが気にかかる。もともと捏造記事とそれによる訴訟の多い新聞だと知ってはいたが、もしかしてこれが本音だったら、などと、ちらりと思い、いや、それなら余計に仕事を降りてよかったはずだ、と自分に言い聞かせて、なんとか気持ちを切り替えた。
──そして、今朝。
「君がウィリアムか。さあ、願い事を言いたまえ」
今日はオフだし、と目覚ましもかけないまま〈朝〉と〈昼〉のはざま辺りで目を覚ましてみれば、当面、他人とシェアする予定のなくなったベッドの枕元で、ちょうど手に乗るくらいのサイズの不可解な生き物が、偉そうに両手を腰に当てて、ブラッドを見上げていた。
「…………何、…………」
怠惰な眠りを貪った次の日らしい、掠れた声が出た。
後から思えば、寝起きだったから良かったのだろう。何かとんでもないものがいる、ということはわかったけれど、それについて過剰な反応をするには、まだ頭も身体も目覚めきってはいなかった。
そして、おそらくほぼ100%の人間がそうするであろうように、ブラッドも、ごしごしと乱暴に目をこすり、まばたきを繰り返してみた。自分はまだ眠っているのか、さもなければ、きっと何かの見間違いなんだろう、と思ったからだ。
しかし、どんなに近づいてみても、それは『ちいさなサイズの人間』以外には見えなかったし、夢の中の存在のように、突然消えていなくなりもしなかった。
──もし、これがひょっとして万が一、自分の脳内で完結した世界の登場人物ではなく、現実の出来事だというのなら。
これは間違いなく三つ目の災難に違いない、とブラッドは、ようやく活動を始めた頭を振り振り、眉間にしわを寄せて、その『ちいさなサイズの人間に見えるもの』を凝視した。
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