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コーヒーを運んできた秘書に、今日はもう上がってもいい、と告げた。自分の職務を完璧に心得ている彼女ですら、突然の来客には、好奇心を抑えきれない様子だったからだ。
もっとも、彼の行動の不可解さについては、メリックも彼女とさして変わらない。
いったい何の用なのか、と目の前に座るハリウッド・スターに目を向けた。
「──それで、ミスター・ピット、今日は一体、どんな……? 入院されたと、ニュースには」
「その日のうちに退院したよ。もともと入院するような騒ぎじゃなかったんだ」
「そう、ですか」
大いに戸惑いを浮かべながら、それでもメリックはゆっくりと微笑んだ。
「それは良かった。でも、念のために、検査はきちんと受けられるほうがいいでしょう。何と言っても、あなたには心配してくれる家族も、大勢のファンもいらっしゃるんですから……」
「あんたも?」
「え?」
くつろいだふうに、膝の上で指を組み、ブラッドはすこし見上げるような角度で、メリックを見た。
こんな顔を、何度か見たことがある。甘えを含んだ表情の裏で、牙を剥くタイミングを計っている、動物のような。
息の根を止めるためではなく、けれども、充分に危険な空気をはらんでいる。
「あんたも、俺を心配してくれる? ドクター」
「私、が──?」
「してくれるよな、『ヘンリー』」
「!」
メリックの瞳が大きく開かれ、驚きに息を飲む音が聞こえた。手元のコーヒーカップが倒れる。まだ熱を持った中身が、テーブルを伝ってじゅうたんに染みを作ったけれども、どちらも、そんなことにかまってはいなかった。
とっさに立ち上がろうとした手をつかまれる。
目の前には、もう誤解のしようもない明確な意思を持った、ブラッドの顔があった。
「ミスタ……」
「思い出した。──思い出したんだ、ヘンリー。まだ、何もかも、じゃない。でも、一番大事なことを」
一番、大事だったひとのことを。
──ヘンリー……メリック。
「あ……」
嫌だ、と何かに抵抗するように、メリックが首を振る。後じさろうとした身体を、強い力で引きとめた。
「ミスター……っ」
「そんなふうに呼ぶな! そんな名前で……!」
まるで知らない人間であるかのように。
お前になど会ったこともない、と主張するように。
「…………どう……して……」
「どうして? それは俺の質問だ、ヘンリー。どうしてあんたは、俺を捨てた? 何で、何も知らせなかった! どうして、赤の他人を見るような顔をしたんだ!」
つながった記憶は、堰を切った水のように、何もかもをひとまとめにして、ブラッドの頭の中へ逆流してきた。
ドメスティックなのか、ドラマティックなのかわからない出会いは、自分の好奇心を刺激するには充分で、飛行機が無事に着陸する前には、醜態をさらしたことに不機嫌になっている相手と、もう一度会う約束を取り付けていた。
どうして私が君と、という疑問をあからさまにしながらも、強く出るには、引け目があったのだろう。それとも、案外と義理堅いたちなのかも知れない。
不承不承の二度目は、渋々ながらの三度目の待ち合わせへと続き、それが四度五度になると、いいかげん、お互いに、自分の本音を考えざるを得なくなった。
友達ならたくさん。大きな声では言えないけれども、その夜だけを楽しく過ごすための相手だって、その気になれば不自由はない。
仕事なら山ほど。研究すべきことがらは、後から後から生まれてきて、一日が24時間ではとても足りない、と思うこともある。
それなのに、どうしてわざわざ時間を作って、と、結局その答えが出たのは、それからまだ、もうすこし後のことだった。
通常のようにはいかない、やっかいで面倒な関係を、それでもあえて受け入れた理由が、ちゃんとあったはずなのに。
何故自分たちは、今さらながらに、こんなふうなすれ違いを演じなくてはならないのか。
理由を話せよ、と強い瞳にうながされ、同じくらい強い力でつかまれた手首に目をやり、メリックは、もうどこにも逃げ場はないのだと思い知った。
***
「もっと……どうして、もっと早く気づかなかったのか、と、そう思った」
倒れたカップを助け起こしながら、メリックは自身に言い聞かせるような声でそう言った。
視線の先には、コーヒー色に染まったじゅうたんがあって、けれども、彼が気にしているのは、染みの濃さでも広さでもないのだと知っている。
ブラッドは、彼の隣に座り、じっとその横顔を見ていた。
「検査を受けるように、とすすめた時には、もう、遅すぎて」
そうと知れたとき、メリックが憎悪を向けた先は、神などではなく、自分自身に対してだった。たしかに、ひんぱんに、と言うには、顔を会わせるインターバルは長かったけれども、それでも、医者たる自分が、身近な人間の身体の変調に、こうまで疎いとは。
「若いだけにね……転移があまりに早くて、もう、通常の手段では間に合わなかったんだ」
免疫療法はもちろん、外科療法とても、効果が期待できるのはあくまで初期段階においてだ。各所に転移を始めてしまっては、残された選択肢は、あまりにも少ない。
「もっとも、君にはクローン体があった。それは覚えてるかい?」
「ああ。まあ、俺は検査を受けただけで、そのクローン体ってのは見てないけど」
当時、メリック・バイオテック社はまだ設立されていなかったけれども、その前施設としてのラボは機能しており、最終実験を兼ねたクローン生成も行われていた。
その中にブラッドの個体があったのは、利用目的があったからではなく、おおむねにおいて、実験協力のためだった。
「臓器移植をしよう、と私は言った。そのためのクローン体だ。当然だろう? ただ、問題だったのは、それがまだ完成体ではなかったことだ。あの頃はまだ、一体を育成させるのに、十八ヶ月必要だったから」
クローンの成長速度と、癌の進行速度では、どう遅らせたところで、ぎりぎりの計算になる。だからといって、未完成なクローン体を取り上げても意味がないのだ。
「怖かった。毎日、君の身体がむしばまれていくのに、私にはどうすることもできないんだ。あんなにも、自分を無力だと思ったのは、後にも先にも……あの時期だけだ」
そうして、どんな祈りも、届きはしないのだと知ったのも。
「ま──間に合わなかったんだ」
組んだ両手の上に額を乗せ、メリックはふりしぼるように言った。
「間に合わなかった。君の、身体は、もう」
大規模な手術に耐えられるような状態ではなかった。
「間に合わなかった?」
でも、自分はたしかにここに生きているのに。
以前からの記憶を、ちゃんと持ったままで、だ。
どうして、と問えば、メリックは震える息を吐き出した。
「聞けば──君は後悔するかもしれない」
「しないよ」
後悔など、するはずもない。こんなにも彼が、悩んで、迷った末の決断であろうと言うのに。
しないよ、ともう一度言って、励ますように、祈りの形に組まれた手を握った。
「大丈夫だ。聞かせて」
「私は……最後の手段を選ばざるをえなかった。移植するのは臓器じゃない。──脳だ」
オリジナルの脳を、クローンの身体、に。
「脳……そんなことが……?」
さすがに驚いて、ブラッドは自分の頭に手をやった。この身体が、丸ごと、新しく作られたものだなんて。
「成功の可能性は高くはなかった。それでも、私は……」
耐えられなかった。彼を、失うことに。
世界中のどこを探しても、彼の姿を見つけられないだろう、その未来に。
そのためなら、どんな手段をも厭おうとは思わなかった。
癌細胞が脳に達してしまっては、もう取り返しがつかない。〈生まれた〉ばかりの彼のクローン体は、初期教育さえ受けないままに、手術台へと運ばれた。
「手術は、成功した。……君が意識を取り戻したときの、あの私の気持ちがわかるかい? 君を、失わずにすんだ、その気持ちが」
「だったら、何故」
自分を忘れたふりをした、と、そう訊ねたブラッドの口調は、恨みがましいものではなかった。ただ、事実を事実として知りたいだけだ。
「最初は、なかなか上手くいかなかった。君は、言葉をしゃべることもできなかったし、身体を意思どおりに動かすのも難しいようだった。でも、私たちは心配はしなかった。リハビリをすれば、神経はやがて正しくつながるだろう、と思っていたからね。そうすれば、元通りの身体になるだろう、と。予想外だったのは、記憶の混乱と欠落が、思ったより長期間にわたっていたことだ」
おおよそ一年。
それはブラッドがメリックと出会い、惹かれ、人目を忍ぶようにして出会う関係になるまでの時間とほぼ完全に一致していた。
「私は、運命論者ではない。すくなくとも、そのつもりでいる。でも」
新しい身体で生まれ変わったブラッドは、あまりにもきれいに、自分のことだけを忘れていた。まるでそれは、彼の意志によるものだ、と思いたくなるほど暗示的で。
「それなら、そのほうが……君にとって、いいだろうと考えたんだ。だって、そうだろう?」
いくつものリスクを抱え込まねばならない自分との関係よりも、もっと惑うことのない相手が、いくらでもいる。
「俺の気持ちは? 俺がどう思うかは無視なのか?」
「ひとの……心を、計測する装置はないだろう。単位も。だから、私は……私には」
わからないんだ、ブラッド、と果敢ない子どものように、メリックはぽつりと言った。
本気で途方にくれている恋人に、ブラッドはああ、とため息をついた。この賢い科学者は、あんなにも繰り返して伝えた言葉を、すこしも信じてくれてはいないのだろうか。
「……まあいいや。じゃあ、あんたにもわかる方法で伝えることにするよ」
「え? あ」
突然腕を引かれて、メリックはとまどいながらも、ソファから立ち上がった。そのまま、部屋の奥へと足を向ける。そうして、一見何の変哲もなさそうな壁の前に立ち、ブラッドはにやりと笑うと「開けて」とメリックを振り返った。
「ブラッド……」
「言ったろ、『思い出した』って。こっから先はあんたのプライベートエリアだったよな、ヘンリー?」 |