きずあと 2
◆◆ 二話 ◆◆

忠実な副官に呼ばれて、天幕から出てみれば、そこには珍しく固い表情を浮かべて両足をふんばっている、幼い軍師がいた。
あれから一週間、いまだオデュッセウスは少年の容姿のままだ。
そでのない短い上着と、一枚布を巻きつけただけに見える腰衣は、アキレスが好んで着るのと同じタイプだった。ただ、アキレスは海のような鮮やかな青を好んだけれど、オデュッセウスのものは、(本人の意向どおりに)少々の汚れなら目に付かないような、ずっと色の濃い、深い紫色である。生地もさらさらと肌触りが涼しいことと、丈夫なことくらいがとりえの粗いものだ。のぞむなら、蜘蛛の糸をつむいだような、薄く柔らかな織物の、典雅な衣装を贈ってやるのも簡単だと言うのに、本人はそれで、いたくご満悦のようだった。
「アキレス」
「? 剣なんか持ってどうした、オデュッセウス」
「相手をしろ」
「なんだ急に」
剣を差し出しながらの台詞なのだから、色めいた話ではない。
しかし、オデュッセウスを相手に、武具を使っての鍛練など、もう十年近くもやってない。アキレスがまだ子供のころには、ねだり倒して相手になってもらったものだけれど、オデュッセウスのほうからそんなことを言いだすのは、長い付きあいの中でも、初めてのことだった。
「今、自分がどれくらい戦えるのかを確認しておく必要があるんだ」
だから、相手をしろ、とオデュッセウスは言う。
記憶はそのままでも、身体は少年のものだ。技は忘れなくとも、力がついて来るまい。腕の長さも足の長さも違うのだから、間合いの取り方とて違う。
「……それはいいが」
まさか、その 姿 なり で戦場に出るつもりじゃないんだろう、と言いかけて、アキレスは実に珍しく分別を見せ、その言葉を飲み込んだ。それは賢明さというよりも、本能が発した警告に耳を傾けたがゆえの判断だった。今、うっかりそんなことを言えば、オデュッセウスはどうしようもなくヘソを曲げてしまうに違いない、と、絶対の確信がある。
それに、何故突然そんなことを言い出したのか、その理由にも見当がついた。
若返ってしまったオデュッセウスにとまどっているのは誰もが同じで、どうすればいいのかわからないままに、現状を受入れることしかできないでいる。
中身が変わらないと頭では理解しているつもりでも、実際目に映るのは十二、三歳の少年なのだ。背は低く、肩は細く、まだ声変りすら満足ではないオデュッセウスは、戦士と言うにはあまりに華奢で、儚く見えた。
ゆえに、アガメムノンもメネラオスもネストルも、意識的にせよ無意識にせよ、オデュッセウスを外見相応の少年のように扱おうとする。
議事の場で意見を求めることはしても、戦場で剣をとって戦え、とは誰も言わない。明日の出陣にも、イタケ王およびケパレネス軍は参加しなくていい、と、先ほどの軍議でそう決った。
侮っているわけではなく、むしろそれは労りだったが、オデュッセウスには、どうにもそれに納得できなかったようだ。
誇り高く、なおかつ、これで存外、頑迷な男である。
けっして他者にへりくだらない、アキレスのプライドの持ちようとは異なる。オデュッセウスは、必要とあらば膝をつき、こうべを垂れることも厭いはしないが、みずからの能力を軽んじられることは好まなかった。
けれど、同時に、今の己では充分な戦力にならぬ、とわきまえる理性も持ち合わせていて、だから今、自分がどれだけ戦えるのかを、はっきりと知っておこうと言うのだろう。
さあ、と剣を突きつけられ、アキレスはどうしたものかと考え込んだ。
「……相手をするのはかまわないが、真剣はやめろよ」
「何故だ」
ぴり、と目許がとがる。人好きのする笑顔が身上のイタケの王だが、そうした表情を浮かべれば、さすがに一国一軍を率いるだけの厳しさがある。
……もっとも、アキレスはそんなことに恐れ入ったりはしないけれども。
それにしても、オデュッセウスにしては短気な反応だ。こう見えて、多少は焦っているのだろうか。
「私に怪我をさせないように、とでも気遣ってくれるのか?」
「まあ、それもある。──怒るな。あんただって、自分が、普段どおり戦えるとは思ってないだろう」
今のオデュッセウスが、どれほどに剣を使えるか、アキレスにもはかりかねる。うかつなことをして、怪我でもさせるようなことになっては、あとあと、面倒ばかりが増えるではないか。
「新兵じゃあるまいし、今さら、本物の刃に、怖気づくイタケ王でもないだろう」
だったら、木剣でいいじゃないか、とアキレスは言った。
筋の通った説明を聞かされ、オデュッセウスは、しぶしぶであったが、納得した。


力まかせにぶつけ合う木太刀の音は、澄んで案外と遠くまで響く。
アカイオスのひとびとは、どこから、と顔をめぐらせたが、音の源は近くではないらしかった。
せせこましく天幕を張った陣地では、思うように動けぬと、二人は気軽に自陣を抜け出した。供も連れずにたった二人で、そういうところは、似た者同士だ。
アキレスがそばにいれば、危険などありえないから、と、オデュッセウスはのんきな信頼を寄せている。万人が恐れる獅子の牙も、イタケの王にはなんら脅威ではないらしい。
けれど、今、アキレスと向かい合ったオデュッセウスは、もうすでにだいぶんと息を上げていた。巻き毛の先から、汗がぽたりと落ちている。
思った以上に、記憶と現状の間に格差があるようで、動作のひとつひとつが馴染まなかった。
斬り込む剣の先は、すべて軽々といなされて、どうあっても懐までは届かない。アキレスの剣は、半分が鍛錬、半分が本能のようなもので、きわめて自己流である。誰かに教えられたものではなく、誰かに教えられるものでもない。無駄があるようでいて隙がなく、どこから剣先が出てくるのか、予測を立てるのが難しい。それでいて、こちらの攻撃は、まるきり呼吸をするような自然な動作でかわされてしまうのだから、肉体的のみならず、精神的にも疲労するのだ。
オデュッセウスは、アキレスに対峙した敵兵の苛立ちと焦りを、初めて身を持って体験した。
もっとも、実際の戦とあれば、苛立ちなど感じる前に、彼らの首は、胴から離れていることだろうけれども。
「う……っ」
がん、と刀身部分を強打されて、ひじの辺りにまで痺れが走る。取り落としそうになった木剣を両手で握りなおした。
「オデュッセウス。まだやるか?」
別に嫌というわけじゃないが、と言葉を添えて、アキレスが尋ねた。涼しい顔で、汗など浮いてすらいない。
嫌な男だ、とオデュッセウスは唇をとがらせる。
もう一度、と言いかけて、思いなおした。これ以上は、ただの意地だ。本来の目的はとうに果たした。
「──いや、いい」
予想をはるかに下回る己の力に、知らず肩が落ちた。
もちろん、その辺の兵士と闘って引けをとるとは思わないが、慣れない身体(というのもおかしな話だが)である以上、危険は大きい。
これでは、エウリュトス王の大弓をひくことなど、夢の夢だ。
「それはしかたないだろう。あの弓は強弓だ。普通の男なら、弦を張るのも難しい」
アキレスですら、渾身の力を要するあの弓を、オデュッセウスが扱えることのほうが不思議なほどだ、と思っているが、それは言わない方が賢明だ。たぶん、力ではなく、何かコツがあるのだと見切っている。
だからと言って、誰でもができることではないのだから、今のオデュッセウスの手には余ることだろう。
無茶を言うな、と、誰より猪突猛進のアキレスにたしなめられて、オデュッセウスはますます落ち込んだ。
「君が十三の歳で、もう一人前だったことを考えると、情けない限りだ」
アキレスの初陣は五年も前の話で、けれど、その戦いぶりは、今でも語り草になるほどの鮮やかさだ。オデュッセウスもその場にいた。そのときは、年若い友人の軍功に、ただ晴れがましい思いだけを抱いていたものだけれど。
木剣に顔を伏せ、ああ、と嘆いたオデュッセウスに、アキレスはどうしたものか、と考え込んだ。
「……みなが、そんなふうに戦えれば……俺は、獅子とは呼ばれない」
秀でた力を持つからこそ、アキレスは英雄であり、獅子だ。
「誰もがあんたと同じように考えられれば、あんたも知者とは呼ばれないだろう」
「それは、そうだが」
どうやらアキレスは、不器用ながらも、オデュッセウスを慰めようとしているらしい。
まじまじと顔を見上げると、ことさらに不機嫌そうな表情を返された。
照れ隠しか。
慣れぬ気遣いをしている、と自分でもわかってはいるらしい。それほど自分は意気消沈して見えたのか、とおかしくなる。こんなにも、たどたどしいやり方をされたのでは、子ども扱いするな、と反発するのも馬鹿らしかった。
「出陣はやめておいたほうがいいか」
「ああ」
迷いなくアキレスはうなずいた。事実は事実だ。
オデュッセウスもわかっていたのだろう。仕方もない、と、一度天を仰いでから、帰ろうか、と笑った。


陣地へ帰ると、オデュッセウスは、アキレスに連れられて、まっすぐに彼の陣屋へと引き込まれた。天幕をくぐる前に、副官を呼びつけていたから、いかがわしい目的ではあるまい。
何だ、と思っていたら、ほどなくエウドロスが薬草を持って現れた。生葉もあれば、乾燥させた実や根もある。
「アキレス?」
「打ち身に効く。塗っておかないと、明日、肌がまだらになるぞ」
加減はしたが、元々が力の強いアキレスである。ことに相手は子どもの身体であるから、放っておけば、明日はあちらこちらが紫色に変色してしまうことだろう。
「そうか」
アキレスの狭い陣屋に、生葉のすりつぶされる青臭さや、乾燥させた根のほこりっぽい匂い、それらを混ぜるための酢の香りなどが立ち上った。
「卵があれば良かったのですが……」
あいにく、と言いながら、それでもエウドロスは手早く丁寧に薬の調合を終えた。
「半分はお持ち帰りになって、寝る前にもう一度塗りなおしてください。それと、こちらの葉を入浴の際に湯にお入れくださいますよう」
「ああ……世話をかけた」
「いえ。では、私はこれで」
後はよろしくお願いします、とさも当然のようにあるじに仕事を押し付けて、エウドロスは頭を下げて出て行った。
オデュッセウスがあるじの想い人である、ということへの気遣いだろう。まさかに「そこまで面倒は見ませんよ」という副官の意思表示ではあるまい。エウドロスは、アキレスに対して忠実すぎるほどの忠義者で、いい部下を持っている、とオデュッセウスはつねづね感心していた。
「──何を笑っている」
「いや、ああも見事に『テッサリアの英雄』に仕事を言いつけられるのは、彼と、テティスさまくらいだろう、と思ってな」
それはあまり愉快な指摘ではなかったので、アキレスはぎゅっと眉宇を寄せた。しかし、むきになって反論するには、事実でもある。
ただ、第三者がそこにいれば、言った当人のイタケの王もその中の一人である、と指摘したことだろう。──口に出すか出さぬかは、ともかくとして。
「──冷たい」
綿布に塗られた薬草が、ひやりと肌の熱を奪った。
「痛いか」
「今は、それほど痛くはない。熱を持ってる感じがするだけだ」
「明日が辛いぞ。夜、ちゃんと貼り変えておけよ」
「貴重な薬じゃないのか」
ふと思いついて訊いてみた。
「……別に。また手に入る。使うために持ってきたんだから、それでいい」
綿布を巻くしぐさはこなれている。予想外だと思いながら、うつむいた顔に、金色の髪が落ちるのを見ていた。まっすぐな背骨と、隆起した背中の筋肉が美しい。闘うために作られた身体だ。
「何だ」
視線を感じたのか、アキレスがふと顔を上げた。
「いや……馴れてると思って。君でも怪我をするのか」
テッサリアの英雄、黄金の獅子、と呼ばれるようになるまでの過程で、こうして治療にも慣れなくてはならない事態もあったのだろうか。
「そりゃ、俺とて、怪我もする。あたりまえだろう?」
「そうか」
あたりまえなのか。
そう考えれば、意外に自分はアキレスのことを知らないのだろうか、と思った。オデュッセウスの記憶にあるアキレスは、いつも年齢不相応の剣技でもって相手を叩きのめしていて、傷を負うことなど、なさそうであるのに。
「あんただって、するだろう」
あの、猪につけられた傷とか。
「あれは、特別だ。あんな怪我を年中していたら、どこかで生命を落とすに決っている」
「くじらのごとき大猪だからな」
くくっ、と喉の奥で、過ぎた日のイタケの王子のホラを笑った。
「……ここにも」
くるぶしのあたりに薬草を貼っていたアキレスは、オデュッセウスのかかとにある古傷を指した。痕があるのは知っていたが、いつの傷かは訊いたことがない。大きくはないが、深そうな傷だった。両側の皮膚がひきつれている。
「ああ、それは……」
違うんだ、とオデュッセウスが気まずげに言った。
「違う?」
「うん……その……戦場や鍛錬でついた傷じゃなくて」
「割れた陶器でも踏んだのか」
あんた意外にそそっかしいから、とアキレスが唇を緩めた。
「いや。──子どもの頃、梨の樹に登ってて」
「梨の樹?」
「前年に、父からもらった私の樹だったんだが、その年、季節外れに実をつけたんだ。それで」
「採ろうと思ったのか」
「……そう」
「で、落ちた?」
「…………そうだ」
ぎこちなくうなずいたのは、さすがに気恥ずかしいからだろう。子どもの外見だから、ただのやんちゃにしか見えないが、中身は充分な大人なのだ。
それからオデュッセウスは、「落ちたところに小石があって、それが刺さったんだ」、と早口で付け足した。
「…………」
「…………は、」

ミュルミドネスの者たちは、突如として響き渡った、彼らのあるじの笑い声に、一体何があったのか、とお互いの顔を見合わせた。

 
2010.05.15再録