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| 身体を横たえても、安らかな眠りは訪れず、オデュッセウスはこめかみのあたりをなでさすった。 神経がひどくとがっている。 それは夜半におよぶ軍議ではなく、さきほどのアキレスとの諍いがもたらしたものだとわかっていた。 冷静にならなくては、と思うのに、頭と心がひどい痛みを訴えて思考の邪魔をする。 知勇を讚えられる若い軍師は、いらいらと寝返りをうった。 一体、どうすればよかったというのだろう。アキレスに謝って許しを請えばいいのか。 ──何をだ、とイタケの王は苦く笑った。 今夜、彼を打ったことに関しては謝罪してもいい。けれど過去の話については、謝るようなことは何もしていない。すくなくとも、オデュッセウスはそう思っている。 総指揮官たる王との関係についての流言は、まったくの事実無根というわけではなく、だからこそ、いつまでたっても人の口の端にのぼるのだろう。けれど、年少時に男から関係を求められる少年はすこしも珍しくはないし、応じる応じないは別として、そういった目で見られることはひとつのステイタスですらある。 確かに、数多い求愛の中からアガメムノンの求めに応じたのは、利害の計算があったからだけれども、それもとうに終わった話だ。 そうなるべく、オデュッセウスは努力した。自身のために、そして大切な故郷のために。 肉体に与えられる寵愛など、そう長く保たれはしないのだから。 今、ミュケナイ王は、何よりもオデュッセウスの知略を必要としている。 立場から言えば不利なのはオデュッセウスの方だけれども、アガメムノンの方とても、彼の機嫌をそこねるようなことをして、大事な軍師を失うわけにはいかないのだ。 二人の関係は、周りの目に映るよりはずっと公平で、お互いの利益に基づいたものだった。 それを今さら、十数年もさかのぼった過去をつきつけられて、罪だと認めろと言われても、どうしようもない。 いずれにせよ、当時のアキレスには関わりのなかった話だ。 けれどその理屈はアキレスには通じまいし、また、オデュッセウスの方も、それをふりかざして正当性を主張する気にはなれなかった。 理性ではなく感情が、ただ後ろめたさを感じていることが腹立たしい。 「……だから、恋情は壊れる、と言ったのに……」 もう4年も前に、初陣すらまだだったアキレスに向けて言った言葉をもう一度繰り返して、オデュッセウスは深く息をつく。 こういったことも負うべきリスクだと、アキレスを受け入れたときからわかっていたはずだった。人の気持ちは簡単にうつろうのだと──どれほどの情熱を持って始めた恋だとしても──決して理解しようとはしない年下の恋人の分まで心を決めておかなくては、と、そう思っていたというのに。 覚悟をしたつもりでいて、ほんとうは何ひとつ割り切ることなどできていなかったのだと思い知らされた。 朝になれば、どんな形であれ、決着をつけなくてはならないだろう。けれど、そのためにオデュッセウスが差し出せるものなど、もう何もなかった。 すべてを寄越せ、と言ったあの獅子は、どんな結論を導きだすのだろう。 ──夜明けなど来なければいい、とオデュッセウスは彼らしくもなく投げやりに思った。 とても眠れる気はしなかったが、それでも目を閉じるうちに、いつの間にかうとうとと浅い眠りについていたらしい。 不意に冷えた夜気が肌を撫で、オデュッセウスは目を覚ました。 かき混ぜられた陣屋の空気が侵入者の存在を教えていた。 とっさに剣を取ろうと伸ばした腕を、逆に捕らえられる。それは、信じられないほどの力でオデュッセウスを寝台に縫い止めた。 「何を……!」 「俺だ、オデュッセウス」 「……アキレス……!」 馬乗りになって自分を見下ろす英雄を、オデュッセウスは驚いた顔で見つめた。 天幕のすき間に見える闇はまだ充分に濃い。 彼に うつむいた顔には、結ばれていない金色の髪が何条にも落ちかかって、アキレスの表情をわかりがたいものにしていたが、あの猛々しいほどの怒りはもう感じられない。 ただ、無防備に広げた両腕をいましめる指は鋼のごとく強く堅固で、わずかな身じろぎも許そうとはしなかった。 「アキレス、離せ」 「離さない」 「アキレス」 「嫌だ」 アキレスはかたくなに首を振った。まるで、すこしでも力をゆるめれば、オデュッセウスが逃げ出すとでも思っているかのようだ。 「腕が痛いんだ、アキレス。それだけだから」 どこにも行かない。 静かな声でそう言って、オデュッセウスは野の獣をなだめるように微笑んだ。 「──もう、怒ってはいないのか」 ちいさな声は、途方に暮れた子どものようだ。剣を取り、先陣を切る勇者の、こんな姿を知る者はいない。 「怒ってない」 「すこしもか」 「すこしも。──君は?」 問われて、アキレスは半瞬ほど考えたあと、ゆるゆると首を振った。 腕を動かすと、今度は束縛は簡単にほどけて、自由が戻った。そうして伸ばした指先で、さっき打ったアキレスの頬を撫でる。そっと触れたのに、手のひらの下でアキレスが顔をゆがめるのを感じた。 手加減なしの一撃だったから、明日にはあざになるかもしれない。 痛いか、と訊こうとして、それより先に言うべきことがあるのに気づいた。 「──殴ったりして、すまなかった」 気短かで有名な英雄の頬に残る鬱血の痕は、またぞろ新しい話題を軍内に与えることだろう。こんな暴挙を働いた相手は、今頃、首と胴が離れているに違いない、ときっとみんなが考える。 けれど実際のところは、獅子は、牙の代わりに腕を伸ばして愛しい相手を抱き起こし、低い声で後悔を告げた。 「俺が、悪かった。……信じたわけじゃない。でも」 もしも、と想像しただけで、嫉妬に焼かれてしまいそうだった。 重なった身体の温かさに、オデュッセウスはちいさく笑った。抱きしめ返した背はこんなにも広くてたくましいのに、アキレスは相変わらずせっかちでせわしない。 「それで、閨で仲を戻そうとしたのか? 誰だ、そんなあさはかな知恵を与えたのは」 「とても朝を待ってなんかいられない。俺は、あんたほど神経が太くできてない」 降り注ぐ矢の中を、盾ひとつで平然と駆けていける英雄がそんなことを言う。オデュッセウスはますます笑みを深くした。 「私が眠っていたから責めているのか? ……でもアキレス」 さも重大な秘密を打ち明けるように、オデュッセウスはささやいた。 「私は、朝なんか来なければいいと思っていたんだ」 「……? 何故だ」 「そう、たぶん──君は私に愛想を尽かしただろうと思ってたから」 アキレスが、その言葉の意味を理解するには、ほんのすこし時間がかかった。 そうして、遠回しに与えられた愛の言葉を、そこに込められた気持ちを、アキレスは恋人の身体ごと腕の中に奪いとった。 払暁はまだ遠い。 アポロンが馬車を駆けさせる前に、二人があさはかで安易でありふれた方法で喧嘩を収める時間は充分、残されているようだった。 |
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| 2005.02.03 |