伝心 ツタフココロ  〜15歳〜 1
抜けるような青を切り裂いて、白い鳥が滑空していく。
その姿を見つけて、波間に覆いかぶさるように切り立った岩場の先に、恐れ気もなく立った人影がついと指を伸ばした。
どこまでも飛んでゆくかと思われた翼持つ生き物は、その指先に導かれ、緩やかな弧を描きながら地表へと舞い降りた。
「いい子だ」
くるくると鳴きながらあるじの肩に降り立った白鳩は、大事な信書を無事に運んできたことを自慢しているかのように胸を張った。
鳥ののどを二、三度撫でて労をねぎらうと、オデュッセウスは小さく丸まった羊皮紙を広げた。
元より長くもない通信文だ。一瞬で内容を把握し、オデュッセウスはゆっくりと微笑んだ。
「やれやれ、獅子よりもやっかいなものを野に放った、と敵方の将は思っているだろうな」
「アキレス様ですか?」
後ろに控えていた兵士が、あるじの呟きを耳に留めて言った。
「ああ。あれはまた勝利を手に入れたそうだ」
「それは重畳。いずれ、アキレス様ご自身が神話の住人となられるかもしれませんね」
「おっと、それ以上は言わぬことだ。神々はどこで聞いておられるやも知れぬ」
唇をふさぐしぐさをして、オデュッセウスは笑った。
きつい蒼玉の瞳と陽の色の髪を持つ年若い英雄は、神々に列せられるだけの資格は充分だと思えたが、そうとはっきり口に出すのは神に対して不敬であろう。
もっとも、話題の本人は神など敬う気配も見せなかったが。
「まあ、敵にはまわしたくない相手だな」
「まさか、敵などと」
思いもよらない、と言いたそうな口調は、二人の親しい付き合いを間近で見ていれば当然のことだ。
アキレスとオデュッセウスは、十の年齢差にも関わらず仲の良い友人だった。
アキレスが初めて剣を持ち始めたころ──それはずいぶんと幼い時からだったけれども──から、ずっとだ。
その関係にすこしばかり不穏な変化がついたのは三年前のことだったが、本人達以外にそれを知るものはいない。
十二歳のアキレスはオデュッセウスへの恋情を抱き、それを口にした。
オデュッセウスは答えを出すまでに三年の時間を置いた。
年若い身には永劫の未来に思えたとしても、規則正しく天空をかけるアポロンの馬車は確実に陽を重ね、日を重ね、過ぎ行く時間は万物の上に平等に降り注ぐ。むろんそれはアキレスとても例外ではなく。
「──そう願いたいものだ。あの黄金の獅子を閉込めておける檻は、人の世にはないから」
遠い戦場で勝利の美酒を傾けているだろう少年を思って、オデュッセウスは苦笑混じりにそう言った。
今日、アキレスは十五の誕生日を迎えた。


***


「王よ、お出かけですか?」
王の住み処ゆえに『王宮』と呼ばれてはいるが、大国のそれとはくらべものにならぬささやかな建物を出ようとしたところで、オデュッセウスは夜番の兵士に声をかけられた。
「どうにも寝つきがたくてな。アテナ神殿へ祈りを捧げに行こうと思う」
「供の者は?」
「いらぬ」
身軽にオデュッセウスは門を出た。空には十三夜の月がかかっていて、明かりを持たなくても慣れた道を浮かび上がらせていた。
島国ゆえに不審者も入り込みにくく、かつ豊かとは言いがたい土地柄上、賊の類いにも狙われにくいということを知っているから、いきおい警戒心も薄くなる。
近場ならば一人で出歩くのも、夜遅くに室を抜け出すのも、イタケの王には珍しいことではなかった。
とはいえ、神殿への参拝は口実にすぎない。オデュッセウスは誰にも煩わされない時間が欲しかった。神殿にこもる王の時間を邪魔する者はいない。
アキレスの勝利を知らせる信書が届いてから二日、知勇で知られるイタケの王はそぞろな心持ちで、日を過ごしていた。
その間ずっとアキレスのことを考えていたと言ったら、あの英雄はどんな顔をするだろうか。
もっとも、オデュッセウスは己の心ではそれを認めることはしても、外へ知らしめる気など毛頭なかったが。彼とても矜恃というものがあるのだ。
三年は長い時間ではないが、短い時間でもなかった。
その間にアキレスは初陣に立ち、いきなり敵軍の大将格の首級を挙げ、その名を一気にギリシア軍に浸透させた。
以降も彼の活躍は華々しく、すでにアカイオス一の勇者と讚える声もある。
獅子の駆けた後には死者しか残らぬ、と風評がたつほどに彼は強かった。
そして、オデュッセウスはイタケの王子から王となった。
とはいえ、何が変わったわけでもない。
他に男児もおらず、執務にさしつかえる心身の弊害もなく。
また父も独り児ゆえに権力を狙う伯叔父らもいないオデュッセウスの即位は、ただ未来に属するというだけで、すでに決定事項として周囲に受入れられていたからだ。
ささやかにつつましく執り行われた披露目の式には、アキレスも顔を出した。
見るたびに健やかに成長する獅子を、オデュッセウスは誇らしいような頼もしいような目で見つめた。そんな、弟に向けるようなてらいのない温かさを、アキレスは何とも複雑な表情で受け止めていて、それがまたオデュッセウスの微笑を誘ったのだが。
アキレスはあの夜以来、オデュッセウスへの気持ちを言葉にすることはなかった。
最初はぎこちなかったけれども、彼なりに二人の距離を考えてみたらしい。
それでも、ことあるごとに向けられる彼の視線の意味を知らなかったと言えば、それは完全に嘘になるだろう。
アキレスはオデュッセウスを諦めてなどいなかった。
時は満ちた。待ちの戦法が嫌いな獅子のことだから、遠からず何をか言ってくるに違いない。
三年前に決定権を与えたのは自分だ。因は必ず果をともなう。オデュッセウスは自らの招いた結果を受入れるべき時が迫っているのを知っていた。


白い石造りの建物は華美ではなかったが静かな荘厳さを持って佇んでいる。
その入口、幅広の階段のところに、闇が凝っていた。
オデュッセウスの足が止まる。
目を凝らせば、それが人影らしいことが知れた。
けれど、こんな時間にこんな場所にいるというだけで、不審極まりない。腰に帯びた短剣以外に武器を持っていないオデュッセウスは、誰何すべきか、このまま道を引き返すべきか、と瞬時迷った。
人影は、その気配に気付いたかのように伏せていた顔を上げた。
「───? オデュッセウスか?」
「アキレス!?」
予想外の人物に、オデュッセウスは息を飲むほど驚いた。思いがけぬまろうどは、咽喉の奥で笑い声を立てた。
「はは、本当に来るとは思わなかった。こんな時間に祈祷か?」
「それは私の台詞だよ。君、一体どうして……」
慌てて駆け寄ると、名にし負う英雄はほこりまみれの泥まみれで、オデュッセウスが愛している豪奢な黄金色の髪まですっかり黒ずんでいる。
これでは、遠目には見分けがつきかねたのも道理だ。
「いつここに?」
「着いたのはさっきだ。戦が終わると同時に馬を飛ばしてきた。あんたはよくここへ来るから、会えるかと」
「……何とまあ……」
オデュッセウスは呆れた声を上げた。
彼の勝利を知らせに、翼のある使者が飛んできたのは一昨日の朝のことだ。
遅れること二日でこの地まで辿り着くなど、ましてや戦を終えた身で駆けてくるなど、人の子に成しうる所業とは思われぬ。
「常人ならば自殺行為だと責めるところだ。わかっているのか」
「あんたに会いたかった」
まばたきをする間だって待てるものか、と、獅子は飢えた瞳で言った。すくりと伸び、力をつけた手足は、今なら簡単に獲物を捕らえることができるだろう。アキレスさえその気なら、とうに自分は食い荒らされて誇りも名誉も襤褸布同然になっている。けれど彼はオデュッセウスに向かってその牙をたてようとはしなかった。
決して気の長い 性質 たち とは言いがたい彼の、自分よりも広く厚くなった背中を見ながら、オデュッセウスは静かに問うた。
「……なら、何故こんなところで待っていた?」
それほどの情熱で駆けて来ておきながら、こんなところに佇んで、確実に来ると決まったわけでもないオデュッセウスを待っていたのは。
アキレスはすこし返事をためらった。どの言葉を撰ぼうか、と唇は二度三度形を作ろうとして、結局は一番短い単語を撰んだ。
「──怖く……なった」
ギリシアの誇る英雄は一言、そう言って目を伏せた。
ここへ来るまでは、ただオデュッセウスのことだけを考えていた。
その身体に触れて、全てを腕の中に収めて、自分がそうであるように、オデュッセウスの中も自分のことで満たしたいと思った。
彼が一番最初に考えるのが自分のことだといいと思ったし、一番最後に考えるのも自分のことであって欲しいと思った。
子供の独占欲で、アキレスはオデュッセウスを欲していた。
三年の月日はアキレスの執着を衰えさせることはなく、十五になれば、という想い人の言葉を拳の中に閉込めて、彼はその日を待ち望んでいたのだ。
そうして、いざ彼に手の届く距離まで来てみると、不意に恐怖がアキレスを捉えた。
初めて戦場に立ったときですら、ただ倒すべき敵と、奪うべき勝利のことだけしか考えていなかったというのに。
「──あんたは俺を拒まないだろう。約束だから」
けれど、自分が欲しいのは契約で縛られたオデュッセウスではなかった。
ましてや、身体だけを与えられても自分の飢えは満たされない。
仮に 身体 にく は奪うことはできたとしても、 精神 こころ を従わせることはできないのだと──たとえその二つが分かちがたく結びついているとしても──ここへきて、アキレスはようやっとその事実に気がつき、愕然としたのである。
「……なんだって? 君は三年の猶予を得ておきながら、そのことに今思い至ったというのか!」
呆れた、という顔でオデュッセウスは少年を見る。アキレスは居心地悪げに髪をかきまぜ、悪いか、と完全にふてくされた声を出した。
「悪いに決まっている。頭の中身まで獣並では致し方ないぞ、若き勇者よ」
「それは俺の仕事じゃない。──待て。俺はこんな話をしにここまで来たわけじゃないぞ、オデュッセウス」
「始めたのは君のくせに」
イタケの王はふわりと笑んだ。常ならばアキレスをひきつけてやまないその笑顔が、今だけははぐらかしの手管に思われて、アキレスはきりきりと眉を上げた。
「またそんな顔をする。ここは戦場ではないぞ」
獅子とて、狩りをせぬときはもうすこし穏やかであろうに、と言われ、アキレスは「戦の方がましだ」と吐き捨てた。
「敵ならば切って捨てればそれですむ。あんたみたいに面白半分に俺を振り回したりはしない」
「面白半分とは、大層な言いがかりだぞ、アキレス」
「じゃあ何だというんだ。あんたは俺の欲するものを知っていたんだろう。三年前の約束で、あんたが与えようとしたものは何だ? 考えの足りぬ仔獅子ならその身体を餌にして、いかようにでも制御できると思ったのか?」
「アキレス。……アキレス」
いきりたつアキレスに、オデュッセウスはどこまでも静かだった。その余裕のある態度がアキレスの神経を余計に逆撫でる。見えぬほどの遠さだと思ったお互いの距離は、三年経った今でも歴然とそこに横たわっていて、それがアキレスを追い詰めていた。
「俺はちゃんと言った。あんたの髪も肌も心も全部が欲しいと。与えると約したなら、すべてを差し出せ!」
子供の癇癪のようなそれは、けれども確かに愛を伝えるための言葉で。
アキレスは、ギリギリの崖っぷちからかかとをはみ出させながら、それでもオデュッセウスを欲していた。
そうして、たわむことも外すこともなく彼が示してみせる愛情は、年上の想い人の胸に根を張り、いつしか四肢をも絡めとる。
オデュッセウスは神の社に在りながら、神ではなく、傷ついた目をした彼の求愛者の前にひざまづいた。
どれほど神への敬意を口にしてみたところで、結局はこの程度でしかない。今この瞬間、オリュンポスの全ての神より大切だと思う相手がそこにいた。
──祈りの言葉よりも真摯に、彼に伝えなくてはいけないことがある。
「アキレス。君は自分を過小評価しすぎている。君に三年の時間を与えておきながら、私が何も考えなかったとでもいうのか? 約束だからと簡単に身を投げ出すことが出来るとでも?」
幼いころならいざしらず、この年になって受け身に回るのは少々勇気が必要なんだぞ、とすこしだけ冗談めかしていいながら、膝に手をかけて、相手の顔をのぞき込んだ。蒼い瞳が揺れる。アキレスは、雪の中に芽吹いた蕾を見つけたような目をしてオデュッセウスを見つめ返した。
「──すこしは俺のことを考えたのか」
「当然だろう? 君が言ったことも、私が言ったことも、一言一句忘れてなどいないよ」
その言葉はわずかながらアキレスの気持ちをすくい上げ、その先を尋ねようとする勇気を生み出した。
「……それで?」
「アキレス。私はイタケの王だ。私には果たすべき役割と、責務がある。それが、どういうことかわかるだろう?」
「わからない。はぐらかすのはやめて、結論を言え」
性急な獅子の要求に、オデュッセウスは気の長い教師の顔で笑った。
「私はすべてを君に与えるわけにはいかない、と言うことだよ。君のすべてを受け取ることも出来ない。何もかもを差し置いて君のことを一番に考えることも」
それは確かに拒否の言葉であったはずなのに、アキレスを絶望へと落とし込むだけの力は持っていなかった。だから、アキレスは黙って続きの言葉を待った。
ほんとうは、と『イタケの王』はため息をついた。
「ほんとうは、こんなことをすべきじゃない。今すぐ君をここから追い返して、私のことなど忘れろと、そう言うべきなんだ」
「それはあんたのしたいことか」
オデュッセウスの気持ちを推し量ることには丸三年も気付かなかったくせに、それこそ野生動物のような鋭さで、アキレスは物事の核心を探り当てた。
言葉を選ぼうとしていたオデュッセウスの唇は、音を発する前に動きを止めた。
アキレスは、今自分がオデュッセウスの喉笛に牙を当てているのだということを、獣の敏さで確信した。
「答えろ、オデュッセウス。俺を追い払って、何もなかった顔をしたいのか。すべきことなんか聞きたくない。あんたのしたいことを言え」
「……私は……」

──三年は長い時間ではないが、短い時間でもない。
決定権を与えられた子供は成長し、今、オデュッセウスに決断を迫っていた。
してもいいこと、してはいけないこと、すべきこと、すべきではないこと。
オデュッセウスを鎧っている何重もの理屈や計算や理性や判断をやすやすとくぐりぬけて、若い獅子は彼の中にもぐりこみ、裸の心に触れる。
そして、世界はひどく単純で簡単な構図で成り立っているのだと、何度も彼に思い知らせるのだ。
それは、半分だけ正しいとオデュッセウスは思う。
たとえばこんな、二人だけしかいないような世界では。

「私は、たぶん、君を待っていた」

口に出してしまえばそれはとても真実にかなった言葉に思えた。
背骨が折れそうな力で抱きしめられて、オデュッセウスは息がつまるかと思った。

「アキレス」
肩を叩いて腕をほどかせると、オデュッセウスは三年越しの、真新しい恋人の手を取る。
──あの日と同じように。
重ねた指はやっぱり三年分の年月を刻み込んでいて、子供らしい線の細さはすっかり影をひそめ、その手は戦う男のものになっていた。
「おいで、テッサリアの 黄金獅子 きんじし
「──どこへ行く?」
「まずは湯浴みをして、戦と旅の汚れを落すがいい。そんな 姿 なり では──」
オデュッセウスはアキレスの好きなあの笑顔を浮かべた。
「私の寝所に迎えてはやれぬ」
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2007.1.21(再録)