〈3〉
「酒席は嫌いか、オデュッセウス」
「──アキレス」
ようやっと見つけたひとは、勝利に沸き立つ兵士達から遠く離れ、静かに海を見つめていた。
凪いだ海面には、月の道が続いている。
「何か問題でも?」
軍師の自分に用か、と問うオデュッセウスに、アキレスは、苦く笑う。稀代の英雄は、年若いくせに、そういった皮肉めいた表情がよく似合った。
「違う。あんたが、どこへ行ったのかと思って探してたんだ。邪魔か」
戦勝を祝うはずの宴に、イタケ王の姿が見当たらないと気付いて、アキレスはずっと彼を探していた。
見つけたのは、かがり火も届かないほど遠い、断崖の上だ。
酒も持たず、オデュッセウスは白い光に横顔だけをさらしていた。
「我が軍最大の殊勲者を、邪魔だなどと、まさか」
本音は知らぬが、オデュッセウスは耳触りのいい声で、耳触りのいいことを言うと、にこりと笑ってアキレスを差し招いた。
隣に腰を下ろすと、オデュッセウスが子どものように、脚をぶらつかせているのが目に付いた。
「予想の半分で決着がついてしまったな。君が、女神の息子と噂される理由を思い知った」
君の剣技は神業だ、と、誉める言葉はてらいもなく。
聞きなれた言葉も、彼の唇から語られると、比類なき賛辞に聞こえた。
戦場を共にしたのは初めてだ。
アキレスは、先の言葉は大言壮語ではないというところを証明して見せた。
開戦から二日。
戦いが驚くほど短期間で終結したのは、ミュルミドネスの功績が大きい。初日に彼らと刃を合わせた敵兵は、その強さに浮き足立ち、半ば自壊したようなものだ。
その先頭を行くアキレスは、ブロンズの肌と髪を黒の甲冑に包んでなお、太陽神のようだった。彼が、敵将の馬毛飾りのついた兜を、二つ三つと刎ねとばした時に──もちろん中身ごとだ──、勝敗は決した。
「君さえいれば、私のささやかな知恵など必要ないな」
「──それは、違う。あんたが、俺を一番戦いやすい場へ置いたから」
個人の戦闘能力が高く、機動力にも長けたミュルミドネスの長所を壊さぬよう、なるべく自由度の高い場所へ。諸王らが、いらぬくちばしを突っ込んではこないような。
ちかりと翠の瞳を光らせて、人の悪い顔をしたのは、共犯者へのサインなのだろう。
「君が気を変えてくれて良かった。兵たちも喜んでいる。アキレスを讃える声が、風に乗ってここまで聞こえた」
「なんだ、じゃああんたは、ずいぶん早くからここにいたのか。何故だ」
「何故? 戦が終わってしまえば、誰も私に用はない。私には、この戦を始める理由がわからない。だから、勝利を祝う気にもなれない」
すべては、ギリシアを手中に収めんとする、一人の王の野望が生んだ戦いだ。
領土の拡大と安定は、確かに自国民への恩恵ももたらす。だから、それを悪だと言うつもりはないし、事実、ミュケナイは豊かに繁栄している。それをこそ、王のなすべき道だとう言う者もあるだろうけれど。
「早く故郷へ帰りたいよ。何もない、ちいさな島だけれど」
ちいさく、とても豊かとは言いがたい島国だ。ミュケナイやスパルタには比べるすべもないし、比肩させたいとも思わない。平和であれ、と、ただつつましい望みを持つばかりだ。
それで、そのために、自分を投げ出して、とアキレスはくってかかりたくなる。けれど、「忘れる」と約束してしまった。蒸し返されて楽しい話題でもあるまい。
「それで君は」
小首を傾げて、たいそうかわいらしい様子で、オデュッセウスは勇者を見た。
伸ばしただけの巻き毛がひと房、うなじから落ちかかるのが目に付いた。
「何故、参戦することに? あの日はあんなにいきりたっていたのに」
帰る、とまなじりを吊り上げていたアキレスを思い出したのか、オデュッセウスが目元を緩める。
ああ、この顔が好きだ、と迷いもなく思った。
ならば、動機などひとつしかない。
「勝たないといけないんだろう」
「え?」
これは約束をやぶることにはなりはしないか、と考え考え、アキレスは言葉を探った。
「勝てば、戦の後で、あの豚王があんたを呼びつけることもないんだろう。そう、言った」
だから。
自分が参戦すれば勝てる、と信じているところはどうにも幼い傲慢さで、けれどそれは確かな事実でもある。
「ア……」
呼ぼうとした名は、当の本人の接吻に消えた。
唇は行儀良く結んだままで、子どもの口付けのようだ。
アキレスは、色事にも長けていると聞いていたのに、と、あさってなことを考えた。
「オデュッセウス」
抱き込まれて、腕のたくましさに驚く。余人には
弦
すら張れぬ、と言われる強弓を扱う自分が、こんなにも年下の相手に身じろぐことしかできない。もっとも、あれは力よりもコツなのだ、と、誰にも語ったことのない秘密を思う。
もう一度口付けられて、今度は舌を奪われた。犯された口腔から、くちゅりと水音がしても、嫌悪も怒りも感じないのが、変にもどかしい。
気がつけば、のしかかるアキレスを見上げる形になっていた。
「あ…アキレス、待て……」
「何を?」
いっそすがしい瞳で見返されて、オデュッセウスは困惑する。
ふらちに脚をなぞっている手と、悪びれないまっすぐな眼は、いったいどこでどうつながっているのか。
このまま、いくら英雄とは言え、年少の相手にいいように流されて、こんなところで。
まさか。
まさか、まさか、と自問するうちにアキレスの指は、どんどんときわどいところまで伸ばされる。
抗うタイミングを完全に見失って、けれども流されそうになった理性は、遠くで王を呼ばう衛士の声に引き止められた。
「オデュッセウス様……!」
「あ……」
答えようとした口をふさがれそうになって、さすがにそれは押しのけた。乱された裾を直して、臣下を呼ぶ。
アキレスは不機嫌に眉間を寄せて、渋々と身体を起こした。
「フィロン、ここだ」
ふと気付くと、宴の席から姿を消していたあるじを、こうしてようよう見つけてみれば、隣には黄金の獅子が座していて、まだ若い──といっても、アキレスとさほど変わるまい──フィロンは驚きに目をむいた。
ほんの数刻前、この戦士の勇猛さを見せ付けられたばかり。フィロンにとっては、自国の王よりも、まだ遠い存在だった。
「あ…あの……」
「どうした?」
けれど、オデュッセウスの穏やかな声はいつもと変わらず、フィロンは落ちつきをとりもどした。
「ミュケナイ王の御伝令がおいでになって」
オデュッセウスを召している、と。
伝えたとたんに、アキレスの周りで、空気がちりっと逆立ったように見えた。
「──そうか。すぐにうかがうと伝えてくれ」
「あの……」
「大丈夫だ。先に帰って伝言を」
はい、と素直にうなずき、立ち去りながらも、フィロンはちらちらとアキレスを振り返っていた。
アキレスは、オデュッセウスを見た。
「オデュッセウス」
「すまない」
ちいさく零れたのは謝罪の言葉だった。
「……予想しないではなかった。彼が、君の名声を快く受け入れるとは思わなかったし……たぶん、君と、私の関係を、その……」
邪推して、と。
はにかむように小声になったのは、うぬぼれだろうかと思ったからだ。
誰にも御せない暴れ獅子を、どうやって、と、あの日、軍議の後でも問い詰められた。権力にも財宝にもなびかないアキレスを従わせるだけの力が、小国の王にあるはずがない。
ならば、と──そう考えるのは、強者の論理だと、訴えたところで理解されるはずもなかった。
「行くな」
つかまれた腕は強く拘束され、アキレスの思いを直接に伝えた。
行けばオデュッセウスは、また奪われて、消耗させられる。笑うことを百年先に置き忘れたような顔で、きっと泣く。
「アキレス」
「あんたが好きだ、オデュッセウス」
「……アキレス、私に関わってはいけない」
静かに言い聞かせるように、オデュッセウスは言った。
「媚びろとは言わない。でも、アガメムノンを敵に回すのは利口じゃない。君は希有な戦士だ。百年千年のちも、人々は君の武勇を讚えることだろう」
わずらわしい
政
に関わって、その足を絡めとるようなことになっては。
けれど、外そうとした指をもう片方の手で捕らえられて、オデュッセウスはますます身動きがとれなくなった。
「その程度のことで得られぬ名ならば、最初から手に入れることなどできはしない。俺は、諦めないぞ、オデュッセウス」
子どもの強情さと、大人のしたたかさをアキレスは見せる。困ってしまって黙り込めば、不機嫌そうな顔をする。「笑えよ」と居丈高に言われ、オデュッセウスは苦笑した。
腕をほどく前に、もう一度寄せられた唇を、オデュッセウスは拒まなかった。
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