To the ends of the earth

■ 2 ■


面会希望の方が、と差し出された名刺を見たとき、メリックは、あやうく貧血を起こしそうになった。
血の気が引く、とは誇張表現でも何でもないのだと言うことを、体中の血液が足元へと落ちていく、その感覚とともに思い知った。
おそらくは、もう二度と会うまいと思っていた相手。目にするまいと思っていた名前。
どうして。
「……サー?」
いつもなら、打てば響くように答えがあるはずの、上司らしからぬ態度に、名刺を持ってきた秘書は、とまどいを浮かべた。
「ああ……その、どういった……?」
「昨日のプレゼンテーションに奥様がいらしていたそうで、もっと詳しい話をお聞きになりたいと。〈ラインB〉ご希望の方のようです」
〈ラインB〉は、BIRTH──つまり、代理母としての、クローンを希望している、という意味だ。
オリジナルの〈妻〉と同一の遺伝子を持つ母体に、人工授精した卵子を着床させて作られる子どもは、当然ながら、DNAレベルにおいてまでも、完全に、夫婦間の子どもであると言える。一般の代理母と異なり、より安全で確実であり、代理母が子どもの引渡しを拒んだり、後から親権を主張してくるような面倒も起こらない。
クローン一体につき、出産は一度、と厳密に取り決められ、使用済みのクローンは「処分」されるからだ。
それは決して経営利益の問題ではなく、顧客情報の守秘のためである──と、クライアントには説明してある。嘘ではない──もちろん、知らせていないこともある、けれども。
奥様が。
ごく当然のように発音された言葉に、足元に落ちた血液が凝固して砕け散るような錯覚を覚えた。
あまりにもリアルな感覚に、身体の先が急激に体温を失う。けれど逆に、その冷たさがメリックを現実へと引き戻した。
今さら何を、と、自嘲をこめて思う。
とうに覚悟を決めたはずのことがらに、今さら狼狽する理由などない。
結論は出したのは自分だ。
むしろ、こんなふうな再会を、自分は初めから、可能性として考慮しておくべきだったのだ。
「日を改めていただきますか?」
「いや、会おう」
先延ばしにしたところで、解決が得られるわけではない。
「あと五分ほど、待ってもらってくれ」
「では、そのようにお伝えします」
自分の業務を完璧に心得た秘書は、何かを言うことも、におわせることもせず、静かに頭を下げて、退出した。
ドアの閉まる音を聞きながら、メリックは、トレイの上の名刺に、指先で触れた。
うすいグレーの紙片は、なんのニュアンスも含まず、ただ持ち主の名前だけを記している。
そこには、Brad Pitt、と八つのアルファベットが整然と並んでいた。
「──ブラッド……」
ひそめた声で、耳元に触れるようにしてその名を呼んだこともあったけれど、それも、今でははるかに過去の話であるかのようだ。
否、それは、実際に、とうに過ぎ去った事実であるにすぎない。
本人に会うのはもちろんのこと、姿を見るのも二年ぶりになる。彼の、映画俳優という──それもトップクラスの──仕事柄、その気になれば、いともたやすく手に入れることができるからこそ、どんな写真も情報も、目に触れないように避けてきた。
あの時以来、どんな映画に出たのかも。
どこに住んでいるのかも。
その気になれば知らずにいられるものなのだ、と感心するほどだ。
だから、結婚したことすら。
知らなかった。
──結局は、それで良かったのだ。
彼は、新しい人生を歩んでいる。
失った欠片は、他のピースで簡単に埋められる。
それはまさに、自分たちの行っている作業とまったく同じことであり、それこそが自分のポリシーではないか、とメリックは自らを笑った。

***

「──お待たせしました」
完璧な笑顔を浮かべられた自分に満足しながら、メリックは、応接室のドアを開けた。
落ち着いた中間色でコーディネートされた部屋は、決してメリックの好みではなかったけれども、不安や逡巡を抱えたクライアント候補者たちをくつろがせるための意図を持って配色されていた。
美しいフォルムを持つファニチャーと、美しい彩を持つ花々。甘い菓子、果物、優美な曲線をえがくコーヒーのカップ。
その中に座した、一組の美しい男女は、まるで対でしつられた人形のようだった。
「ドクター・メリック? ご無理をお願いして申し訳ありませんわ」
そう言って、白い手を差し出した女性は、けれども言葉とはうらはらに、自分の主張を通すことに慣れきった、無邪気な傲慢さをたたえていた。
もっとも、メリック・バイオテックに訪れる客は、みな、彼女と大同小異だ。そうでなくては、一体五百万ドルもの〈商品〉を購入することなど、できはしないのだから。
「いいえ、納得のいかれるまで、何でもお訊ね下さい。ミセス・ピット」
にこやかな彼女に比べ、夫のほうは不承不承、という様子だった。まさかに眉間にシワを寄せているわけではないけれども、固く結んだ口元は、自分の置かれた状況に納得できないでいるときの、彼の癖のようなものだ。
──そんなところは、変わってない。
以前と、すこしも。
変わったところを見つけたいのか、変わらないところを見つけたいのか、どちらにしても、建設的な思考ではないと、メリックは揺れようとする感情をむりやりに押しつぶして、きつく結んだネクタイの奥にしまいこんだ。
「昨日のお話、とても興味深くうかがいましたわ、メリック博士」
言われて、確かに、昨日行ったプレゼンテーションにこの女性がいたのを思い出した。
「ありがとうございます。あなたがいらしていたのを覚えていますよ、ミセス。ミスター・ピットはいらっしゃらなかったと思いましたが……?」
「ええ。彼ったら、興味がないなんて言い張って。それに、その…彼、目立つでしょう? それで」
とがめるような視線を向けられて、夫は軽く肩をすくめた。さっきからまだ一度も口を開いていない。
ほんとうに、妻にひきずられて、嫌々ながらやってきたのだろう。
子どもは嫌いではなかったはずだ。
ならば、抵抗があるのは、代理出産のほうか。
隣に座る妻は、若く美しい。彼女も同じ職業に就いているのだとしたら、仕事に追われて時間がないのかもしれない。それとも、身体の線が崩れることを厭うたのか。
確かに、彼が姿を見せていれば、プレゼンテーション会場は騒然としたことだろう。生え抜きのセレブリティばかりが集う場とは言え、彼ほどの知名度を持つ人間は、そうそうはいない。
誇張でも何でもなく、彼は全世界に名を知られている。
仮に出演作を観たことがなかったとしても、「ブラッド・ピット」という名前くらいは耳にしたことがある、というひとは多いに違いなかった。
「ええ、私のように疎い人間でも、あなたの名前はもちろん知っていますよ。残念ながら、うちの『子ども達』は、あなたの映画を見て楽しむことはできませんが」
実のところ、メリックも彼の出演作を観たことはほとんどない。もともと娯楽に時間をさくような性質ではなかったし、知りあってからは、画面ごしの、作られた彼にはさほど興味をそそられなかったからだ。
何、それは、本物のほうがずっとCOOLだってこと、と瞳をのぞき込んで笑われた。馬鹿な、とそっけなく答えて、けれどあの時、確かに自分の頬は熱を持っていて、ブラッドがそれに気付かなかったかどうかを、今でも自信をもって答えることはできない。
──もっとも、それを問いただしてくる相手は、もういないけれど。
「でも、あなたの場合は、ご自身の人生のほうがドラマティックと言えるかもしれませんね? 二〇〇八年の奇跡の復活は、病魔に苦しむ誰の心にも希望と感動を与えるでしょう」
微妙に逸らされていた青い瞳が、ようやっとメリックに焦点を結んだ。
きちんと作り上げた表情を崩すまい、と緊張しながら、その視線を正面から受け止めた。
「ドクター……いや、えーと、サー……?」
「メリックで結構ですよ、ミスター・ピット」
柔らかな、よく通る声だ、とブラッドは思った。
そっと上から下へと視線を移動させる。
医者らしからぬダークなスーツが、けれど、とてもよく似合っている。ずいぶんときれいな顔立ちをしているのに、自身はたいして興味はないのか、いささか時代錯誤なノンフレームの眼鏡をかけていた。そのグラスがときおり光を反射して、表情を見えにくくしている。
ミスター・メリック、と呼びかけた言葉が、口の中でごつごつと固まった。
目の前の人物に、そう声をかけることが、なんとなく不自然に感じられたが、その理由については思い当たらなかった。
「確かに、俺は医学の恩恵を受けたと言えるよ。そのことには感謝している。たぶん、これが五年前なら、助からなかっただろう、と言われたからね。──もっとも、俺は何も覚えてないんだけど」

ブラッドが、自らの罹病を告白したのは、二〇〇七年の初夏だった。
癌だ、と彼は動じたふうもなく語り、治療のために入院する、ということをプレスの前で伝えた。
当然ながら、その進行度や入院先について語られることはなく、ゆえにこそ、それを知ることはスクープだと、彼らは色めきたって彼の行方をつきとめようとした。
通常、こういったことはどんなに隠そうとしても、どこからか漏れてくるものだ。たとえ公表されなかったとしても、関係者にとっては周知の事実、というのは珍しくもない。
けれど、ブラッドの場合は真実秘密裏にことが運ばれたようで、どれほど探りを入れようとも、杳として姿をつかむことができなかった。
そもそもブラッドは家族にも友人にも行方を知らせておらず、伝えられたのは、これが自己の意思による行動である、ということと、心配しないでほしい、という簡単で、けれども難しい要求だけだったのだ。
ひと月、ふた月、と日が流れるにつれ、興味本位の囁きは不安へと変わって行った。
彼が一番初めに精密な検査を受けた病院の医師が、匿名を条件に、その見立てを語ったとき、漠然とした不安は、ヒステリカルな騒ぎになった。彼(もしくは彼女)が見たところでは、ブラッドの癌はすでに多くの部位に転移しており、もはやプログレッション期に入っていて、治癒はかなり難しいだろう、ということだったからだ。
彼の不在が半年にもなるころには、もう半ば諦めを見せる者も出始めた。次に彼の消息を聞くときは、死亡の報せに違いない、と。
むろん、そんなことを信じない者も多かった。彼らは真摯にブラッドの復活を祈り続けた。
そうして。
彼らの祈りは、天に届いたかに思えた。
十ヶ月ののち、ブラッドは再び人前に姿を見せた。
身体はずいぶんと筋肉を落として細くなり、まだ車椅子に乗っているような状況ではあったけれども、確かに彼は生きていたのだ。
けれど、これが運命を操る存在のはからいだったのだとすれば、それは、届けられた祈りを正しくすべて叶えてくれたわけではなかった。
当然ながら、人々は空白期間の出来事を知りたがった。けれども、それを語るだけの言葉を、ブラッドは持たなかった。
隠したのではなく、彼自身も知らなかったのだ。
──ブラッドは、直近までの過去二年ほどの記憶を失くしていた。入院治療に入る前の一年ほどと、そこから再び人前に現れるまでの十ヶ月の時間。
いったいどこの病院で、どんな治療を受けたのか。
はっきりしているのは、各所に転移していたはずの癌細胞が、すべて見当たらなくなっている、ということだ。全身に残された薄い手術痕から、高度の外科手術がほどこされたのであろうことはわかったけれど、それがいったいどこの誰の手によるものなのかは、誰にもわからなかった。
「自分だけが助かればいいのか、と非難もされたよ。そう言いたい気持ちはよくわかるけどね。でも、ほんとに、俺は覚えてないんだ」
たった二年。
四十数年生きてきた中の、ほんの二年だ。
言われれば、なるほどその通りだと思うし、実際のところ、大きな弊害はほとんどない。
365×2日。8760×2時間。諦めてしまっても、問題はないはずなのに。
「男らしくないと思うかい?」
「まさか。誰にだって、失くしたくない時間は──あるものでしょう」
手元のファイルに目を落とすようにして、メリックは静かに言った。
あっさりと肯定されて、ブラッドは意外に思ったようだ。
跳ね上がった眉に、ああそう、こんなふうに、いつも表情豊かでわかりやすかった、とメリックはうっすら微笑んだ。
「ミスター・ピット、どうも、私たちは、お互いに偏った視点で相手を見ているのかもしれませんね?」
「え? ……ああ、いや、そんなことは……」
「そうよ、あなた。これは、ちゃんと法律でも認可されている事業なのよ」
「ダーリン、俺は彼の仕事を非難したいわけじゃないし、問題なのは、法律うんぬんでもないんだよ」
もう何度も繰り返されたやり取りなのだろう。ブラッドは、すこしばかりうんざりした様子で、妻の顔を見た。
「ほんとに彼、頭が固くて」
いつもこうなの、と言わんばかりに肩をすくめ、妻はつやつやと光る唇の両端を持ち上げて見せた。
「いえ、ミスター・ピットのおっしゃることもよくわかります。そういった議論は、クローン技術が生まれたときから、今現在まで続く、根の深い問題なのです」
そうして、おそらく、完全に解決することはないだろう。
今も、人間のクローンを作り出すことへの反対意見は根強く、ましてや、その目的が代理母だったり、若返りだったりする場合には拒否感を覚える人間は多い。移植のための代替品だとしても、その多くが「万が一の場合」という、不確定な未来を前提に考えられたものであるだけに、万人の理解を得るのは難しいのだ。
仮に、そこに宗教観が入り込んできた場合には、解決は不可能に等しい。極右の宗教主義者によるテロや暗殺の危険は常に考慮すべきであり、ゆえにこそ、社の機密もクライアントの情報も、極秘の扱いをされねばならない。
「ですが、こういうことも考えられるのです。ここに一人の人間がいます。彼──彼女でももちろんけっこう──は、今、大事故で、体の多くの機能が失われようとしています。脳・心臓はもちろん、人間の体は、どのパーツを失っても生命にかかわることが多い。非常にデリケートなのですよ」
そう、それほどの大事故に会わずとも。自らの細胞の突然変異によって、生命活動が脅かされるくらいに。
「そうして、こちらには、彼を心から愛している人間がいる。恋人でも、家族でもかまいませんよ。その人間にとって、彼はとても大切なひとなのです。たとえ悪魔に魂を売ってでも、その相手を助けたい、と願う心を、いったい誰が笑えますか? そう願うことは、罪でしょうか」
血を吐くように祈ったところで、神は願いをかなえてはくれない。
自然の摂理など、目の前で失われゆく生命の前で、どれほどの価値があるだろう、と。
そう考える人の心を。
「……ミスター」
「私達の持つ技術は、その願いを、もしかすると手伝えるかもしれない。それが、わが社の望みなのですよ」
あるいは、さまざまな事情で子どもを持てないご夫妻に、新しい家族を増やして差し上げることもね、と締めくくったところで、メリックの携帯電話が緊急のコールを告げた。
番号を見たメリックが、厳しい表情になる。彼が「申し訳ありませんが……」と顔を上げたとき、ブラッドはすでに席を立つ決心をしていた。
「代わりの者をすぐに来させますが?」
「いや、いいよ」
「あら、でも、あなた」
「また日を改めよう。今度はちゃんとアポイントを取るよ。今日は、いきなりだったから」
わがままを聞いてもらって悪かったよ、とブラッドは横目でちらりと妻を見た。
「私、責められてるの?」
「そうだよ、ダーリン。さあ、行こう」
ブラッドは、メリックと再会を約束する握手をしてから、無邪気に微笑む妻を促した。
「次は、もうすこし詳しい話を聞かせてもらうよ、ドクター」
「ええ、お待ちしてますよ、ミスター・ピット」
ピンヒールの音を響かせる妻の後を追おうとして、ブラッドは不意に振り向いて訊ねた。
「ひとつ、訊いてもいいかな」
「? ええ、何なりとどうぞ」
「ドクター、あんたは、そんな相手を持ったことが? 神に背いてでも、生きて欲しいと思うような?」
「────」
その質問は予想外だったらしく、メリックはしばし冷静な表情を作るのを忘れて目を開いた。
それが素の顔なのか、それともギャップが感じさせる錯覚なのか、ずいぶんと可愛らしく見える。グラスの向こうで伏せられた目元は、言いようのない陰を帯びていた。
「……いいえ、残念ながら」
「──そう」
埒もないことを、何故訊ねてみたくなったのか。
失礼、と手を上げて、背を向ける。
何でもないように歩きながら、背中で彼の視線をさぐる。振り向けば、きっとこちらを見ている翡翠の瞳にぶつかるだろうと思い、そうしたい誘惑と戦った。
彼が笑ったら、どんなふうだろう、と、思いがけず想像した。

 
2009.6.15再録