◆◆ 三話 ◆◆
アキレスは、たいそう座りの悪い心持ちで、イタケ王の天幕の前に立っていた。
アキレスが初陣に立ってからもう五年、戦をともにすることも珍しくはなく、陣屋を行き来することをためらったことなど、一度もない。たとえそれが、どれほどに自分勝手な行動で、オデュッセウスの不興をかったとしても、アキレスは反省などしないし、懲りずに同じことを繰り返す。
もっとも、イタケの王とても、結局は乱暴者の獅子を許しているのだから、自業自得でもある。そなたは、あの獣に甘すぎる、とアガメムノンなどは苦い顔を見せることもしばしばだ。
だから、これまで、アキレスはこんなふうに、落ち着かない気持ちでオデュッセウスの元を訪ねたことはなかった。
どうしてこんなことになったんだ、とアキレスは、眉の間に深々と亀裂を入れて、ケパレネス勢の陣地の真ん中で考え込んだ。
ことの始まりは、アガメムノンの呼び出しだった。
一体、あのクソッたれの大将が何の用だ、といつものことながら、仏頂面でアキレスは使者の後をついていった。テッサリアの若獅子と、黄金の都の君主はむやみやたらと相性が悪く、顔も見たくないのはお互い様だ。
と言って、戦場を共にする以上、そして、アキレスの持つ勢力が連合軍の中で大きな位置を占める以上、まったく顔も合わせずにいる、というわけにはいかない。
アキレスのほうはそれでもちっともかまわなかったが、ミュケナイ王は、相手の顔は見たくないが、さりとて無視を決め込むのも癪なようで、時折こうして、意味のわからない召し出しをかける。
どうせ大した用件ではない、と決めつけて、アキレスはだらりと天幕をくぐった。
陣屋の中には、アガメムノンとネストルしかいない。
おや、とアキレスはすこしだけいぶかしんだ。
こういうときはたいがい、そこにもう一人、小国の王が立っていることが多かったからだ。大人気ない二人の会話は、口を開けば諍いばかり、たまるのはうっぷんだけで、まず建設的な方向へは進まない。その間に立って、ふむふむと双方の意見を聞きながら──あるいは聞くふりをしながら──、それなりに話を丸くまとめることができるのは、巻髪の知恵者くらいのものである。短気で頑固な二人に口を開かせておくなど時間の無駄、と、時には、オデュッセウスとネストルの間で、早々に結論を出してしまって、王と獅子が、一体我らは何のためにあそこにいたんだ、と後から首をひねることすらあった。
そのオデュッセウスの姿が見えず、ミュケナイ王は普段よりさらに不機嫌で、簡易な玉座に座り込んでいた。
「──遅い」
開口一番、頭ごなしに決めつけられて、アキレスはムッと眉を寄せた。ならばもう用はないだろう、と無言で向けた背中を、いつになくしおらしげなアガメムノンがひきとめた。
「ああ、いや、待たんか、アキレス。本当にお前は気が短い」
「…………何の用だ」
あんたに言われたくない、とはっきり顔に書いて、それでもアキレスは話を聞こうという態度を見せた。緩衝役がいないにしては、上出来の反応だ。
それで、とあごの先で続きをうながしたアキレスに、ミュケナイ王は、重い口を開いた。
「オデュッセウス」
勝手に天幕をくぐって入ると、名前の主は、返事もせずに、まなざしだけでふてくされて見せた。
膝など抱えて、それでは、まるきり外見相応の子どもだ。
「オデュッセウス」
「……聞こえてる」
用向きを言え、と少年の口調はそっけない。
「用と言うか」
アキレスは難しげに顔をしかめた。こんなときに、すらすらと言葉が出るような器用さは持ち合わせてはいなかった。仕方もなく、まっすぐ、簡潔に事実を述べた。
「あんたが、拗ねて陣屋にひきこもってるって聞いたから」
アガメムノンの話はそれだった。
オデュッセウスが仕事を放棄して陣屋にこもっている、と言う。
何故だ、と訊けば、大王は、困ったような、苦りきったようなうめき声を上げた。
ふーん、とアキレスは胸の裡でうなずいた。事情は知らないが、アガメムノンがオデュッセウスを怒らせたらしい。
今さら、少々のことでミュケナイ王の態度に怒るオデュッセウスとも思えないが、今は常態ではなく、どこか神経を尖らせている。周りに気を遣われて、かえって落ち込んだりしているようなので、アガメムノンも、そうして蛇の尾(タコの足かも知れぬ)を踏んでしまったということなのだろう。
別に悪意はなかったんだろうが、と思ったのは、アガメムノンがオデュッセウスをどんなにか殊遇しているのを知っているからだ。アキレスにとっては、腹立たしいことではあるが、動かしがたい事実だということはわかっている。
「──拗ねてなんか」
口調ばかりは強く、けれど、自信なさげにあやふやな調子で、オデュッセウスは抗弁した。
「ふうん?」
それが拗ねてない態度のか、と唇の端を持ち上げる。オデュッセウスは恨めしげな目で、立ったままのアキレスを見上げた。
「君が、そんな〈お使い〉を引き受けるほど、アガメムノン殿と仲良くなってたとは知らなかったよ」
もう私も仲介も必要ないな、と、完全に八つ当たりで付け加える。アキレスが正直に嫌そうな顔をしたので、すこしだけ、胸がすいた。
招きもせぬのに、アキレスは陣屋の中を進んでくると、オデュッセウスの隣にどっかりと腰をおろした。どうした、と空色の瞳が訊ねている。
弱みを見せるのは好まない。けれど、口が重く、小賢しく頭を使った返答などしてこない獅子になら、心情を吐露することにも、あまり抵抗はなかった。
「──怖いんだ」
怖い、ともう一度オデュッセウスは繰り返した。
アキレスはまばたきをしただけで何も言わない。
珍しいことだ、と思っただけだ。
多くを知り、変幻自在に言葉を操ることのできる男は、けれど、めったなことでは弱音を見せない。穏やかそうでいて、けっこう意固地なところがあるからだ。
「何が怖い」
アキレスは、恐れを知らない。まったく知らないわけではないが、基本的に、今ひとつ理解できていない。恐れを知るものは、身を護ることも知っている。だから、アキレスには必要のない感情だ。獣ですら怯えることを知っているぞ、とオデュッセウスによく笑われるけれど。
「何が、だって? この、今の状態に決ってる。もし……、このまま戻らなかったら?」
どうしたらいい、とオデュッセウスは呟いた。抱き寄せた脚の先で、桜貝のような爪が揺れた。
「『戻る』と占者は言ってたんだろう」
「神託よりも、私は確実な答えが欲しい。──カルカスどのを疑うつもりではないが」
突然の奇禍が襲ってきて早や十日が過ぎた。満ち月が姿を消すまでには、と占者は告げた。すでに月は、ほっそりと左側を残すだけだが、特に何の兆候も感じられない。若返ったときも、事前の兆しなど何もなかったのだから当然かもしれないが、それでも、ほんとうに戻るのか、と不安にならずにはいられない。
「戻らないとまずいのか」
「……あたりまえだろう」
今さら何を、と呆れた顔をされて、アキレスは、しげしげと考えこんでみた。しかし、決定的な不都合、というのは、ちょっと思いつくことができなかった。
「まあ……ペネロペイアは、ちょっとびっくりするかもしれないが」
でも、取り乱したりはしないだろう。かの女性は、夫に輪をかけて、物腰穏やかな才媛だ。
「そんなことはわかっている。心配しているのは彼女のことではなく、国のことだ」
もはやオデュッセウス自身とも言えるほど、彼の心を占めている、小さな島国の。
「何を心配することがある? あんたがいなくなったとでも言うならともかく」
「こんな身体でもか?」
「十四や十五で王位を継ぐ人間はどこにでもいる。あんたには兄弟もいないし、大体、頭の中身はそのままだろう」
下手に賢しらぶった家臣などが、訳知り顔で口を挟むより、よほどに安全だろうに。
「でも……」
「あの王に、何を言われたかは知らないがな」
どんな使者にも会おうとしないから、とうとう犬猿の仲であるアキレスに頼ってまで、オデュッセウスを引き出そうとした。それがどんなに業腹なことか、立場が真逆であるだけに、アキレスにはよく理解できる。
「それくらい、あんたが必要だってことだろう」
たとえ、今は直接の戦力にはなりえなかったとしても、だ。あの王が、これ幸いとばかりにイタケに手を出してくるとは思えなかった。岩場の多い小さな島国を手にするよりも、軍師の叡知を側に置くほうが、よほど価値があるだろう。
「…………」
オデュッセウスは無言で考え込んでいる。あまり楽観的な性質ではないのだ。
「ではもし、もっと幼い子どもになってしまったら? あるいは、頭の中身が、子どもに戻ってしまったら?」
「それは……」
たしかに、かなり深刻な事態だ。けれど。
「そうなってから、考えたらいいだろう」
「────」
アキレスの答えはまるで無頓着で、オデュッセウスは、しばらく眉を寄せて無言の反抗をおこなっていたが、とうとう最後には吹き出した。
「君、アキレス……、よくそんな」
「何だ、俺は間違ってないぞ」
人智の及ぶ出来事であれば、先を憂え、心を構え、そうして準備をしておくことも必要だろうけれど。
考えても仕方のないことまで、思い煩う必要はない、と、アキレスはきっぱりと断言した。
そんなだから、君は獣だと言われるんだ、と憎まれ口をききながら、それでもオデュッセウスは、先ほどまでの屈託を忘れたように笑い転げた。
「君と話をしていると、世の中は、せいぜい二色で成り立っているような気がする」
「大概、そんなものじゃないのか」
「もうすこし複雑なはずだがな」
「そうか」
でも俺は、あんたが年上でも年下でも全然気にしない、と真面目な顔で言葉を添えた。
「だいぶ違わないか?」
「でも、あんたはあんただ、オデュッセウス」
膝を抱えた手をとられた。指の背を、アキレスの親指が撫でた。いたわり、と言うには、すこし色をはらんでいる。
そういえば、こんな騒ぎが起こってから、一度も何もされていない、とオデュッセウスは気がついた。格別に拒否をしていたつもりはないのだが。
遠慮をしていたのだろうか。
まさか、と思いつつも、意外な愛情深さを知っているから、もしかして、と思ってしまう。
子どもの手は、勇者の大きな手の中にすっぽりと納まった。
アキレスの手のひらは、硬くて、がさがさして、たいがい乾いている。焦ったり、嘘をついたり、萎縮したりすることがないからだ。
引き抜けば、たぶん、あっさりと見逃してくれるだろうけれど。
「……私は、早く元に戻りたいけどね」
そうと言いながら、捕らえられた手はそのままだ。わかりやすいまなざしを向けても、逃げ出そうとはしていない。
「君に関しては、どっちでもいいよ。どっちにしたって」
手に負えない、と、笑ったところで抱き寄せられた。
「………ぁ………、」
自分の身体の下から聞こえる細い声に、アキレスは半ばぎょっとした。
こんな声。
甲高いような、すこしかすれた、不安定な声をあげられて、セックスの最中に、生まれて初めて動揺した。
十五年の時を戻したオデュッセウスの身体は小さく、華奢で、あまりにきれいに腕の中におさまってしまう。
オデュッセウスを初めて抱いたときは、まだ彼の方が若干身長が高いくらいで、当然のことながら充分に大人で、だから、こんなオデュッセウスは知らない。
最初の動揺が去ってしまうと、その事実は、深くアキレスの胸に染み込んだ。
たとえば、男を受け入れるのが初めてかどうか、と言うような、下世話で即物的なことではなく、ただ、自分が知らなかった想い人の姿や、仕草や声、を、こうして目の当たりにしている、ということの歓喜を、だ。
首に回された腕の細さだとか、痛ましいほどに飛び出て見える鎖骨のくぼみ、逆に、ほとんど目立たない喉の突起と言った、そんな違いはいくらでも目に付いて、この先、オデュッセウスが元に戻ったときにも、きっとそういったことを思い出すのだろうと思った。
比較するのではなくて、ただ、過去と現在をそうしてつなげて想うことだろう、と思ったのだ。
それは。
ふと、指先の動きを止めたアキレスに、オデュッセウスが固く瞑っていた目を開けた。どうしても、最初のうちは目を閉じるくせが抜けない。もうさんざん、と言っていいほど身体を交わして、不安に思うことも、戸惑いも、今さらありはしないのだけれど。
「……アキレス?」
見上げた恋人は──今だけ、年上の──、何だかひどく怖い顔をしていて(実は困惑していただけだ、と後で知れたのだが)、一体何があったのか、とオデュッセウスは目を見開いた。何か見えるのか、ととっさに周囲を見回してしまったほどだ。
「──ひょっとすると、俺のせいかも知れない」
「……何が?」
ぽかん、とオデュッセウスが問い返す。脈絡のない言葉はもちろん、アキレスがこういった行為のさなかに、違うことを話し始める、というのが珍しいことだったので。
「あんたが、そんなふうになったのが」
「ええ?」
何だって、と訊き返す。その唐突な告白は何なのだ。
「君の?」
どうやって、と言いかけて、そんなことはありえない、とオデュッセウスはすぐに思った。これは、人間の手でどうにかなるような、そんな説明のつく出来事ではないはずだからだ。
では、一体、この獅子は何を。
片肘をついて、すこしだけ身体を持ち上げた。指先をアキレスの髪に差し込んでみる。金の糸が、さらさらと指の間をこぼれた。豪奢な金髪は、オデュッセウスの気に入りだ。
しおらしげな顔などしたって、大きな体躯では可愛らしくとも何ともないぞ、とオデュッセウスは口元を緩めた。この獅子を肩に乗せて、遠くを行く船を見送ったのは、もうはるかに昔の話だ。
自分たちも船に乗って、海の果て、水が落ちているところまで見に行こう、とはしゃぐ子どもに、「君がもうすこし大きくなったら」などと言ったこともある。
世界の果ては、まだ見たことはないけれど。
「一体どうしたと言うんだ、急に。
過去神
の機嫌でも損ねたのを思い出したのか?」
アキレスは、のしかかる体勢のまま、少年に戻ったオデュッセウスを見下ろした。
「ここにいるのは、俺の、知らないあんただ」
「……そうだな」
記憶にない、というだけでなくて、まるきり、まだ会ったこともない、オデュッセウス。
知りたい、と思ったことはないつもりだったけれど、もしかしたら無意識のうちに、そうと望んでいたのかも知れない。
それは、独占欲だろうか。それでなくても、自分たちの間には、十年の時間が横たわっている。
「ふうん?」
オデュッセウスは小首をかしげた。だから、というアキレスの言葉を、あまり真剣に取りあっているふうではない。
そんなことがありうるだろうか、と思うからだ。
しかし、わが身に起こった出来事が、そもそもありえない状況なのだから、ありうると言うなら、何だってありうるのだろう。
そうだなあ、とオデュッセウスは考え考え、言葉を探した。
「君は、心が強いから」
何かを欲することに、いささかのためらいもないアキレスの強さを思う。彼は、手に入れるときも、失くすときも、全部、だ。美しく言うなれば潔い。多少、馬鹿でもある。
だからこそ、この獅子がひるまず望めば、神々とても心を動かされることもあるだろうか、と思った。
「──まあ、もし君のせいだと、確実に決まったら、改めて謝罪を要求するよ」
そうなってから考ればいいだろう、と、さきほどアキレスに言われた言葉をそのまま返した。
「とりあえず」
年若いオデュッセウスは、外見にふさわしからぬ艶っぽい笑みを浮かべて、アキレスの耳元で囁いた。
「今は、さっきの続きをしよう」
そのころ、陣地の中で一番大きな天幕の中で。
オデュッセウスの機嫌をそこねてしまった大王は、わかりやすくしょんぼりと肩を落とし、かたわらの賢者にぐちぐちと言い訳を垂れ流していた。
ネストル老は、いやまったくそうですな、と言葉だけは従順に、しかし頭の中では違うことを考えている。
「ネストル」
「何でございましょう?」
「あれは……かように扱いにくい子供であったか?」
オデュッセウスが実際にあれくらいの年齢だったころを知っている。
しかし、あの頃のオデュッセウスは、もっとおとなびた、落ち着いた物腰の少年だったように思う。……というか、確かにそうだった。
「それは、気を張っていたからでありましょう」
小国の、それも王子の身でミュケナイの王に引きあわされれば、誰であろうと緊張せずにはいられまい。
あのころは気づかなかったが、あれで、オデュッセウスは懸命に虚勢をはっていたのだろう、とネストル老は思っていた。
「むう……」
アガメムノンが、喉の奥でうめき声をあげる。
物怖じなどせぬ、口の減らない、かわいげのない子供であったが、それでもあれはあれなりに気を張っていたのか。
「おとなしく怖じ気づいて見せれば、わしとても態度の変えようがあったものを」
なんだ、つまらぬ、と、可愛い盛りの子供時代を見そこねた父親のような顔をして、天下の霸王は口元を曲げた。
END
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