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| 暗がりの中で、アキレスは炯々と光る瞳だけをオデュッセウスに向けた。 獅子の来訪を告げられていたオデュッセウスは、別に驚かなかった。 むき出しにした怒りのオーラも、年上の男には珍しいものではなく、いったい何に怒っているのだろう、と疲れた頭で考えただけだ。 アキレスは並ぶ者なき勇者だが、軍隊には向かない。 ──否。 そうではない。 向かないのは嵩にかかって命令されることであって、先頭を行く限り、彼ほどの戦上手はいなかった。戦場において、彼は常に王だった。その剣ですべてを制し、返り血に身を染めて、誇り高くこうべを掲げる。兵たちはその姿に奮い立ち、まこと女神の息子よと、わずか16の英雄の名を敬意をもって誉め讚えた。 ゆえにこそ、国を率いる王の多くはアキレスを嫌う。 彼は才長けた若者らしく、あるいは剛の者らしく、身勝手で、傲慢で、膝を折ることを潔しとせず、王の権威を敬うことも知らなかった。 アキレスもまた、自ら剣を取ることをしない彼らを嫌った。彼に言わせれば、勝利は己が手てつかみとってこそであり、後方で戦車に立っているだけの人間に、それを語る資格はなかった。 戦に引きだされるアキレスは、よくも、と思うほど毎日毎時間怒りの原因を見つけてはあれにこれにと腹を立てている。 けれど、それでもなお、戦にはアキレスの力が必要で、アキレスには戦いの場が必要だった。 「獅子」の呼び名は、その圧倒的な強さへの畏敬であったが、王らはもっぱら、闘いを離れては生きていけない戦士の そうして、利害の一致と言うにはあまりに危うい両者の関係をかろうじて結び、保っているのは、この陣屋のあるじの尽力と存在ゆえだ。 オデュッセウスはサンダロスの紐を解くと、初めて正面から獅子の目を見た。 「──それで? 用向きは何だ、アキレス」 「どこへ行っていた」 「軍議だ」 アカイオスの総指揮官にして、「道広きミュケナイ」と言われる大国の王は、西ギリシアのちいさな島の王を好んで重用していた。イタケは国力も貧弱で、王は年若かったが、その知略は尊重するに値し、その言葉は耳を傾ける価値がある、とされている。 賢者ネストルと共に、彼はギリシア軍という巨大な生物の頭脳部分を担っていた。 けれども、いかなアテナの たとえば、今、目の前で怒りをたぎらせている年若い英雄とか。 「軍議だと? こんな時間までか」 「必要とあれば何時間だろうと話しあう。勝つためだ、当然だろう?」 「……だが、ネストルはずいぶんと先に自陣に戻ったと言うぞ」 疑り深い声でアキレスが言う。罠を警戒する肉食獣のように、身を低くしている。 オデュッセウスの眉がぴくりとあがった。 アキレスの怒りの原因が見えた。 今までだとて、何度も何度も、さも信憑性があるかのようにイタケ王の周りを取り巻いていた噂を、誰かが若獅子の元に届けたのだろう。 むしろ、今まで彼の耳に入らなかったことの方が不思議なくらいだ。 きらびやかな名声はひとを華やかに照らし出すけれども、その光が強ければ強いほど、落される影は濃い。 アキレスはもちろんのこと、オデュッセウスにとっても、ねたみそねみは縁遠い存在ではなかった。 ましてや、アキレスの初陣以来、何かにつけこの二人が行動を共にし、次々と戦功をあげているとあっては、目を留めるなと言う方に無理がある。 疲れているのに、とオデュッセウスは、これからのやり取りを思ってうんざりした。明日にしろ、と言っておとなしく聞くような性質ではない。それでも、なるべく穏やかに口を開いた。 「──ネストル殿は比類なき知者だが、老齢でもいらっしゃる。長引く戦に疲れを見せたところで不思議があるか?」 ネストルが賢者と呼ばれ、みながその知恵を頼りにするのは、何より彼が多くの戦場を見、戦い、生き抜いてきたからだ。それはつまり、彼の重ねた年月が人より長いということである。 どうにも体調が優れぬので、と早くに座を辞した彼を、アガメムノンも引きとめはしなかった。 「ほんとうに、それだけか」 「何が言いたい」 ぴり、とオデュッセウスの口調に棘が混じる。 アキレスの言いたいことなど百も承知で、けれどそれを言い出そうとする年下の恋人に身勝手な落胆と苛立ちを感じている。 世の中に無駄な争いは星の数ほどあるけれど、これから二人がやろうとしているのは、その中でもことさらに無駄な部類に入るだろう。 オデュッセウスはアキレスを傷つける。 傷つくことで、アキレスはオデュッセウスを傷つける。 結末のわかりきった諍いなど、したくはないのに。 表立って敵を作るわけではないこの軍師に、あからさまに敵対する者は少なかったが、その分、彼の周りには噂話がつきなかった。多分にやっかみの混じったそれらは、たいがいが後ろ暗く、外聞の悪いもので、耳に入れば「中傷だ」といきりたってもおかしくはない。 けれど、オデュッセウスにとっては自身への評判など、どうあろうと知ったことではなく、むしろ、手札のひとつと割り切ってすらいた。イタケの王には、勝利を得るために盾を並べて戦う仲間はいても、その気持ちまで慮らねばならないような相手はいなかったからだ。 どんな醜聞も、否定せず、肯定せず、必要とあれば指先ひとつ動かさないままに──たとえば、羽一枚揺らさぬほどの微笑や、邪気のない笑顔や、軽く伏せた睫毛や、そう言ったもので──その風聞を根も葉もない笑い話にも、いかにも真相めいた秘密事にもしてのけた。 そうやって一人だったころには、問題も解決もオデュッセウス自身の手の中にあり、やっかいなことなど何もなかったというのに。 「……あんたが、ミュケナイ王に気に入られているのは知っている。あんたには、それだけの価値があると思うし……それで……」 うろうろと言葉をさがすアキレスは、オデュッセウスに、というより自分自身を納得させるだけの理由を欲しているようだった。 いつもなら、笑いを誘うだけのそんな様子が、むやみと癇に障る。 それは何故か、ということを考えてみるだけの余裕が、今のオデュッセウスにはなかった。 「あの小国の王は、頭でなく身体をつかって取り入ってる、とでも言われたのか」 「────────」 アキレスの無言は肯定だった。 むつりと黙り込んだ若い獅子の横面を、オデュッセウスはいきなり渾身の力で張り飛ばした。 相手がアキレスでなければ、ふっとんでいただろう。 上半身をぐらつかせ、反射的に床に手を突く。口の中に鉄の味が広がった。 「何をする!」 にらみつけた視線は、氷のような色を浮かべた翡翠の瞳とぶつかった。 「くだらない中傷しか聞こえない耳なら切り落としてしまえ。君はここへ何をしに来たんだ」 「……何を、だって?」 アキレスはひどく驚いた顔をした。 恋人の、穏当でない噂話に、その真偽を確かめようとすることは、アキレスにとっては当然のことだった。自分が傷つかないために、あえて目を耳をふさいでおく、という選択肢は、この強靱な若者の中には存在しない。 「俺はあんたが……」 「私が違うと言えば信じるのか? それとも、その噂は本当だと言わせたいのか」 「オデュッセウス」 「私の不実さを責めようと来たのか? ──あるいは、もう、私に興味はないとでも言いに?」 「オデュッセウス!」 その言葉の内容よりも、オデュッセウスらしくない激し方にこそ、アキレスは憤った。それは、不安の裏返しだ。 「あんたらしくもない言い方だな、イタケの王。『ただ怒るだけなら獣にもできる。ひとならば言葉で道理を通すことも知れ』と、そう言ったのはあんただろう」 何のかんのと、ささいなことにも腹立ちを見せるアキレスに、オデュッセウスが半ば諦めの笑みを浮かべてそう教えたのは、それほど遠い日のことではない。「それはあんたがやればいい」と、アキレスはすました顔で笑っていたのに。 怒りにまかせてつかんだ腕は、ひどく冷たいしぐさで振り払われた。 「触るな」 「オデュッセウス!」 一歩下がって距離をとった恋人をにらみつける。 諍いなら何度もしたけれど、こんなふうに戦場で相対した敵同士のように向かい合ったのは初めてだ。 こんなに近くにいながら、お互いの心がこれほど遠いと思ったことも。 元より獅子は、言の葉をつみとる業には通じてはいない。訊きたいことなら百万もあるのに、言いたい言葉も聞きたい答えも見つけることができなかった。 そうして、千の敵をも蹴散らすことのできる英雄が、ただなす術もなく立ち尽くしている。 オデュッセウスの白い指先が陣屋の入口を示すのを、悪い夢でも見ているようだと思った。 「──出て行け」 「────っ」 ぎりっ、とこぶしが固くなる。一打ちで、人一人を殺めようかという力に満ちた手だ。 けれど、結局、それが振り上げられることはなく、怒りに固くなった背中が無言で陣幕をくぐるのを、オデュッセウスは逸らした目の端で見送った。 |
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| 2005.01.29 |