To the ends of the earth

ご注意:血メリ合同誌「天国の果実」からの再録です。


■ 1 ■

しばしば同じ夢を見る、というのは、さほど珍しい体験ではないだろう。
ある程度の人数がそろった場で、そんな話を持ちだせば、「私も」と同意する人間が必ず見つかるだろうと思う。
内容を語ってみれば、確率として、いい夢よりも悪夢を見る、という人間のほうが、圧倒的に多いに違いない。そちらが印象に残りやすいからか、途中で目覚める可能性が高いからか、別の心理学的な理由でもあるのか、そこまではわからないけれども。
ブラッドの見る夢は、厳密に言うなら、悪夢のカテゴリには入らないだろうと思う。恐怖をあおる生き物も、シチュエーションも、何も出ては来ないからだ。
ただ、目覚めたときに、ひどくはがゆい焦燥感が残るのが苦痛だった。
とても大事なものを忘れている、と、そんな確信ばかりが胸の内にしこる。他の何を忘れても、それだけは忘れてはいけない、というほどの、そんな大切なものを。
だから、この夢を見た後は、いつもすこしばかりブラッドは不機嫌になる。
「どうしたの?」
難しく寄せた眉に驚いたのか、先に起きだしていた妻が声をかけてきた。
「気分が悪いの?」
「いや……夢を見たんだ……それだけだ」
「ああ、いつものね?」
「ああ」
何だそんなこと、というニュアンスで、軽く言われて、ざらりと神経が逆立った。もちろん、彼女に非はない。うっかりと責めるようなことを口にすまい、とブラッドは固く唇を閉じた。
ただの夢よ、気にすることはないわ、と。
彼女だけでなく、勧められて受けたカウンセラーも同じことを言った。
その言葉が自分を思いやってのことだと知っているのに、そう言われるたびに、強く反論したくなる。
違う、もっと大切なことなのだと。
夢の内容が不快なのではなく、その中の〈なにか〉を忘れている自分が許せないのだ、と。
どれほど言葉をつくしても、理解してはもらえないと、そうわかったときから、ブラッドはこの夢について、他人に話すのをやめた。
すべての鍵は、自分の中にある。
それに、実際のところ、「話してきかせる」というほど長くも深くもない夢だ。
夢の中の自分は、やはり眠っている。その耳元で人の立ち動く気配がしている。
たぶん、それは、話し言葉や足音なのだけれど、ひとつひとつの音を認識することはできない。スロウ回転させたレコードのように、どれもこれもがあやふやで、鈍い。
起きなくては、と思うのに、固く閉じたまぶたはなかなか言うことを聞かない。
周囲の気配はなおいっそう強くなり、きつく顔をしかめたり、眉間を寄せたりして、何とか目を開けようとやっきになった。
そうして、何とか作り出した、ほんのすこしの隙間から、ようやくわずかばかりの光が差し込んできたのを感じる。
聴覚と同じで、ぼんやりとした視界は、ただ白っぽいばかりで、その中を何かが動き回っているのが、かろうじて見て取れた。
「─────!」
「─────?」
わんわんと響く音が大きくなり、反射的に眉をひそめる。
頭が痛い。
クリームホワイトにしか見えなかった世界が、ベージュやブラウン、黒、金、といった色彩を帯びてくる。ゆらゆらとうごめく〈それら〉が人間であり、自分をのぞきこんで、口々に何かを話しかけているのだと、ようやく気付いた。
けれど、言葉を聞き取ることができない。
一体何を言ってるんだ。あんたたちは誰だ。
そう訊こうとして、けれど、唇も、のども、こわばったように動かないことを知る。
ぞっと背筋が冷えた。
一体、自分はどうなってしまったのだろう。
────自分。
…………自分?
「!」
今度こそ、叫びだしそうになった。
自分はいったい誰だ。
名前は? 年は? 性別は? 
そんな、本来なら、問うことすら必要としないはずのプライヴェートな情報が思い出せない。
どっと冷や汗が出た。混乱のままに身体を起こそうとしたとたんに、誰かに手を握られた。
両手に包み込まれて、じわりと温もりを感じる。
その姿を確認する前に、低い、やわらかな声が耳に届いた。
ブラッド、と彼は──男性であるのは間違いない──、静かに名前を口にした。
いささかも惑わないその確かさに、それは自分の名なのだと、簡単に理解できた。
「目が、醒めたんだな……良かった」
「…………、…………」
動かそうとした頭を、渇いた指先が止めた。
「まだ、動いてはいけない。──どちらにしても、動けないとは思うがね。記憶の混乱もあるかも知れないが、いずれ落ちつく。いいかい? 焦ることはないんだ」
心配はいらない、と、繰り返され、名前以外は何もわからないままであるというのに、自分はひどく安堵し、やさしいしぐさで手のひらが作りだした闇に、おとなしく目を閉じた。
眠りは簡単に訪れる。
もう一度目覚めれば〈彼〉がそこにいる、とひどく確信を持って眠りにつく。
ついてしまった。
それが、最後の別れになるだなんて、夢の中の自分は、すこしも考えていなかった。

そうして。

顔も知らない。
名前も知らない。
声とても、自分が「聞いた」と思っているだけの〈誰か〉を。
繰り返すあの夢の意味を。
ブラッドは、切実に知りたいと願っている。
なくした歯車を探している時計のように。

まるで自分は。
そのひとに、恋をしているようだ、とブラッドは思った。

 
2009.6.15再録