以心 ツタフココロ  〜12歳〜 2
明かりを落とせば当然ながら漆黒が室を満たしたが、今夜は満月で、辺りはまるで真昼のごとくだ。
「大きくなった」
夜を重ねるたびに手狭になる寝台に、アキレスの成長を思ってオデュッセウスは微笑んだ。
「子供扱いするな」
金の髪もまばゆい若獅子は、不機嫌をあらわにしてうなる。
オデュッセウスは黙って笑みを深くした。
そんな風に言い出すのも、少年が成長している証だと、年上の男にはわかっているから、腹をたてることはない。かつては自分も通った道だ。
けれどそう言えば相手がさらに怒りを募らせることも知っているから、口に出したのは別の言葉だった。
「子供扱いなどするものか。もう君が戦場に立つ日も遠くない。そうなれば一人前の戦士だ」
「本当か? 本当にそう思うか」
ぱっと身体を起こしてアキレスが尋ねた。ほんの幼い頃から、アキレスは才能の片鱗をのぞかせており、それは歳を経るにつれ、いよいよ顕著になっていた。オデュッセウス自身、幾度となく彼と刃を重ねたが、近頃では本気を出しても少しもひけをとらない戦いをするようになった。
並の兵士ではない。槍と弓に関しては名手とすら言われるオデュッセウスと、だ。
末恐ろしいとはまさにこのことであり、まこと女神の寵愛を受けた身かと人々が思うのも無理はなかった。
「そんなに早く戦いに行きたいのか? 遅かれ早かれ、君は戦場に立ち、誉れを手にするだろう。何も慌てなくてもいいだろうに」
オデュッセウスはピティアのテティスを思った。いずれ逃れられぬ定めと知りながら、彼女は愛息の未来を愁えていた。もう少しの間母を安心させておくのも悪くはあるまいに。
「俺は早く戦に行きたい。一人前になりたい。そしたらあんたも俺を子供とは見ないだろう」
「……私はそんなに君を子供扱いしていたか?」
アキレスの言葉に、オデュッセウスが驚いた顔をしたのが見てとれた。
「……そうじゃないが……」
むしろ、身内以外でアキレスを一番受け入れてくれたのは、オデュッセウスだったろう。
子供だからと頭ごなしに決め付けることをせず、彼の意思を尊重してくれた。
けれど、オデュッセウスの中で、アキレスは被保護者だった。
一人前でないからこそ、オデュッセウスはアキレスを思いやり、一人前のように扱ってくれた。
本当の大人なら──真の意味で二人が対等であるならば、彼らの意見はもっと対立したであろうし、口論になることもあっただろう。自分勝手な理由で腹を立てるアキレスに、気長につきあうこともなく、頭がさめるまで放っておくことだろう。
「俺はあんたに認めてほしい」
「……認めてるぞ、アキレス。ペレウスの子、未来の勇者。いずれ、アカイオスは、君なしで戦に行くことを恐れるようになるだろう」
何をいまさら、とオデュッセウスは首をかしげた。
「違う。俺はあんたに――あんた自身に……」
月の光に照らされて、彼の肌はいつもよりずっと白く、緑柱石の瞳は金色に光って、大理石の像のように見えた。上掛けからのぞいた丸い肩は濃い影を落とす鎖骨のくぼみへと続き、その下に滑らかに隆起した胸が見える。その先を飾る小さな突起を目にした途端、アキレスは頭に血が上るのを感じた。
そのとき身の内で強くうねった物が何なのか、今まで感じていた違和感が何だったのか、すべて、雲が払われたようにアキレスには理解できた。
「アキレス……っ!?」
肉食獣の獰猛さでもってアキレスはオデュッセウスに飛び掛った。向かい合っていた身体を押さえつけて、その上に飛び乗り、荒々しく唇を合わせる。歯が当たったのか、初めての口付けは血の味がした。
「アキレス!」
驚愕に目を見開いて、オデュッセウスは友人を押しのけようとした。力でいうなら、まだオデュッセウスに分があったが、体勢が悪かった。それに、何よりイタケの王子にはためらいがあった。
みぞおちをひざで押さえられて、オデュッセウスは身動きがとれなくなった。
仲良く分け合っていた寝台で折り重なって、二人はにらみ合った。
「――これは一体、何のゆえあっての狼藉だ、友よ?」
「俺を友と呼ぶな。わかったんだ、オデュッセウス」
「アキレス?」
「俺は、あんたが好きだ。あんたが欲しい、オデュッセウス。この髪も、この肌も、目も、心も、何もかも全部、俺だけのものにしたい」
オデュッセウスは息を飲んだ。
完全に予想外からの攻撃で、返す言葉すら見つからない。
同性からそんな風な目で見られることも、あからさまに誘いをかけられることも珍しくはなかったが、まさか、アキレスがそんなことを言い出すとは思わなかった。
そう思わなかったこと自体が、彼を子供扱いしていたということなのだろう。
獅子の心を持った神の子だと言われ、なるほど、相応しい賛辞だと笑っていたのは自分なのに。
「アキレス」
「好きなんだ、あんたが」
何もかもを白く平坦に照らし上げる月光の中でも、アキレスの瞳は意思を持って光っていた。
すべてを欲しがる獅子は、当然のようにすべてを差し出す気なのだろう。
けれど、その生命は激しすぎて、眩しすぎて、オデュッセウスの手には負えない。あまりにも対価が大きすぎる。
「――アキレス。それは駄目だ」
「何故だ」
傷つけられた子供の目でアキレスは言った。
「俺が嫌いなのか」
「違う、アキレス。私は君が好きだ。本当に好きだ。だから、君に応えることはできない」
「好きならなぜ! 俺が子供だからか。俺はもうすぐ戦にでる。後一年はかからない。そうすればいいのか」
あんたは応えてくれるのか、と焔の熱さでもってアキレスはオデュッセウスをかきくどいた。
自身の幼さを、アキレスはちゃんと自覚している。今は約束だけでもよかった。ただオデュッセウスに受け入れて欲しかっただけだ。
「アキレス、わからないのか。友人なら生涯そうでいられる。だが恋情はそうはいかない。熱く激しいがゆえに、壊れるときはすべてを無くすのだよ」
私は君を失いたくないんだ、と言われ、12歳の少年はわからない、と首を振った。
「何故終わると決め付ける? 俺はずっとあんたの側にいる。あんたがいいと言うなら」
「アキレス」
「好きだ、オデュッセウス。あんたが好きなんだ」
少年は激昂した。
10年の差はそれでなくとも大きすぎて、どうすれば追いつけるのか、肩を並べることができるのか、思いつくこともできない。
ましてや、相手はオデュッセウスなのに。
アテナの寵愛を受けたと言われる青年は、多分本当の距離の三倍も先を歩いて世界を見ている。
今こうして隣にいられるのは、オデュッセウスが足を止めて、アキレスを待っていてくれるからだと、誰に言われずともアキレスは知っていた。
そうして。
オデュッセウスもまた知っていた。
天翔ける足を持つこの少年は、常人では不可能なほど早く時間を駆け抜けて、自分を置いて行ってしまうのだろうということを。
彼の想いに応えたとして、思い出とともに残されて、途方にくれるのは自分の方だということを。

無理だよ、と言うのは簡単だった。
君にはわからない、と切り捨てるのも。
けれど、未来の決別を恐れるあまり、今、この少年との絆を断ち切ってしまうことが正しいのだろうか。
彼を欲しいのだと、全身で訴えている若獅子を。
「アキレス。わかってはくれないのか。私たちはいい友人だった。これからも、そうでいられるだろう」
「できない。オデュッセウス、無理だ。気づいてしまったから」
アキレスは絶望すらにじませた声でそう言った。
(もしかして、このまま私はのど笛を食いちぎられるんじゃないだろうか)
ちらりとそんなことを思い、それもいいか、と投げやりになったわけではなく、オデュッセウスは思った。
どうせ失うものならば。
可能性を待ってみるのも悪い策ではないだろう。
「──ならば3年待ってくれ。君は15になる。そうすればもう充分に大人だ。今私のいうことの意味も理解しようし、その上で自分の行動を決めることもできよう。それに……その頃には君は圧しもおされぬギリシア屈指の英雄になっているだろう。そうなれば女でも男でも、望むとおりに手にいれられる」
それでもまだ私を欲しいと思うなら、とイタケの王子は言った。
「3年も?」
「それすらも待てぬなら、やはり君は子供でしかないと、私は判断する。そして、子供の遊びには付き合ってやれない」
不服そうなアキレスに、オデュッセウスはぴしゃりと言った。
「オデュッセウス……」
「君に必要なのは時間の助けだけだよ、アキレス」
オデュッセウスの手が、柔らかく頬をなでてくる。逆立った毛並みをそっと整えるようなしぐさで。
アキレスはのろのろとオデュッセウスの上から退いた。

二人は何事もなかったように、また寝台を分け合って横になった。
光の作る影の位置までがそっくりそのままに見えるのに、すぐそこにある体温がぎこちなくて、アキレスは何度も何度も寝位置を変えた。オデュッセウスの言おうとしたことが、すでにおぼろげながらもわかりはじめた。隣合った、馴染んだ友の姿がやけに遠く感じる。
それが、自分のせいだと、オデュッセウスへの想いを口にのぼせたからだと悟って、アキレスは愕然とした。
オデュッセウスとの距離を縮めたくて、彼を手に入れたくて、そうしたはずだったのに。
「オデュッセウス……」
呼名したひとは、そっとアキレスの手を握ってくれた。彼には、すべてがわかっているようだった。
「何も変わらない。私たちは友人だ」
少なくとも、君が最終的な判断を下すまでは。繋いだ手からオデュッセウスの思いやりが伝わって来て、アキレスは不意に視界をにじませた。
イタケの王子は賢く優しい。彼の忠告を受け入れるのが一番だとはわかっている。それでもアキレスは気づいてしまった。どうやっても、きっと元に戻ることはできないのだ。

重ねた指に力をこめる。

どうか、自分の熱が届くように。

穏やかな声を出す友人が、自分と同じだけの情熱で持って応えてくれるように。

三年の時を経た、その後でいいから。



END
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2004.10.04