「アキレス殿! ──アキレス!」
大股で歩いて行く英雄の後を、オデュッセウスは慌てて追った。
聞こえているのかいないのか、アキレスは後ろも見ずに城中を抜けていく。人気のない廊下で、ようやっとその腕をつかんで引き止めた。
「何だ、オデュッセウス」
「どこへ行かれる」
「ピティアへ帰る」
「帰る!?」
「そうだ」
アキレスは、まるで当然のことのように言い放った。
ミュケナイの王に召集されながら、その威をすこしも恐れてはいないのだ。
なるほど、これはたいへんな暴れ獅子だ、とオデュッセウスは、内心で嘆息した。
「言ったはずだ。俺はあいつの部下じゃない。命令されるいわれはないし、従う義務もない。あんたたちのように、媚へつらう必要もな」
「──媚びへつらうとは、また、遠慮のない意見だな」
かろうじて、うっすらと笑みを浮かべ、オデュッセウスはことさらに、何でもないことのように言った。
「貴公には、そう見えても仕方もないが……」
「俺でなくともそう言うだろうさ、軍師どの。あんたは権謀術数に優れているとは聞いていたが、閨房術にも長けているとは聞いてなかった」
「……な、に……」
オデュッセウスの笑みがこわばった。
「昨今の王は男娼のような真似事をするのが流行なのか。他国の王の寝台で腰を振って政治の話でも?」
それとも、とアキレスは続けた。
「あの男のモノは、そんなにいいのか?」
アキレスの口元は笑っていたが、目は軽蔑の色を浮かべていた。
ざあっと胸の辺りの血液が足元へ落ちる。
今、この男は何と言った?
まるで、自分があの行為を楽しんでいたかのような。
まるで、自分から望んであの場所にいたかのような
まるで。
目の前が赤くなるような怒りと屈辱に、オデュッセウスは反射的に手をあげた。
「おいっ!」
「お前に何がわかる!」
振りかざした拳は当る寸前で止められ、アキレスには触れることはなかった。
万力のように手首を締め付けられ、オデュッセウスは、空いた手で城壁を殴りつけた。
「何が……わかる……ッ!」
「おい!」
拳が裂け、血が飛び散る。それでも、オデュッセウスは拳をふるうことをやめなかった。
何年も封じていた感情が一気に爆発して、もう自分でも止めることができなかった。
「お前に何がわかる! 私に──同盟などとは名ばかりの属国の王に、何ができると言うんだ!」
「やめろ! お前の手が……っ」
「私には守るべき国があり、民がある! 金も銀も真珠も要らぬ、代わりにお前を差し出せと言われて、どうすれば良かったんだ!」
服従の証だと、お前の身をよこせ、と。
どれほどの苦悩と屈辱を抱えて、霸王の元へ赴いたと思う。
質はお前の国の民だと。自ら命を絶つようなことをすれば、お前の民は誰も残らぬ、と、そう言われて、他にどうすれば良かった。
この年になって今さら、足を開くことも、舌を使うことも、男を受け入れることも教え込まれて、身体は快楽を得る方法を覚えたとしても、心の苦痛が減るわけではない。
それでも、どうしようもなかった。
年若くして王位を継いだ国は、軍備も国力も、ミュケナイに対抗できるほどに大きくはなく、戦えば蹂躙されてしまうのは明らかだった。
支配ではない、同盟だ、独立国としての権利は侵さない、という言葉が甘言だとは知っていたが、それでも国土を国民を灰燼に化させるよりは、と思った。
実際、アガメムノンはただ残酷なだけの支配者ではなかった。彼の意に沿う限りは初めの約束を守ったし、課される役も、重くはなかった。何より、アガメムノンはオデュッセウスの知略に価値を見いだし、これを重く用いたので、連合軍の中で小国とは思えぬほどの権限を許された。
そうして、ようやくに得た地位を、手放すわけにはいかなかった。
どんな方法を使ってでも。
「やめろ……ッ」
焦れたアキレスに、もう片方の腕もつかまれて、オデュッセウスはようやく動きを止めた。
ざらつく壁を叩き続けた手は、自身の血で赤く染まっている。
腕を解放されると、オデュッセウスはずるずると座り込んで、小さく嗚咽を漏らした。
消えてしまいたいとでも言うように、小さく身体を丸めて泣く年上の男を、アキレスはひどく困惑した気持ちで見下ろしていた。
そんなつもりではなかった。
こんな風に、傷つけるつもりでは。
アキレスの中の判断基準はいつも自分で、本当に気に入らないことなら、誰にどう強要されようと応じたことはない。もちろん、皆が皆そうやって生きているわけでないことくらいは知っていたが、それは、その人間が弱いからだと思っていた。己の欲する生き方を手に入れるだけの強さがないからだと。
けれど、今目の前で肩を震わせている相手を、そうやって見下す気にはなれなかった。
この男は自国のために、この男なりの方法で戦っているのだと――それが出来るということも強さなのだと、おぼろげながら思い至ったのである。
「……すまなかった。俺が悪かった。もう泣かないでくれ」
オデュッセウスの肩に手を置き、アキレスはまるで子供のようなたどたどしさで、謝罪の言葉を口にした。それは、彼にとって明らかに馴染みのない言葉らしかった。
じわりと肩から伝わる温もりに、オデュッセウスはひとつ大きく息を吐き出して感情を整えようと努力した。痙攣しそうな咽喉に力を込め、何度も呼吸をする。アキレスの手が、励ますように背中を撫でた。
「――私の方こそすまなかった。醜態を……。君は悪くないのに」
泣き濡れた顔を、腕で乱暴に拭う。
今日会ったばかりの相手に怒りを爆発させてしまったことを恥じて、オデュッセウスは顔を伏せた。
のろのろと立ち上がって、さりげなくアキレスの手を外すと、その場を辞するタイミングを計る。
「オデュッセウス」
「君には、みっともないところばかりを見せている。……できたら、忘れてくれ」
でないと、今後顔を合わせにくい、とオデュッセウスは泣きはらした瞼を押えて、困ったように微笑んだ。
「──みっともなくなんか……」
向けられた笑顔の柔らかさに驚いて、アキレスは言いよどんだ。
考えてみれば、オデュッセウスの笑顔を見るのは初めてだ。出会ってからこっち、このイタケの王は憔悴を滲ませた表情ばかりを浮かべていた。
こんなふうに気持ち良く笑う人間をアキレスは知らない。
女達の華やかな笑顔とも、戦士達の勇ましい笑顔とも違う。
まるで、光の射す明るい海のような。
胸の奥が、ざわめいた。
「オデュッセウス」
「ん?」
「──いや、その……」
立ち尽くしたまま、アキレスは、慣れぬ言葉を探して左右を見渡した。もともと、弁の立つほうではなく、考えるよりも先に行動する性質である。場に相応しい、適切な言葉を選べるほどに器用な舌は持っていなかった。
自分が一体何をしたいのかもわからずに、アキレスは武骨に言葉を継いだ。
「あんたが……そうして欲しいなら、忘れる」
「ありがとう」
もう一度、今度ははっきりと笑って、オデュッセウスはキトンについた砂をはらい、身なりを整えた。
「あの男のところへ行くのか」
声を尖らせて、アキレスが問うた。
涙で腫らした目元と、血に濡れた片手を隠すようにして、元凶を作りだしている男の元へ行くのか、と。
「──何故?」
急に機嫌をそこねたふうな英雄に、オデュッセウスは驚く。丸く開いた目は、少年のようにかわいらしかった。
「行かせたくない」
自らの欲求を正しく理解して、アキレスははっきりと言った。
目の前の青年を、ミュケナイ王の元へなど行かせたくなかった。あんなふうに傷ついた顔をさせるのではなく、自分の側で、もっと笑って欲しかった。
その理由までは思い至らなかったけれども、アキレスにはそれで充分だ。
基本的に、己の感情を抑えるということを知らないアキレスにとって、重要なのは発露の先であって、理屈ではなかった。
「行かない。この顔では宴には戻れないし──明日からは軍議が始まる。アガメムノンには、私の立てる作戦が必要だから、戦に響くようなことはしない」
「……戦が終われば?」
「勝ち戦なら、ご機嫌だからね」
その言葉の意味するところを悟り、アキレスはけわしく眉を寄せた。
「──大丈夫だよ」
あんなにも使い果たされた顔をして、何が大丈夫なんだ、と丸い肩をつかんで揺さぶってやりたかった。
知恵ばかりでなく、オデュッセウスは腕も立つ、と噂話には聞いている。けれど、手の中におさまりそうな肩は、案外と小振りの骨組みで、とても強弓をひきしぼるようには見えなかった。
「心配してくれてありがとう」
そんなふうに、優しい言葉で感情を丸くおさめられ、引き止めることもできずに、アキレスはまっすぐに伸びた背を見送った。
***
ざわり、と座が揺れた。
ふてくされたような顔で軍議の場に入ってきたのは、アカイア軍一の勇者。
「アキレス……」
「これはこれは──」
驚愕を皮肉の仮面の下に押し込めて、アガメムノンがにやりと笑った。
「どういう風の吹き回しだ? アキレス」
後ろ足で砂をかけるようにして宴の場を出て行ったのは、つい昨夜のことだ。
あれでは、今回の参戦は望めまい、と、全員が思っていた。虚仮にされたアガメムノンは、朝から機嫌が悪く、集った王将たちは、英雄の名を口には出すまい、と、固く決意をしていたのに。
どんな強大な力にをも屈しないこの戦士は、気に入らない相手に媚びるようなことは決してない。
だからこそ、一体何が彼の足を留めたのかと、誰もが好奇心をあらわにして、アキレスを見つめた。
「オデュッセウスに訊け」
「え?」
いきなり話をふられて、オデュッセウスが顔を上げる。衆人の目がイタケの王に集まった。
「ほう?」
アガメムノンは探るような視線を向けた。しかし、オデュッセウスには身に覚えが無い。習い性の無表情をつくろいながらも、内心はひどく狼狽していた。
一体、アキレスは何を言いだすのだろう。オデュッセウスは必死に考えを巡らせた。
出陣を示唆するようなことは何も口にはしていないはずだ。オデュッセウスとて、今日の軍議には、アキレスを頭数に数えてはいなかった。
第一、ミュケナイ王にすら従わぬ奔放な獅子が、他人にどうこう言われたくらいで、簡単に気を変えるとも思えなかった。
けれど、事情は何であれ、アキレスが機嫌を直してくれたのはありがたいことだ。理由があるなら後で聞くことも出来る、とオデュッセウスは現実的な判断を下すことにした。
いまだ怒りのおさまらぬのは、ギリシアの霸王で、疑り深い眼を向ける。
「この扱いづらい獣を、如何様にして従わせた? 我が軍の軍師は、猛獣使いの技にも通じていたのか」
「アガメムノン殿、そのような。この場にいる以上、勇者アキレスは心強い味方でありましょう。昨夜のあれは、宴の戯れ言。王の器量をお示しになって、どうぞ、お納めおきなされませ」
何気もなく双方を立て、オデュッセウスは、場を戻した。
広げた地図をなぞる、長い指先をアキレスは視線で追う。明るい光の下では、オデュッセウスの肌の白さが目に付いた。
あの後、すっかり勢いをそがれ、ピティアに帰る気はなくなった。
それよりも、もっとオデュッセウスのことを知りたくなったからだ。
アガメムノンに皮肉の一つや二つ、言われたところで、すこしも気にならなかった。
横からだと、鼻梁の高さがよけいに目に付く。うすい唇は引き結ばれて、泣いたときのはかなさも、笑ったときの柔らかさも見当たらない。どちらかと言えば、顔の造り自体は怜悧なのだと、初めて知った。
伏せられたまつげの下、瞳の色を探ろうとしたら、ふいにオデュッセウスが顔を上げた。
ああ、翡翠の色なのか。
「──だろう?」
「あ?」
とっさに聞き返した後で、オデュッセウスが自分に向かって話しかけたのだと、気づく。
はかばかしくない勇者の反応に、軍師は不審気な顔をした。
「聞いていたのか?」
「聞いてなかった」
平然と言い放って、アキレスは腕を組んだ。
「……アキレス……せっかく軍議の場にいるのだから、話は聞いていてもらえまいか」
「今まで、何度か軍議とやらに立ち会ったが、実のある意見を聞いたことがなかったんでな」
「兵の配置を決めているのだ。貴公はもちろん、部下たちにとっても大事なことだと思うが?」
「好きにしてもらってかまわない。どこにあっても十二分に戦えるように仕込んであるからな」
その辺の雑兵とは格が違う。アキレスの率いるミュルミドネスは、精鋭中の精鋭ばかりで、どの国の、どの王の下へ行こうとも、将の役目を担える者たちばかりだ。
それが、みな、己よりも年若いアキレスの下で、一兵として剣を取り、戦っている。
名誉のためだけに命を投げ出せる、彼らのあるじのために。
「自慢の部下か」
オデュッセウスが口元を弛める。笑うだろうか、と思ったが、薄い唇はそれ以上の弧は描くことはせず、アキレスはそれを残念だと思った。
「それほど自信があるのなら、最前線に配してやろう」
冷たい声が、諸王の中から響いた。
それよりも冷たい笑顔で、アキレスは声のぬしを見返した。
「してみるがいいさ。いいのか? 誉れはすべて奴等のものだぞ」
ゆったりを目を細めるさまに、オデュッセウスは獲物をとらえる肉食の獣を思った。
勝てればいいんだ、という言葉も、この戦士が口にすれば、理想でも杜撰でもなく、ただ現実を語っているだけに聞こえる。
並びなき知略を讚えられながらも、自分のことに関心の薄いイタケの王は、そこにこめられた若い獅子の心情にまでは、気付かなかった。
|