伝心 ツタフココロ  〜15歳〜 2
おそろしく短時間で浴室をでてきたアキレスは、まだ髪からしずくをしたたらせていて、オデュッセウスを呆れさせた。
「そんな頭で寝台にもぐりこんでくれるなよ」
子供のころにそうしたように、柔らかな綿布でその金糸を丁寧にぬぐっていく。オデュッセウスの指が自分の顔周りを撫でてゆくのが心地よかったので、アキレスは大人しくされるがままになっていた。
「──そうやって、眉間にしわなど寄せておらぬがいいよ、美しい獅子」
美女として名高い母テティスの血を色濃く受け継いだアキレスは、幼いころから随分と美しい少年だった。今、そろそろ青年期に入ろうとしている彼は子供時代特有のまろやかなラインを削ぎさって、よりいっそう鋭角的な美貌を際立たせるようになった。
「俺の顔がいいのか」
せっかくの忠告を無視して、アキレスは不機嫌な顔でそう問うた。
「……? 髪も美しい」
「髪か」
「身体とて神の子と讃えられるに相応しい。一体どうした?」
「あんたは俺のみてくれが好きなのか?」
不機嫌の理由をそんな形で知らしめるから、オデュッセウスは笑いだした。
「何と珍しいことを言う。誰ぞに同じことを訊かれたか?」
「……そういうわけじゃない」
ますます難しい顔をするアキレスに、オデュッセウスは小首を傾げた。
恋人同士ならありきたりかもしれないやり取りが、この唇から発せられたとなるとどうにも不思議な気がする。
不遜なまでに自信に満ちたアキレスは、そう見せようとしているところも多少はあって、すこしばかりの不安や戸惑いは力づくでねじふせるような方法で、今までやってきたのをオデュッセウスは知っている。
少なくとも、他人の判断基準は──たとえそれが世間では常識とされることだとしても──彼には意味を成さなかった。
その彼が、一体自分のどこを好むのかと(多分彼が言いたいのはそういうことだ。自覚がなかったとしても)問うてくる。
それはオデュッセウスの胸の奥をさわさわとくすぐって、落ち着かない気持ちにさせた。ただ、その理由を突き詰めて考えると大変にばつの悪い思いをしそうなので、それ以上は考えずにおく。
その代わり、白い布地に隠れるようにして、その下のアキレスの唇に触れた。
「──君の魂が好きだよ、アキレス」
まっすぐ揺るがず、勇ましく、潔く、染まらない君の魂ごと。
初めての口付けは強引で、乱暴で血の味がしたのに、二度目のキスは羽毛のように優しく柔らかくて、アキレスはひっそりと混乱した。オデュッセウスの薄い唇から目を離せないでいると、それはきれいな半月を描いてアキレスに微笑みかけた。
「で? そういう君は、私のどこを好むのだ」
言われて、考えて、そういえばこれと同じようなことは言われたことがある、とアキレスはぼんやり思った。
そのときはわからなかった。
今も、わからない。
誰かを想うときは、そうやってパーツごとに分けて考えるものなのだろうか。そんなことをしていたら、夜が明けてしまう。だから、アキレスは正直に言った。
「わからない。──でも、きっと」
「きっと?」

あんたを形作っているものすべてを。


***


そっと相手の胸に手を当てて、こんなふうに緊張しているのは自分だけではないと知って安心する。
そんなオデュッセウスの意図を感じ取って、アキレスは嫌そうな顔をした。年若い彼は、いつもより早く脈打つ心臓をみっともないと感じているのだろう。
オデュッセウスは敷布の海の中から恋人を見上げて笑った。
「そんな顔をすることはないだろう」
「────」
アキレスは、だって、とは言わない。言わない代わりに黙り込む。
「それだけ本気だからだ、とか何とか言っておけばいいだろう? そういったことは何も習ってこなかったのか?」
「習う? ……誰に?」
「君の 敵娼 あいかた に」
オデュッセウスは何でもないことのように言った。が、アキレスにとっては青天の霹靂だ。
完全に虚を突かれたアキレスは、呆然とオデュッセウスを見下ろした。
「何だって?」
「色街ではずいぶんともてはやされたと聞いてる」
「誰がそんな──」
「ふた月くらい前かな。ピティアまで足を伸ばして君を訪ねたら、留守だと言われた。どこへ、と聞くと馴染みの娼館へ行ってると」
「エウドロスか!」
アキレスの有能な副官であるエウドロスは、彼が幼いころは武芸の教育係も兼ねていて、だから若いあるじの爆発的な癇癪も意に介さないという大物である。
「あんたが来たなんて、言ってなかったぞ」
「私が口止めしたんだよ。別に用があったわけではないし、あまりゆっくりもできなかったから」
でもそうと知ったら君は何故引き止めなかったか、ってエウドロスに怒るだろう?
寝台の上で、アキレスの四肢がその身体を縫い止めているというのに、オデュッセウスは世間話のように軽く言う。
悪戯を見つかった子供のような間の悪さに、アキレスは何と返事をしたものかもわからなかった。
何も今、そんな話を持ちだすことはないだろう。
オデュッセウスの滑らかな言葉も昂ぶった神経の裏返しだと、そう思い至るにはまだアキレスは経験値が足りなかった。
どうしたものかと迷った挙句、アキレスは自分らしく実力行使に出ることにし、べらべらと話続ける口を、三度目のキスでふさいでしまった。

抱き合ってみると、二つの身体はぴったりと重なって、オデュッセウスは驚かずにいられなかった。現実にはあちらこちらにくぼみや隙間があるはずなのに、腕の立つ指物師が作った箱とふたみたいに、ぱふりとかみ合って紙一枚入らない気がする。
なんてことだ、とオデュッセウスは嘆息した。
やっぱりアキレスといると、物事はシンプルにわかりやすい形で完結してしまう。
こんなにも二人の肌は相性がいい。
もっともそれはオデュッセウスだけが感じていることで、アキレスがどう思っているのかはわからない。訊ねてみようにも、今彼はオデュッセウスの口腔を舌でなぞるのに忙しくてそれどころではなさそうだし。
そうして、アキレスがようやくキスを終えた頃には、オデュッセウスもそれどころではなくなってしまったから、とうとう最後まできけないままだった。


「ふ……、あ……っ」
聞き慣れない、その高い声はアキレスの耳から脊髄を通って腰の辺りにわだかまり、下腹を重苦しくさせる。
セックスのときのオデュッセウスは蜜蝋のようだと思った。
熱を与えられると、甘い香りをさせながらとろとろと溶け崩れて形を変え、最後には全然違うものになってしまう。
オデュッセウスの肌もいい匂いがして、快楽に熱をおびるとそれがいっそう強くなる。始めのときはくすぐったいと笑っていた脇腹でさえ、今触れれば嬌声を上げてアキレスの指先に反応を返して来た。
「は……ぁ、んんっ」
うっすらと汗を帯びた首すじに口付けて、規則正しく生命を刻む動脈を舌で確かめる。
剣先を突き立てれば簡単に動きを止めてしまうそこが、今日だけは弱々しく頼りない器官に思えて、アキレスは不意に不安になってしまった。
胸をさぐって鼓動の在りかを確かめようとした指先が、意図せず、ぷちりと立ち上がった飾りに触れる。
「やっ…ん、アキレス…!」
ひときわ高いその声は、アキレスの興味を引くに充分な甘さを含んでいて、だから彼の指はオデュッセウスの心音から柔らかな桃色のそれへ移動した。
ちいさくこごったそれは柘榴の実ようだ。いじっていると充血してますます似てくる。
それは死者の国の果実だという。
けれど、ハデスの差し出した果実がこの半分でも魅力的なら、きっと冥界に捕われたところで、後悔はないだろうと思われた。口に含んでみたら、当たり前だけれど、甘酸っぱい果実の味ではなくて、オデュッセウスの香りだけが強くした。
ざりざりと猫のような舌が敏感な突端を舐めとって、オデュッセウスは悲鳴をあげた。
「あ……っ、あ、だめだ……っ」
アキレスの肩をつかんだオデュッセウスの指に力がこもる。
白い脚が敷布を何度も押しやって、足首のあたりに吹き溜まりを作った。
その脚の間に手を差し込んでオデュッセウスの欲望をさぐる。
「あ……っ」
それはちゃんと興奮をしらしめていて、アキレスを安心させた。
這わせて、なぞって、さらに追いつめようとする指をオデュッセウスにやんわりと止められて、アキレスは不満気な顔をした。
「何故止める」
「……もう、いい。それより……」
オデュッセウスは紅く染まった目元でアキレスを見上げ、膨れ上がった年下の恋人の股間に触れた。
「オデュッセウス……っ」
「こっちの方が、大変そうだ」
ふぅ、と短く息をつきながらも、オデュッセウスはまだそんな風に余裕ぶってみせた。
「どうしたい?」
手がいいか、口がいいのか、と、さも物慣れたかのような態度をとるから、アキレスはわずかながら乱暴な手つきでオデュッセウスの足を割り開いた。
月の青い光では陰りになってしまうそこに指を這わせて、固く閉じた蕾に触れる。
驚いたようにオデュッセウスの腰が揺れて、アキレスはすこしだけ胸がすいた。
「待て、そのままじゃ無理だ」
そこに男を受け入れたのは遥かに過去の話で、それもほんとうは、かろうじて快楽を得ることを覚えたか覚えぬか程度の慣れ方でしかない。
「ちゃんとしないなら、させないぞ」
「何を? そんなことは習わなかった」
平気な顔でうそぶいたのは、さきほどの会話への意趣返しだ。
「嘘をつけ、このけだものめ。野の獣とて、ちゃんとルールは守るものだぞ」
潤んだ瞳でそんなことを言いだすから、アキレスは吹き出してしまう。こんな時にこんなところで吹き出してしまったことがさらにおかしくて、素直に従う気になった。
「わかった。ちゃんとする」
ほんとうは、枕の下に香油の壷が隠してあることなんか初めから知っていて、そんなことにすら、すこしばかり緊張していた。
ふたをとると、初夏の花の香をうつしこんだオデュッセウスの愛用の香りが強く広がる。
「……あんたの匂いだ」
うっとりと微笑んでアキレスが言う。それがあまりに幸せそうに見えて、オデュッセウスは、うっかり自分まで幸せな気持ちになった。
「あ……」
たっぷりの油で滑りのよくなった指がするりと入口に入り込んできて、久しぶりに感じる異物感にオデュッセウスは細い声をあげた。それは苦痛を訴えるものではなかったので、アキレスはそのまま根元まで埋めると、指の先でオデュッセウスの内部をあちらこちらと触れてみた。
「ん……、ん……っ」
もじもじと白い腰が揺れて、アキレスの手を快楽の源へと導こうとしている。武器を扱い慣れて硬質化した指先が、すこしずつ位置をずらしながら、腹側の粘膜を何度もなぞった。
「あぅ……!」
びくりと身体がのけぞって、アキレスは水脈を探り当てたことを知った。
「あ……っ、あ、や……っ!」
悲鳴のような声をあげながら、オデュッセウスの身体が、今度は反対側にちいさく丸まろうとした。引き寄せられた膝がアキレスの腰のあたりを強く締め付ける。
その圧迫感が心地よくて、アキレスはますます強くそこを刺激した。
そのたびにアキレスの指を受け入れた場所がびくびくと収縮する。
本数を増やして、性器でそうするときのようにぬらぬらと出し入れを繰り返すと、せり出した指の節がいいところを掠めるのか、オデュッセウスのなめらかな下腹がぐ、とへこんで、泣き声のような嬌声が押し出された。
「あ、あ、いや、アキレス……っ!」
それはその甘さとは裏腹の鋭さで、アキレスの忍耐の緒を断ち切った。
「オデュッセウス……いいか?」
「うあ……っ……」
いいか、と聞いた次の瞬間には、指が引き抜かれて、代わりに屹立しきったアキレスの雄が当てられた。
それでは一体何のために許可を得るような言葉を口にしたのかわからないだろう、とか、大体この期に及んで何を言い出すんだ、とか、やめろと言えばやめるのか、とか、言いたいことは山のように出てきたが、オデュッセウスの舌は、今ばかりは言葉を操る術をすべて封じられてしまっていた。
犯人は、黄金の獅子だ。
「ひ……あっ、あ、い……っ」
指よりもずっと質量のあるアキレスのペニスが、オデュッセウスの身体を引き裂こうとしながら進んでくる。
やめてくれ、と言いそうになって、かろうじて唇の裏に押しとどめた。
遠慮なくそう言いきってしまうには──アキレスがそれを気にも止めないでいるには──もうすこし、時間が必要だ。
「は……、あ、ぁ」
何度も何度も息を吐いて、身体の力を抜こうと神経を集中する。
アキレスはアキレスで一息に奪ってしまいたい衝動を精一杯こらえながら、じりじりと腰を進めた。
こんなにも真剣にセックスをしたことはない。
それは多分ひどく滑稽だったけれど、同時にとても神聖だった。
アキレスがすべてを収め終わった頃には、オデュッセウスは止まらない涙を流し続けていた。
「オデュッセウス……?」
「な……んでも、ない、……い、じょうぶ、…っ」
腰の奥でアキレスの熱がわだかまっている。そこから簡単に快楽を探り出すには、空白の期間がありすぎるけれど、それも徐々に思い出すことだろう。
乾く暇もないままに、また汗でしっとりと濡れているアキレスの髪に指を差し込む。アキレスの唇が降りてきて、もう何度目になるかわからない口付けを交わした。
「あ……は……っ……」
抽挿を始めると、夜目にも白い体が弓なりにしなってアキレスを煽った。目の前に差し出された柘榴の粒に舌で触れると、後孔がきゅう、と締まって一層の快楽を与える。
二人分の身体に挟まれて、オデュッセウス自身も勃ちあがり、苦しそうに震えていた。
「あぁ……っ、アキレス……、もう………っ」
オデュッセウスの足が腰に絡んでより密着しようとする。アキレスは身体を倒すと、胸が触れ合うくらいまで近くに添って、開放を目指した。
身体の内側いっぱいまで水分で満たされたように潤って、溶け出して、お互いの境目ですら混ざり合ってしまいそうだ。
濡れて巻きのきつくなったオデュッセウスの旋毛に、アキレスの唇が触れる。
「あ……っ……!」
「…っ…!」
敏感に反応した身体がすくんで、その衝撃にオデュッセウスの熱が弾けた。そうして引き絞られた後孔の中へ今度はアキレスが逐情し、二人は糸の切れた操り人形のように身体を重ねて敷布に沈めた。
互いの呼気だけが耳元でせわしなく聞こえる。まだ下肢をつなげたままで、それぞれの形を確かめるように、腕を回して抱き合った。
近すぎて見えない目は使わないで、手のひらと指で相手の姿を見つけようとする。飛び出た背中の肩甲骨や、背骨の両側にきれいに盛り上がった背筋や、丸くて白い肩や、左右に広がった羽のような鎖骨や、その他、不自由な姿勢と体勢から触れることのできる場所をなるべくたくさん。
そうして、最後に当然のように合わさった唇は、すぐに深いものになって、まだ、長い夜は始まったばかりなのだということを二人に悟らせたのだった。


********


「三年の後、まだ私を欲しいと思うなら」と言ったのは彼で。


「どうか、自分の熱が届くように」と願ったのは彼で。


それから。


********


「……………………」
「オデュッセウス?」
ぎゅうっと眉根を寄せた恋人を、アキレスはいぶかしげに覗き込んだ。
汗だとか涙だとか、その他、ちょっと何とも言いがたい体液でどろどろになってしまった敷布を寝台の下へ蹴落として、二人はすこし織りの粗い寝具の側生地の上へ直接身体を横たえていた。
もう指一本動かすのも億劫で仕方がない。
けれど、オデュッセウスは、一体この始末はどうやってつけたらいいものか、と頭を悩ませていた。
夜の間にやってきたアキレスが自分の部屋で寝そべっている。
まあそれはいいとしても、ぐるぐるに丸められた敷布を見れば二人が何をしていたかなど、火を見るより明らかであり、それを恥ずかしいと思わないほどにイタケ王の神経はまだ太くはなかった。
「何を怒った顔をしてるんだ。敷布なんか、洗わせればそれでいいだろう」
「あんなぐちゃぐちゃのどろどろのべたべたのあれをか? 君に羞恥心はないのか!」
そう言ってアキレスを責める声は、長い情交の間に散々泣かされたせいですっかりかすれてしまっていて、今はそのことすらも忌々しい。
否、ほんとうに恥ずかしいのは敷布のことでも、アキレスを受け入れたことではなく、盛りのついた十五の少年の情熱に付き合ってしまった我が身だろう。
まったく。
──子供のくせに! 
半分以上八つ当たりだとは知っていながら、オデュッセウスは内心でアキレスに責任を押しつけた。
幸いアキレスは他人の心を読む力は授かってはいなかったので、恋人の本音には気づかなかった。
「じゃあ捨てろ」
「もったいない」
「──たかが布一枚じゃないか」
質素と節約を通り越して、すこしばかり貧乏性に足を踏み込ませているイタケ王の発言に、アキレスは眉を上げた。そう言えば、幼かったアキレスに「もったいない」という言葉を教えてくれたのは、十歳年上のこの友人だったのだ、と思い出す。
「たかが、と言ってものをおろそかにしているうちに、大事なものを失うぞ、獅子よ」
「じゃあ何だ。俺に洗えとでも言うのか?」
「そんなことは言ってない」
まさか、そんな、いくらなんでもアキレスに向かって、婢の仕事をしろなどと言うつもりはない。
結局のところ選択肢は二つきりしかないのだ。
どちらを撰んだところで、いずれ事実は知れようし、そのときは恥を忍ばねばならないのだけれど、それはできることなら、なるべく先であることが望ましかった。
「朝が明けぬうちに燃やしてしまえばいいんだろう。それとも海に沈めてしまうか? その方が簡単だな。どっちでもいい、それくらいはしてやる」
「……君が? アポロンよりも早く起きられるとは思わないが」
「あんたが起こせばいいだろう」
三年前と変わらぬやり取りをして、けれど彼らの関係はくるり90度変わってしまった。
でも、軸心がぶれたわけではないと、二人ともそれを知っている。
「今度は起きるんだろうな」
「あんたがちゃんと起こせば」
起こすさ、君のような礼儀知らずの獅子に気なんかつかうものか、と憎まれ口を叩いて、オデュッセウスは上掛けをひっぱりあげた。
狂気にも似た熱が冷めた身体は、寄り添うに心地いいだけの温度になって隣に横たわっている。
当然のように伸ばされたアキレスの腕を振り払う元気もなく、抱き寄せられればそれぞれの凹凸がぴたりとはまるから、やっぱり不思議だと思う。

──オデュッセウスの世界はアキレスといるとすこしシンプルになる。
──アキレスの世界はオデュッセウスといるとかなり込み入ってきてしまう。
永遠にわかりあえないと思いながら、それがすこしも寂しく感じられないのは、お互いの欠けた部分を無理矢理埋めようとしないからだ。
人は、完全を得ることは出来ない。
歪な魂の、空いた隙間の形までをも愛していた。

***

ところで、至極当たり前のことながら。
疲労困憊のオデュッセウスが未明に眼を覚ますことなどできるはずもなく、起きたときにはとっくに人々は起きだして働いており、件の品物も部屋の中から消えていた。
そして、自分の隣では獅子が眠りをむさぼっており、その腕はオデュッセウスの身体に巻き付いている。
オデュッセウスは体中の血の気が引くのを感じた。
生まれて初めて、と言えるほど深く狼狽したイタケの王は、とりあえずアキレスを寝台から蹴り落し、当然ながら三年越しの想い人の愛情ある対応にアキレスは抗議をし、二人は朝っぱらからテンションの高い口論をした。
その後、敷布がどうなったかを問いただす勇気もなく、しつけの行き届いた召使いは突如現れた客人を不審がる様子もなく受入れたので、理由を説明するタイミングをも逃し、オデュッセウスはもういっそ沈黙を守ることに心を決めた。
言葉を重ねれば重ねるだけ、事態は泥沼化しそうに思えたのだ。
もっとも、声高な言い争いは結構な範囲までその音を届けており(アキレスもオデュッセウスも、いたって通りの良い声を持っていた)、イタケの王宮に働く人々は大概の事情を知ってしまったのだが。
そうして暗黙の了解として受け入れられた二人の関係は、イタケからミュルミドネスの間を通じてピティアへ行き、やがてギリシア軍全ての中で常識として浸透してしまって、オデュッセウスの悩みを増やすことになるのだったが、まだそれはもうすこしだけ未来のできごとだった。


END
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2004.11.03発行/2007.1.21再録