静夜1
オデュッセウスの持ち出した策に、軍議の場はざわりと揺れた。
「木馬、だと?」
「はい。もちろん、子供の玩具ではありません。大きな……さよう、戦士が30名ほど入れる巨大なものです」
神への供物という体裁をとったその木馬だけを残し、ギリシア軍は退却したかのように見せかけて、近くの島へ軍船を隠すのだと、軍師は言った。
「トロイの城壁は厚く、守りは堅い。ヘクトルを失った今、こちらへ打って出るよりも、中にこもってギリシアが諦めるのを待とう──そんな空気は一層濃くなっているでしょう」
正面からの攻撃では犠牲者を増やすばかりだ。
外から開かぬ扉なら、内側から開かせるのです、と言ったイタケの王に、外側から力づくで攻めることばかりを考えていた諸王は、むう、とうなり声を出した。
「──木馬だと?」
「いやなるほど、面白い案ではないか」
「確かに、あのトロイの城壁は、めったなことでは破れまい」
「しかしな」
ぼそぼそと顔を見合わせて話し合う王たちを、オデュッセウスは黙って見守っていた。
アキレスはその静かな横顔にちらりと目をくれる。これからどんな反論がくるのかはもちろん、その答えも用意した上での発言なのだと思う。むしろ、誰が言い出すかと楽しみにしているようにすら見える。
オデュッセウスの緑の瞳が、それと知られぬようにぐるりと座を一周し──止まったところと、その人物が口を開いたのがまったく同じタイミングだった。
「──なるほど、オデュッセウス殿、これは独創的な作戦ですな」
そう言い出したのは、アガメムノンの参謀ネストルだった。老齢の賢者は、オデュッセウスと共に、アガメムノンの大事な知恵袋で、相談相手だ。そして、どちらも、暴走しがちな覇王に恐れ気もなく進言できる、数少ない臣下でもある。
仕事を離れてまでの付き合いはないが、他の人間なら十説明せねばならないところを、二、三の言葉で理解しあえる彼らは、お互いの知恵と知識を認め合っていた。
「ですが、幾つかの不安点もありますな?」
「はい」
オデュッセウスは素直に認めた。ネストルはそれだけで、この軍師が解決策を持っていることを悟ったが、そのまま質問を続けた。
こういうことは、全ての人間──十の事実の説明に十五の言葉が必要な輩──にわかるようにせねばならない。
「まず、一つは最も基本的なことです。木馬をただ転がしておいても、トロイ側が引き入れるとは限りませんな」
「ええ、私ならその場で焼き捨てるでしょうね」
「それではあたら30名の兵士を失うことになる。それに──何を理由にわが軍が引き上げるということに? 幽霊にでも怯えたことにしますかな?」
ネストルの言葉に、王たちが少し笑う。オデュッセウスも、あの魅力的な笑顔を見せてから、説明を始めた。
「正直に言いましょう。前者については賭けです──が、決して勝算は低くない。プリアモス王は信心深いことで有名ですから、私のように疑り深い人間とは違って、神への供物を焼いたりはしないはずです」
「……ふむ。確かにあの御仁なら、神への捧げ物にいきなり火をつける可能性は低い」
「ついでながら、ギリシア軍が引き払ったとなれば、木馬は勝利の証ともなりましょう」
「トロイの城壁を破れなかったギリシア軍の愚行を後の世まで伝えようというわけだ」
「そうです」
歯に衣着せぬオデュッセウスの言い様に、諸王の中から不満げな声が起きた。
しかし、今現在まで強固な城壁を破るどころか、母なるトロイの裳裾にすら触れることができずにいるのは厳然たる事実であるから、その声も大きくなることはなかったが。
「ネストル殿のもう一つのご質問については──疫病が流行ったということにします。こんなところだ、充分にありうることでしょう?」
容赦ない日差しの中、物資の補給も簡単にはいかない敵地の海岸での戦闘が続いているのだ。
負傷兵もいる、死者もいる、火葬場もある、そんな中では疫病が流行ることも、それによって一つの軍団が壊滅することも珍しいことではない。その疫病が恐ろしい勢いで広がったとすれば、トロイを諦め、ギリシア軍が撤退したとしてもおかしくはなかった。
「なるほどな、オデュッセウス。だが、そうと知らせるには証拠が必要だ」
それまで参謀と軍師のやり取りを黙って聞いていたアガメムノンが、口を開いた。肘を突いたままの自堕落な姿勢だったが、その瞳は鋭くオデュッセウスを見ている。
イタケの王は玉座のミュケナイ王をまっすぐ見返した。
「疫死人はどうするつもりだ?」
死人もいないようでは、トロイ側もギリシア軍の撤退を怪しむであろうし、それを怪しまれては木馬の計略そのものが危うい。
オデュッセウスは感情のこもらない声で答えた。
「────志願兵を募ります」
「志願兵?」
「そうです。遺族への充分な手当てを補償してください。そして、苦しくない方法で……」
疫死人は作り出すのだ、と知恵者は言う。
その意味が各王の頭に染み渡ったとき、再び座がどよめいた。
その騒ぎをオデュッセウスは冷たいとすら言える表情で見ている。
「オデュッセウス殿、それは──兵士でなくてはなりませぬか? 彼らは大事な戦力ですぞ。奴隷に言い含めれば──」
「奴隷ばかりがかかる疫死病があるなら教えていただきたいものですな。それに、あなた方が天幕の内にいる間にも、兵士は戦って死んでいるのですよ。そう命令しているのはご自身です。お忘れなきよう」
ぴしゃりと相手を黙らせておいて、オデュッセウスは決断を仰ぐようにアガメムノンを見た。一切の表情を消した彼は人ではなく、一体の彫像のようにも見える。翡翠色の瞳だけが鮮やかな色彩を放っていた。
オデュッセウスらしくないやり方だ、とアキレスは思った。
大概はあの柔らかな笑顔と物腰でそうと気付かれぬうちに、自らの策術に引き込んでおいて、気付いたときには相手はもう完全に掌の上で転がされている──しかも自ら望んで──というのが常のパターンなのだが。
こんな風に事務的に話を進めようとするということは、この作戦をオデュッセウスが気に入っていないということだ。
「……なるほどな」
ギリシア軍の総大将はそう言うと、おどけたしぐさで肩をすくめて見せた。
「時折わしはお前が怖いよ、オデュッセウス。無害そうな笑顔の後で、すぐにそんな案を出してみせる」
それは了承の言葉であり、彼の作戦が受け入れられたということだった。
オデュッセウスはそれとわからぬほどのため息をついて、言われた通りの笑顔を浮かべて見せた。
「──ほめ言葉だと受け取っておきましょう、王よ」
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