| そこに在る場所1 |
| ──アキレスは怒っていた。 そして──オデュッセウスも怒っていた。 どちらもむっつりと唇を曲げて眉を寄せている。 普段から眉間に皺を寄せていることの多いアキレスはもちろん、オデュッセウスも笑顔をひっこめてそういう表情をすると、実はものすごく迫力がある。 両者一歩も譲らず! という雰囲気の中、エウドロスは少しばかり途方にくれていた。己の主の不機嫌には、今さらびくともしないが、普段あまり感情的になることのないオデュッセウスまでが仏頂面で黙り込み、その二人に挟まれているのではどうにも尻の座りが悪い。 多分、何を言ったところで二人の機嫌が良くなるでもないのはわかっていたが、海より深い沈黙に耐えきれず、エウドロスは静かに口を開いた。 「オデュッセウス様、うちの主は貴方のことを心配してたんですよ。──それはまあ、ちょっとばかりやり方は拙かったかもしれませんが」 「心配だって? あれが?」 エウドロスに当っても仕方ないとわかっているオデュッセウスの口調は荒々しいものではなかったが、北風のように冷たかった。 「私には、私を馬鹿にしてるようにしか思えなかったがね」 「馬鹿になんかしてない。でも俺は間違ったことは言ってない」 アキレスもまた冷たい声で反論した。 オデュッセウスの頬がひくりと引きつった。 勘弁してくれ──と、エウドロスは天を仰いだ。ゼウスでもアテナでも、この際エロスかアフロディテでもいいからこの二人の喧嘩を止めて欲しかった。 その日の戦闘は常になく激しいものだった。 トロイ側はその前の戦闘で奪われた地を取り換えそうと躍起になっていたし、ギリシア側は前日着いた補給船が運んできた、故郷からの品々──それは慣れ親しんだ酒や食物、家族から託された品物や伝言だった──で里心がついたらしく、一刻も早くこの戦闘を切り上げるためにイリオスを攻め落とそうとしていた。 志気が高いのはいいことだが、ギリシア軍の総大将はえてして無秩序な突進をさせたがり、かつ引き際を心得ていないので、オデュッセウスは心配していた。アキレス率いるミュルミドン兵が出陣しているのは心強かったが、彼もアガメムノンを制御するためには何の役にも立たないのだし。 というか、むしろ、何かと突出するに違いない黒い集団を制御する方法も考えておかねばならない、という点においては、彼らは軍師の仕事を増やしているとも言える。 とは言うものの、用兵術に関してはアガメムノンよりアキレスが上だ。彼は無茶なことはするが無駄なことはしない。アキレスは彼の要求に応えられる兵士と、そうでない兵士を知っており、応えられない兵士にまで無理をさせることはなかったし、不必要に兵を消費しようともしなかった。 結局、戦は泥仕合になり、両陣営の射的範囲外のところで全面的な白兵戦になった。 主に指揮を飛ばすだけの諸王と違い、オデュッセウスは自らも剣を取る。無論、イタケの兵は自分たちの王を最前線へ送るようなことはしなかったし、オデュッセウス自身もそこまで無軌道なことはしなかった。しかし、戦場は生き物である。 オデュッセウスは混乱に巻き込まれているうちに、深くギリシア軍に攻め入ってきたヘクトルと対面することになった。 トロイ軍の総指揮官を認めた瞬間、オデュッセウスの血がざわりと騒いだ。 かの巨漢、アイアス王をすら倒した勇将。 将としても兵としてもすこぶる付きに腕が立つ。 おそらく彼と一対一で闘って勝てる兵士がいるなら、アキレスぐらいだろう、とオデュッセウスは思っていた。──つまりは、自分などの出る幕ではない、ということだ。 それに──不思議なことに──イタケの王はこの王子にどちらかといえば好感を持っていた。そもそも憎悪というなら、オデュッセウス自身はトロイもプリアモス王も、パリスのことすらそれほど憎いわけではないし、ましてやこの地を欲しているわけでもない。 ただ戦だと言われ、ミュケナイ王の要請があったからこそここにいるだけだ。許されるものなら、今すぐ西ギリシアへ帰りたい。 そして、自分の意志とは反することでありながら、責任を負い、戦場に立っているという点が、この王子と自分の間に奇妙な共感を呼ぶらしかった。 スパルタとトロイの間の和平が成立し、『隣国の賓客』として、メネラオスの居城か、あるいはこのイリオスで出会うことが出来ていたら、有益で実りある関係を築くことも出来たかも知れない。 しかし、無論のこと、戦場で敵として会いまみえた以上は背を向けるわけにはいかなかった。闘いの火蓋はとうに落され、すでにどちらの国にも損害が出ている。彼らには退くわけにはいかない理由と守るべき人々がいるのだ。 ぶつかった視線の先に、そっくり自分と同じ逡巡を見て取った直後、ヘクトルの剣が振り下ろされた。 一合、二合と刃鳴りがし、耳障りな金属音が響く。ヘクトルの剣にはアキレスのような怖さはないが、けれん味のない剣さばきは隙がない。それに、高いところから打ち付けられる分、一撃が一撃が重い。剣撃を受け止めた盾がみしり、と嫌な音をたてた。 五合、十合と剣を合わせるにつれ、オデュッセウスは自分の不利を悟った。 これ以上長引くとまずいな、と思った矢先、右肩に痛みが走った。ぱっと紅が散り、その一瞬にヘクトルが剣を突き入れて来た。とっさに盾を振り上げ、切っ先をかわそうとする。 (だめだ──!) 間に合わない──と、思ったとき、彼は誰かに体当たりされて砂地へ倒れた。 頭の上で刃と刃の打ちあう音がする。 「この馬鹿! 下がれ!」 「アキレス!」 オデュッセウスとヘクトルの間に割り込んできたのは、右翼をまかされているはずのアキレスだった。 「──アキレスか」 突如入れ代わった眼前の敵に、ヘクトルは静かな声で言った。二度目の邂逅に、アキレスは不敵に笑って剣を構え直した。 「俺が相手だ。文句はなかろう?」 トロイの王子は黙ってうなずき、彼もまた剣を構える。 オデュッセウスは、と言えば、助けてもらったことを感謝するよりも、金色の髪の若者が目の前にいることに気をとられた。 「アキレス! お前、何でこんなところに──持ち場を離れるな!」 「エウドロスがいる、問題ない。それより、お前だ、オデュッセウス!」 ヘクトルから目を離さないまま、アキレスは怒鳴った。 「お前こそこんなとこにいるんじゃない! 軍師はしんがりで旗でも振ってろ!」 ──アキレスのために申し添えるなら、彼に悪気はなかった。 オデュッセウスは実際に生命が危なかったのだし、アキレスはそれを守ったのだ。彼が放棄した現場はちゃんとエウドロスが率いていたので、作戦はきちんと遂行された。 もっとも、トロイとギリシアの両雄の対決は結局、混乱を増した戦況に巻き込まれて実現しなかった。そしてその日、両陣営の志気の高さは同等だったとみえ、戦闘が終わったときの両陣地は始まったときとほぼ同じだった。 つまり、それだけ逼迫した戦況だったとも言える。 ゆえにアキレスとしては、至極当然のことを言っただけのつもりだった。 オデュッセウスは後方にいて全軍を指揮すべきだと思ったし、彼をヘクトルなどの前に立たせて危険にさらしたくはなかった。 しかし、これまた至極当然のことながら、イタケの王はアキレスの最後の一言にヘソを曲げた。 「『旗でも振ってろ』と言ったんだぞ、この男は!」 「それの何が悪いんだ! 軍師が最前線でヘクトルと闘うなんて、気違い沙汰だぞ。お前の部下は何を考えてるんだ」 「好きであんな男と闘うもんか。目の前に来たんだから仕方ないだろう!」 「だから、そんな心配の無いところへ引っ込んでろと言うんだ!」 その言い方がいけないんですよ、とエウドロスは主に忠告したかったが、とても口を挟める雰囲気ではない。 この二人は戦闘が終わったときからこの調子で言い争いを続けているのである。 エウドロスはこの件に関しては関わるのはやめよう、と決心し、目下のところの問題事の方へ注意を惹くことにした。 「オデュッセウス様、治療は終わりました。でも、もしかすると今晩熱が出るかも知れませんよ。熱冷ましを用意されたほうがいいでしょう」 「──ああ、ありがとう。世話をかけた」 我に返ったようにオデュッセウスが言った。 「でも私の治療でよろしいので? マカオン様に見ていた方がいいのでは?」 「マカオン殿は他に重傷者をたくさん抱えてる。これくらいで手を煩らわせる必要はないよ」 清潔な布で覆われた傷口を見て、オデュッセウスはようやっと小さく笑んだ。 その笑顔にエウドロスはほっとする。 彼の主は、オデュッセウスが軍医に傷口を見せようとしないことも不満らしく、まだ苦い顔を崩さなかったが、これ以上はエウドロスの管轄外だ。 分をわきまえた有能は副官は、黙って治療道具を片づけると、主の陣屋を辞した。 去り際にちらりと振り返ったエウドロスの目には、イタケの王に向って手を伸ばすアキレスの姿が映った。 「無事逃げられたの?」 笑いを含んだ声に顔を向けると、主の従弟が陣屋の脇にぽつりと立っていた。 「パトロクロス様。……アキレス様にご用で?」 「ううん、違う違う」 とんとんと砂地を跳ねるような足取りでやってきて、パトロクロスはエウドロスの隣に並んだ。 「あなたを助けに行こうかな、と思ってたんだけど」 「私を?」 またどうして、と蒼い瞳を見開いたエウドロスに、パトロクロスはいたずらっ子のような顔をした。 「大変そうだったから」 その一言に込められた様々な含みに、エウドロスはあやうく吹きだすところだった。 「それはそれは──お気遣いありがとうございます」 「まだ喧嘩中?」 「直に仲直りされますよ。アキレス様はオデュッセウス様を心配されてるだけですし、オデュッセウス様はちゃんとわかっておいでですから」 「そうだね」 首肯して、二人の『仲直り』がどんなものになるかを知っているパトロクロスは、当分の間従兄の幕屋へは近づくまい、と思った。情豪の従兄と違い、彼はそういった方面にはそれほど熱心でも、こなれてもいなかった。 鎧の手入れをする、というエウドロスに付いて、彼の陣屋へと向かう。 「──ねえ、エウドロス」 「はい?」 「アキレスってさ」 「はい」 「過保護だよね。……ごく一部に対して」 その「ごく一部」に自分が入っていることをちゃんと自覚している青年は、困ったように笑った。エウドロスも笑みを返した。 「情の深い方ですから」 彼は、人が思うほどに鉄面皮でもなければ、力のみを信じている冷血漢なわけでもない。むしろ彼の近くにいる者は、この若獅子が持つ深い愛情や時折見せる不器用な優しさを、ごく稀に彼の貌を彩る華やかな笑みを、殊更に愛していた。 そして、柔らかな笑顔と知略で知られるイタケの王は、身内以外でその特権を全て与えられている唯一の存在だった。 |
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| 2004.08.28 |