〈5〉
二人の勇者による決闘は、あっけないほど簡単に片がついた。
オデュッセウスは、チャリオットのふちを握り締め、戦いの行方を見守った。
敵の兵士は、縦横の幅でアキレスを上回ったが、負けるかもしれないなどと、一瞬とても思いはしなかった。
アキレスの剣が狙いあやまたず相手の頚動脈に突き刺さり、男が黒ずんだ血を噴出しながら、どう、と地面に倒れると、アカイアの中から歓声が起こった。
返り血すら浴びずに涼しい顔で立ちはだかる若い勇者に、それ以上、戦いを挑むものはいなかった。
アキレスは、うっとうし気に兜を脱ぎ、高々と上げた拳で勝利を宣言する。
それが、兵士たちにではなく、自軍の司令官へ向けられたものだと、知っているのは当の本人達ばかりだ。
アキレスの名が大音量で連呼される中、オデュッセウスは詰めていた息を細く吐き出し、ずるずると座り込んでしまった。
***
「あんたを抱きたい、オデュッセウス」
「……ずいぶんとストレートだな」
陣屋を訊ねてきて、開口一番がこの台詞だ。
実際、何もかもが獣じみた男だ、とオデュッセウスは呆れた。
「駄目か」
「……そういうことは、こういう体勢になる前に訊くものだ、獅子よ」
アカイア一の勇者の腕は、オデュッセウスを完全に封じ込んでいて、多分、自分がどう答えようとも、結局はこの男に抱かれることになるのだろうと思った。
それでも、ひどく生真面目な顔で許可を求めてくるアキレスがいとおしかった。
思うがままに生きるこの戦士の、それが最大限の譲歩だと、知っていたからだ。
岸壁で出会った夜も、武器を扱うために硬質化して、けれども先まで温かい、彼の指先に触れられることに、すこしのためらいも感じなかった。
その感情を生み出す心の在処を探ろうとして、結局はわからなくて考えるのをあきらめる。
そうして、「よし」をまたずに、オデュッセウスの身体をあちこち触ろうとしている、目の前の獣──オデュッセウスの飼い犬アルゴスよりもしつけがなってない──に、静かな声でささやいた。
「――いいよ、アキレス」
意外なことに、と言えばきっと怒るだろうが、アキレスはひどく優しい仕種でオデュッセウスに触れてきた。
あんなふうに切羽詰まった目をするから、てっきり力任せに抱こうとするのだろうと思ったのに。
アキレスの指先は女性の肌に触れるようにオデュッセウスに触れ、アキレスの唇は恋人にするようにオデュッセウスに口付けをし、アキレスの瞳は柔らかな笑みを浮かべてオデュッセウスを映した。
手の内に包まれるような愛され方には慣れなくて、オデュッセウスは居心地悪げに何度も目をそらし、その度にアキレスの手に捕まって上を向かされた。
「ア、アキレス、その……」
「知らなかった。あんた、すごく可愛いんだな」
まるで処女だ、と言われ、オデュッセウスはひどく情けない顔をした。
バカにされたとは思わないが、褒められたとも思えない。けれど、一番情けないのは、まるで本当に初めて褥に上がるかのように、やたらと緊張して跳ね回っている自分の鼓動だったのだけれど。
「こんなふうにされるのは慣れない。いいから、君の好きなようにしてくれ」
オデュッセウスにとって、同性との性行為は常に強要と暴力──精神を傷つけるための──の上に成り立っていた。こんな、絹張りの箱にしまわれた真珠のような扱いはされたことがないし、される覚えもない。
アキレスのいいようにしてくれればいい、と言ったのに、年下の戦士は
「今、してる」
とあっさり答え、ますますオデュッセウスをいたたまれなくさせた。
「でも、アキレス。こんな、こんなふうに──普通は……」
普通はもっと。
「普通なんか知らないくせに、黙ってろ」
ぴしゃりと言われて、イガケの知将は驚いた。
「あんたが知ってる男はアガメムノンだけなんだろう。あいつとのセックスが『普通』だなんて思ってるならとんだ勘違いだぞ」
「う……それくらいわかってるさ」
それくらいはわかっている。でも、だからって、こんなに優しく丁寧に触れてくる行為も普通ではないと思う。戦場において、男同士の関係に求められるのはもっと刹那的で即物的な快楽のはずだ。
剣を、槍を、盾を握り慣れた武骨なはずの手がオデュッセウスの身体を這い回って、ゆるりゆるりと彼を追い上げていく。困ったように眉をひそめ、少しずつ息を上げていく知将を、アキレスは満足げに見下ろした。
イタケの王であり、武勇よりも謀略を重用されているオデュッセウスだったが、戦場となれば自ら剣を取り、先陣を切ることもある。アキレスのように目を見張るほどの体躯に恵まれてはいなかったが、きちんと鍛えられたきれいな筋肉がついていた。アキレスの指が動くたびに、その筋肉がぴくりと揺れる。胸の上で色づいたものに唇を寄せれば、ああ、とため息のような声が漏れた。
「オデュッセウス。俺は、お前に、あの男と並べられるのはごめんだ」
「……何、だって?」
腰骨の辺りを撫でるばかりで、一向核心に触れてこようとはしないアキレスの愛撫にじれったくなっていたオデュッセウスは、一瞬彼の言葉を聞きのがした。
「並べる?」
「比べられるのは仕方ない。でも、アキレスとアガメムノンを同列に置かれるのは絶対に嫌だ」
「何を言って……」
冗談かと笑おうとして、真剣な色を浮かべた青い瞳にぶつかったオデュッセウスは、引き上げかけた唇を半端に止めた。どうやらこの、年若いギリシアの勇者は、本気で言っているらしかった。
それは、子供じみた独占欲かもしれなかったし、テリトリーを主張する雄の本能だったかもしれない。
何にせよ、随分と可愛らしいことを言う若獅子に、オデュッセウスは笑みの続きを完成させた。
馬鹿にされたと思ったのか、アキレスは不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。けれど、オデュッセウスの笑顔は消えない。
「──アキレス。アキレス。知らなかった。君こそ、随分と可愛らしいことを言う」
さっきまで生娘のように躊躇いとおびえを見せていた年上の男は、すっかり余裕を取り戻して、くすくすと小さく笑った。笑われることに慣れない年下の恋人は、それでなくても迫力のある面をますます険悪に作って笑い続ける知将を見下ろした。
「それがそんなにおかしいか」
「おかしいさ」
何でもないことのように答え、オデュッセウスはやっと笑いを収めると、アキレスの逞しい首に両腕を回した。
「──でも、悪い気はしない」
耳元に落された囁きはとてつもなく艶を含んでいて、まるで熟練の娼婦の媚態だったが、きっと本人は絶対に無意識なのだ。
知恵者と呼ばれ、知将と呼ばれ、口先一つで数カ国を躍らせるとすら言われるイタケの王は、あいにく自分のことだけは何一つわかっていなかった。その笑顔や翡翠の瞳や低く耳に響く声が、どれほど男の性を煽るか、というようなことは。
「うわ、アキレス!」
突然寝台に押しつけられたオデュッセウスは抗議の暇もあらばこそ、捕食のような激しい口付けに目を白黒させた。
押し返そうにも、全身が鋼で結い上げたようなアキレスの身体が動くはずもなく、進入してきたアキレスの舌に呼吸まで奪われて眩暈を起こしそうになった。
アキレスの愛撫は、まるで嵐だと思う。
抗うすべもないままに巻き込まれ、気が付くと身体ごとすべてをさらわれている。
「……あ……っ、ア……キレス……っ、ちょ……待……」
ぜいぜいと息を切らしながら、だるい腕でアキレスの身体を制した。
「なんだ、オデュッセウス」
「頼……から、もう少し……そっと……壊れる……っ」
もう何度アキレスの欲望を受け入れたことだろう。
そのつど、音がするほど強く腰を叩きつけられて、オデュッセウスは呼吸もまともにできないでいた。酸素が足りなくて、アキレスの情熱に煽られて、頭の奥ががんがんと鳴っている。
「女、じゃない、んだから……」
とぎれとぎれに訴える相手に、アキレスはやっとその身体の負担に思い至ったようだった。
「ああ……悪い……」
涙と汗とでぐちゃぐちゃになってしまった頬に口付けて、アキレスは夢から醒めたような顔をした。
「……っあ……、ん……っ……」
突如として律動を止められて、結局はそれも刺激になる。くわえ込んだペニスを反射的に締め付けてしまい、オデュッセウスは真っ赤になった。内部に放たれた体液が、摩擦で空気をはらんで、くちゅ、と淫らがましい音をたてる。
「あ……も……、こ……んな……っ」
「──何が?」
「くそ……明日、立て……なかったら……」
どうしてくれる、と恨みがましく涙目でにらまれ、すでにそれは懸念ではなく未来形の決定事項ではないか、とアキレスは思った。
抱き込んだ腕の中で、オデュッセウスは魚のように身体をうねらせ、アキレスを受け入れた秘所は柔らかく雄を包み込んで、奥へと彼を導いた。
形のいい指が、髪を梳き、項をたどり、背中の骨に爪をひっかける。きりきりと痕を残す痛みも、情事の最中なら誘惑のしぐさだ。そうやって、誘われるままに、何度も何度も奪ってしまった。
「心配するな。そうなったら、あんたの船まで、ちゃんと抱きかかえて行ってやる」
新床へ向かう花嫁のように。
「じょ……!」
冗談じゃない、と言いかけたオデュッセウスの言葉は、再開されたアキレスの動きに、途中から悲鳴になった。
いっそこのまま拉致して、自分たちの船へ連れ込んでしまおうか。イタケまでの道行きを共に。
風は、彼の故郷へ向かって吹くだろう。
そうして、船のゆく海は、彼の瞳のように澄んだ翡翠の色をしているに違いなかった。
The End
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