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| もしも。 誰かがアキレスの心を見てとったなら。 まだ幼さの域を脱しきれてないこの若獅子の苦悩を微笑ましく思ったことだろう。 ただ一人のことを思い、敷布の上を転々として過ごす眠れぬ夜は、年頃になればたいがいの者が体験することだ。 すでに未来の英雄の呼び名も高く、その健やかな成長を期待される12歳の少年は、明確な自覚もないままに、恋をしていた。 「オデュッセウス!」 「アキレス?」 噛み付きそうな顔で駆け寄って来た年若い友人に、イタケの王子は目を丸くした。 22という年齢よりもはるかに若く見える顔は、そんな表情をすることでなお一層若やいで見える。 まだ16〜7だと言い張っても、疑う者は少ないだろう。 「どうした、そんな顔をして」 「どこへ行ってたんだ!」 「どこって……市内へ視察へ行くと、昨日言っただろう?」 「一緒に行くから起こせと言ったじゃないか!」 昨夜、アキレスはオデュッセウスと同衾した。珍しいことではない。幼い頃からアキレスはやたらとイタケの王子に懐いており、またオデュッセウスの方もうまがあったかして、勝ち気なこの少年の相手をして倦まなかった。 双方の住居を訪ねあったときに、同じ室、同じ寝台で眠ることも、いつの間にか習慣のようになり、そんな二人を兄弟のようだと周りは笑った。 だから昨日、イタケにやってきたアキレスを、オデュッセウスは当然のように自分の寝室に誘った。 彼のために客間を用意することは、2〜3年前からしなくなっていた。 前回会ったときもそうだったのだけれど、ここ数回、オデュッセウスと顔をあわせるたびに、どうにも落ちかない気持ちになるアキレスは、彼の寝台に潜り込むことを少しためらったのだが、頻繁には会えぬ相手だ。一時でも共にありたい気持ちを抑え切れずに、いつものように身体を並べて横になった。 オデュッセウスから漂う香油の香りや、滑らかな白い肌や、ふわふわと広がる柔らかい髪が気になって、アキレスは何度も身じろぎをした。オデュッセウスの方は、そんな様子に気づく風もなく、明日の朝は父王に代わって市内へ行くつもりだから、帰って来るまで好きに過ごしていてほしい、というようなことを、柔らかな声で話していた。 「……一緒に行く」 「朝、結構早いんだぞ」 隣でオデュッセウスが笑ったのを感じて、アキレスはむっとした。 確かに、アキレスは朝寝が好きだ。早朝と呼ばれる時間に起きてくることはめったにない。 寝起きの良さは抜群なのだから、起きられないのではなく、起きないだけなのだとオデュッセウスは知っていたが。 「起きる。あんたが起こしてくれれば」 なぜか、アキレスはオデュッセウスと離れていたくはなかった。 イタケの王子が、自分の知らない時間を誰かと過ごすのかと思うと、やたらと不愉快な気分になる。 もとより気の長い方ではないから、割と理不尽に怒りを爆発させることもままあるけれど、その原因さえ自分でわからない、というのは嫌な気持ちだった。 オデュッセウスに訊ねれば、何か解釈をしてもくれようが──彼はいつも自分の判断をアキレスに押し付けようとはしなかった。問われれば考えを語ることはしたが、決断を下すのはいつもアキレス自身であるように、と心がけているようだった──彼自身のことを相談するのは何やら馬鹿馬鹿しいような、気恥ずかしいような気がして、結局何も言えないままだ。 そうして、共に行く約束を交わした後、オデュッセウスはすぐに眠りについたのだけれど、アキレスの方は隣ですうすうと寝息を立てる友人が気になって、結局うとうとできたのは朝も近くなってのことだった。 「起こしたさ、ちゃんと。でもあんまり深く眠ってるようだったから……」 手足を丸めて、そのときだけは年相応の子供のように寝付いているアキレスを、二度三度と起こすのをためらったオデュッセウスは、そのまま出かけてしまったのだ。 陽もだいぶ高くなった頃、やっと目を覚ましたアキレスは、約束を破ったオデュッセウスに怒りを爆発させたのである。 「約束したくせに!」 「悪かったよ、アキレス。そんなに君が市内に行きたがってたなんて思わなかったんだ」 誠意を込めて、でも見当違いの理由で謝るオデュッセウスを、アキレスは許さなかった。 それから半日、アキレスはずっと腹を立てていて、むっつりと結んだ唇を解こうとはしなかった。 そのくせ、オデュッセウスの行くところには必ずついて来る。 無言のまま後ろを歩くアキレスは、有能な護衛のようだった。 「……でなければ嫉妬深い恋人か」 「何だって?」 「君だよ。まるで私を環視してるみたいだから」 笑って振り返った王子は、年下の友人がうっかり口を開いてしまったことを気付かせないように、きわめて自然に答えた。 「そんなつもりじゃ……」 眉を寄せながらも、アキレスは「嫉妬深い恋人」という言葉に胸の辺りがざわつくのを感じた。 「まだ怒ってるのか? せっかくこうして一緒にいられるのに、君は口もきいてくれない」 つれない話だ、とオデュッセウスは冗談めかした調子で言った。 元々、アキレスは口よりも腕が立つ方だ。弁舌さわやかというわけでなし、また、それが必要な立場でもない。ついでに言うなら、倣岸な物の言い方のせいで、いらぬ騒ぎを引き起こすこともままあるので、自然、必要ないときは言葉少なになる。 けれど、オデュッセウスといるときは、剣でなく言葉を使うことも嫌いではなかった。 イタケの王子はアキレスの言い方を気にすることもしないし、彼の言葉をさえぎることもしない。経験も見聞も足りない少年の思考を補完して結論を導き出す術にも長けていて、彼と話し合った後は自分がいっぱしの賢者にでもなった気になることもある。 そのくせ、酒場でやりとりされるような下世話な話にも普通に乗ってくるし、吟遊詩人の語るような奇想天外な冒険物語も大好きだった。 「アキレス」 オデュッセウスが腕を伸ばして手のひらを見せた。 真っ白なそれは、アキレスの手を待っている。 剣も槍も使うくせに、オデュッセウスの指はまっすぐできれいだ。いっそ、アキレスの手の方が、無骨でごつごつして、硬いくらいなのである。 その手が温かいことも、さらさらと乾いて気持ちのいいことも、考え事をするときには口元を撫でる癖があることも、アキレスは知っている。 ついこの間まで、その手をとることをためらったりはしなかったのに。 おそるおそる重ねた手をぎゅっと強く握られて、アキレスは不意に泣き出しそうになった自分を恥じた。 |
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| 2004.10.04 |