片道切符
─9─

 近頃、自分は変わったと、ブラッドは思う。
 一日の仕事が終わると、まっすぐ帰宅するようになって、付き合いが悪くなったとみんなに言われた。
 夜遅くまで撮影がずれ込んだときは、面倒がってそこに泊り込んでいたのに、近頃はそういうこともしなくなった。
 仕事柄もらう機会の多い花束も、今までなら全部スタッフたちに渡していたのに、頻繁に持ち帰るようになったし、女優や女性スタッフたちの「おすすめスイーツ情報」に耳を傾けるようにもなった。
 どれも全部、部屋にいる小さな(たまに標準人間サイズ)同居人が原因だ。
 ブラッドの中では、その変化は当然のことだったから、それらの行動が他人の目にはどう映るかについてまでは、深く考えてはいなかった。


 ドアを開けた途端、何かが飛んできて、ブラッドの顔にぶつかった。
「わっ!?」
 ぺちん、と間抜けな音を立てて床に落ちたのは、ピスタチオの殻だ。当然怪我はない。よかった、役者の顔だ、不用意に傷つけられては困る。場合によっては賠償問題だ。
 しかし。
「……ショーン……あんた飲みすぎ……」
 加害者が酔っ払いで、なおかつ人外の者の場合、責任追及できるかどうかはかなり微妙だ。たぶん、できない。たとえ、外見だけは人間に見えたとしても、だ。
 傷害未遂犯は、ソファにだらしなく腰をかけ、アルコールににごった目でブラッドを見上げてきた。怒ったときなど、なかなか迫力ある表情をするのだけれども、今はただの酔っ払いである。
「飲んでない!」
「飲んでるよ。あーあー、何本空けたんだよ、この酔っ払い」
「酔ってない!」
 正しく酔っ払いの抗弁だ。テーブルの周りにあるビール缶を数えると、六本あった。その割りには泥酔している。良くない酒だ。以前、二日酔いであれほど苦しんだくせに、一体どうしたというのだろう。
「何かあったの」
「……何もない」
 ショーンは、ぷいっと顔を背け、そのついでにソファから落っこちた。起き上がるかと思ったら、そのまま床で丸まっている。──反抗期の子どもか。
「あんたに嘘つきの才能がないのはわかったよ。別に、無理に聞き出そうとは思わないけど……」
「もう、ここ出てく」
「え……っ!?」
 不穏な発言に、ブラッドは目を剥く。
 もぞもぞしながら、立ち上がろうともがいているショーンの腕をつかんで、もう一度ソファに座らせた。
「何で? 何怒ってんの? 俺、なんかした?」
 覚えはない。でも、ショーンがこんなことを言い出すからには、何か理由があるはずだ。ほぼ一ヶ月あまり、大きかったり小さかったり、サイズの一定しない同居人とは、うまくやってきたつもりだったのに。
「無理に聞き出さないって言ったじゃないか」
「俺に原因があるなら別だろ」
「嘘つき」
「あんたよりは、そうかもな」
 両腕をつかんで下から見上げると、ショーンはくすん、と鼻をすすった。泣いてはいない。でも今にも泣きそうだ。その理由がわからないから、ブラッドも泣きたくなる。
「……なあ、ほんとに何で? 俺が何かしたなら、正直に言ってほしい。ちゃんと聞くから」
 根が正直にできている神様は、情に訴えられると無碍にはできない。半ば本気、半ば計算だったが、ブラッドの読みは正しく当たった。
「これ、読んだ…………君の邪魔になってるなんて、ちっとも気づかなくて……」
 ショーンが差し出したのは、よれよれになったタブロイド版だ。一度しわになったのを伸ばしたらしい。名前に見覚えがあると思ったら、例の降板劇について好き勝手書きたててくれたあの新聞だった。あの後、監督と話す機会があって、結局、あの記事はほぼ九割が捏造だということが判明したのだ。はた迷惑な。
「こんなん、どこで買って来たんだ?」
「……豆がきれたから、角のコーヒーショップまで買いに行って……スタンドに並べてあるこの新聞に、君の名前が見えたから……」
 最近はゴシップになるようなこと何もしてないけどな、と思いながら紙面に目を向けると、「ブラッド・ピットに新恋人!?」という見出しが躍っていて、その下に、後姿の女性とのツーショットの写真が載っていた。
「はあ!?」
 記事によれば、二人は現在同棲中で、熱烈恋愛中のブラッドは、仕事が終わると花束を片手に、彼女の元へ飛んで帰っている、ということであるらしい。
 ……まったくもって、「はあ?」だ。
「ちょ、ショーン、こんな記事信じたのか? 俺が同棲なんかしてないのは、ショーンが一番知ってるじゃん」
「それはそうだけど、…………あれ?」
 そういえば、と、まるきり今気がついたらしいショーンに、ブラッドはがっくりと肩を落とした。
「俺って信用ねえのな」
「ご、ごめ……」
「俺は、ショーンのこと邪魔になんかしてないよ。この写真も、」
 たぶん捏造、とブラッドは紙面を弾いた。
「この新聞は特にタチ悪ぃから、一文字だって信用しちゃだめだ」
「あ……そ、……そうなのか」
「そうなの。だから、あんたが自棄酒飲むような理由は何もねえよ」
 にっと笑うと、ショーンは真っ赤になってうろたえた。アルコールのせいではない。彼がそんなに傷ついた理由を考えると、ブラッドは、気分が高揚するのを感じた。
 だって、それって。
 所在無く膝の上でうろうろしているショーンの手を取った。美しい造形を、自分の両手で包み込んでしまう。
 ショーンは、もう髪の先まで染まったように全身を朱に染めて、唇を震わせている。
「ショーン」
 彼が、少年から与えられた名前を柔らかく呼んだ。
 本名を呼べればよかったけれど、あれはとうてい人間に発音できる言葉ではない。大丈夫、この名前をショーンはとても大切にしているから、ちゃんと気持ちは通じるはずだ。
「ショーン」
「……ブラッド……」
 ダメだ、と呟く声はかすれて小さかった。
 聞こえないふりをして、桜色の爪先に唇で触れた。ビクリとすくんで、逃げをうつ両手を逆に引き寄せる。ショーンの身体は、あつらえたようにブラッドの腕の中に納まった。
 滑らかな白い頬に片手を添える。可哀想なほど全身を緊張させているショーンは、もう混乱のきわみにあるらしかった。
 それでも彼が逃げ出さない理由を考える。それは決してブラッドの独りよがりではないと思う。
 顔を寄せると、ショーンは、観念したように目を閉じた。
 あんまり彼が緊張しているので、ブラッドまで厳粛な気持ちになった。
 たかがキスに、これほど真面目な気持ちになったのは初めてだ。
 怖がらせないようにそっと触れたのに、ショーンの唇は、堅く結ばれたままだった。どう応えていいかすらわからないらしいショーンが愛おしかった。
「ショーン、俺……」
「あっ!」
「あ?」
 突如夢から覚めたような顔をして、ショーンはブラッドの胸を押し返した。
「え、何……」
 戸惑うブラッドを尻目に、ショーンは身をかがめると、ソファの下から小さな紙切れを拾い上げた。
 真珠色で切手サイズのそれには、ブラッドも見覚えがあった。
 ショーンの「派遣元」からの指示が書かれていたあれだ。
 大きな身体のままでは読みにくいのか、ショーンはぽいん、と小さくなると、びっしり書き込まれた文字を懸命に読んでいる。
 ブラッドは、胃の辺りが凍るような思いでショーンの表情を追っていた。
 決して忘れていたわけではない。この時間が暫定のものであって、やがては終わりが訪れるのだということも、ショーンは、きっとまた誰かの願い事を叶えるために、ここを出て行かなくてはならないのだということも。
 ただ、考えないようにしていただけだ。
 その時が来たら、ショーンはどうしたいのか、どうすべきなのか、それについてはまるきり話し合って来なかった。話題にすればそれだけ早く、その瞬間が訪れるような気がしたからだ。
 でも、何もこのタイミングで。
「……ショー……」
「ウィリアム・ブラッドリー・ピット」
「え? あ、はい。……何?」
 突然フルネームを呼ばれて、ブラッドは、反射的に居住まいを正した。
 ショーンは小さな手にある、その紙を見せびらかすように、ひらひらと振った。
「新しい、派遣先の名前だ。私は、この人物の願い事を叶える義務がある、……らしい」
「…………マジ?」
 ブラッドは、飛びつくようにショーンの手元を覗き込んだ。どれほど近づいても読めやしないのだが、ショーンは、確かにここに書いてある、と書類の真ん中あたりを指差した。
 でも、だって、──それなら。
「しかも、これは訂正書類なんだ! 前の指示書が間違ってた! ウィリアム・ブレイディ・ピットは、何の関係もなかったんだ!」
 やっぱり私は間違ってなかったじゃないか、しかも一ヶ月も経ってから送ってくるってどういうことだ! と、ショーンは怒りのあまり、地団太を踏んだ。
 なるほど、それなら帰りのチケットとやらが送られてこないのも道理だ。──意外に、ショーンの住む世界も現実世界と変わらないところがあるらしい。
 ブラッドは、ショーンの気がすむまで怒りを発散させてやった。
 よっぽどフラストレーションがたまっていたのだろう。ショーンは、暴れて、暴れて、暴れて、暴れて、その合間に、神様にはふさわしくない悪口雑言をわめき散らし、最後にはとうとうソファの上に倒れこんで、そのままがっくり眠ってしまった。
 まあ、もともと酔っ払いだったところに、あれだけ動き回ったのだから無理もないが。
 弛緩したちいさな身体を、そっとすくい上げる。初日の出来事を思い出して、ブラッドはそっと笑った。明日また二日酔いで苦しんだりするんじゃないだろうか。
 クッションの上でもがき苦しんでいたら、きっと自分はまた笑うだろうし、ショーンはまた怒って本を飛ばすかもしれない。そうしたら野菜ジュースで仲直りをして、新しいショーンの仕事について、ゆっくりと話し合おう。
 例えば、願いを叶えるために来た神様に、ずっと傍にいて欲しいと願うことは、例の禁止項目その三、「制限のない欲求」に抵触するのかどうか、というようなことを、だ。


終わり
 
2013.11.27再録