| For a long time おまけ文 〈吉野バージョン〉 |
| Hello、というあたりまえのあいさつは、数秒の沈黙の後でやってきた。 「私よ。まだ覚えてくれてるかしら?」 電話の相手は、五日前にけんか別れしたきりの妻だった。 「Yah、連絡をくれて嬉しいよ」 皮肉ではなく、そう言った。あと二日待っても連絡がなければ、自分から、と思っていたところだ。 彼女は、思っていたよりもさばさばとした口調だった。 もっとも、本心については知れたものではないが。 「そう? でも、あの夜はそうでもなかったでしょ?」 「あの夜?」 「そう。──あの後、私、電話をしたのよ」 「……え? でも」 確かにあのとき、自分はメリックを訪ねてはいたけれども、届いた電話を無視したりはしていないし、着信の履歴にも、何も残ってはいなかったはずだ。ブラッドの言葉を先回りして、妻は続けた。 「携帯じゃないの。あそこ──あの家へよ」 でも、いなかったわね、と、彼女は笑った。 「悔しかったわ。って言っても、誤解しないでね。あなたが〈誰か〉のところに行ってたのが悔しかったんじゃないのよ。私も、どこか男のところへ転がり込んでやればよかった、と思っただけ」 女友達ではなく、喜んで彼女に膝をつき、『あなたみたいに美しいひとに会ったことがないよ』と、そういったことをささやいてくれる誰かのところへ。 そうして、その男から、夫に電話をさせるのだ。 彼女は今日、うちに泊まるから、と。 「言っておくけど。私がそうしなかったのは、相手がいなかったからじゃないわ」 「Sure」 彼女は充分に美しくて魅力的だ。賛美者にはことかくはずもない。ブラッドとても、同じ情熱でもって彼女に恋をした。その気持ちを、忘れたわけではなかったけれども。 「もちろん──わかってるよ」 わかっている。 けれど同時に。 まるで十年も昔に終った美しい思い出のように、平坦で冷静にしか思い出すことができないでもいる。そうして、彼女もまた、そんな夫の思いを、正確に察しているに違いなかった。 短い沈黙すら恐れて、二人は懸命に、次の言葉を捜そうとした。 ねえ、と彼女が言った。 「私たち……不幸だったのかしら。……私……」 幸せだと思っていたのに。私だけが気付かなかったの。なんて。 恥ずかしい。 「──俺は、不幸なんかじゃなかったよ。ただ……」 ああ、どう言えば正しく伝わるだろうか、とブラッドは言葉を探す。 完全に、だなんて、そんなことはありえないにせよ、決定的な諍いもなく、平穏で、幸福な結婚だったことと。 けれど、本来なら──自分が、記憶の一部を見失ったりしていなければ──存在しないはずの時間だったことを。 逡巡する夫に、妻は、突然霧が晴れたかのような声を出した。 「私……考えてたの。ずっとよ。一体、何をしたかしら、って。でも、そう、やっと……わかったわ」 突如として、自分たちの間にできてしまった、この距離の意味が。 「あなた、何かを思い出したのね。そうなんでしょう?」 すこし長めの沈黙の後、ブラッドは、「ああ」と肯定の意を示した。 「恋人が……いたのね」 ブラッドがなくしていた時間の向こうに。もう一度、ブラッドはうなずいた。 「なんてこと」 もちろん、それは、充分にありうる事態ではあったけれど。 でも。 「どうして……? だって、その人は何年もあなたを放っておいたんじゃないの」 そんなにも──ブラッドに、現在の生活を簡単に捨てさせるほどに──大切な相手なら、なぜ、向こうから名乗り出て、彼の側についていてあげなかったのか。 それについては、俺だって抗議したい、と思ったが、ブラッドは「ちょっと事情があって……」と、歯切れ悪く答えるのが精一杯だった。 「事情? あなたより大切な事情ってこと?」 「……頼むよ、あんまり苛めないでくれ。自分で言っててへこみそうだ」 「地球の裏側までへこめばいいのよ、ミスター・ピット。私には怒る権利があると思うわ」 きりりとした声で告げられる、ミセス・ピットの主張はまったく正しく、夫はしたりごもっとも、と同意するしか選択肢はなかった。 「ごめん、確かにその通りだ。もし、君がそう望むなら、俺にできることなら何でも……」 「『何でも』って何なの?」 ぴしゃりとさえぎって、彼女は言いつのった。 「簡単に言わないで。私が一番してほしいことは、もう、あなたには絶対できないんでしょう」 「…………」 ごめん、と何度目かの謝罪を口にするより先に、電話の向こうから笑い声が聞こえてきた。自嘲気味ではあったにせよ、それはこんな場にそぐわない明るさを持っていて、ブラッドは彼女の強さを思った。 「いやね、みっともないことさせないで。ヒステリックなケンカは嫌いなの。この間のことだけで、充分反省してるのよ」 そういえば、あの傷の具合はどう、と思い出したように訊ねられ、平気だよ、と答えておいた。まだ痕跡は残ってはいるが、仕事にも日常生活にもなんら支障はない。 「〈彼女〉に会わせてはくれないの?」 大丈夫、そのひとを殴ったりはしないわよ、と冗談らしく注釈がついた。 「……これは、俺と君との問題だから」 それに〈彼女〉じゃなくて〈彼〉なんだ、と内心で付け加えておく。 「大事にしてるというわけね」 「────ああ。そう……したいと思ってる」 電話の向こうで、息を飲む音がして、わずかな時間の後、それは、ふ、と柔らかく吐き出された。 「彼女、私より美人?」 「……それを比べるのは無理だ。全然タイプが違うから」 「私より優しい?」 「どうかな……そうでもないかも」 優しいというなら、メリックは、とことん優しい人間なのだろう、と思う。ただ、その優しさは誰に対しても平等であり、恋人だけを特別扱いするような、一般的でわかりやすい優しさとは、ちょっと違っている。 恋人として、と注意書きをつけるのならば、メリックはすこしも「優しい」ということにはならないだろう。 「私より賢い?」 「──君より、じゃなくて、たぶん全人口の99.9%より」 間違いなく、彼は天才だ。そうと呼ばれるにふさわしい頭脳と、それを使いこなす意志を持っている。 もっとも、ブラッドにとっては、それは大して意味のないことではあったけれども。 「99.9%ですって? まあ、あきれた。あなた、どこの学者を口説き落したの」 本気であきれているらしい彼女は、けれど、まさか本当に医学者がブラッドの恋人だとは、思ってもいないに違いない。ましてやそれが、一度自分も会ったことのある相手だなどとは。 それは大変そうね、と言われ、実は結構大変なんだ、と答えておいた。返ってきたのは「それは、のろけてるつもりなの?」という、冷たい反応だったけれど。 そんなつもりじゃ、と慌てている夫を制して、彼女はきっぱりと告げた。 「ねえ、ブラッド。ひとつ言っておくわよ」 「──何?」 「私たち、今後のことについて、話し合う必要があるわね?」 「……そうだね。でも、君が嫌なら、代理人を立てても……」 「こんな大事なことに、代理人を立てるつもりはないわ。すくなくとも、まだね。それより」 「それより?」 「次に会うときまでに私、腕力を鍛えておくことにしたわ。覚悟しておいてね」 「…………」 それはつまり。 ブラッドは、無意識のうちに口元に手を伸ばした。先日の怪我が、ようやく治ってきた場所に、だ。 「……了解……」 とりあえず、協議の翌日はスケジュールを空けておこう、と思いながら、ブラッドはちいさくなったかさぶたをなでた。 END |
| For a long timeへ |
| 2006.02.19 IQ145以上のひとの割合は、全人口の0.1%だそうですね。 |