DIVORCE 1
「お疲れ」
ショーンは顔を合わすなり、そう言った。
声は笑っていたが、からかうつもりでないのは顔を見れば分かる。
それはたった一言だったけれども、裏側にはたくさんの意味が込められていた。
ごく普通の知人としての気遣いや、共に仕事をこなした、いわば同僚としてのねぎらい、五年長く生きている人生の先輩としての思いやりなどは当然として。
もっとプライベートな、同じ経験をこなしてきた者同士の共犯者めいた感覚や──恋人としての複雑極まりない感情まで、いろいろな物をぜんぶを詰め込んでちいさくまとめたら、それくらいしかでてこなかったのだ。
おざなりの気休めで場を流すには、自分たちの距離は近すぎて、遠慮なく懐に踏み込むには、自分たちの関係は微妙すぎるのだと、思いがけず気付いてしまった。
それでもそれは、ちゃんと相手に伝わったらしい。
長い脚を投げ出して、自堕落にソファに寝そべっていたブラッドは、彼にしてはとてつもなく情けなく見える表情でショーンを迎えた。
左右で高さの違う眉は、どうしようもないマイナス感情をなんとか笑いに変換させようとしたがゆえだろう。
そんな顔をしてすら、彼が充分にハンサムなことにショーンは感心した。
「……ああ、お疲れだね。こんな経験を三度も繰り返したなんて、あんたすごいな。本気で尊敬するよ」
ほんとうに感心したみたいに言うから、ショーンは思わず笑ってしまった。
「そんなことで見直されても嬉しくはないけどね。──まあ、私は君ほどプレスに追い掛け回されたりはしなかったから」
プレス、と言われてブラッドは不機嫌をあらわにした。
「ちぇ、あいつら」
ブラッドはしかめっ面をして、珍しく本気の口調で、汚い言葉を口にした。向こうはそれが仕事だとわかっていても、それで不快感がなくなるわけでもない。
彼の国では頻繁に──それは、1/2という、コイントスのような確率らしい──起っている夫婦の別離も、その当事者がブラッド・ピットとなれば世界中に配信されるトップニュースになってしまうのだ。
そのストレスの大きさは想像するだに難しくない。
I'm sorry おきのどく 。よく抜け出してこられたね?」
会いに来ないか、と連絡があったときはほんとうに驚いた。まあ、当分の間はせいぜい電話か、でなければ公にされたニュースくらいでしか、消息を知る方法はないと思っていたのだけれど。
「アメリカ大統領だってプレスの出し抜き方は知ってんだぜ?」
その気になれば方法はあるのだと言って、ブラッドはまたソファへと沈み込んだ。その方法とやらがどんなものなのか、ショーンは知らない。
ただ彼が、今はとても貴重に違いない一人の時間を、自分のために浪費しようとしていることだけは確かで、そんなことをためらいなくしてのけるブラッドに、ショーンはすこし追いつめられた気持ちになる。
背中を壁につけたまま、身体を彼の手足に囲まれているような。
だからといって、それは決して不快な感情ではなかったけれども。
「でも、それで無理をしたんじゃないのか?」
いつもなら、たいがいブラッドに奪われてしまう上着を自分で脱いで、ショーンはソファへと近づいた。のぞき込んだ恋人の顔は、「疲労」の仮面をうすく貼り付けていた。
会うたびに長さの違う金髪を、額の生え際から逆さまに梳く。ブラッドはすこしだけ笑みを浮かべた。
「大丈夫かい? 何か飲む? ──っても、ここ、君の部屋だけど」
アルコールからソフトドリンクまで、ひと揃えそろったミニバーに目をやってショーンは訊ねた。
「……いや、いい。それよりこっち」
来て、と無精に手だけを伸ばして恋人を引き寄せる。
ショーンの身体が抵抗なく落ちてきて腕の中に収まったので、ブラッドは満足した。衣服越しにでも、与えられる温もりに安心する。こんなとき、ひとはやはり動物なのだと思う。くっつきあって暖をとる子猫のように、二人はぴたりと身体を寄せた。
ただし、望んでいるのはただ平和なだけの健全な眠りではなかったけれども。
「今はあんたが欲しい」
言葉と共に、抱きしめた手のひらが、背中を撫でた。
ブラッドは欲しいものは欲しい、ときちんと言葉にする。その潔さがショーンは好きだ。ときどき、手に負えなくなったり、赤面させられたりすることがあったとしても。
「ここで?」
「ここで。──今すぐ」
すぐ、という言葉を証明して見せるかのように、うすいニットの裾から指が入り込んできて、肌を撫でた。くすぐったがってショーンが笑う。
それでも、いたずらな指先を咎めようとはせずに、ポケットのキャンディを分け与えるよりも簡単に、ブラッドの要求を許可した。
「いいよ。……あげるよ」
それから、すこしもひるまない声で、愛してるよ、ブラッド、と言った。
それは、行為のためのルーティンな言葉ではなく(だいたい、ショーンはそう言ったことを簡単に口にはしなかった)、だからといって、狂おしいほどの情熱が込められているわけでもなく、ただ砂地に注がれる雨粒のように、ブラッドの耳に染み込んだ。
「愛してるよ。君が好きだ」
多少わがまま勝手でも、ちょっとくらい強引なところがあっても、君はちゃんと優しくて誠実だと思うよ。
ショーンの顔は、肩に伏せられたままで、だからどんな表情でそう言っているのかはわからない。
明らかに彼はブラッドを慰めようとしていて、恋人を肯定する言葉をたくさん、何度も繰り返した。言葉のたびに、吐息がシャツを温めていく。
見知らぬ誰かからでも、友人からでも、そして、過去形でもない「Love you」に、ブラッドは初めて自分の負った傷の大きさに気がついた。
彼女を、傷つけたとは思っていた。それを申し訳ないとも。
でも、ぴたりと吊りあった秤のように、等分に自分も傷ついていたとは思わなかった。
そうして、あふれ出す痛みに気づいたときにはもう、自分は、傷口を綺麗な指先でなだめられて癒されようとしている。それは今まで感じたどの瞬間よりも彼女に対して後ろめたく、けれど同時に抗いようもなく甘美だった。
──ひどく、甘やかされている。
無条件で彼を受け入れようとする年上の恋人も、嵐の渦中にあったときは、やっぱりこんな風に誰かに慰められたのだろうか。──それとも、慰められたかったのだろうか。
そのとき傍にいられなかったことを、半ば本気で残念だと思い、ブラッドはショーンの身体を強く抱きしめた。
けれど、込められた力の意味をショーンは誤解したらしく、すこし顔を上げて、真面目に言った。
「泣いてもいいよ」
「あ?」
「泣きたいなら無理しなくてもいい」
ブラッドはちょっとだけ、いぶかしげに眉を寄せた。気遣ってくれているのはわかるけれど、その気持ちの向いた先がわからない。
「なんで俺が泣かなきゃならないんだ。いがみあって別れたわけじゃないんだぜ。ジェンにだってまた会うよ。友達としてだけど」
「──それは分かってるけど」
「今までだって、お互い仕事ですれ違うことも多かったしさ。……考えてみれば、そんなに変わらないよ」
「でも、『家族』だった相手が『友達』になるんだよ。それって、ちょっと泣いてしまうくらいには寂しいと思うけど」
「…………」
そうなのだろうか、とブラッドは思った。
自分たちは円満に話しあって別れたのだから、とずっと思い込んでいたけれども、だからと言って、寂しくないとは限らないのか。
家族でなくなる、というのは、今まで当たり前だったことが、当たり前ではなくなることだ。出先からの気軽な電話も、相手の行動を問いただすことも、何かの記念日にプレゼントを選んだりすることもできなくなるし、誰かが待っている、あるいは帰ってくるとわかっている場所を手放すということでもある。
確かにこれはけっこう寂しい状況なのかも知れない。
とは言え、それを嘆こうとか、泣きたいとかまでは思わなかったけれども。
きっと彼女も同じだろうと思う。
自分たちは、長い時間をかけて、お互いの間にそれだけの隔たりを作ってしまった。
それよりも、ショーンが泣きはしないかと、ブラッドはとっぴな心配をした。
「あんたは泣いた?」
家族が家族でなくなったとき。
ふと訊ねた問いに、ショーンはあやふやに笑って、もう忘れちゃったよ、と言った。

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2005.03.06