光射す海の いろ 2
〈2〉

宴は、和やかに賑やかに──少なくとも表面上は──行われていた。
ギリシアの半分を手中に収めた王は、その権力を見せつけるように、豪奢な器に溢れんばかりの食物を乗せ、香り高い酒を壷一杯に満たさせ、美しく着飾った女達をふんだんに用意した。
それが、自分の国からの貢ぎ物で成り立っていると知っている諸王の中には、複雑な表情を浮かべるものもいたが、多くの者は、飴色に焼き上がった豚や汁気の多い果物、まろやかな酒、そして妖艶な笑みを浮かべる妓のもてなしに満足げな笑みを浮かべた。
(これでは、明日の軍議はさぞや熱のこもらないものになるだろうな)
死んだような目をして、酒臭い息を吐くであろう彼らとの同席を想像して、オデュッセウスは内心で眉を寄せた。もっとも、彼らの大半はその知恵や武勇を期待されているわけではない。本人達がどう考えているかは知らないが、大概は頭数合わせの飾り物だ。
ついでに、アガメムノンの自意識を満足させるため、という意味が少し。
目的を撰ぶのはアガメムノンであり、その手段を考えるのはオデュッセウスや、ミュケナイの賢者・ネストルであり、実際に戦うのは兵士たちだ。
まとわりつく女を片手でいなして、オデュッセウスは上座で機嫌よく笑っているミュケナイ王から隠れるようにさざめきに紛れた。
すべてに過剰な華美を好むアガメムノンは、灯火数も惜しまず、この部屋はまるで真昼のごとき明るさだったが、それでも全ての闇を追い払うというわけにはいかない。
人いきれを避けたオデュッセウスは、ゆらゆらと揺れる炎の向こう、薄闇になった壁際に、すくりと立った人影を見つけた。
酒も女も拒むように両腕を組んで、見るからに不機嫌な表情で床を踏みしめているその姿は。
「あ……」
「え?」
再会の驚きは、オデュッセウスの方が少なかっただろう。
おそらく今日この場で顔を合わせるのではないか、と覚悟していたからだ。
朝方、アガメムノンの寝室で顔を合わせた太陽神のような、あの男。
オデュッセウスは既に、相手の正体を知っていた。

部下たちの元へ戻り、冷静さを取り戻してみれば、ギリシア軍の誇る知性は正しく活動を始めた。
アガメムノンへの態度や、あの鋼のような体躯から考えれば、彼の正体をつかむことなど簡単なことだったのだ。
先の戦で目覚ましい武勇を残し、その勇猛さ、鮮やかさゆえに「女神の息子」とまで言わしめた孤高の戦士。そして、同時にその傍若無人さと傲岸不遜な態度で王達の眉をしかめさせた男。
今、ミュケナイの地で、アガメムノンの居城で、主を声高に罵れる男がいるとするなら、この男を除いてはいなかったのだ。
── 人形 ひとがた をした獣。
怒れる 黄金 きん の獅子──アキレス。
まったく、あの時あの場で気付かなかった方がどうかしている。

オデュッセウスに比べれば、アキレスの混乱はもっと大きかったはずだ。
今日ここにいるのは、アカイオスの中でも、高い地位にいるか、重要な役目を与えられた者だけである。まさか、アガメムノンの寝台で見た男に、こんな場で会うと思わなかったに違いない。
「怒っている」と表情どころか全身に書いて、ひどくふてくされた態度で部屋の片隅に立っていたアキレスだったが、オデュッセウスの姿を見つけて、瞬時怒りを忘れたらしかった。
「お前……いや、あんたは……」
「おや、こんなところにおられたか」
背後からのた声に、オデュッセウスは振り返った。
「ネストル殿」
アガメムノンの参謀、ネストルが目敏く二人を見つけて寄って来た。ゴブレットを手にしてはいるが、その表情に酒精の影響は見られない。
長年アガメムノンに仕え、その知性と深謀遠慮で彼の信頼を勝ち取ったミュケナイの知者は、オデュッセウスと並び、彼の王に正面切って意見を述べることの出来る数少ない人間だ。
それだけに、己の立場と果たすべき義務をちゃんとわきまえていた。
深く皺の刻まれた厳しい顔を、今は少し緩めてオデュッセウスに向ける。彼は、アガメムノンがイタケの王に見せる執着を知っていたが、賢者の分別でもって沈黙を守っていた。
「おお、アキレスも」
そう言って、ネストルは親しげに手を開いて見せたが、アキレスはちらりと視線を向けただけで、返事すらしなかった。いくら戦功が大きいとはいえ、アキレスはアカイア軍の中では新参の戦士に過ぎない。それを考えれば無礼極まりない態度だったが、老賢者は気にしたそぶりもみせなかった。
「オデュッセウス殿は、アキレスにお会いになるのは初めてでしたな?」
そう言ってネストルが青年を指し示すと、オデュッセウスはまばたき一つ分の沈黙の後、平然と偽りのうなずきを返した。
「ええ。でも彼の噂はイタケの国まで届いております。天下無双の戦士だとか。また一層アガメムノン殿の陣営に厚みが加わりましたな」
「オデュッセウスだと?」
アキレスが片方の眉をはね上げる。ネストルは若い戦士へ向き直ると、改めてオデュッセウスを紹介した。
「イタケの王にしてギリシアに名高い知謀の勇者、オデュッセウス殿だ。お前も名は聞いたことがあるだろう」
今度こそ、アキレスの驚きは本物だった。空色の瞳を丸くして、年上の男を見つめる。そうやって目を見開くと、剣呑な空気が少し薄れ、年相応の青年らしい表情になる。
もっともそれもほんの一瞬のことで、アキレスはすぐにまた触れれば切れそうな近寄りがたさを身に纏って周りを牽制した。
年上の男達──どちらも知恵者と名の高い──は、彼ららしい狡猾さで、アキレスの振りまく怒りのオーラに気がつかない振りをした。
「いやいや、まことに重畳ですな。オデュッセウス殿とアキレス。これで我がギリシアには、戦を見る目と敵を打ち砕く剣がそろい申した」
「とんでもない、私など。ネストル殿のお知恵の深さにはとても敵いませぬよ」
「俺はアガメムノンの部下じゃない」
麗句ばかりの儀礼ばったやりとりにはうんざりだ、とばかり、アキレスは苦々しげに吐き捨てた。
「アキレス、控えよ」
「俺や俺の部下は、あの豚王の為に命をかけるわけじゃない!」
辺りを憚らない大声に、周囲の人垣がざわりと揺れた。
「アキレス!」
「俺は俺の欲するもののために戦う。俺の名誉のために。己が心以外の命令など聞かぬ!」
怒りがどんどんとアキレスの中で膨らんでいくのが、端から見ていてもはっきりとわかった。
ギラギラと飢えたような輝きを放つ瞳は、それだけで相手を射殺せそうだった。
感情の 制御 コントロール というものをするつもりはまったくないようだ。
今日の午後を使ってイタケの部下に調べさせた結果、どうやら、先の戦において、この野生の獅子と、霸王の間で何がしかの諍いがあったらしい、という話は聞いていた。アキレスがアガメムノンに無礼な態度をとったのだとも、アガメムノンがアキレスの働きに相応しい報償を与えなかったのだとも言う。アキレスが参戦を始めてそれほどの期間は経っていないのに、そうやっていくつもの話が出回っているということは、この二人の間の軋轢が珍しいことではない、ということだ。
要するに、相性がとことん悪いのだろう。
それも当然だと思う。
アキレスの生意気さは、アガメムノンの支配欲や権力欲を悉く傷つけるものだろうし、アガメムノンの傲慢さを我慢できるほど、アキレスの心は大人しやかではない。
若さゆえの尊大さを差し引いても、この青年の性は焔だ。それも、何かを温めるための優しい炎ではなく、全てを奪い尽くし、自分すら燃え尽くしてしまいそうな劫火。
抑制の効かぬこの 性質 たち が諸王の神経を逆撫でするのだということもわかったが、オデュッセウスには、いっそ、眩いほどの真っすぐさが羨ましかった。
とは言え、この若獅子を好きなように咆えさせておくわけにはいかない。アガメムノンが聞きつける前に、何とか場を収めないと、手のつけられない騒ぎになるだろう。
しかしながら、オデュッセウスの判断は少しばかり遅かった。
好悪は向いた方向が反対なだけの、同じ強さを持つ感情だ。好きな相手のことは目敏く見つけてしまうものであるが、嫌いなものほど目に、耳に飛び込んできやすいというのも、また事実なのである。
「随分と偉そうな口を聞くな? アキレス」
まだ張りを失わない低い声に、座は水を打ったように静まった。
ミュケナイ王アガメムノン。実質的なギリシアの支配者。強欲で好戦的な王だったが、決して無能者ではなかった。
「お前達の軍団だけで戦に勝ったつもりか」
「少なくとも、最後方で怒鳴ってただけのお前のお陰じゃない」
アキレスは恐れ気もなく言い返した。
戦士らしい言い様だ、とオデュッセウスは思った。
戦は個々の武勇だけでは決まらぬ。全体を掌握し、先を見る目も必要なのだ。そして、将の仕事は、大概そこにこそある。
──とはいえ、アキレスがそんなこともわからないほどの愚か者には思えなかった。
きっと、この青年はそんなお決まりの考え方など吹き飛ばしてしまうほど強いのだと思う。彼の部下も同様に。
羊に指揮された百頭の獅子より、獅子に指揮された百頭の羊の方が怖いというではないか。
この青年はまぎれもなく獅子で、彼が率いる戦士達もまた、決して羊などではないのだ。
「王よ、酒席のことでありますれば。明日からの軍議を前に、味方同士で争っても仕方ありますまい」
場を諌めようとするオデュッセウスの声が、却ってアガメムノンの感情を弾けさせた。もはや怒りを隠そうともせずミュケナイの王は吐き捨てた。
「味方だと!? この無礼な獣がか? 人の言葉は話しても礼儀の一つも心得ぬ! 膝を折ることも知らぬではないか!」
ことあるごとに、自分への服従を目に見える形で求めることを好む王には、いまだかつて一度も頭を下げたことのないアキレスの態度は、叛逆にも等しい罪なのだろう。
彫像めいて美しい英雄の唇が、すうっと曲線を描き、酷薄な笑みを浮かべた。
「──獣は己より強い相手にしか屈しないものだ、ミュケナイ王」
怒りのあまり言葉が出て来ないアガメムノンの隣を肉食獣のしなやかさですりぬけると、それきり、英雄は宴の場を後にした。

 
2010.04.23再録