夢夜1
先に目を閉じたのはアキレスだったが、ヒュプノスの恵みを受け取ったのはオデュッセウスだった。
聞こえてくる微かな息が深くなったことに気付き、アキレスはそっと頭を上げる。
知将の身体は何の抵抗もなく、くたりとアキレスに寄りかかった。
おそらく、しばらくの間まともに眠っていないのだ。──もしかしたら、トロイに着いてからずっと。
ようやくトロイ攻略の目処が立って気が緩んだのだろう。
王などという生物は他人の奉仕を当然のように受け取って踏んぞりかえっているものだとアキレスは思っているが、イタケの王は腰が軽いというか、苦労性というのか、他人にまかせておけばいいことでも、自分で動いてしまう傾向があった。
彼には彼にしかできない仕事が山とあるのだから、どうでもいいことは他人に押しつけるくらいの要領良さを身につけるべきなのだ。
とはいえ、その王らしからぬ彼の態度が、アキレスとオデュッセウスとの信頼関係を結びつけているのだったが。
三つほど数える時間の後、アキレスはオデュッセウスに向き直ると、その身体を抱き上げた。眠る人間の身体は重いものだが、自分とほぼ同じ身長のオデュッセウスを支えても、アキレスはよろめきもしない。
驚いて声を上げようとする兵士達に、獅子は一瞥で沈黙を強制した。それから、呆れたように腕の中のオデュッセウスを見下ろして笑って見せる。
「寝かせてくる」
小さな声でそう告げて陣屋へと足を向けると、背中の方で声にならない静かな笑いが広がるのを感じた。



咽喉の乾きで目を覚ましたオデュッセウスは、自分が見知らぬ場所に眠っていたことを知った。
夜のこととて、辺りは真っ暗だったが、寝台から見える入口の位置がまず違う。
慌てて起き上がって周囲を見回すと、隣から低い笑い声が聞こえた。オデュッセウスのよく聞き知った声だ。
「起きたのか、イタケ王」
「……アキレス?」
ではここはアキレスの陣屋か、と息をついて、自分が宴席の途中から記憶をなくしていることに気付いた知将は愕然とした。
「アキレス──その、私は……」
「だから言ったろう? 『無理はするな』と」
アキレスは慣れた手つきで水差しを探ると、ゴブレットを差し出した。アキレスが楽しげに笑っているだろうだけに業腹ではあったが、乾いた舌では言いたいことも言えぬ、とオデュッセウスは素直に水を受け取った。
一息に飲み干すと、ようやく頭も舌もゆるゆると回転を始める。
「もう一杯?」
「いや、いい。ありがとう」
器を返すと、アキレスは自分のために水を注いで、やはり一息で飲み干した。
「私は眠ってしまったんだな」
ため息と共にオデュッセウスは言った。恥じているというより、少しばかり拗ねたような口調だ。
いいように揶揄してやろう、と待ちかまえているに違いないアキレスへの牽制でもあったかもしれない。けれど、アキレスはひどく真面目な仕種でオデュッセウスの髪をかき上げてこう言っただけだった。
「疲れてたんだ。ちゃんと寝てなかったんだろう」
それは、来る、と構えていたところへ剣でなく真綿で触れられたような肩透かしで、オデュッセウスは少なからず驚いた。
目を上げると、まっすぐな獅子の視線とぶつかった。
彼は視線をそらすということをしない。いつだって強い意志を持って対象を捉えるそれは、多かれ少なかれ、相手の感情を刺激した。
それは、ある者にとっては威嚇となり、ある者にとっては挑戦となり、ある者にとっては侮蔑となる。
そして、ごく一部の者にとっては深い愛情の表れであり、また別の者にとっては──抗いがたい誘惑だった。
美しい黄金の獅子。
「君こそ──ずっと起きてたんじゃないのか?」
オデュッセウスが飛び起きたとき、アキレスは目を覚ましていた風だった。まだ夜明けは遠い。
ならば、彼は眠らないまま寝台に横になっていたのではないのか。そう問うオデュッセウスに、アキレスはけろりと答えた。
「ああ、ずっとあんたの寝顔を見てたから」
「ね……っ」
「子供みたいで可愛かったぞ」
年下の勇者にそう言われ、オデュッセウスはぱくぱくと口を二、三回開閉させたが、音になるだけの言葉は出て来なかった。やっぱり自分をからかって遊ぶ気なんだろう、とオデュッセウスは憤然と立ち上がった。
「どこへ行く?」
「帰る! 大体ここにいる理由なんかないんだ。兵も心配してるだろうし」
「あんたはここへ泊めると言っておいた。誰も心配なんかしてないさ。──それに、今から帰ってせっかく平和に寝てる部下を起こすのか?」
「起こしやしない。そっと帰るだけだ」
「あんたの陣屋に人が近づいても誰も気付かないのか? それはそれで問題なんじゃないのか」
「──私を害して得するものなどいない。無用な警戒だ」
本気で言っているらしい軍師に、アキレスは、は!と心底呆れた声で感嘆詞を発した。
「知らなかったぞ。我が軍はなんて危なっかしい状態で敵地に陣を張ってるんだ」
「何だって?」
「俺がトロイの将なら、アガメムノンよりお前を殺す。その方が効率がいい。陣屋の警護がそんなに甘いと知ってれば、夜中に忍んでくるぞ」
「──何を馬鹿なことを……」
笑おうとしたオデュッセウスだったが、相手は存外と真面目らしい。何となく毒気を抜かれた形になって、彼はもう一度腰を下ろした。
アキレスがその脚に頭を乗せてきたときも、何も言わなかった。
真下から見上げてくる青年は、オデュッセウスを通り越して、どこか遠くを見つめていた。
「もっとも、あの男ならそんな卑怯な真似はしないだろうが」
静かな声にどきりとする。アキレスの言う『あの男』とは、今ごろイリオスで手厚く弔われているだろう、トロイの第一王子のことだ。勇敢で慈悲深く、公正で思慮に富んだ王位継承者。彼の治世が訪れていれば、トロイの民はさぞや健やかな年月を過ごせたことだろう。
──それも、全ては終わったことだったが。
わずかな狼狽を巧みに押し殺して、オデュッセウスは微笑んで見せた。
「君だって、そんな真似はしないさ。闘うなら戦場で私を討取るだろう」
もっとも、君とでは三合と渡り合ってはいられないな、とオデュッセウスは笑った。
戦場では自ら剣を持ち、最前線に切り込むこともある彼は、戦士としてもなまなかな腕ではなかったが、さすがにギリシア一の英雄と正面切って互角に闘えるほどではない。
アキレスは笑わなかった。
代わりに寝返りを打つと、オデュッセウスの腰を抱き込んで、腕に力を込めた。
「アキレス」
それは不埒な欲望を感じさせるより、むしろ親に甘える子供の仕種に近かったかも知れない。
腹部に強く押しつけられる金髪に、オデュッセウスは英雄の孤独を思った。
それを寂しさや弱さだと取るのは凡夫の愚かしさだ。
彼は孤高であってこその勇者だったが、空を往く鳥とても翼を休めなくては飛び続けられないように、英雄にも休息が必要な時があるのだ。
「アキレス」
逃げない、と証明するように身体の力を抜いて、オデュッセウスはアキレスの髪を撫でた。金糸の髪は、闇の中ですら明るい。
アキレスが伸び上がるようにして体重をかけてくると、オデュッセウスは素直に後ろに倒れた。
「──同情か?」
年上の策士が抵抗しない理由を訊ねて、アキレスが言った。
肯定すればこの誇り高い獅子が感情を害するのはわかっていたが、オデュッセウスはやんわりとうなずいた。
「そうだな──多分、今日は」
それでは嫌か、と問われ、アキレスはひどく不機嫌そうな顔で黙り込んでいたが、やがてぶっきらぼうに「何でもいい」と言った。聞きようによっては失礼極まりない言い方だったが、彼の気質を知り抜いているイタケの王は微笑一つで許してやった。
身体の上にアキレスの重みを感じる。
いつもは性急に事を進めようとする青年が、今日はオデュッセウスの肩に顔を埋めて、ぽつりと呟いた。
「眠れないんだ」
眠れない、とアキレスは繰り返した。
その理由を思い巡らせる、というのはアキレスの常識の範疇外のことらしく、ただ事実を告げるだけの口調は、月の満ち欠けを不思議がる子供のように幼かった。
アキレスはいつだって自分のことには無頓着だ。死すらも彼にとってはいつか通るべき通過点でしかない。
彼の前に立ちはだかるのは敵だけで、やがてそれは命だった「物」となり、彼の後ろへ捨てられてゆく。
──誰一人追いつけない速さで生き急いで、生き急いで、この英雄はきっと一つの時代を駆け抜けて行くのだろう。
今にも牙を立ててきそうな顔で自分を見下ろす獅子を、オデュッセウスは抱き寄せた。
それから、子供をあやすように戦士の背中をぽんぽん、と叩いて
「……子守唄でも?」
と言った。
言ってから、自分でその様を想像したのか、イタケの王はさもおかしそうに吹き出した。
そんな年上の男を呆れたように見つめ、アキレスは巻き毛に半分隠れた耳に噛み付いてやった。
「痛…っ、アキレス!」
「聞かせてくれるなら、歌よりももっと艶っぽいのがいい」
そうして獅子は、今夜の獲物の味見をするように、相手の耳朶をぺろりと舐めた。
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