■ 3 ■
夢だ、と頭のどこかではわかっていた。
これは、脳が再現している過去の残像であり、耳元で囁かれる声も、触れてくる大きな手も、感じていると思っている快楽でさえも、すべては偽りだ。
けれども、それを振り切る前に、意識は絡め取られて、虚構の中へと沈んだ。
「……ヘンリー……」
その名を呼ぶのは、今ではもう彼だけになった。家族も、そして、ファーストネームを許すほどの親しい友人も、メリックの側にはいなかったからだ。
ヘンリー、と、彼はたいがい、やわらかな声でそう呼んだ。
彼の立場上、そうしてメリックの仕事の上からも、そうそうおおっぴらに顔を会わせることは不可能で、いきおい、逢瀬は閉じられた空間に限られて来る。確かに、そんな中では大声で名を呼ばう必要なかったけれども、決してそれが理由ではなく。
愛してるよ、と、そう言ったことには、まったくもって気の回らない自分にすら、違えず伝わるような声で呼ぶから、メリックは、しばしばいたたまれない気持ちに襲われた。
そんなふうに呼ぶな、といさめれば、「どんなふう?」と心底不思議そうに問い返されて、結局説明はできないままだ。
「……ぁ、ブラ……ド……、……」
身体の奥深くで、ブラッドが──彼の身体が──うごめいていて、そうすると、どうやっても抑えきれない声が、甲高くあがる。そうでもしなければ、皮膚の内側を走っていく熱に、焼き尽くされてしまう。
そうして、肌の外側は、隙間なく、とでもいうふうに他人の肌と触れ合っていて、重なり合うお互いの熱でどうしたって、体温は上昇する。
「……あ……っ、あ、……っ、ん……ぁっ」
脚を開くこと、そのしぐさそのものにも、その先に続いている行為にも、初めはどうしようもなく怯えていて、けれど、いつの間にか、そういったネガティブな感情を持つことはなくなった。
それは、快楽を覚えたからではなく、彼の恋人が──こうして脚を開かせて、その間に身体を納めている相手が──心を欲した相手ならば、身体を欲しいと思うのも当然だ、とあまりにあたりまえのこととして思っているからだろうと思う。その迷いのなさは、いっそ痛快ですらある。
そのうえ、彼は、独りよがりに快楽を追おうとするタチではなかったので、メリックの感じている痛みも悦びも、きちんと見分けて覚えておく。それはもう、腹立たしいほどの正確さで、だ。
そうして、こんなときに。
「あ……っ……!」
突然与えられた、大きすぎる快楽に、全身がすくみあがった。ブラッドしか知らない場所、すくなくとも記憶にある限りでは、彼だけが触れることのできるところ。
「ん……う……、ぁ……」
初めの衝撃をやりすごして、ゆっくりと息を吐く。反射で浮かび上がる涙を、ぺろりと熱い舌先がぬぐっていった。
「ヘンリー」
「……、……っ……ド……」
愛してるよ、と、言葉を惜しむことをしない恋人に、メリックはまぶたを閉じ、唇だけで微笑んだ。
ぼんやりと闇の中で目を覚まし、メリックはのろのろと身を起こした。
窓を模したディスプレイには、地上時間に合わせたホログラムが投影されることになっている。わずかの光も射していないということは、まだ、夜明けは遠い時間なのだろう。
両手で顔をおおうと、深く息をつく。
こんなにも。
誰かを、忘れがたいことがあるのだとは知らなかった。
自分は、本能よりも理性を、感情よりも秩序を、尊ぶ人間であるはずなのに。
もう、顔を会わせてはいけない。
もしも彼が、もう一度ここへ来るつもりがあるなら、そのときは、自分はいない、とそう告げさせなくては。
本来ならば、相手の名前が知らされた時点でそうしておくべきだった。
けれど。
今、自分が後悔しているのは、そうと気づかなかったことではなく、どうすべきかを知りながら、気づかないふりをしてしまったことだと、メリックはちゃんと知っていた。
***
「ハイ、ブラッド。久しぶりだな?」
待ち合わせの相手は、いつもどおり、朗らかなテンションだった。
「悪いな、急に呼び出したりして」
明日からヨーロッパへ行くもんだから、と慌しい対面の理由を告げた。
「まったくだ。ほんとなら、インタビューが入ってたんだぜ。この拘束時間のギャラは、お前が払ってくれるのか?」
二つ年上の友人は、サングラスをすこしずらすと、にやりと笑って席に着いた。
「ここはおごるよ」
「コーヒー一杯かよ」
「まさか。もちろん、ドーナツもつけるさ」
真面目な顔でそう言って、ブラッドは、ぷ、と吹き出した。ただし、あまり大声を出して人目を引くのは得策ではないから、あくまでもささやかな笑い声だ。
オープンなカフェに集うひとびとは、そこでクスクスと笑っている二人が、著名なハリウッドスターだとは気づいていない。うっかり知られてしまえば、うんざりするような騒ぎになるだろう。
もっとも、そこから逃れる方法を知らない彼らではなかったけれど。
「それで? 電話やメールじゃ話せないこと?」
「ああ、うん、直接、訊いてみたほうがいいかと思って……。ジョージ、あんた、俺が入院してた病院の名前を知らないか?」
「入院? 入院っていつ……ああ、『あのとき』の?」
今まで、ブラッドがそんなことを訊いて来たことはなかった。本心までは知らないけれども、すくなくとも表面上は、失った二年間にそれほど固執しているようには見えなかったのに、いったい、今さらどうしたのだろう?
「あいにくだけど、知らないよ。『見舞いなんかいらない』って言ったのはお前だぞ。弱ってるところなんか見せなくないってな」
葬式には呼ぶよ、と、こうなんだぞ、友達甲斐のない奴め、とジョージは渋面を作り、ひとしきり愚痴た。
「あー……その、ごめん」
そんなことを言われても、覚えてないのだから仕方がない。
もっとも、自分のいいそうなことではある、と、そうは思ったが。
「……だよなあ。あんたに知らせてないなら、もう誰も知らないよな、きっと」
「それはわからないけど……。もしかしたら、恋人がいたかもしれないし」
「あんたも知らないような?」
「うん……まあ、確信はないんだけどな。ちょうどあの頃、お前とちょくちょく連絡が取れないことがあったからさ。新しい恋人でもできたのかな、とちょっと思ってたんだよなあ」
でも、その矢先にあの騒ぎだろ、すっかり忘れてたよ、とジョージは言った。
「でも……もしほんとにそんな相手がいたら、何か連絡があるはずだろ?」
「あーそっか。そうだよな」
お前がよっぽどヤバイ相手と付き合ってたんじゃなけりゃ、とジョージがおどけた。
ブラッドもつられたように笑う。
「ヤバイ相手ってなんだよ」
「それは……色々考えられるさ。たとえば、向こうが家庭持ちだったとか」
「──男だったとか?」
とっさにそう言ってしまったのは、あの夢に出てくる〈彼〉を思い出してしまったからだ。
「何、宗旨替えしてたのか?」
「いや……そんなことは」
驚くよりも、面白がっているような友人の声が、意識の上のほうを滑っていった。
〈彼〉は。
〈彼〉は……彼の声は、そう、あんなふうではなかったか?
「メリック・バイオテックに行ってたんだ」
「どこ行ってたって?」
突然の話題転換に、ジョージがコーヒーを吹き出しそうにしながら訊き返してきた。
「メリック・バイオテック」
「メリック……ああ、あのクローン体を作ってる会社? 意外だな、お前、そういうの嫌いかと思ってた」
「うん、好きじゃないけど……彼女が……いや、それはこの際、関係ないんだ」
「ふん?」
「それで、あそこの社長ってのに会ったんだけど……なんかひっかかる気がして……。もしかして、以前にあったことがあるかもしれないな、と思ってさ。その……そういう話も出てただろ」
病の痕跡をいっさい残していないブラッドの身体に、それは移植手術を受けたからではないのか、という話が出たのは本当だった。おりしもメリック・バイオテックが設立され、その話題がクールダウンする前だっただけに、そうと言われて、なるほどとうなずいた者も多かったのだ。
「あー、だっけな。でも、時期が合わなかったろ? あの会社ができたのは、お前がいなくなってから後だったはずだぜ」
「そうだっけ?」
二〇〇七年創立、とそれしか記憶にない。
「自分のことだろう」
「あの頃は色んな話聞かされたからな。いちいち覚えてられない」
「ああ、まあそれはわかるよ」
ちょっと待って、とジョージは携帯電話を取り出すと、サーチ機能でメリック社のサイトを呼び出した。会社概要のページを目で追う。
「やっぱりな、お前がいなくなったのが五月で、会社ができたのは十二月だ。無理だよ。それに、クローンを作る時間だっているだろう。レンジで三分ってわけにゃいかないんだし」
冷凍食品のような言い方に、ブラッドはそりゃそうだ、と笑った。
「ここの社長って、どんな奴?」
「え? ええと、ダークブロンドで、瞳はグリーンだった。ずいぶん整った顔してたな。黒のスーツが医者っぽくはなかったけど、よく似合ってた。あと、そうだ、手の形がすごくきれいだった」
「いやいや」
ジョージは待て待て、というふうに、顔の前で手を振った。
「女の子紹介してもらうんじゃないんだからさ。外見の特徴ばっか言われても」
そうじゃなくて、性格とかさ、と言われ、ブラッドは「あ」と間抜けた声をあげた。
「何だよ、タイプだったのか?」
「いや、まさか」
「まあ、もしもお前がそっちの世界に行っちゃっても、私はちゃんと友達でいてやるぞ」
心配すんな、と肩を叩かれても、答えようがない。
あのな、と反論しようとして、ブラッドは周囲の気配が変わったことに気がついた。
「……ジョージ」
「バレたかな?」
ちらちらと伺うような視線は、彼らが本人かどうかを確かめようとしているからだろう。
背後で誰かが椅子を引く音がし、それと同時に、二人は席を飛び出した。きゃあっ、と黄色い悲鳴があがる。
カンカンと高い音の混じる、大人数の足音に追われ、またな、と挨拶すらもそこそこに、彼らはそれぞれの方向へと駆け出した。
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