〈1〉
「……う……っ」
堪え切れずにあげた苦痛の声は、堅固な岩の壁にはね返り、柔らかい絹の敷布に吸い込まれた。滑らかな手触りのそれは、千切れよとばかりに強く握り締められて、いくつもの皺を刻んでいる。
汗とも涙ともつかない水滴が、ぽたりと丸く染みを作った。
獣のように後ろから攻め立てられながら、男は懸命に歯を食いしばっていた。
「声を出せ、オデュッセウス」
残酷な歓びを滲ませて、アガメムノンはそう命じた。
嫌だ、というように、茶色の髪が左右に揺れる。その度に、ぱらぱらと毛先から雫がこぼれた。この寝台にイタケの王を引き入れてから、随分と長い時間が経ったのだ、とアガメムノンは気付いた。
だからといって、まだ解放する気はない。
ミュケナイの王にして、ギリシャの霸王を目指す男は、数年前に「献上品」として手に入れ、今日久々に触れた身体を隅々まで味わい尽くすつもりだった。
脅迫と屈辱の中で繰り返された行為と、無理矢理に飲ませた媚薬のせいで、身体はすっかり熟れきっているのに、最後の最後まで理性にしがみつくこの男が、アガメムノンは気に入っている。
正確には、そうすることで、彼が自らの誇りを傷つけていく様を見るのが好きだった。
知将と名高いイタケの王、オデュッセウス。
けれど、こういった駆け引きに関しては愚かだとアガメムノンは思った。
早々に理性を手放し、腰を振って見せればいいのだ。
オデュッセウスは、容姿も声も、そして身体も魅力的な男ではあったが──アガメムノンが最初に彼を求めたのも、それが要因だった──それでも、もっと美しい人間はいるし、自ら身体を開いてアガメムノンを愉しませてくれる相手も、いくらでもいた。
そうした者たちと同じように、オデュッセウスが進んで身体を差し出せば、アガメムノンの興はあっさりと冷めてしまっただろう。
来いと言われればためらいを見せ、触れ合うことに慣れず、閨房でのアガメムノンの要求の一つ一つに隠しきれない嫌悪の表情を見せる。身体も心も傷つけられながら、それでも己が矜恃には触れさせまいとするオデュッセウスの行為こそがアガメムノンを楽しませているのだと、何故わからないのか。
──否、分かっているのだ。
アガメムノンは冷たい笑みを浮かべた。
そうと分かっていても、どうすることができずにいる。
そして、
国民
を質に取られている以上、進んで身を滅ぼす道も選べず、こうやって顔を合わせるたびに、アガメムノンの寝室に閉込められるようにして夜を過ごすのだ。
「……あ……っ」
オデュッセウスが掠れた悲鳴を上げた。内部に押し込まれたアガメムノンが、オデュッセウスの快楽を捕らえた。じりじりと追い上げられて、彼を責め苛んだ苦痛は、同じ大きさの快感へとすり替わっていく。
わざとらしく、揺すっていた腰を止めて、アガメムノンはオデュッセウスを見下ろした。
「あ……あ……っ、……は、あ……」
身体を支える腕が細かく震えて、彼が快楽に耐えようとしているのが見てとれる。性奴隷のように扱われて、身体はすっかり馴染まされているのに、自ら求めることだけはするまい、と固く決意しているらしかった。
無駄なことを、と思うが、それが見たくてこの男を抱くのだから、責めることはせず、ただ、オデュッセウスが堕ちるのを待った。
「あ、あ……っ、や……あ、う……っ……」
男は女よりも快楽に弱い。
例え、どれほど強固な意志を誇っていても、最終的には下半身に支配される。
持ち主よりも従順なオデュッセウスの身体は、一杯に飲み込まされたものをより深く取り込もうとして、びくびくと蠢いた。アガメムノンはにやりと笑うと、オデュッセウスの耳元に毒を吹き込んだ。
「欲しいだろう、オデュッセウス?」
「あ……っ、ち、が……っ!」
「欲しいと言え。──それとも、自分でするか? 見ていてやるぞ」
「う……い、や……だ……っ」
布が裂けるほどに握り締めた拳も、身体を駆け抜ける甘い刺激を忘れさせる役には立たない。
どれほど頑なな態度をとったところで、結局、いつも最後には打ちのめされるようにして、相手の望む通りにさせられるのに。
むしろ、相手を拒否すればするほど、アガメムノンは面白がってオデュッセウスを辱めようとする。
そのことはオデュッセウス自身もわかっていたが、だからといって、自分から足を開き、情けを乞うような真似はしたくなかった。
とうに地にまみれた誇りがいかほどか、と思いながらも、それ以外にすがれるものなど、もう自分には残されてはいないのだ。
しかし、彼を欲し、彼を組み敷いている相手は、そんなささやかな願いすらも赦そうとはしなかった。
「オデュッセウス」
「……い……や……」
「オデュッセウス」
「……嫌、だ……もう……っ……や、め……っ」
どこまでも強情をはるオデュッセウスに、アガメムノンは頬を引きつらせた。怒りのままにその髪をつかむと、寝台に押しつける。
「うあ……っ」
「イタケの王よ、あまり儂を怒らせるな。儂は気の長い方ではないのだ。御身の咎への罰は、御身が背負うのではないのだぞ」
オデュッセウスを現実に引きずり戻し、己の立場を思い出させるために、どこまでもわざとらしく優しい声音で囁く。びくりと相手の背が強ばるのを見て、アガメムノンは満足気な笑いを漏らした。
「こっちを向け、オデュッセウス」
ゆるゆると首をひねって、オデュッセウスが横顔を晒した。乱れた髪の間から覗く緑の瞳は、諦めと涙に彩られてなお、鮮やかな色を放っていた。
「さあ、どうする? お前が決めるがいい」
お前の運命と、国の運命を。
鼠をいたぶる猫のように、そうやって、何度も何度も選択の余地などない答えを強要する。
粗い息を吐きながら、オデュッセウスは乾いた唇を舐めた。そうしたところで、口にしたくない言葉が勝手に滑り出してくるわけではないと知ってはいたが。
「──ミュケナイ王の、慈悲、を……」
言葉が終わるか終わらないうちに、力任せに突き上げられて、オデュッセウスは悲鳴を上げた。
広げさせられた脚の間に、アガメムノンの身体が押しつけられる。
「あ………あ……っ」
暴力に近い行為を快楽だととらえる自分の身体をおぞましく思いながらも、オデュッセウスは、全ての思考を放棄し、ただ征服者の望む通りに嬌声を上げ続けた。
***
──黄金色の鳥の夢を見ていた。
吉兆だろうか。
ぽかりと目を開けて、オデュッセウスはぼんやりとそんなことを思った。誰のための、何のための兆しかまでは考えなかった。
窓から見える空は、とうに明るい。
いいように責め苛まれた彼が解放されたのは、深更から夜明けへ向かう頃だった。何度も意識を飛ばしては引き起こされ、このまま責め殺されるのではないかと半ば恐れながら、アガメムノンの果てしない欲望が果てるのをただ待ち望んでいた。
とりあえず、殺されることはなかったし、明日からは軍議が始まる。
自己顕示欲と権力欲の塊のような霸王は、戦と、戦に勝利することを何よりも重要なことだと考えていたから、褥ではなく、戦場でのオデュッセウスをも必要としていた。ゆえに、戦の準備が始まってしまえば、当面は無体を強いて来ることはない。
戦が始まることに安堵を覚えるとは、と自嘲気味に考えながら、襤褸布のような身体を寝台から引きはがして、オデュッセウスは何とか上半身を起こした。下半身が鉛を詰められたように重く、指の先までがだるい。
それでも、身体は綺麗に清められ、敷布も夜着も新しくなっていた。
アガメムノンに仕える奴隷の仕業だ。
初めの頃は羞恥のあまりに、そんなことは命じてくれるなと懇願したが、そうすることが霸王の嗜虐心を煽るのだと知って、慣れたふりをするようになった。
──何も考えてはいけない。
そう自分に言い聞かせて、オデュッセウスは感情の波を強く押し込めて、固く封をした。
自分のことも、相手のことも、国民のことも、歓びも哀しみも苦痛も快楽も、何も。
何かひとつでも思い起こせば、それは呼び水となり、オデュッセウスの感情を揺り起こし、今すぐ大声でわめき立てて泣き叫んでしまうだろう。
何でもないことだ、と思うことすら危険だった。それが強がりであると、誰より知っているのは自分なのだから。
ただ、身体が楽になるのを待ち、身なりを整えたら、この部屋を出ていく。それきり、ここのことは思いださない。
次にアガメムノンが彼を呼びつけるまでは。
強制的に繰り返された情事の中で、かろうじてオデュッセウスが学んだ自己防衛の術だった。
かしぎそうになる身体を何とか支え、ゆるゆると脚を伸ばす。石の床の冷たさが足の裏に心地よかった。
立てるだろうか、といぶかったところで、扉の向こうで人の争う声がした。
怒鳴り合う声と、武具の触れ合う金属音がする。
いけません、と制止の声がするのはアガメムノンの衛士だろうか。しかし、彼らには侵入者を押しとどめることはできないらしく、騒ぎはどんどんと近づいて来る。
謎の人物の目的がこの部屋だとオデュッセウスが気付くよりも早く、扉を叩きつけるようにして、一人の男が飛び込んできた。
「…………」
一目で戦士と分かる、見事に鍛え上げられた体躯。縄を捩りあわせたような逞しい腕、力強く長い足、鋭い眼光、鮮やかな金色の髪、溢れんばかりの生命のオーラ。
自分の置かれた状況も忘れ、オデュッセウスは男に見とれた。
まるで太陽神そのもののような男だ。
「アガメムノン!」
よほど頭に血が上っているのか、薄暗い寝台にいるオデュッセウスには気付かなかったらしく、男はよく響く声でアガメムノンを呼んだ。
「この薄汚い卑怯者の王め! 隠れてないで出て来い! でないとお前の首を切り落として城門へ据えてやる!」
アガメムノンが聞いていたら烈火のごとく怒り、相手の首をこそ落しそうな暴言を吐いて、男は手近の卓を蹴り付けた。
重厚な作りの卓が賑やかな音を立てて倒れ、どこからかの献上品に違いない酒の壷が粉々に砕け散った。
恐ろしいほどの膂力だ。
陶器の割れる音が彼の理性を呼び覚ましたのか、すこしは気が済んだのか、男は粗く息をしながらも、怒鳴るのをやめて周りを見回した。
「あ……」
身を隠す場所などないのに、オデュッセウスは、相手が自分を見たときに少し驚いた。眼前の男はあまりに人間離れしていて、どこか現実感が薄かったからかもしれない。
獅子のような目がオデュッセウスを捕らえる。いぶかしげに寄せられた眉に、オデュッセウスは自分の姿を思いだした。
アガメムノンの寝室で、寝台の上で、夜着一枚だけを身につけて座っている男。
どう見ても自分はアガメムノンの情事の相手だとわかった違いなく、そのことがイタケの王に一気に羞恥心を思い出させた。
とっさに後じさろうとして、けれども次の瞬間、腰から頭へと突き抜けるような痛みを感じ、うめき声をあげる。
久しぶりの激しい性行為は、オデュッセウスの身体に多大な負担を与えていた。
ゆっくりと呼吸を整え、ただ痛みが去るのを待つ。
男がどんな表情で自分を見ているのかを知りたくなくて、下を向いた。
「──アガメムノンはいないのか」
どうやら相手は、オデュッセウスをアガメムノンの男妾の一人だと思ったらしかった。
何の感情もこもらない声でそう問われ、オデュッセウスは黙ってうなずく。
「ふん。逃げ出したんじゃあるまいな」
傲慢にそう言って、男は背を向けたらしかった。
オデュッセウスはそろそろと視線を上げて、男の後ろ姿を見つめた。
一体、この男は誰だろう?
誰もがその力を恐れるミュケナイの王に、こんな狼藉を働いて、暴言を吐けるような人間を、オデュッセウスは知らなかった。
アカイアの人間だということは確からしいが、だったらなおさら、アガメムノンには逆らうことはしないはずなのに。
「──おい」
出ていくとばかり思っていた男が、もう一度振り向いた。顔を逸らせるタイミングを逃し、相手の真直ぐな視線と正面からぶつかった。
青い、空のような瞳の色。
やはり太陽神のようだとオデュッセウスはもう一度思った。
「誰か呼ぶか?」
それは、身体を動かすのも辛いオデュッセウスへの気遣いらしかった。
まだ年若い──少年期を抜け、やっと青年期へと達したばかり、というくらいの──彼にすらわかるほど自分の憔悴はひどいのか、と思うと、不意に笑いだしたい衝動にかられる。
その自虐の衝動をかろうじて理性で封じ込んで、オデュッセウスは頭を振った。
「そうか」
それきり、相手は興味を失ったらしく、大股で部屋を出て行った。
廊下のあたりで、またぞろ衛士たちと一悶着おこしているらしい声が聞こえる。
まるで竜巻の如き男だ──と思った。
遠くない未来に、その竜巻が自分を搦め捕って暴風の中へ巻き込んでゆく、などということは、さすがの知恵者にも分かりはしなかったのである。
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