光射す海の いろ 5
〈4〉

獅子の耳には、イタケの王の言葉しか届かぬらしい、と人々が口にのぼせるようになるまで、それほど時間はかからなかった。
オデュッセウスを介さなければ、出兵の要請に耳を貸すこともせぬ。
幾人、幾十人もの使者が門前払いを食らわされるにいたって、約束された報酬としての、いかなる財も、領土も、 処女 おとめ も、軍師の言葉ほどには綺羅らかではないようだ、と、もちろん揶揄をこめた噂が流れ、そう言われるのも無理はないほど、アキレスはあからさまな態度をとった。
望ましいことではないが、とオデュッセウスは心配したが、結果として、それは悪いほうには転がらなかった。
ギリシア内は元より、近隣諸国との小競り合いもたえない中では、アキレスの戦闘力は、どの王にとっても、喉から手が出るほど欲しいもので、その彼が、オデュッセウスの言葉しか聞かぬとあれば、当然、イタケの王を粗略に扱う者もなかった。
事実、テッサリアの英雄と、イタケ王が打ちそろった戦は負け知らずで、かのミュケナイ王ですら、アキレスの力を、ひいては彼を戦に導くことのできる、オデュッセウスを慮らぬわけにはいかなかったのだ。
請われた話をすべてアキレスに持っていくのは不可能だったし、当然、そんなつもりもない。それでも、断り切れぬ話だけでも、かなりひんぱんにピティアへ足を運ぶことになった。
もうすこし世情が落ち着き、良かれ悪しかれ、各国の力関係が安定すれば、こんなこともなくなるだろうと思う。
過渡期の混乱だ、と言えば、ギリシア内の混乱が落ち着いたら、次は海を隔てた隣国に手を伸ばすさ、それがあの男だ、とアキレスはなかなかにうがったことを言った。

世間の下世話な噂とは裏腹に、あの夜以降、アキレスはオデュッセウスには触れてこなかった。
口付けもしない。
けれど、ときおり指先が肌をかすめ、ミュケナイから来たと言えば、あからさまな目つきで、情事の痕をさぐって、オデュッセウスにいたたまれない思いをさせた。
そうやって、アキレスが待ち望んでいたものが何だったのかを知るのは、その後に起った、大きな戦のときだった。


「アキレス!」
普段は、穏やかな声音が耳に心地よいイタケの王が、血相を変えて飛び込んで来たのは、まだ太陽神がようやく顔を出したばかりの早朝である。
来たか、と副官に手伝わせて鎧を着けていた手を止めて、アキレスは、髪をくしけずることさえせずに駆けてきたらしい、イタケの王を笑った。
「あんたは普段から着飾るほうじゃないが、その頭はひどくないか?」
「そんなことはどうでも……アキレス、君」
「向こうも、これ以上戦を長引かせたくはないらしい。代表の兵士を立てろ、と言ってきたそうだ」
それぞれが、軍の、国の命運を背負って衆人環視の中で一騎打ちをする。兵士の勝利が、国の勝利だ。戦いは、当然、どちらかの命が奪われるまでは終わらない。
乱暴ではあるけれども、短期間で決着がつき、、無駄な犠牲を出さずにすむ、という点において、利点も大きい方法だった。
たしかに、両陣営ともに、戦が消耗戦に入り、士気が著しく低下しているのを憂えてはいるところで、使者が行き来し、そうすることで話が決まったのは知っている。当然のように、アキレスの名があがっていたのも。
けれど、まさかアキレスが承知するとは思わなかった。
アガメムノンの国がどうなろうと、アキレスにはなんの関心もないはずなのに。
何より、軍師たる自分が知らぬ間に話がついていたのが、なんとも不穏だ。
「アキレス。いったい君は、アガメムノン殿から、何の約束を取り付けた?」
生命と名誉と国の運命を賭けた戦いの代価は何だ。
真正面から問われ、さすがに敏い、でも軍師のくせに駆け引きもなしか、とアキレスはもう一度快活に笑った。
今朝の獅子は不思議なほどに機嫌がよかった。
「何でもいい、とあいつは言ったんだ」

***

一人で呼び出されたことを、アキレスは不審に思った。
いるものと思ったイタケ王の姿はなく、陣屋の中には、アガメムノンとネストルの姿があるばかりだ。
普段から、アキレスには渋面しか向けたことのないミュケナイ王だったが、今日はまた、一段と不機嫌極まりない表情をして、陣屋の中の、仮の玉座に座り込んでいた。
傍らに立つネストルは、いつもと変わらぬ淡々とした調子で、敵軍からの使者の口上をアキレスに伝え聞かせた。
来たか、とアキレスは意外でもなくそう思った。いつか、そう言った要請があるだろうことはわかっていたからだ。
けれど、それを待っていたと悟られてはなるまい。
「──それで、俺に何をしろと。あんたの国の命運を握って戦うのか? 俺が? あんたも、あんたの国も、塵一つ残さず消え去ってしまっても、俺は何の痛痒も感じない」
偽らざる本音だ。むしろ消え去ってしまえ、と憎しみすらこめて、アキレスは大国の王をにらみつけた。
「獅子だ獣だとうそぶいていても、いざとなると腰が引けるか」
「俺を怒らせたいなら無駄だ。どう思われたところでかまわない。あんたにも、あんたの国のためにも、賭けるための命などない」
話はそれだけか、と背を向けかけたアキレスに、ネストルの静かな声が割って入った。
「短慮はいかぬよ、アキレス」
「……長考すれば、何か俺に利があるとでも?」
「この戦いにおぬしが勝てば、報酬は望みのままと、王はおっしゃったのだ。財宝でも、土地でも、──人でもな」
実際には、提言したのはネストルだ。
アガメムノンは強硬に反対し、けれど、自軍内のすべての兵を列挙しても、結局は、アキレス以上の戦士の名を挙げることができなかった。広大な領地を有し、交通の要にもなっているこの国は、何がなんでも手に入れておきたい地域で、ゆえにこそ、確実に勝利を得られると保証のある戦士を送りださねばならなかった。
「望みのままと言ったところで、何をくれてやれば、あれが満足すると言うんだ。金か? 銀か。真珠に珊瑚か。それとも、領土か? トラキア生まれの美女でも贈ると約束すればいいのか」
「王よ」
答えを知りながら、苛立たしげに歩き回るあるじを、ネストルがいさめる。
アキレスの欲するものなど、初めからひとつしかないのだ。
そうして、提示した条件に、獅子は、初めて興味のある顔をして見せた。
「──望みのまま、と言う言葉に否やはあるまいな?」
一国の王の約定か、と彼らしからぬ慎重さで、重ねて言質を求める。
「…………何が欲しいと言うのだ」
うめくように、アガメムノンが問うた。
「わかってるくせに、わざわざ問うのか? 知っているからこそ、あいつをこの場に呼んでないんだろう」
オデュッセウス、と、良くない意味合いを持つ名前を、アキレスは、それこそ色とりどりの宝石の名よりも鮮やかに発音してみせた。
「──あれは儂の持ち物ではない。奴隷のように、お前にくれてやるわけには行かぬ」
「俺にくれと言ってるんじゃない。オデュッセウスに自由を。俺が勝てば、今後一切、その薄汚い手で、あいつには触れないと誓え」
「──ふん」
意外にも、アガメムノンは、傲岸な若者の言葉に激高もせずに、ただぎろりと下目遣いに相手を見返しただけだった。
「そうやって、儂を汚いと言う、お前はどうなんだ、アキレス。お前とて、あれを欲しいと思っているのだろう。自分だけは違うと思っているのか? 仮にも相手は王だ。どうで、お前のものになど、なりはしないぞ」
たたみかける台詞は冷ややかで、けれど、どこか覇気を欠いていた。
丸めた背は、豪奢な飾りのついた椅子に沈んでいる。
たかが情人の一人や二人を手放すくらいで、意気阻喪するようなミュケナイ王ではあるまいが、と考え、まさか、と疑った。
「奴隷でもあるまいに、奪いたいなら、同じだけ与えねば、手に入るはずもないだろう、ミュケナイ王」
「変わらず偉そうな口を叩くものよ。たかだか一兵士が、英雄の勇者のと祭り上げられて、増長しているらしい」
「間違っているのは俺か、あんたか。それは、あんたのほうがわかってるんじゃないのか」
今さら、オデュッセウスへの執着に、一条の真情があるとわかったところで何になろう。初めからその心根を見せていてやれば、違う道も拓けたろうに。
アガメムノンは二度、間違いを犯した。
力にまかせ、ただがむしゃらにオデュッセウスを手に入れたことと。
野望のために、今、彼を手放そうとしていることと。
何もかもを両手に納めようと欲をかき、あふれさせて、結局、選ぼうとしているのはより大きなものだ。
ならば結果も引き受けろ、とアキレスは容赦なくアガメムノンを追いつめた。
「返答を、王よ。誓うなら、此度の勝利はあんたのものだ」
長い沈思の後、ミュケナイ王は、苦渋を浮かべてうなずいた。
情けを同じくしようとは思わなかった。肩を丸めて泣くオデュッセウスを思い出し、してやるものか、と強く思った。


「どうして、アキレス……」
そんな約束を。
どうせならば、まばゆいばかりの財宝か、豊かな領土を。あるいは、つややかな肢体の異国の美姫でも。
国と人々の運命をゆだねられて戦う勇者には、ふさわしいだけの代価があるはずだ。
「馬鹿な。何を持ってふさわしいとするかは、俺が決める」
戦うのは俺だ、と言われ、オデュッセウスは泣きだしそうな顔をした。
「そんな真剣な顔をするな、イタケの王。俺は負けやしない。俺の剣を神技に等しいと褒め称えたのは、いつわりか?」
「……まさか」
巧言令色にことかくわけではないけれども、アキレスの豪勇に、何の虚偽が必要だろうか。
「それなら、戦車に乗って最前列で見ているがいいさ。それでも心配なら、約束を」
「──約束?」
どんな、と、また幼い風情で首をかしげる軍師の、ひんぴんと四方八方にはねた巻毛を指にからめとり、口付けた。
「先の夜の続きを」
宴席を抜け出して、海を見ていた、あの夜の。
耳まで赤くしながらも、否、とは言わなかったイタケ王のかわいらしさと、それを見て取り、声を上げて笑ったあるじに驚いて、けれどエウドロスはつつしみ深く沈黙を保つことにした。

 
2010.04.26再録