静夜2
「オデュッセウス! オデュッセウス!!」
アガメムノンの陣屋を出たアキレスは、急ぎ足でイタケの王を追った。
羊皮紙を握った軍師はざくざくと砂を蹴散らして脚を進める。アキレスは小走りに駆け寄るとその腕を引き寄せた。
「聞こえてるくせに!」
返事くらいしろ、と言いかけた言葉は、オデュッセウスの表情でかき消された。
トロイ攻略の秘策を提案し、ギリシアに希望をもたらした知将は、ひどく傷ついた顔をしていた。
「……オデュッセウス」
あの作戦には反対なのだ。
誰より、この男が。
まあ、そうだろうとは思う。己の野望の前には、兵の命など消耗品としか思ってないミュケナイの王とは違い、オデュッセウスは無駄な犠牲を嫌う。無論、戦闘に死者はつきものだが、死なずにすむものなら、誰も死なせたくはないのだ。
けれど、やっかいなことに、この男の頭と感情は直結していなかった。
軍師としてのオデュッセウスには戦況が見える。そこにいるのは命を持った数万の人間ではなく、数値の上での戦力だ。
数十人の犠牲で数万の兵士が助かるのならば、それは戦術として充分成功と言える。
そう判断をしたのがオデュッセウスの頭であり、その考え方を厭うているのがオデュッセウスの心だった。
「──くそっ、何が知将だ……! 味方殺しなど……無能を通り越して有害な将だ」
忌々しげに吐き捨てて、オデュッセウスは手にした羊皮紙を握りつぶした。
「──最大の成果を得るのに、最小の犠牲ですんだなら、それは成功だ」
アキレスの言葉は真実だったが、オデュッセウスの苦悩を軽減するものではなかった。知将の揺れる瞳がギリシア屈指の英雄へと向けられる。
「……君とは違う。私は彼らに戦う場すら与えてやれない」
苦しまぬ方法で──と言ったところで、苦しみのない死などない。
いくら金を積まれたところで、遺族の哀しみが薄らぐ訳でもない。
天涯孤独の者だとて、彼の死を悼む友人くらいはいるだろう。
それでも、誰かの犠牲は必要だった。トロイ側を完全に罠に嵌めるために。
オデュッセウスは肩を落し、諦めたように首を振った。
「──聞かなかったことにしてくれ、アキレス。将が迷っては兵は立ち行かぬ」
兵たちが求めるのは、揺るぎなく自分たちを導いてくれる将だ。彼の下ならば戦神の祝福が約束され、冥府の神は自分たちに道を空けるだろう、と思わせ、戦場を駆ける力を与えてくれる。そういった将の下でなら、兵士達は高い士気を保ち、実力以上の力を発揮するものだ。
武によってそれができるのがアキレスであり、智によってそれを成し遂げるのがオデュッセウスだった。
そのために彼がどれほど苦悩し、迷い、身を切られる思いで決断を下したかを知らせる必要はない。
常に勝利することがアキレスに求められているように、彼に求められているのは、常に正しく、冷静であることであり、おそらくそれは、『狡猾』と言われるくらいでちょうどいいのだ。
「私のことは、兵殺しとでも冷血漢とでも好きに呼ばせておけばいい」
半ば捨て鉢に言って、腕を振りほどこうとしたオデュッセウスを、アキレスは逆に力まかせに引張った。ぐいぐいと引かれて、オデュッセウスはたたらを踏みそうになる。
「アキレス!?」
「戦において最上はない。だが、最善はある。あんたが撰んだ方法は、現時点では最善の方法だ」
「次悪の策に過ぎない!」
「尻尾を巻いて逃げ帰るよりマシだ」
低い声で何事かを囁きあいながら陣地を抜けていく知将と勇将の姿を、他の兵が目を丸くして見ていた。
「マイ・ロード?」
行き着いた先、アキレスの陣屋の周りで二人を迎えたのはミュルミドンの将エウドロスと、その部下たちだった。
「戦利品だ、エウドロス」
「誰が戦利品だ!」
失礼な物言いにオデュッセウスが噛みつく。
アキレスの兵がイタケ王に遠慮しながら笑顔を見せた。
「ようこそ、オデュッセウス様」
「イタケの王」
知恵の女神 アテナ の申し子よ」
「エウドロス、酒を回せ。酒宴だ。それから、誰かイタケの兵も呼んでこい。貴殿らの王はアキレスに拉致された、返して欲しくば酒を持参せよとな!」
「アキレス!」
「いいから座れ」
抗議の声は右から左へ流されて、逆に無理矢理その場に座らされてしまう。すかさずその膝に酒壷が置かれた。
「アーキーレース! お前は……」
「あの策の発布は明日の朝だろう。忙しくなるんだから、今夜のうちに飲んでおけ」
アキレスは自分も酒の壷を手に、オデュッセウスの隣へ座り込んだ。
彼の兵たちは、そんな二人の様子を窺いながら酒を運んだり、肴を運んだりしつつ、自分たちも酒宴の環を作り上げていく。
主を見る彼らの表情が、かがり火のせいだけでなく明るいことに、オデュッセウスは気付いた。
(──そうか)
おそらく、パトロクロスを亡くして以来の酒宴なのだろう。その後に続いたヘクトルとの一騎打ち、プリアモス王との邂逅、ブリセウスとの別れ、とアキレスの周りは明るい話題に飢えていた。
主の深い哀しみを知るだけに、アキレスが友を連れ、幾許かでも笑顔を見せ、酒を所望する姿を見るのは、部下にとって嬉しいことなのだった。
大事な糧食を惜しげもなく盛った銀の皿が、どうぞ、と二人の英雄の前に差し出される。酒と、肴と、隣に座る黄金の獅子と、彼らを見つめる部下たちとを一渡り見回した挙句、オデュッセウスは干した果物に手を伸ばした。
アキレスの言うとおり、明日からは目の回る忙しさになるだろう。
今夜くらい、バッカス神の力を借りたところで不名誉の謗りは受けまい。
友を真似て、壷から直接葡萄酒をあおる知将を、アキレスは面白そうに見た。
「無理はするなよ。お育ちのいい王は、そんな飲み方は慣れんだろう」
「飲めと言ったのはお前だろう。今さら酒を惜しむのか」
「惜しみはしないが、二日酔いの頭で頭脳労働は辛かろうと心配してやってるんだ」
どこまでも自分を肴にしたいらしいアキレスに、オデュッセウスは「私は獣と違って己の酒量くらい心得ている」と不機嫌そうに切り返した。「それは失礼」と笑ったアキレスは底なしのザルで、いまだかつて二日酔いというものを体験したことはなかった。
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