To the ends of the earth

■ Epilogue ■


崩壊する建物から逃れ、生まれて初めて陽の光を浴び、砂地を踏み、風を感じ、そうしてまろびゆく人々の中に、ジョーダンを見つけた。
引きあうように腕を伸ばし、まるで当然のように、唇を合わせる。
言葉でなく、触れ合うことで通じるものもあるのだと、そう知ったのは、ついここ数日の話だ。強く抱きしめあってお互いの温もりを愛おしんだ。
「……リンカーン!」
「うん、何?」
「怪我をしてるわ!」
ジョーダンが、自分の手のひらを見て、驚いたように叫んだ。白い彼女の手を汚しているのは、リンカーン自身の血だ。
「ああ……そうか、忘れてたよ」
「大丈夫なの? 深くはないの?」
「平気だよ。どうってことないんだ」
鋭くはあったけれども、深くはない。ワイヤーのついたボウガンは、相手を殺傷するためではなく、捕獲するための器具だからだ。
彼は──メリックは、いったい何故あの武器を選んだのだろう。
他に、もっと、確実にリンカーンを殺すための凶器は、いくらでもあったはずなのに。
「リンカーン。何があったの? ねえ?」
「ジョーダン……ごめんよ。俺は……」
俺は、彼を──サー・メリックを、殺せなかったよ。

殺した、と思った。後悔はなかった。自分の身を守るため、みんなを守るため、けれどそんな理屈は理性の奥のほうに追いやられたままで、あるのは、生死をかけた戦いに勝った、という原始的な達成感がほとんどだ。
からんだワイヤーを伝って、橋骨まで登りきったとき、一人の男が駆けて来るのが見えた。
一瞬ぎくりとしたのは、彼が黒っぽい服を着ていたからで、けれど近づくにつれ、それは監視員のトラックスーツとは異なったものであるのがわかった。
「ヘンリー!」
彼は、まるきりリンカーンのことなど見えてないふうで、かしいだ橋げたから身を乗り出した。
「ヘンリー!」
ヘンリー、と何度も叫びながら、彼は、メリックにつながったワイヤーに手をかけた。
Help me! てつだってくれ
助けて、と。
この施設を出てから、何度も口にした。
マックに。
トム・リンカーンに。
ビルの壁から落下したときは、名前も知らなかった『神』に願った。
不承不承ながらだったマックは、けれど、最後に二人に「逃げろ!」と叫んでくれた。自分の命と引き換えにして。
わかったよ、とあっさり引き受けてくれたトムは──リンカーンのオリジナルは──、自分の保険を手放すつもりなど初めからなかった。
願いを無視するという神は、何の気まぐれか、二人の命を助けてくれた。
けれど、「助けて欲しい」と懇願されたのは、〈生まれて〉初めての体験だ。
このまま逃げろ、と本能は告げていた。
ここは危険だ。ひっきりなしに足場は揺れ、壁や天井が崩れていくけたたましい音が四方から聞こえる。
けれど、本能よりも、もっと強い衝動がリンカーンの足を動かした。
のろのろと彼の隣に並び、腕を伸ばす。
細いワイヤーは、強度は充分だったけれども、素手で取り扱うのには向いていない。摩擦で裂けた手のひらから、血がしたたっていると言うのに、男は痛みも何も感じてはいないようだった。
「ヘンリー」
間の抜けたことに。
彼の呼ぶ「ヘンリー」が、メリックである、という事実に、リンカーンはやっと気がついた。そうして、同時に、メリックのファーストネームを初めて知ったのだと言うことにも。
二人ががかりでようやく引き上げた身体は、しかし、死の影を色濃くまとっているように見えた。
男が、震える手で、喉元にくいこんだ鉄の矢を、慎重に引き抜く。溢れた血の赤さに、リンカーンは目をそらした。慌しく首筋をたどって脈拍を探り、口元で呼吸の有無を確かめる。上下しない胸は、もはや肺が活動していないことを示していた。
やはり、自分が殺したのだ、リンカーンは思う。けれど、さっきまでの満ち足りた興奮は、どこかへ行ってしまった。代わりに胸をふさぐのは、後味の悪いような、居心地のよくない、重苦しい気持ちだけだ。
罪悪感と言う言葉を、リンカーンはまだ知らなかった。
男は、メリックの首を後ろから支えるようにして、深く、唇を合わせた。それは、昨日、リンカーンが初めて覚えた行為に似ていたけれども、自分たちは、あんなふうに、深く息を吹き込むことはしなかった。もっと、そう、奪うように吸ったり、舌を合わせたり、そんな。
彼のやっていることは、まるで。生命を、移し替えようとしているみたいだと思う。
そうやって、彼は何度も何度も、メリックに口付けた。
「ヘンリー」
プリーズ、とメリックの頬をなぞる。彼自身の血が、色のない肌に緋色の線を描いた。
「返すから。あんたにもらったものは、手でも脚でも肺でも、心臓でも、ぜんぶ返すから……」
どうせあんたにもらった生命なんだから、と男は言った。
何もかも返すから、目を開けてくれ、と、ただひたすらに懇願した。
「な……」
何でだよ! とリンカーンはわめいた。
「誰にもらったって、あんたの命はあんたのもんだろう! 人間は、生きるためなら何でもするんだろう!」
リンカーンにとって、生命は「奪う」か「奪われる」ものだった。少なくとも、ここ数日で学習したのは、間違いなく、そういうことだ。
けれども、見知らぬ男は青い顔のまま、静かにリンカーンを見上げた。
「あんたにだって、大事な人間はいるだろう? 自分の生命と引き換えにしてもいいと思うような」
当然のように言われて、リンカーンは混乱した。「与える」こともあるのだろうか。
自分の生命よりも大切な存在がある、などと、そんなことが。
──ジョーダン。
たとえば、自分にとっての彼女が、目の前の男にとっての、メリックなのだろうか? 自分が、ジョーダンをかけがえのない存在だと思うように、彼は──メリックを?
「………っ、………」
ひゅ、と空気が鳴った。
その音の源に気付くよりも先に、投げ出されていたメリックの手が、空をかいたのが見えた。
「ヘンリー……!」
男の声が歓喜に満ちる。
メリックのまつげがゆっくりと開いた。虹彩が急速に焦点を結び、彼の意識が覚醒したのが見て取れた。
「……、ぁ………」
「シ、ダメだ、ヘンリー。静かに」
声を出すな、と口をふさがれ、状況を知ろうとするように、メリックの瞳が左右に揺れる。
そうして、当然のように、出会う、視線。
「……サー……」
こんなとき、ひとは、いったいどんな顔をすればいいのだろうか。
けれど、困惑するリンカーンとは裏腹に、メリックの表情には、怒りも憎しみも蔑みもなく、ただ、初めて出会った存在を見るかのような静けさだけをたたえていた。
人工的に生み出された、仮初めの生命のはずだった。
けれど、彼らはメリックの予測を超え、新しい可能性を持った。
否、彼らの持つ可能性こそ、が。
擬似生命 フェイク ではないという証明ではないのか。
それは、あるいは、彼が望んだとおりに──彼の望んだ形ではなかったにせよ──〈神〉になりえた瞬間だったのかもしれない。
それを、壊してしまったのも、また、彼自身だったけれども。
メリックの指がゆっくりと持ち上がった。
向けられた指先は、リンカーンではなく、その後ろへ続く通路へと向いていた。
行け、と。
それがどんな感情に基づいているものなのかを知るには、リンカーンの感情はあまりに未発達であり、判断材料にすべき経験もとぼしかった。
二歩、三歩と後ずさり、リンカーンは、思い切ったように二人に背を向けた。
低い地響きが聞こえ、壊れた建材の欠片やほこり、水が落ちてくる中を、全力で走り抜ける。
早く、ジョーダンに会いたいと、強く思った。

***

崩壊した施設の中から、ヘンリー・メリックの遺体は見つからなかった。
あの建物の損壊具合では、それも無理はないと思われたようだ、と、ローランがひそかに知らせてくれた。
あの時、リンカーンがであった男が「ブラッド・ピット」という、有名な俳優だということを知ったのは、それから後のことだ。
各界の著名人はもとより、国防省までを巻き込んだ一大スキャンダルに、世間は騒然と沸き返っており、リンカーンとジョーダンは、ボートに乗り、各地を転々としていた。そんな放浪の中、ふと手にとった雑誌の表紙に「彼」が映っていた。
彼のプロフィールに触れたページで、二〇〇七年、彼が病に倒れ、絶望的だと言われながらも一年後に復活を果たし、奇蹟だと言われたのだと、そう記してあった。
二〇〇七年といえば、メリック・バイオテック社が創立されたのと同じ年だ。
つまり彼は、ごく初期のメリック社の顧客だったと言うことなのだろう。
顧客の機密保持は完璧で、すでに「使用」されたクローン体に、いったいどういう人物がいたのかはまったく不明であり、当然、「ブラッド・ピット」のクローンが生成されたのかどうかを知っているものもいない。
彼は、リンカーンたちが辿るかも知れなかった、もう一つの未来だ。
〈オリジナル〉のための、〈代替部品〉。
彼のために用意されたクローンには、心があったのかどうかはわからない。研究当初は、本当に植物状態のままのクローンが使われていた、と、そういう話になっているからだ。
いずれにせよ、彼はクローンの肉体を使って生き延び、そうして。
与えられた生命で、あんなにも深く、メリックを愛していて。
ひとつの生命が彼のために遣われて、けれど、だからこそ、彼は、ひとつの生命を救った。
どちらが正しいのか。
誰が間違っているのか。
生命の価値は、すべてが等価なのか。
いくら考えても、リンカーンにはわからなかった。
もしかしたら、それを判断できる人間はこの世にはいないのかも知れず、それを委ねる相手を『神』と呼ぶのかも知れない、と思う。
あれから、リンカーンは、多くのことを学んだ。あの逃亡劇の中で自分のしたこと、知らずにとは言え、犯した罪の重さも知った。あのときの自分たちは、獣のようだったと思う。
後悔はしている。罪深さにおののきもした。
苛まれ、眠れぬ夜をいくつも越えて、贖罪の方法を、今も探している。
そうしたとき、リンカーンはいつも、赦しなど欲していないに違いないひとを思った。

ブラッドは、事件のしばらく後で、ショービズ界から引退し、人々の前から姿を消した。
イギリスにいる、とか、南仏にいる、という噂は何度も流れたけれど、以降、一切公の場に現れることはなかったから、本当のところはわからない。
ただ、きっと彼は一人ではない、とリンカーンは思う。
彼の側には、あのひとがいるのだろう。
幸せであるのかどうかはわからない。それを願う気持ちが、自分にあるのか、もだ。

ただ、それでもこの先きっと。
〈アイランド〉に似た島を見つければ、自分は、彼らのことを思いだすのだろう。
あんなものが、と憎みもし、同時に憧れてやまなかった、あの、青い海の上に浮かぶ、鮮やかな緑の島を。


【END】
 
2009.6.15再録