To the ends of the earth

■ 4 ■


すこし、気流の乱れが大きいようです、と出発前にフライトアテンダントから報告があった。
ああそう、と、そのときは何気もなくうなずいて、それきり忘れていたのだけれど、がたがたと小刻みに揺れる機体に、ふと目を覚ました。
ライトは落とされて、周りは静まり返っている。
ブラッドは半分ほどしか覚醒してない意識の中で、隣の気配をさぐった。
大丈夫だろうか、元々大の飛行機嫌いなのに、こんなに揺れたんじゃ、血の気が引いているかもしれない。
──そう、初めて出会ったときのように。
あのときも、あんまり青い顔をしていたものだから、つい声をかけてしまった。
深く眠れているのならいいのだけれど。
そっとブランケットの下で、相手の手を探す。うっかりと起こしたりしてしまわないように。
そうして触れた指先に、けれど、ブラッドは驚きのあまり飛び起きた。
「…………っ…………?」
ドキドキと心臓が鳴り、額に汗がにじむ。夢とうつつの境界線が、一気にクリアになった。
見下ろした隣の席では、彼の妻が平和な眠りを楽しんでいた。
──違う。
違う、とその違和感だけが、感覚として先走る。何が「違う」のかに思い至ったのは、すこし時間が経ってからだった。
彼女は、飛行機を怖がるようなことはしない。
出会ったのも、機内などではなかった。
では。
今のは誰だ?
いったい、自分は誰と出会い、誰を思い出した?
ブラッドは、まじまじと手のひらを見た。
確かに、今、自分は驚いたのだ。彼女の指の細さに。その、小ささと、柔らかさに。
自分が触れようとしたのは。
隣にある、と信じて疑わなかったのは、もっと。

(──ヘイ、あんた……大丈夫か?)
(ああ……何でもない……大丈夫だ)
(でも、真っ青だぜ? フライトアテンダント呼ぼうか?)
(いや……必要ない)
大丈夫、と何度も繰り返すのに、その顔色は色を失う一方で、このまま失神でもするんじゃないか、と本気でブラッドは心配になった。
「ちっとも大丈夫そうには見えないぜ。無理すんなよ」
なあ、と強張っている肩に手を置いた。相手は、肩の上に視線を落とし、のぞきこんでいる自分の顔を見上げてから、小声でぽつりと何かを言った。
「え? ごめん、聞き取れなかった。何?」
「その……手を」
つかんでもいいだろうか、と。
仮に、平時に、こんなことを言われたら、「いやその申し訳ないけど」と視線をそらしてしまうだろうと思う。けれど、そのとき、大して迷いもせずに、手を差し出してしまったのは、彼が、けっしてそういう意味で言ったのではなく、ただすがるものが欲しいだけだとわかったからだ。
「あー……うん、これでよければ」
どうぞ、と差し出した手は、ぎゅう、とすごい力で引き寄せられた。引きずられて身体までそちらにかしぐ。
まあ、いいけど。
「あんた……狭いところが嫌いなのか? それとも高いところが?」
二人のいるところはファーストクラスであり、通常から見れば決して狭いとは言えないだろうけれども、閉鎖された空間であるのは間違いない。
嫌いな人間には、これもずいぶん辛いことなのだろう、と想像に難くはなかった。
「た……高いところ、も、……飛行機も、嫌いだ……」
ああ、高所恐怖症のほうなのか。それでは、この乱気流は厳しいものに違いない。
そういえば、離陸前から難しい顔で黙り込んでいたけれど、あれは不機嫌だったわけではなくて、忍び寄る恐怖心と戦っていたからなのだろうか。
すでに腕ごと抱きこまれていて、うっかり他人に見られたら、絶対誤解されるに違いない体勢になっていた。まずいかな、と考えないでもなかったが、今この手を振り払うというのは、よほど酷薄な人間でなければできまい、と思う。
まあ、万一の場合でも事情を説明すれば、笑い話で終わるだろう、とブラッドは頓着しないことにした。

そうして。

「あ…………」

時間軸が急速に現在に戻る。それと同時に、バラバラになったパズルのように、記憶の断片が一気に頭の中にあふれかえった。
かみ合わない情報、組み合わない画像、つながらない時間、納まらない感情。キャパシティを越えたそれらに、脳神経が悲鳴をあげる。
声もなく、ブラッドは床に倒れた。
奔流のようなデータの中に、繰り返し現れる部品がある。彼が、見失っていた時間のコアを成しているのだと、強く訴えるように。
(知っている)
視覚で、聴覚で、触覚ですら、その人間を。
──彼、を。
そうだ、あのとき出会ったのは。
「ミスター!」
「あなた……ブラッド!」
自分を呼ぶ声を遠くに聞きながら、ブラッドの脳は、自衛のために意識を閉じた。

***

メリックがシステムを立ち上げたとたん、ネットニュースのトピックスが目に飛び込んできた。
届いたばかりの情報らしく、Newの文字を点滅させているそこには、「ブラッド・ピット、緊急入院」と短く記されている。慌てて本文に目を通したが、ヨーロッパへ向かう飛行機の中で、意識を失ったらしいことと、最寄りの空港から病院に運ばれたことを、簡潔にまとめてあるだけだった。他のニュースページも内容は似たり寄ったりで、詳細について触れているところはどこにもなかった。
無意識のうちに指先が唇をなぞる。「それ、苛ついてるときのクセ」と、何度もブラッドに笑われた。
いったい、何があったのだろう。健康な、まだ充分に若い成人男性が、いきなり意識を失うというのは、きわめて異常だと言っていい。
もしも──もしも、何かの後遺症が、二年も経った今になって出てきたと言うのなら、すぐさま対策をとらねばなるまい。
だが、どうやって?
ブラッドの主治医に渡りをつけるのは、簡単な問題だ。けれど、今度はあの時とは違う。
彼はもう、意識も記憶もおぼつかない、衰弱しきった患者ではないのだから。
うろうろと室内を歩きながら、メリックは、次第に自身の思考の中へと、のめりこんで行った。これも、考え事をするときのクセだと、ブラッドは笑っていた。その方が、よくまとまるのだと、何度か反論し、実際にそれは事実であるとメリックは思っている。しかし、今回ばかりは、事態は彼の脳内よりも早く、そして予想外の方向への展開を見せた。
秘書からのコールを知らせるやわらかな和音に、メリックはようやく現実へと引き戻された。緊急以外には呼び出すなと言い置いてある以上、何か重要なことが起きたに違いない。
「何だ?」
「あの、サー、それが、どうしてもお会いしたいと、ミスター・ピットが……」
「何?」
誰だって、と聞き返すより先に、ディスプレイの半分が割り込み通話に切り替わった。
「ハイ、ドクター。またアポイントなしで悪いんだけど。どうしてもあんたに会いたいんだ。ドアを開けてくれるように、アシスタントの彼女に言ってくれないか?」
「………………」
そこに映っていたのは、たしかに彼で、見たところ、外傷があるふうでもなく、顔色も悪くはない。ただ、その口角は、何かの決意を示すように、固く結ばれていた。
もう、顔を会わせてはいけない、と、あんなにも切実に心を決めたのは、ほんの数日前のことであるというのに。
まるで、そんな気配を察することもしないで。
まるで、そんな決意を知りえたかのように。
なんてタイミングだ、とメリックは心の中で盛大に息をついた。
「──どうぞ、ミスター。中へ」

 
2009.6.15再録