−子供部屋−
(ジョー島村もしくはお嬢さんのお部屋)

 

10月31日  Trick or Treat

 

「Trick or Treat!!」
「・・・は?」
「だから、Trick or Treatよ!」
「んー・・・?」
「もう。ジョーったら忘れちゃったの?今日はハロウィンじゃない」
「あ・・・そう」

フランソワーズのテンションの高さに比して、ジョーのテンションはことさら低いのだった。

「・・・どうかしたの?何だか元気がないみたい」

案の定、フランソワーズの顔が曇る。

「いや!どうもしないよ」

今日のフリー走行でのセッティングの事が頭から離れない・・・などとは、フランソワーズに言っても仕方のないことであり、今はレースを忘れるべきなのだ。せっかくの、彼女との電話の最中なのだから。
ひとつ頭を振ると、仕事のことを頭から追い出す。

「で?Trick or Treatがどうしたの」
「どうしたの、って・・・」

日本ではハロウィンはあまり馴染みがなく、ジョーのテンションが上がらないのも当たり前といえば当たり前だった。
しかも、今はそれどころではないのだ。最終戦を控え、頭のなかはそのことでいっぱいだった。

――いかんいかん。

ともすれば、レースのことばかり考えてしまう。そんなに気負ってはいけないとわかっているのに。
だから、今は余計にフランソワーズとの会話に集中しなければいけなかった。

「・・・Trick or Treatって知ってるわよね?」
「お菓子をくれないといたずらしちゃうんだろ」
「そうよ」
「――あ」

気付くのが遅かった。
毎年、彼女より先にそう言おうと思いつつ、すっかり忘れてしまうのだった。

「今年も私の勝ちね?」

別に競っているわけではないのに。と思いつつも、電話のむこうでガッツポーズをとっているだろうフランソワーズを思い浮かべ、大きくため息をついた。

「・・・お菓子は何がいいの」
「何がいいと思う?」
「え・・・うーん・・・」

フランソワーズにとってのお菓子。といえば何だろう?
そう悩むのも既に毎年恒例になっていた。

・・・優勝カップ、とか言ったら怒るだろうなぁ。

もちろん、彼がそれを彼女にあげるというのは彼女にとっても嬉しいことであり、ちっとも迷惑なんかではないのだが、一度ソレをやって叱られたことがあった。自分の大事なものはちゃんとしまっておきなさい、と。
別に大事じゃないよと言って更に叱られた。自分が頑張った結果なのだから、持ってなくちゃ駄目よと。
ジョーにしてみれば、自分が頑張ったという事実は自分が一番良く知っているし、結果を出しても翌日からはそれは過去の事になるから、いちいち振り返ってもいられなかった。更なる勝利を高みを目指すためには、それらの「結果」はあってもなくてもどうでもよかった。

「遅い。ジョーの負けね」
「え、ちょっと待って」
「待ちません」
「フランソワーズ、頼むから」
「だーめ」

Trick or Treatと言われたら、すぐに――少なくとも10秒以内に――相手が気に入るような「お菓子」をあげるのが二人のルールだった。もちろんこれは、フランソワーズの独断ルールなのだが。
そして「お菓子」をあげられなかった場合は・・・

「ちょっと考えただけじゃないか」
「10秒過ぎたもの」
「あと5秒」
「だーめ」

フランソワーズの「いたずら」だけは何としても避けたかった。
何しろ彼女のそれは、比喩ではなく本当に「いたずら」なのだから。

ジョーの頭に忌まわしい過去が甦る。

ハロウィンの夜にいつも一緒にいられるわけではないから、当然の如く「いたずら」されるのは後日になる。
が、それがいったいいつになるのかはわからないのだった。フランソワーズにしてみれば「そのほうがスリリングでしょ?」という事なのだが、ジョーとしては一体いつ彼女が仕掛けてくるか皆目わからず難渋した。
そして大抵は、気を抜いた日に起こるのだった。

数年前は、寝ている隙に頬に猫のひげを描かれた。油性マジックで。

その翌年は、額に「肉」と書かれた。同じく油性マジックで。しかもその時はネオブラックゴーストとの戦いの最中であった。全く気付かなかったジョーはそのまま出撃し、三兄弟に大爆笑されたのだ。さすがにその時は003を叱った。が、効果は無かった。何しろ、彼女に油性マジックを提供した協力者は、彼を除くゼロゼロナンバー全員だったのだから。

そしてその翌年は、赤い油性マジックで両頬にうずまきを描かれたのだった。

「じゃあ、せめて油性マジックはやめて」
「あら、どうして?」

どうして?って事は、今年もソレなんだな・・・と半ば脱力しつつ、ジョーは言葉を継いだ。

「なかなか落ちないんだぞ」
「ベンジン使えばいいじゃない」
「そうだけど、それは人工皮膚だから使えるのであって、もし生身だったら」
「良かったわ、人工皮膚で」
「うん。――って、そうじゃなくて!」

大体、どうして寝ている時を狙うのか。

「いつも寝込みを襲うなんて卑怯だぞ」
「気付かないあなたが悪いんじゃない。どうして起きないの?」
私はいつも、あなたがすぐ眼を覚ますんじゃないかってドキドキしてるのよ?

「う・・・」

それは、一緒に寝てるのがきみだからじゃないか。
とは、言いにくかった。
確かに、彼女以外であればすぐに目が覚めるし、されるがままになんてなるはずがないのだ。

「本当は起きてるんじゃないの?実は描かれるのが好きだったりして」
「んなわけないだろっ」

両頬に赤いうずまきを描かれた時は、そのままサーキットまで行ってしまったのだ。
しかも、誰も教えてくれず――写真まで撮られたのだった。

「起きたらちゃんと顔を洗えばいいじゃない」
「洗ってるよ」
「どうして気付かないの?」

それは、自分の顔を鏡で見たりしないからだった。寝癖がついていてもついていなくても全く頓着しないのがジョーだった。
だから、頬にうずまきを描かれた時は、なんと一日中そのままだったのだ。サーキットでもギルモア邸でも――誰一人、彼にそれを教えてはくれず、その日の夜にフランソワーズに言われて初めて気がついたという始末。
もちろん、仕返しも考えた。が、ぐっすり眠っているフランソワーズの顔に向かい、油性マジックを持って――みたものの、その寝顔のあまりの可愛さに何もできず、未だに果たせずにいた。何しろ、いつも――彼女の顔に落書きをすること以外のことをしてしまうのだ。

「フランソワーズが僕の顔に何か描くのをやめればいいじゃないか」
「だって面白いんだもの」
「面白い、って・・・」
「それにね」
ジョーが無防備なのは私の前でだけなんだもの。

「なに?」
「・・・教えない。内緒っ」

楽しげに弾む声にやれやれと肩をすくめつつ、電話の向こうでどんな顔をしているのだろうと想像する。
きっと、いつものようにいたずらっぽい目をして、ちょっぴり頬を染めているのに違いない。

――会いたいな。

「・・・フランソワーズ?」
「なあに?――だめよ、いたずらするのやめないわよ?そういうルールなんだから」
「うん、そうじゃなくて」
「?」
「――帰ったら、」

 

 

「・・・や、もう、ジョーのばか」
「だめ?」
「・・・・・・・・・・・・・知らない」

電話の向こうの声が小さく震えた。

 

 

***

***

 

 

電話を切ったあと、フランソワーズは熱い頬をそっと押さえた。

「もー。今年はお菓子をくれるなんてずるいわよ、ジョーのばかっ」
しかも、普段よりも甘い声で。

 

『帰ったら、ずーっとキスするから覚悟してて』

 

ずっと じゃなくて、 ずーっと ??

 


 

10月30日

 

「レーサーの島村ジョーだっけ?大した事ないよな」

そのひとことに女性陣は沈黙した。
気遣わしそうにちらちらとフランソワーズを見つめて。
が、目の前の男性は女性陣の空気に全く気付かず、更に続けた。

「チャンピオンっていったって、この間は3位だろ?実力なんてないくせにいい気になって」

さすがに隣席の友人がたしなめた。

「おい、酔ってんのか?――ごめんね、こいつの実家、レーシングスクールをやっててさ、こいつも昔ドライバーだったんだ」

へえ・・・と女性陣が頷くと、それに気を良くしたのか更に言葉を継いだ。

「だからわかるんだよ、あいつは大した事ない、ってな」
「おい、そこらへんにしておけよ」
「フン。大体、途中にブランクがあるくせに、さっさとシートを獲得できたなんて話がうますぎる。コネがあったとしか思えない」
「レースの話はもういいだろ。みんな退屈してるじゃないか」
「レーサーのくせに、芸能人みたいにテレビに出たりしてさ。レースに対する気持ちなんて、これっぽっちも――」

「あなた、彼のファンなのね?」

遮るようにかけられた言葉に、言われた本人を含め全員が声を発した人物を見つめた。

「別に俺はファンってわけじゃ・・・」
「あら。だって随分詳しいんですもの。毎回レースを観ているとしか思えないわ」

そう言って、フランソワーズはにっこり笑った。

 

男女同数の会食の席である。世間一般には「合コン」という名称で通っている、見知らぬ男女の出会いの場のひとつである。
予定していた子が来られなくなって困っている――と、人数合わせに誘われたフランソワーズは、最初は固辞したものの、出席する友人のひとりが秘かに思いを寄せている相手が来るので中止にしたくないという事情を聞き、仕方なく承諾したのだった。

しかし。

その場で「島村ジョー」の悪口を聞くことになるとは。
女性陣は全員、バレエ教室の友人だったから、フランソワーズがF1レーサー・島村ジョーの恋人であるということを知っている。
だから、あまりに不用意に発せられた言葉に全員が固まってしまっていた。

 

「別に詳しくなんか――」
「そうかしら?」

駄目押しの笑顔に相手は沈黙した。

気まずい雰囲気が漂うなか、黙々と食事だけを続けるその空気は、今夜の合コンが失敗に終わった事を告げていた。

 

***

 

「――と、いうことがあったのよ。ねっ?そのひと絶対、ジョーのファンだと思わない?」

電話の向こうから聞こえてくるその声は、耳に心地良いものであったが、話の内容は全く心地良くはなく、先刻からジョーは眉間に皺を寄せたままだった。

「――楽しそうだね」
「楽しくなかったわよ?」
だってあなたの悪口を聞かされたのよ――とやや不機嫌な様子。

「・・・そうかな」

しかしどう考えても、合コンなるものを楽しんできたとしか思えず、ジョーは小さくため息をついた。

「あのさ、フランソワーズ」
「なあに?」
「そろそろ怒ってもいいかな」
「怒る?何を?」
私、何か悪いことをしたかしら・・・と、小さく聞こえてくる。

「合コンなんかに行ったこと」
「どうして?人数合わせで出席しただけよ?」
「ウン。それはわかっているけど」

確かにフランソワーズの言う通り、彼女は進んで出席したわけではなかった。しかも、数度に渡り断っているのだ。
それを押し切られたのは、ひとえに友人を思う彼女の優しい気持ちからであり、合コンで新たな出会いを求めようなどという意志も意図もあるはずがなかった。それは十分わかっていた。が。

「でも、気に入らない」

そう。深い理由はないのだ。
ただ、自分の知らない所で、彼女が見知らぬ男と会い、食事をしたという事実が単純に嫌だった。
毎日声を聞かせてとは言ったけれど、こういう内容なら聞きたくなかった。が、内緒にされるよりはマシだと思い直す。何の屈託もなくあっけらかんと自分に話すということは、何ら後ろ暗いところがないという証明だった。

「ジョーったら」

くすくす笑いが伝わってくる。

「ヤキモチやきね?」
「悪かったな」
「だって、妬く必要ないのに」
「あるよ」
「ないわよ。・・・もう。私のこと信じてないの?」

それとこれとは別だった。
信じてるか信じてないかと言われれば、それはもう信じているのに決まっている。
が、今の話のポイントはそれではなくて、フランソワーズが自分のいない所で他の男に紹介されたという事が問題なのだった。

「信じてるよ。でも、嫌だ」

もし今一緒に居るのなら。彼女を膝に抱き上げて、胸に抱き締めて聞いただろう。何の不満もなく。
しかし、ここは日本から随分離れた違う国である。
自分はいま、彼女の笑顔を見ることもできなければ、触れることもできないというのに、自分以外のどこかの男が何の苦労もなく彼女の笑顔を見たということは、なんとも受け容れ難かった。
とはいえ、そんな小さい事にも妬いている自分が何て嫉妬深い男なのだろうとも思い、何とも複雑な気分だった。

「・・・ジョーったら」

そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、フランソワーズは言いにくそうに続けた。

「でも――ごめんなさい」

ごめんなさい?

一体何を謝るんだ――と、ベッドに寝転がって電話をしていたジョーは跳ね起きた。
この話の流れで「ごめんなさい」ということは、まさか――

「失敗しちゃったの」

失敗?

まさか。

「まさか、フランソワーズ――」

 

***

 

気まずい空気のなか、食後のコーヒーも済んで散会となった。
幾分ほっとした雰囲気になり、店を出たところで、意中の彼とお茶をしに行くことになったと友人は頬を染めてフランソワーズに報告した。

「わぁ。良かったじゃない。――もお、いつの間に?」
「えへへ。今日、一緒に来てくれたフランソワーズのおかげよ。ありがとう」
「私は何にもしてないわ」
「ううん。それに・・・やな奴に会わせてごめんね」

やな奴とは、さっきジョーの悪口を言った男のことである。

「気にしてないわ。大丈夫」

そこへ、会計をすませて店を出てきた男性陣が合流した。

「さっきはすまなかったね」

やな奴がフランソワーズを見つけ、そばへやって来た。

「きみが島村ジョーのファンだなんて知らなかったものだから」
「気にしてません。あなたも彼のファンみたいだし」
「別にファンなんかじゃないけどさ、レースはとりあえず観るからね」

それじゃ――と帰ろうとしたフランソワーズは腕を掴まれ驚いた。

「あの」
「もう少しレースの話でもしない?きみ、詳しいみたいだしさ。もう一軒行こうよ」

冗談ではない。

「困ります。門限が」
「ちゃんと送るよ。――この先にいい店があるんだ。二人で行こうよ」
「行きません」
「つれないなぁ」

強引に肩を抱こうとした男の腕を思わず捻り上げていた。

「いててて、――わかったよ。ったく、乱暴だなぁ。顔に似合わず」

にやりと笑う。

「じゃあさ、きみの好きな島村ジョーの話でもしない?色々と裏話を知ってるし、興味あるだろ?」
特にオンナ関係とかさ、とにやにや笑いを顔に張り付かせ言う。

オンナ関係。

その言葉にかちんときたフランソワーズは、つい言ってしまったのだった。

 

***

 

「――は?」

ジョーは一瞬、耳を疑った。

「悪い。よく聞こえなかった」

電話の向こうはしばしの沈黙のあと、小さく言った。

「・・・ほんとは聞こえたくせに」
「聞こえなかったよ。もう一回言って」
「・・・意地悪」
「意地悪、って」
本当に聞こえなかったんだよ――と続ける。

「もう。何度も言うことじゃないのに」

 

***

 

「そんなの興味ないわ!だって、ジョーのオンナは私だもの!!」

 

夜の繁華街である。人通りもそこそこある通りで突然そんな宣言をした友人を、バレエの友人たちは驚愕の目で見つめた。

「ちょ、フランソワーズ、何言って――」
「そんなのこんなとこで言っちゃだめでしょ」

わっとフランソワーズを囲み、誰か聞いていないかと辺りを見回した。
が、幸いにも誰もこちらに注意を払ってはおらず、雑踏はただ流れてゆくだけだった。
しかし、そんな女性陣の心配をよそに、フランソワーズは頬を紅潮させて更に言うのだった。

「『今夜は離さないよ』って言われたのも私なんだからっ!ジョーに他のひとなんていないの!オンナ関係なんてあってたまるもんですか!訂正しなさいよっ」
「――フランソワーズっ」

慌てたように、フランソワーズの口を塞ぎ羽交い絞めにする。

「いったいどうしたっていうの?内緒なんでしょーが」
「だって、酷いのよ、ジョーのこと――」
「言わせておけばいいじゃない。もう・・・あなた酔ってるのね?」
「酔ってない」
「いいから。酔ってるってことにしてて!」

そうしてどう収拾がつけられたのかというと。

「この子はね、島村ジョーの熱狂的ファンだから、多少イタイことを言うことがあるの。――虚言癖があるのよ。だから、あんまり刺激しないで、――ね?」

 

***

 

「イタイことっ・・・・虚言癖っ・・・・」

電話の向こうで悶絶しているジョーの姿を想像し、フランソワーズは頬を膨らませた。

「もうっ。そんなに笑わなくてもいいじゃない」
「っ、・・・・腹いてー・・・・・」

会話にならない。

「・・・まぁ、いいじゃないか、結局」

苦しそうに息をしながら、まだ笑いの残る声でジョーが言った。

「――結局、それで落ち着いたんだろ?その――相手も、イタイ人とは付き合いたくなかった、と」

自分の言葉に再び爆笑するジョー。

「・・・悪かったわね。イタイ人で」
「いや、いいよ、・・・・・・・イタイ人っ・・・・」
「ジョー。笑いすぎ」

彼が息を整えるまで待った。

「――そんな訳だから、ジョーは何にも心配することないのよ?」

そもそもの話題に戻る。

「あ、ああ。そのようだな――って、コラ。ごまかされないぞ」

とはいえ。

自分以外の男に会ったりするな――と言うのは、憚られた。自分が嫉妬深い男であり、独占欲の塊なのだと彼女に伝えるのは抵抗がある。
が、このまま「ま、いいか」で済ましてしまう気にもならなかった。
何故なら、今後もこのように、彼女が押し切られて合コンなるものに行ってしまうことがあるかもしれないのだ。

「――もう行くなよ」

「行かないわよ。・・・行きたくたって、もう誰も誘わないわよ」
「イタイ人だもんな」
「・・・うるさいわよ、ジョー」
「ま、しばらくイタイ人でもいいんじゃない?きみは僕のオンナなんだろ?」
「・・・イタイ人がいいなんて物好きね?」
「そ。僕は物好きなんだ」

 


 

10月26日

 

「ほら、ジョー。ここ。ケチャップがついてる」

翌日の朝である。
久しぶりにぐっすり眠ったジョーは、フランソワーズのゴハンを堪能していた。
向かい合って座り、何も喋らず食べる事に専念しているジョーを見つめていたフランソワーズは、苦笑しながら自分の口元を指差した。

「ん。どこ?」
「そっちじゃなくて」
「ここ?」
「もうちょっと左。――反対よ、は・ん・た・い」
「む・・・わからないよ」

しょうがないわねぇと身体を浮かせ腕を伸ばし、ジョーの口元についたケチャップを指先で拭う。

「もっと落ち着いて食べて?誰もとらないから大丈夫よ」
「いいんだよ、飢えてたんだから」

そう言って、フランソワーズの手首をつかみ、その指先についているケチャップを舐めた。

「もうっ、ジョーったら」

くすぐったそうに手を引くが、ジョーは離してくれない。

「食べにくいでしょ?離して」

けれども無言。フランソワーズの手を掴んだまま食事を続けている。

「ジョーったら。離したってどこにも行かないわ」

フランソワーズの言葉に、手を止める。

「・・・そうかな」
「そうよ」
「んー・・・・」

虚空を見つめ。

「・・・やっぱり嫌だ。――フランソワーズ、こっちに来て」
「え。だって、今日は顔を見たいからって言ったのはジョーじゃない」
「うん、見た。だからもういい」
「もういい、って・・・」
「体温があった方がいい」
「体温、って・・・」
「いいから来て」
「・・・もうっ」

断固としたジョーの様子に軽く唇を尖らせ、フランソワーズはしぶしぶジョーの膝へ移動した。

「私は子供じゃないんだから、抱っこしなくてもいいのよ?」
「ウン」
「食べにくいでしょ?」
「平気」
「だって片手じゃない」

左手はフランソワーズの腰に回されているのだ。

「もうっ・・・重くないの?」
「ん――きみ、ちょっと太った?」
「も、ジョーのばか!」
「うそうそ。嘘だってば――おい、暴れるなよ」
「知らないっ」

つんと顔をそむけたフランソワーズを見つめ、笑みを浮かべ――食事を再開した。
しばらくして、ジョーの首筋に腕を回していたフランソワーズがそっと声をかけた。

「・・・ねぇ、音速の騎士さん?」
「誰それ」
「あなたのことよ」
「俺?なんだそりゃ」
「みんなそう言ってるから、いいのよ」
「・・・ふーん」
「――頑張ってね。応援してるから」
「うん」
「私のことは――」
「気にしないよ。それでいいんだろう?」
「ええ。メールも電話もしちゃだめよ」
「ん、それとこれとは別だろう?」
「いいの。我慢するわ」
「・・・それ、なんの修行?」

フォークを置いて、フランソワーズを抱き締める。

「やだよ、そんなの。――耐えられない」
「だって、・・・」
「前に、邪魔じゃないって言っただろう?」
「でも、前と今とは状況が違うわ」
「――音信不通になんかなったら、負けたらフランソワーズのせいにするよ?」
「ええっ」

フランソワーズが慌てて身体を離し、ジョーの顔を正面から見つめた。
そのフランソワーズの額に自分の額をくっつけて。

「俺がきみ無しで走れると思う?」
「それは・・・」

走れるんじゃない?と言いかけて、ジョーに軽く睨まれ黙る。

「――毎日声を聞かせて」

甘えたように言われ、小さく頷く。

「・・・そうしたら勝てる?」
「勝つよ」
「チャンピオンとして?」
「チャンピオンだからさ」

そう、今度は「王者としての走り」が求められるのだ。スピードと技術と、そして強さ。
変に気負ってもいけない。かといって、もうチャンピオンになったのだからと気を抜くのとも違う。

「――チャンピオンなのに、甘えん坊さんね?」
「電話する?」
「するわ。毎日、ね?」
「絶対だよ」
「絶対」

ゆびきりげんまん――の代わりに二人の唇が近付いて、そして。

数瞬後、ジョーは痛みに顔を歪めていた。

「・・・もう。先に口内炎を治さないとね?音速の騎士さん」


 

10月25日

 

「本物よ?」

ジョーの手を両手で握りしめ、フランソワーズは頬を染めて嬉しそうに言った。

「――本物」

どうしてここにいるんだ。差し入れを置いたらすぐ帰るという約束だったはずだ。

日付はとうの昔に変わっており、今は真夜中に違いなかった。が、彼女はとても真夜中とは思えないくらい自然にそこに居た。

「・・・どうして」

頭に浮かんだ疑問をそのまま舌にのせる。ただそれしかできなかった。

「・・・だって」

見つめる先の蒼い瞳の持ち主はさらに頬を染めてゆく。

「ジョーに会いたかったんだもの」

心配だった――とは、言わなかった。何故なら、心配されていると知ったら彼はおそらく傷つくだろうから。
心配されるほど態度に出ていたのだろうかと気にして、心配をかけてしまっていたことに気付かなかったことを気にするから。

「――だから、って・・・」

フランソワーズに会えた嬉しさよりも、彼女が約束を守らなかったことのほうが心を占める割合が大きかった。
彼女の手を乱暴に振り解く。

「どうして約束を守らないんだ」

食いしばった歯の間から、唸るような低い声が洩れる。
ジョーとしては、最大限に怒りを抑えたつもりだった。

「約束?そんなのしてないわ」

あっけらかんと言い放たれた言葉に目をみはった。

「何だって?」
「あら、聞こえなかったかしら?――約束なんてしてないわ、って言ったのよ」
「差し入れを置いたらすぐ帰れって言ったよな」
「でも私、承諾してないわよ?それって約束とは言わないでしょ?」

お互い目を逸らさず、じっと見つめ合う。

「命令したはずだけど」
「何よ命令、って」
「どうして僕の言うことをきかないんだ」
「何よその言い方。あなたは今009じゃないでしょ?違う?009じゃないのに、命令なんてしないで!」
「じゃあ、009として命令する。帰れ」
「イヤ。命令には従えない」
「003」
「そんな呼び方しないで。私は自分のしたいようにするわ。誰にも――あなたにも私のすることに口出しする権利はないわ」

無言でしばし睨み合う。
先に視線を外したのはジョーだった。

「――好きにすれば?僕はもう寝る」
「あらそう。じゃあ私も休ませてもらうわ」
「・・・ついて来るな」
「たまたま同じ方向なだけです!」
「ゲストルームはあっちだろ」
「ゲストじゃないもん、残念でした」

廊下でお互いを牽制しつつ進み、ベッドルームのドアを開けたのはフランソワーズが先だった。

「――はい、私の勝ち!」
「なんだよ、勝ちって。勝手に俺の部屋に来るな」
「何よ、俺って。ここは私の部屋でもあるの。知らないの?」
「知らないな。いつからそうなったんだ」
「ずうっとずーっと前からよ?」
「・・・フン」

上着を無造作に脱ぎ捨て、そのままベッドに転がった。

「もー。ちゃんとハンガーにかけないと皺になるでしょ?」
「うるさいな。ほっとけよ」

悪態をつくジョーを横目で見ながら、彼の上着をハンガーにかける。
そうしてから、大の字になっているジョーの隣にちょこんと腰掛けた。

けれども、何も言わない。

無言のまま数分が過ぎた。

 

***

 

「――どうしてひとの言う事をきかないんだよ。・・・俺が、どんな思いでっ・・・」

しばらくして。
絞り出されるように聞こえたジョーの声。

けれどもフランソワーズは振り向かない。そのまま、ジョーの傍らに座ったまま身じろぎひとつしなかった。

「・・・きみを世間に晒したくないから、だからずっと」

勝手に記事を書かれるよりはと、苦手な取材もできるだけこなしてきた。全てはフランソワーズを守るために。

なのに、本人が協力しないって何なんだよ――

「・・・バカね」

ポツリと言って、そうっと彼の膝に手を置いた。

「いつ私がそんなの気にするって言ったの?――言ってないでしょう?・・・なんて言われても平気よ?痛くも痒くもないわ」
「だけど」
「そんなの、大した事じゃないじゃない」

ジョーの反論を許さず、彼の声に被せて続ける。

「それともジョーは、私があなたの恋人だって知られるのがイヤなの?」
「そんなことは」
「私は平気よ。逃げも隠れもしないわ。何にも恥ずかしい事なんてない」
「だけど」
「いいじゃない。誰に何を言われたって。――そりゃ、この前の日本グランプリの時の話が流れていたなんて知らなかったし、みんなに知られて恥ずかしかったけれど――でも、ジョーとの会話が恥ずかしいなんてこれっぽっちも思ってない。何か言いたいひとがいるなら、勝手に言わせておけばいい」
「・・・・」
「だから、あなたひとりで頑張らなくてもいいの。――守って欲しいなんて言ってない。自分のことくらい、自分で守れる。だからジョーは、自分の事だけ考えていればいいの。私の事なんて関係なく、レースの事しか見えなくていい」
「・・・・・・・でも」
「いいの。私がいい、って言ってるのよ?どうしてあなたが気にするの。それでもあなたが気になるっていうなら、だったら私、自分で言って歩くわよ?私がハリケーンジョーの彼女ですーって」
「何をばかなことを」

思わず身体を起こす。フランソワーズなら本当にやりかねない。

「そうしたらスッキリするでしょう?何も秘密にする必要なんてないんだし。何を言われても、何を書かれても平気よ。ハリケーンジョーのカノジョにしては・・・って言われても泣いたりしないわ」
「・・・怒るんだろ」
「何か言った?」
「・・・・」
「――もうっ。いいから、私の事なんて忘れて。レースだけに集中してちょうだい」

ジョーの膝に置いた手にぐっと力を込める。

「私の事が気になって、レースで本来の走りができなかった――って言われる方が迷惑よ」

きっぱりと言って、初めてジョーの方を向いた。じっと――睨みつけるように褐色の瞳を見据える。

「ワールドチャンピオンでしょう?――何やってるのよ、ハリケーン・ジョー!」

 

時間が凝固したかのようだった。
二人とも見つめあったまま動かず、視線も外さない。瞬きもしない。
それは永遠に続くと思われた――が、やはりそんなことはなく。

 

「・・・効くなぁ」

ふうと息をついてから、改めてフランソワーズを見つめた。

「本当にそうするよ?――いいのかい?」
「いいって言ってるでしょう?」
「――甘えるよ?」
「どんときなさい」

 

 

***

 

そんなわけで、フランソワーズは甘えるジョーのお守りをすることになった。

とはいっても、特に何をするでもなく――ベッドの上でそのままじゃれあっているうちに眠ってしまった彼の髪を撫でた。着衣のままのジョーをどうしようかと考えながら。
けれども結局、彼の寝顔を見ているうちに自分も眠くなり、ジョーにぴったりくっついて丸くなった。
その温かさと規則正しい呼吸に安心して。

 


 

10月24日

 

――疲れた。

地下の駐車場から上階へ向かうエレベーターの中で、ジョーは壁に寄りかかり目を閉じていた。
傍らには大きなスーツケースとバッグ。レース関係のものは既に送ってある。ここには着替え等、洗濯が必要なものや中国で購入したものなどが詰まっていた。

部屋に戻ったら、洗濯して、それから・・・

眉間に皺が寄る。
時刻は既に日付を変えていた。今日一日だけ与えられたフリーの時間。それらがこの洗濯物の処理に費やすことになりそうだった。洗濯して、畳んで、また詰めて。疲労困憊した身にはそれさえもとてつもない大仕事のように思えた。何しろ、帰国して以来、ちゃんと眠れていない上に食事もマトモにできていない。もちろんこれは、周囲のせいではなく――眠る場所も十分な食事も与えられていたのだから――ジョー自身の問題だった。

・・・フランソワーズのごはんが食べたいなぁ・・・

彼の元気の素は、いつでもどこでもフランソワーズなのだ。顔を見るだけで、声を聞くだけで元気が出る。もちろん、できればそれだけではなくて、その髪に顔を埋めたり、柔らかい身体を抱き締めたり、その唇で自分の名前を呼んで欲しかった。

シンガポールから帰った時は、ここに来ていたんだよな・・・

そして、彼女を抱き締めて眠り、彼女のごはんをたくさん食べて至福の時を過ごした。
けれども今回は、そうはいかなかった。
何しろ、自分がいつ帰れるのかもわからない上に、マスコミを処理しなければならないのだ。もしも彼女をここに呼んで何かあったら、悔やんでも悔やみきれない。彼女がカメラに追われる図など、想像したくもなかった。
だから、今回はここに来るなと何度もメールした。絶対に来るな、と。
そのはずだった。
が、昨日無意識にメールをしていたらしく――差し入れを持ってここに来るという返事を見た時は驚いた。
初めは止めようと思った。けれども、差し入れという名のフランソワーズのゴハンの誘惑には勝てず、差し入れを置いてすぐ帰る事という制約をつけて許可したのだった。
だから、疲れていてもそれだけを楽しみに頑張ったのだ。

――帰ったら、フランソワーズのごはんが待っている。

そう思うと、つい頬が緩んでくる。会えなくても、彼女が居たという痕跡だけで何とか満足できそうだった。
例え、もし満足できなくても、自分には「ひとっ走り行ってくる」という手段が残されていた。

そうさ。いざとなったら、防護服に着替えて・・・

我ながらうまい事を考えたと少し元気になった。疲労の海に沈んだ重い身体でどのくらいの加速に耐えられるかわからなかったが、やってみる価値はありそうだった。

 

***

 

「――ただいま」

小さく口の中で言った後で軽く舌打ちをする。
またやってしまった。ここはギルモア邸ではないのに。――誰も待っているひとなどいないのに。
玄関灯はセンサーが反応して勝手に燈るようになっている。それがなければ、暗くて冷たい部屋なのだ。
が、しかし。
ジョーの目が不審そうに細められた。
何故なら、誰もいないはずなのにリビングの電気がついているのだ。出る時に消し忘れたとは考えにくかった。何しろ、フランソワーズと一緒に出たのだから。彼女が気付かないわけがない。
だとしたら、一体。

――誰かいる。

ジョーは自分の気配を殺し、静かに廊下を進んで行った。

 

***

***

 

来る途中で買った果物を剥きながら、あとはどうしようかとフランソワーズは思案した。
ジョーへの差し入れのお弁当――三段重には、むこうで作ったジョーの好物が詰まっている。そして、各種果物はリンゴ、グレープフルーツ、キウイと皮を剥いてほぐし、あとは食べるだけという状態にしてある。
ジョーはすぐ出かけてしまうのだから、余りを出したくはない。が、彼の栄養補給を考えるとやっぱり何か温かいものも作ったほうがいいのかと悩んだ。
悩みつつ、リンゴのウサギを作り終わり、ラップをかける。ダイニングテーブルの上には既にたくさんのものが並んでいた。あとはジョーが座るだけ。

・・・早く帰って来ないかなぁ。

思わず笑みがこぼれる。

驚くわよね、きっと。

丸くなった褐色の瞳が浮かぶ。

何て言うかしら。・・・最初はきっと「なんでここにいるんだ」って言うわね。――怒るかしら。・・・うん。きっと怒るわ。だって私が009の命令を無視したんだもの。――でも、いい。だってこの命令は間違っているんだもの。いくら009の命令だって、私が納得しなければ無効なんだから!

テーブルセッティングをしてしまうと、後は本当に何もすることがなくなった。ジョーを待つ以外は。

――いいもん。ジョーを待つのなんて、慣れてるから平気。大体、いっつもあのひとは遅れてくるし・・・

今までの彼との待ち合わせや、ミッション中の彼の行動を思い浮かべてゆく。

でも、遅れてくるのは私を信用してくれているからよね?――私だって戦士なのだから、ひとりでも大丈夫って。
だから私は、ジョーが来るまでは絶対にケガしたり死んだりしてはいけないの。だってもし、私が彼を待っている間にどうかなってしまったら、ジョーはその場で我を忘れてしまう。・・・ジョーが我を忘れたら手に負えないのよ。

過去の「ジョーが我を忘れた状態」を思い出し、身震いする。

・・・だから、私は絶対に元気で彼を迎えなくちゃならない。そうじゃないと、ジョーは我を忘れて暴れて、――ちょっと見ただけでは狂気としか思えないようになって――そして、全てを破壊し尽くしてから・・・泣くから。
ジョーが泣くと大変なのよ。我を忘れたジョーっていうのも大変だけど、暴れているだけだからジェロニモとイワンがいれば取り押さえられる。でも、泣いたら。誰の手にも負えない。それに、ジョーの泣き顔は誰も見ちゃいけないんだから。だから私がいなくちゃ駄目なの。泣いているジョーをどうにかできるのは私しかいないんだから――

 

***

***

 

「おかえりなさいっ」

リビングのドアに手をかけた途端、待ち構えていたかのように(実際、待ち構えていたのだが)迎えられた。

「お疲れさま」

満面の笑みと可愛い声に、ジョーは一瞬目を閉じた。

――いかん。どうやら僕は自分では思っている以上に疲れていたようだ。・・・幻覚が見える。

「ジョー?どうかした?」

うっ・・・幻聴まで。いよいよ僕は・・・

「もう、ジョーったら」

ついっと手を引かれた。その質感に驚きつつ目を開けてみると、やはりそこにはフランソワーズがいるのだった。

「・・・本物?」

 


 

10月23日

 

ジョーのマンションへ向かう途中の電車の中で、フランソワーズは流れてゆく景色を見るともなくその瞳に映しながら、改めて「ワールドチャンピオン」がどういうものなのかを考えていた。
F1レース自体がそんなに一般的に浸透しているわけではないのだから――という考え方は甘かった。
ギルモア邸を出てから電車に乗るまでの間に、「ハリケーン・ジョー」に関するあれこれをたくさん目にした。
スポーツ新聞の一面だったり、雑誌の表紙だったり。あるいは謎の垂れ幕に、いつかのCMのポスター。
確かに、よく思い出してみれば、チャンピオンになってから、ジョーはワイドショーの常連だったし、あれこれ取り沙汰されてもいた。各局のインタビューにも答え、テレビ生出演――は、断っているものの、とにかくあちこちで姿を目にしていた。実際には会っていなくても、ジョーの顔ならいくらでもテレビ画面を通して見る事ができるのだった。

また、先日の日本グランプリでの自分との遣り取りも繰り返し流されており、女性誌でも未だに特集が組まれている。
自分は一般人であり、ジョーが気にして顔写真は絶対に撮らせないから、こうして歩いていても気付かれる心配はないけれど、ジョーは別だった。ワイドショーのインタビューなど、レースよりもそっちを重点的に尋ねてくるのだ。そのたびにジョーはのらりくらりと受け流し、適当な事しか言わなかったのだが、それでも取材は絶えなかった。

・・・ジョー。大丈夫かしら・・・。まだレースは残っているのに。

今回も、あと数日で次のレースの調整のために行ってしまう。またまたギルモア邸まで帰っては来られないのだった。

慣れない取材攻勢に参っているのではないか?
あるいは、今回の順位をひきずっていたり――次のレースに向けて変に気負ってはいないだろうか?

心配だった。

と、ひとことで言ってしまえばそれまでなのだが、フランソワーズの心境としては、
心配で心配で心配で心配で、寝ても覚めてもジョーの事ばかりが浮かんでしまうのだった。

・・・会いたいな。

 

***

 

ワールドチャンピオンってこんなに味気ないものだったのだろうか。

チャンピオンになってからずっと、ジョーは考えていた。
もちろん、チームとしても結果を出せたし、スポンサーへのアピールも出来たのだから、上々と言えよう。
しかし、どうあっても気分は晴れなかった。
中国グランプリで表彰台に上り、と同時にワールドチャンピオンも決めた。誰もが願う、最高の舞台であった。
それにもかかわらず、結果に関しては全く納得がいっていなかった。

――優勝せずにチャンピオンなんて片腹痛い。

表彰台に上がったとはいえ3位である。レース内容が悪かったとは思っていないが、それでも過程を見ずに結果だけ見れば「3位なのにチャンピオン?」というわけである。それが気に入らなかった。

そんな自分の思いとは裏腹に、周囲の浮かれる様も嫌だった。
いつ果てるともしれない取材、同じ事を繰り返し訊かれるインタビュー。レースとは全く関係のない話を聞きたがるレポーター。何に使うのかわからない写真撮影。
全てにまったく興味が無かった。かといってないがしろにするわけにもゆかない。事務所に対して責任もあったし、スポンサーへの協力もしなくてはならない。

だけどまだレースは終わってないのに。

早くサーキットに戻りたかった。勝負に向けて、調整をしたかった。一刻も早く。
ジョーの気持ちは既に次のレースに向いており、狙うは優勝、それだけだった。

そういえば、フランソワーズにも会ってないなぁ・・・

取材のため指輪はずっと外している。しかも、それがどの上着のポケットに入っているのか忘れてしまった。
それでも、そんな事はどうでもよかった。そんなものがなくても本人の顔を見られればそれでいい。

・・・声も聞いてない。

携帯電話は、事務所関係の連絡以外は電源を切っておくことが多かった。だから、彼女から連絡があってもわからない。メールだけは読めるけれども。
何度も電話をしようと通話ボタンを押しかけた。が、そのたびに邪魔が入り、気付くと真夜中も過ぎており――結局、連絡ができずにいた。
ずっと自宅に帰れずにいたから、彼女をそこに呼ぶわけにもいかない。独りで待たせるなど耐えられなかった。
しかし、誰も迎えるひとがいない部屋に帰るのも嫌で――結局、事務所が用意したホテルばかり利用していた。

それらは数日間の出来事ではあったものの、ジョーにとってはかなりのストレスとなっていた。
サイボーグであってもストレスは避けられないようだった。
まず、眠れない。眠っても良眠できない。
それから、食欲が湧かない。サイボーグなのになぜか口内炎が出来た時は不思議な気持ちになった。しかもそれが死ぬほどしみるのだ。
着るもの、喋る事に気を遣うなんて事は、ジョーにとってストレスでしかない。

それを解消できる手段もわかってはいたが、考えないようにしていた。
そんな甘えは許されないような気もした。
次のレースの事だけを考えればいい。そう思った。
今度はワールドチャンピオンとしてのレースになる。無様な走りはしたくない。誰もが、チャンピオンにふさわしいと思うような走りをしなければ。

しかし、そんな気持ちを裏切って、彼の右手は勝手にメールを打っていた。
正気なら絶対にそんな甘えた事は言わないのに。

 

「フランソワーズのゴハンが食べたい。今日は絶対に帰るから。それがないと頑張れない」

 

 

****

 

ジョーの部屋に着いたのは午後5時だった。

ダイニングテーブルに持ってきた差し入れを置く。そのまま帰ればそれでいいはずだった。
でも。
今日はジョーがここに帰ってくることを知りながら、その部屋を後にする気にはなかなかなれなかった。

――待ってちゃ駄目かしら。

独りで待っているのを良しとしないジョーの気持ちはわかる。彼自身、待っても待っても得られない孤独をひとり耐えてきたのだから。だから、他のひとに同じ思いを味わわせたくないと思っていることも。

でも、ジョーは間違っている。

「誰かを待つ」事が苦痛ではないこともある、と知って欲しかった。待っている間に、そのひとのことを思い、顔を思い浮かべ――帰ってきたら何て言おうか、彼はなんて言うだろうかと考えるのも楽しいということを。

待っているのが待たれているのが嫌だなんて言わせないわ。だって私は会いたいんだもの!
そうよ、それに――会えない時間が愛を育てちゃうんだから。この育った愛を見る義務がジョーにはあるのよ。

そうよ、そうなんだわと両拳に力を入れて大きく頷く。

待つのなんて平気だもの。もし、予定が変わって帰って来なくても平気よ。泣いたりしないし、怒ったりもしないわ。
だって私が勝手に待ってるだけなんだから。ジョーは何にも悪くないんだから。ただ会いたいだけなんだから。

 


 

10月22日

 

「――あれ?フランソワーズ、今日もこっち?」

こっちとはギルモア邸のことである。

「むこうに行けばいいのに」

むこうとは、ジョーのマンションである。
キッチンを覗いたピュンマが驚いたように声をかけた。

「ん・・・。でも、帰ってないみたいだから」
「まだ忙しいのか?」

ピュンマの声にこっくりと頷く。その寂しげな様子に、ピュンマはため息をついた。
彼のため息に反応したかのように、フランソワーズが笑顔を作る。

「大丈夫よ。ちゃんと毎日、電話もメールもしてるし」
寂しくないわ。と付け加える。

「――そう?なら、いいんだけど・・・」
「だって、寂しいなんて言ってられないわ。――日本人初のワールドチャンピオンなんだもの」

 

***

 

5番グリッドからスタートしたジョーは、タイヤに厳しいといわれるコースを歯を食いしばって堪え、ラスト5週で4位に上がり、ファイナルラップで3位争奪の熱いバトルを繰り広げた。
そしてあと数メートルでチェッカーというストレートラインで相手を抜き去り、レース終了寸前に3位をもぎとった。
解説も実況も、彼のファンでさえも、ハリケーン・ジョーの表彰台は諦めていた。ワールドチャンピオンは次回のブラジルグランプリへ持ち越しになる・・・と誰もが思ったその瞬間、コンマ数秒の差でフィニッシュしたのだった。

しかし。
中国グランプリ優勝で、ワールドチャンピオンを決めたかったジョーはすこぶる不機嫌だった。
もちろん、表面上はインタビューや公式会見もにこやかにこなした。が、わかるひとには十分に彼の不機嫌さがわかるのであった。

フランソワーズもそのひとり。

テレビの前で、繰り広げられるバトルを息を呑んで見つめていた。
優勝はできなかったけれど、それでも執念で勝ち取った3位はじゅうぶん誇っていいと思った。が、それでもジョーは納得していない様子に気持ちは沈んだ。

頑張ったのだから、いいじゃない。
3位だって立派よ?
チャンピオンを勝ち取ったのだから。
次のブラジルグランプリがあるじゃない。・・・・・

言葉を尽くして伝えたかったけれど、未だにどれも言えずにいた。
何しろ――ピュンマにはああ言ったけれど、実はジョーとずうっと話していないのだ。電話が繋がらない。
いつかけても通話中か、もしくは電源を切っているかのどちらかだった。もちろん、彼からの電話連絡もない。
ほんの数行の、電報のようなメールだけが一日に数回あるのみだった。
チャンピオンおめでとう――も、言っていない。
それでも、帰国前からの取材攻勢で忙しくしている事はわかっていたので――日本国内でも凄い騒ぎなのだ――ともかく、彼が落ち着くまで待たなければと我慢した。

だって、会いたいと思っているのはきっと・・・私だけじゃないはず。

絶対に、ジョー自身もそう思っていると信じていた。

 

***

 

「――でも、フランソワーズ、その・・・それ、って・・・」

ピュンマが気遣わしそうに眉間に皺を寄せ、フランソワーズの手元を見る。

「ジョーに持って行くつもりなんだろう?」

フランソワーズはお弁当箱のフタを閉めると顔を上げた。

「――ちょこっと行って、すぐ帰るわ」
「泊まってくればいいのに」
「でも、私が待っているとジョーが気にするから」

メールでそう言われたのだった。とにかくマンションで待ってるわ――と言ったフランソワーズに、いつ帰れるかわからないのに、独りぼっちで待たせるのは辛いという返事だった。
帰れる目途があるならいいけど、今は全く予定がたたない状態であり、自分も未だにマンションに帰れていないのだから――と。

「気にするって、そんなことないと思うよ?」
「いいの。もう、ピュンマったら心配しすぎよ?」
「そりゃ・・・」

そんな風に寂しく笑われたら、誰だって心配になるよ。

何しろ、ジョーが帰ってくる日のフランソワーズといったら、本当に嬉しそうで心ここにあらず、ふわふわ浮かんでいるようなのだ。輝く笑みでジョーの名を呼び、時間を気にして。普段は絶対にしないのに、耳のスイッチを入れてジョーの車のエンジン音をトレースして。指折り数えて待っているのだ。

いつもの笑顔が無いんだもんなぁ・・・

ピュンマを始め、邸にいる全員が落ち着かなかった。

「ヤツが帰ってくるまで、ずっとむこうにいればいいんじゃないか?」
というアルベルトの声にもただ微笑むだけで頷きはしない。
どうあっても、いま苦手な取材を頑張ってこなしているジョーの負担になることは絶対にしないと決めているのだ。
そんなことは絶対にない、ヤツがオマエを負担に思うわけないじゃないか。と、いくら説得しても無駄だった。
このへん、フランソワーズは頑固に出来ていて、「しない」と言ったら「しない」のだ。

――まったく。ジョーが言わない限り折れないんだもんなぁ・・・。

そんなフランソワーズに効き目がある魔法の言葉を言えるのはジョーだけだった。彼がひとこと「そんなことないよ、フランソワーズ」と言うだけで、フランソワーズの頑固はすんなり消えてゆく。

「――ほんとに大丈夫だから。心配しないで」
「でも・・・」

ジョーのマンションに行って、すぐ帰ってきたら――泣くんじゃないか?

フランソワーズが泣いたら、邸内の天候も崩れるのだ。邸全体が涙雨前線につかまってしまう。しかも、涙雨前線を追いやれるのはやっぱりジョーしかいなくて。

「本当に平気だから。――だってね、ジョーが差し入れして、って言ってきたんだもの」
「そうなのか?」
「ええ。今朝、メールで言われたの。だから・・・」
「でも、いつ戻るかわからないのに」

それこそ、差し入れしたって彼が食べられないのなら意味がない。しかもおそらく、手付かずのそれを片付けるのは作った本人であるフランソワーズなのだ。

「大丈夫よ。今日は絶対に帰るって言ってたし」
「だったら、ずっとむこうにいればいいじゃないか」
「でもきっと・・・待たれているのは嫌だと思うの。何時になるかわからないし」

そういうもんなのだろうか?恋人同士なんだし、――まぁ、殆ど夫婦みたいなもんだし、構わないのではないだろうか?

「いいじゃないか。顔を見てくれば」
「ううん、いいの。ともかく、差し入れは絶対に食べてくれるから」

彼がフランソワーズのごはんを残したり、食いはぐれることなど無いのだ。

「それにね、」

微かに頬を染めて嬉しそうに――

「――私の作ったごはんが無いと、頑張れない、って・・・」

そう言って笑ったフランソワーズは、いつもの――指折り数えてジョーを待っている時の――フランソワーズだったから、ピュンマはやっと心配するのをやめた。

――でもさ、ジョー。どうせ言うなら「フランソワーズの顔を見ないと頑張れない」だろう?どうして素直に「会いたい」って言わないんだろうなぁ・・・

 

 

*****
・・・あ。なんだかこれって「ピュンマさまのお部屋」?


 

10月20日

 

まもなく始まる本戦を控え、ジョーの心は複雑だった。

――今日のレースで決めなくては。そうでなければ、このチャンスをモノにできない。

気負っているというのではなく、むしろ落ち着いていた。
結局は自分自身との戦いであるとわかっている。どこかで諦めたり、手を抜いたりすれば、それは即ち自分が自分に負けたことに他ならない。誰のせいでもない。全て自分のせいである。
だからこそ、冷静になっていつもの走りをすることが肝心だった。

いつもの走りをすれば大丈夫だ。

しかし。

自分の力だけではどうにもならないこともある。
左手に嵌っている指輪を見つめる。
先日の日本グランプリのウイニングラン時の無線交信が全て聞かれていたと知ったのは昨日だった。
が、それは大したことではなかった。
問題は――マスコミ全て。
今は、面白おかしく書きたててはいるものの、自分に対して比較的好意的に思われた。
しかし、それも勝利があってこそだった。
もしも負けるような事があれば、大喜びで手のひらを返したような記事を書くであろう。今までの期待が大きかったぶん、その反動も大きくなるだろうことは容易に想像できる。
そんな記事を書かせるような失態を犯すわけにはゆかなかった。特に、フランソワーズとの無線交信に端を発した恋愛問題がかかわっているとなれば。
レースも恋愛も絶好調だの、愛の女神の元へ誰よりも速くだの、色々と書かれてはいるものの、それが一転して、恋愛にうつつを抜かした無様な走り――と変わるかもしれないのだ。
そんな記事は、自分は全く平気だったが、フランソワーズは違うだろう。
レーサーである自分の事を思い、心を痛めるに違いない。
そんな思いをさせるわけにはゆかなかった。

誰よりも大切な女性を守れなくてどうする。

だから、自分は勝たなくてはならない。
フランソワーズを守るために。
それがいま、自分にできるただひとつの事なのだから。

 


 

10月19日

 

中国グランプリ。
レーサー・島村ジョーにとって、ワールドチャンピオンがかかったレースである。
前回の日本グランプリでの優勝により、チャンピオンレースのトップに躍り出た。
もし、このレースで3位以内に入れば、ワールドチャンピオンが決定する。
そうすれば、初の日本人チャンピオンである。
今までF1やレースに全く興味を示さなかったマスコミや各種雑誌も、中国グランプリを前にこぞって「ハリケーン・ジョー」の特集を組んだ。昼のワイドショーでは、彼のファッション診断や、好きな食べ物等の話で盛り上がっており、女性誌では恋愛観にスポットがあてられた。
勿論、特集番組や記事といっても、公式な「レーサー・島村ジョー」のインタビューや取材は無い。
ただ、過去の映像や記事の焼き直しと、前回の日本グランプリでの出来事を面白おかしく書きたてた。
それでも、ファン心理を巧みに利用しており、視聴率や雑誌の売り上げは伸びているのだった。

フランソワーズも、書店で目にすれば立ち読みしたし、場合によっては購入していた。
更にはスポーツ新聞のチェックも怠らないし――ジョーの写真が一番大きく載っているのがそれだったのだ――テレビ番組ももちろんチェックしていた。
真面目な特集は食い入るように見ていたし、ワイドショーで彼のファッションチェックをされた時は苦笑した。

そして。
昨夜の中国グランプリ予選の時である。

真夜中過ぎなので、いつものようにひとりリビングの大画面テレビの前に陣取り、祈るような思いで彼の走りを見ていた。
最初は何も耳に入らなかった。解説の声も実況のアナウンスも。
それはいつものことだった。
彼の走りをオンボード映像で追う画像に釘付けで、他のことはどうでもよくなってしまうのだ。
だから、やっと彼女の耳が解説者たちの雑談を拾ったのは、ジョーが第2ラウンド進出を難なく決めた直後だった。

『それにしても、全くほかを寄せ付けません。島村ジョー。ハリケーン・ジョーというまさにその名の通り』
『このまま楽にポールをとりそうな勢いでしたね』
『大変な人気ですね。ここ中国でもたくさんのファンが詰め掛けています』
『日本からの応援も多いようですね』
『ここのところ、女性ファンが増えているようですが』
『以前から人気がありましたが、先日の日本グランプリ以来、ますます女性ファンの心を掴んだようですね』
『・・・ああ、あれですか』 
『あれですね。もちろん、優勝したというのが一番の人気の原因ではありますが』

あれって何だろう・・・?

首を傾げながら、画面に映るジョーの姿を目で追って。

『何しろ、無線での熱い交信ですからねー』
『巷では「ラブメッセージ」と言われているようですよ』
『なるほど、そうですか』
『いやー、我々もあれは訳すのを控えさせていただいておりましたが』
『音声はしっかり流れていましたからね』

無線での熱い交信・・・・。

しばらくぼうっと考えて。
次の瞬間、全身が熱くなった。

ヤダ、まさかあの会話が――テレビで流れたの?

まさかそんなことが、と思いつつも「音声はしっかり流れていた」という言葉が気になった。

でも、誰もそんな事言ってなかったし・・・。

はっとして、今日買ってきたばかりの女性誌を見てみることにした。比較的、ワイドショー的な内容寄りのこの雑誌には、もしかしたら何か書いてあるかもしれない。
ページを繰る指が震え、目的のページを開いた途端――フランソワーズはソファに突っ伏した。

――やだもうっ!!何よ、これっ・・・

巻頭を飾るハリケーン・ジョーの姿。それに付随した特集記事は、中ほどに計6ページ。
その記事のトップには

『「今夜は離さないよ」――島村ジョーの熱いメッセージ、その全貌を公開』

なんと二人の遣り取りが、日本語に直されて全て掲載されていたのだった。

『――彼の恋人は公表されてはいないものの、以前よりその存在をほのめかす発言は多々あり、ファンの間では公認となっていた。それが今回のレースでのこの遣り取りにより、更に女性の心を掴んだようだ』
街角インタビュー:「勝ってすぐ恋人に報告するところがいい」「こんな台詞言って欲しい〜」「シンガポールグランプリの時は指輪にキスしてたし、なんか恋人を大事にしてるって感じがしていい」「素敵です」「大好き」・・・

・・・ジョーは知ってるの?

電話をしてみようとして――通話ボタンを押せずにいた。
今頃彼は、とっくに寝ている時間である。レース前に邪魔するわけにはいかない。

結局、そのあと悶々と過ごし――ジョーの本戦でのグリッドがどこなのかはどうでもよくなってしまった。

 

 


 

10月13日

 

「ジョー?そろそろ目が覚め」
目が覚めた?と言い掛けたフランソワーズは、そのまま微笑んだ。

ここはジョーの自宅マンション。
昨日の日本グランプリのあと、一週間後に中国グランプリを控えているため、明日には出発なのだ。
だから、ギルモア邸まで帰る時間がなかった。
更に言うと、母国グランプリでの優勝、しかもポールトゥウィンという完璧な勝利でマスコミは大盛り上がりであり、どこに行ってもカメラや記者に追われてしまう。そんな状態でギルモア邸に行くわけにはゆかないので、完全にマスコミをシャットアウトできるここにいるのだった。

既に昼を過ぎて午後になっている。
休日の、のどかな昼下がり。

しかし、ジョーは未だに惰眠をむさぼっているのだった。

遮光ではない薄いグリーンのカーテンから射す陽光は目に穏やかで、室内を適度に明るくしていた。
その中に浮かび上がるのは、清潔なシーツにくるまれた姿。シーツからは金色に近い栗色の髪の一部だけが覗いている。

朝からひとり、洗濯に追われていたフランソワーズは、昼を過ぎても起きてこない彼を心配して部屋を覗いてみたのだが、部屋の主は未だ規則正しい呼吸で別の世界に漂っているようだった。

――でも、今日はいいわ。ゆっくり寝ていて。

明日には出かけてしまうから、寂しくないのかと問われれば間違いなく寂しいと答えるだろう。
が、今日はなぜか――それほど寂しくはなかった。
褐色の瞳が閉じられていても。
その声で呼ばれることがなくても。
それでも、彼がぐっすり眠れるのなら――そしてそれは、自分が居る場所だけだと知っていたから――寂しくなかった。

ドアを閉めようとした時、シーツにくるまっていた身体が寝返りをうった。
そうして、手が伸びて――空を切り、ベッドの上に何かを探すように漂った。

「・・・ん。――フランソワーズ・・・?」

その瞬間。
寝ていたはずのそのひとは勢い良く身体を起こした。

「フランソワーズ?」

勢いそのままにベッドから降りて、改めてベッドの上を捜索し、さらにはその下も覗き込んで。
それから、部屋をぐるりと見回した。――刺すような視線で。

その目が――ドアの所で止まり、固定された。

「――フランソワーズ」

はあっと肺全体から息を吐き出してしまうかのように大きく息をつくと、そのまましゃがみ込んだ。

「・・・たく。おどかすなよ」

床に向かって小さく呟く。

フランソワーズはくすくす笑いながら部屋に入り、しゃがみ込んでいるジョーのそばに行くと、屈んで彼の頭をつついた。

「オハヨ」
「・・・」

対するジョーは、無言で彼女を見上げた。

「あら。なんだか不良みたいね?」

まるでコンビニ前にたむろしている不良のようにしゃがみ込み、じろりと彼女を見つめているのだった。

「――あ?何だって?」

口調もそれっぽく、目つきも何だか荒んでいるようだった。

「んもう。機嫌悪いのね」
寝起きの機嫌の悪さは何とかならないものかと思いつつ、隣にしゃがみ込む。

「目が覚めた?」
「――ああ」

面倒そうに言われる。

「・・・いつ、起きた?」
「んー・・・3時間くらい前かしら?」

くそっ、気がつかなかった・・・と悔しそうに呟くのを聞いて、フランソワーズはそのままジョーの首筋にかじりついた。

「わっ」

寝起きでバランスの悪いジョーは、そのまま尻餅をついてしまう。
普段の彼からは絶対考えられないことだった。

「――なんだよ」

それが格好悪く、憮然とした表情のまま不機嫌に言う。

「うふっ・・・。覚えてないのね?」
「何が」
「だってあなた、気がついてたもの」
「え?」

身体を起こし、ジョーの前髪を掻き揚げるとその額にちゅっとキスをして。

「私が起きる時。大変だったのよ?離してくれなくて」
「・・・そう、だった・・・かな?」
「そうよ」

絡み付いてくるジョーの手から逃れるのに10分は有したのだ。
起きているわけではなく、ぐっすり眠っているというのに、ジョーは彼女がいなくなることを許してはくれなかった。

「もうっ・・・しょうがないひと」

つん、と鼻をつつく。

意識下でも、無意識下でも、自分を必要としてくれていると知らされるのは何よりも嬉しかった。

「まだ眠い?」
「うん・・・」
答えながら、欠伸をひとつ。

「今日はごろごろしてていいわよ。疲れをとらないと」
「ん・・・そうするよ」

そのまま、フランソワーズを抱き締め彼女の肩にもたれて――目を閉じた。

「ジョー?ちょっと・・・ちゃんとベッドで寝て」

けれども答えない。
本当に寝てしまったかのように、どんどん重くなってゆく身体。

「ジョー・・・重い」

サイボーグである自分たちは、起きている時はともかく――眠ってしまうと通常の人間の熟眠時より数倍重くなる。
いくら軽量化された金属で創られているとはいえ、やはり機械の身体なのには間違いなかった。

結局、ジョーはしばらく起きず――フランソワーズは彼の重い身体を抱えたまま、そのままでいるしかなかった。
それはそれで、幸せな時間なのに違いなかったけれども。

 


 

10月10日

 

部屋を数歩で横切り、ベッドに座っているフランソワーズを攫うように抱き締めた。
ぎゅうっと自分の腕のなかに彼女を閉じ込める。
何か言おうと思ったけれど、言葉にならなかった。ただ、彼女の名だけを繰り返し呼ぶ。
ずっと心配していたぶん、何も言えなかった。

「・・・ジョー。顔を見せて」

しばらくしてから、フランソワーズはそうっと彼の胸を押して離れ、両手で彼の頬を挟んで自分の方を向かせた。

「・・・ジョー」

見つめた先の褐色の瞳が切なそうに揺れる。それが滲んでゆき――

「――やだ。どうして」

困ったように指先で目尻を拭う。

「やだ。・・・もう」

けれども止まらない。

「フランソワーズ?」

しばらく会えなかったからといって泣くなんておかしいわ――そう思っているのに、涙は止まらなかった。

いったいどうしたっていうのかしら。こんな――泣くなんて。だって、ジョーと一ヶ月くらい会えないのなんて珍しい事じゃないし、もっと会えない期間が長いことだってあるのに。連絡が取れなかったわけでもないし、電話だってメールだってできるのに。
こんな――まるで、一緒に居るようになってすぐの頃みたいに。

「フランソワーズ。どうした?」

自分の防護服の裾を掴んだまま離さないフランソワーズを見つめる。少し驚いたように。

「どうして泣くの」
「・・・わからない」

ジョーに会えたのが嬉しくて泣いているのとは、少し違うようだった。
嬉しいなら、彼の腕に抱き締められているうちに涙は止まる。
が、今は、心配そうに覗き込む瞳があっても、背中に回された逞しい腕があっても、涙の止まる気配がない上に、胸の奥が詰まるような――そんな感覚がある。

――胸の奥がイタイ。

「どこか痛むのか?」

メンテナンスはちゃんと終わっているけれど、どこか不具合が生じたのかもしれない。

「・・・うん。イタイ」
「えっ。どこ?」
「・・・わからない」

――困った。

飛んで帰ってきてしまったものの、実のところ、そんなに長居する時間はないのだった。
ほんの数分でいいと思っていた。顔を見て、言葉を交わして。
けれどもフランソワーズは数分では離してくれそうになかったし、自分としてもこんなフランソワーズを振り切って戻る勇気は持ち合わせていなかった。

とはいえ、仕事は仕事である。しかも、日本グランプリ直前。
こんなことをしている場合ではなかった。

「・・・フランソワーズ。あとちょっとで戻らなくちゃならないんだ」

大泣きされるのを覚悟で言った言葉だったのに、なんとフランソワーズはあっさりと手を離した。

「――ん。そうよね」
「そうよね、って・・・」

わからなかった。
一体、彼女の中で何がどうなっているのか。

「――大丈夫よ。夜になったら電話するから」

けなげにもにっこり微笑んでみたりするのだ。

「・・・行って」
「でも」
「大丈夫だから」
「うん――」

それでも名残惜しそうにフランソワーズの髪をひとふさ握りしめ――それに、そうっとキスをする。

「――来てくれて嬉しかったわ。・・・ありがとう、ジョー」
「ん、いや――」
「防護服、持って行ってたのね」
「・・・いつ何があるかわからないからね」

普通の会話なのに、フランソワーズの瞳には涙が溢れた。

「ヤダ・・・ほんと、どうかしてるわ。――ごめんなさい。あなたのせいじゃないのよ」
「メンテナンスの後だからかな」
「・・・そうね。そうかもしれない」

脳内検査の後だから、情緒不安定になっているのかもしれなかった。

「――行くね」
「ええ。・・・ちょっと待って、ジョー」
「んっ?」
「――待って」

腕を伸ばして、彼の首を抱き寄せる。そのまま彼の肩に顔を埋めて。

「ジョー。・・・ずっと――好きよ」
「!?」

戸惑うジョーの気配が伝わってくるが、構わなかった。ちゃんと言っておかなくてはいけないような気がした。
言っておけば――安心できる。

「――あなただけ」

 

***

 

「・・・フランソワーズ、駄目だよ。離して」
「もうちょっと」

抱き締めたまま解放する気配のないフランソワーズに、ジョーはそうっと腕を回しつつも天を仰ぎ嘆息した。

「――駄目だよ、時間がないんだ」
「もう少しだけよ」

――わかってない。

シンガポールから帰ってすぐフランソワーズに会ったけれども、一日しか一緒に居られなかった。
だから、気持ちとしては約1ヶ月ちゃんと会ってないわけで――ジョーにとっては、全然足りないのだ。

そんな中、ともかく日本グランプリへ気持ちを向けて頑張ってきたのに、こんな風に引き止められてしまっては、理性が飛ぶのも時間の問題だった。

「――フランソワーズ。離して」
「・・・」

ジョーを抱き締めたまま、イヤイヤをするように無言で首を横に振る。

「――頼むよ。・・・戻れなくなるだろ」
「・・・ん」

しぶしぶと言った感じで、フランソワーズの腕が緩み、ジョーは解放された。が、潤んだ蒼い瞳と寂しそうな顔を見てしまい――

「・・・フランソワーズ」

思わず手が伸びてしまった。
そうっと頬に手をかけ、唇を――

その時、フランソワーズの膝から雑誌が落ちた。
予想していなかった大きな音に二人はびくっと身体を震わせ、離れた。

ジョーはほっとしたように息をつくと、落ちた雑誌を拾い上げ――固まった。

「・・・フランソワーズ。きみ、いつもこの雑誌買ってたかな?」
「ううん。たまたまよ?どうして?」
「・・・読んだ?」
「ええ。読んだけど・・・?」
「――全部?」
「ええ。ジョーのところも」
「!!」

手元の雑誌に目を落としたまま顔を上げないジョーの頬がみるみる朱に染まっていく。

「読んだのか・・・」
「ええ。――どうかした?」

ジョーの持っている雑誌を受け取るように手を伸ばすフランソワーズだったが、ジョーは渡す気がないようで気付かない。

「ジョー、いっぱい喋ってたみたいで驚いちゃったわ。ここに書いてあるの、本当に全部ジョーが言ったことなの?」

雑誌のインタビュー記事などは、読者が読んで面白いように捏造されていることもあるのだ。

「・・・・・・・・うん」

耳まで真っ赤に染めて、消え入りそうな小さな声で頷く。

「凄いわね?こんなに喋ったなんて」
「・・・・・・・・ナリユキで」
「でも――」

今や防護服と同じくらい赤いジョーをちらりと見つめ、こちらも微かに頬を染めた。

「・・・独り占めしたい、なんて・・・恥ずかしいわ」
「!あれはっ・・・・」
「だって」

顔を上げたジョーをじっと見つめる。

「・・・もうとっくに独り占めしてるのに」

 

***

 

結局、ジョーは自身の最高時速マッハ3で帰ることになった。
自分が「ちょっとだけ」抜け出したことを誰も気付いていないことを願いながら。

 


 

10月9日 

 

最後のひとりと握手をしてから30分後。
ジョーは疲労した重い身体を引き摺りながら、控え室へ向かっていた。途中でパンツのポケットから携帯電話を取り出し耳に当てる。

「――あ、もしもし?――フランソワーズ?」

 

***

***

 

 

胸が痛い。

ジョーの姿が遠く近く揺れて・・・見えなくなった。

何も聞こえない。

何も見えない。

ただ、意識だけがあった。
「自分」というものが、実体のない精神だけの存在になってここにいる。

誰かが私に気付いてくれるだろうか?

酷く寒く感じた。感じる器官などないのに。

 

ジョー・・・。

 

あなたがいつか、大切に思う誰かと一緒に行ってしまう日が来る。と、ずっと思っていた。
それは私にとって、ちっとも辛い事なんかではなくて――もしかしたら、いつかそういう日が来るのを待っていたのかもしれなかった。その日まで、私があなたを守る。そう決めて。

辛くなんかない。
だって、その日が来るという事は、あなたが幸せになる日が来るという事でしょう?
あなたが大切に思う人がずっとそばに居てくれる。それは、あなたが一番望んでいることだから。

あなたが幸せなら、私も幸せ。
辛くなんかない。
――本当よ?

そりゃ、少しは泣くかもしれないけど、――でも。
私はあなたが幸せなら、それでいいの。

 

――だけど。

 

そんなあなたをひとり残して、私が誰かと行ってしまう日が来るなんて思ってもいなかった。
私があなたを見送って、そして・・・ひとりで過ごすものだと思っていた。
だから。
私と、私の大事な誰かが一緒に居るところをあなたが見てしまうなんて思ってもいなかった。

そんなことを私がするわけがない。

絶対に、しない。

だって、あなたはひとりなのに。

そばには誰もいないのに。

あなたをひとり残してどこかへ行くなんて、そんな酷い事をするわけがない。

だって、あなたは私が居なくなったら――きっと、心が死んでしまう。
私が誰か他のひとを見つめたら――あなたは、凄く辛い思いをする。
そんな思いを私があなたにさせるわけがない。

何よりも大事なひとなのに。

私の全てをかけて守ると決めたひとなのに。

そんなこと、するわけがない。

ジョー以外の誰かを愛するなんて、絶対に無い。――イヤ。

私がジョーを傷つける。
故意に。
自分の隣にいる男性を見せ付けて。
まだ、ジョーが私を思っていることを知っているくせに。
ジョーが辛い思いをする。
ジョーが泣く。
ジョーの心が――死ぬ。
それをしたのは、私。

 

ありえない。

 

そんな事、するわけがない。

だって――私はジョーが傷つくと辛くて辛くて・・・きっと死んでしまう。
彼が傷ついたまま、私の知らないところへ行ってしまうなんて耐えられない。
抱き締めてあげられないなんて。
髪を撫でてあげられないなんて。

そんな事、とても耐えられない。
苦しくて苦しくて――胸がつぶれてしまう。

 

私がそんなことをするわけがない。

 

そんなの――

 

 

***

***

 

「――うん。そろそろメンテナンスが終わっている頃かと思って」

ジョーの声が携帯電話から聞こえてくる。

「ええ。・・・凄いわね。どうしてわかったの?」
「んー・・・どうしてだと思う?」
「わからないわ」

でもきっと、ずっと心配してくれていたのだろうと思う。

「・・・でもね。ちょっと怒ってもいいかしら」
「えっ?」
「だって、酷いじゃない。何にも言わないでいきなり、よ?」
「――悪かったよ」
「私に何にも言わないで勝手に決めちゃうなんて。心の準備、っていうものがあるって知ってる?」

電話の向こうの声は沈黙した。少しは反省しているらしいと見当をつけ、フランソワーズはそのまま黙って待った。
窓の外に目を向ける。――どんよりとした灰色の雲が見えた。晴れていれば良かったのに、と思いながら、そっと息をつく。

脳内検査を終えてから半日が過ぎていた。
検査自体はもっと前に終わっていたのだが、神経と肉体が再び連動するまで数時間を要した。それはいつものことだったから、多少の時差を把握できないのにも慣れている。
しかし、今回は心の準備も全くなく行われてしまったため、記憶の混乱が残っていた。後遺症として。
じきに消えるけれども、それでも――やはり安静を保っているべきだと言われ、自室ベッドにいるのだった。

「――ごめん」
「駄目。許してあげない」
「フランソワーズ」
「イワンだって、後でお尻ぺんぺんするんだから。――あなただって、例外じゃなくてよ?」
「ええっ」
やだよ、そんなの――という苦情にも耳を貸さない。

「だって、お陰様でいつからメンテナンスに入ったのか未だにわからないのよ?自分の記憶があやふやなのって気持ち悪い」
「いつから、ってそりゃ・・・」
「あなたは知らないでしょ?――駄目。知った風な事言っても。」

電話の向こうの必死な声を黙って聞きながら、フランソワーズは電話がかかってくるまで膝の上に広げていたファッション誌に目を向けた。
開いているページには、いま電話の向こうで困っている彼の姿があった。
『日本グランプリ間近のハリケーン・ジョー独占インタピュー〜彼の素顔は?〜』
買ったばかりのその雑誌は、フランソワーズが突然メンテナンスに入ってしまったため未読だった。

そうっと記事を指でなぞる。唇に笑みを浮かべて。

「――フランソワーズ、聞いてる?・・・だからそれは、博士とイワンと相談した結果で、きみにとって一番辛くない方法をとるということで」
「・・・ジョー?」
「ハイ」
「ごめんなさい、は?」
「・・・ゴメンナサイ」

くすっ。

「――笑ったな」
「笑ってないわ」
「聞こえたぞ」
「気のせいよ」
「嘘だ。絶対、笑った」
「笑ってません」

電話の向こうとこちら側で。じゃれるように少し怒って少し笑ってはぐらかす。

「・・・ねぇ、ジョー?」
「んっ?」
「あのね」

少し俯いて、小さな声で。

「・・・顔を見たいな」

 

***

***

 

『――女性にも絶大な人気を誇る、F1レーサーの島村さんですが、お休みの日はどう過ごされているのでしょうか?』
『特に変わったことはしてません。みなさんと同じですよ。ドライブしたり、運動したり、買い物に行ったり』
『――隣にはやはり女性がいる?』
『半々ですね。彼女がいるときもあるし、友人たちと一緒のときもありますし』
『――確か、熱愛宣言なさったのでしたよね?』
『はい』
『――泣いた女性ファンは多いですよ?』
『そうですか?そんなことはないと思いますよ』
『――でも女性ファンから見れば、ああチャンスは巡って来ない・・・と思う訳ですから』
『ああ、そういう意味でしたら、仕方ないですね。申し訳ないですが、僕には彼女しか見えませんから』
『――確か、表彰台でもお名前を言ってらっしゃったとか・・・?』
『ええ、まぁ。その・・・』(頬を赤らめる)
『――実は、それも含めて人気の元なんですよ。御存知ですか?』
『いいえ。』
『――恋人を大事にしている姿が誠実で素敵だと、女性ファンはますます増えているんですよ』
『あ、そうなんですか』
『――きっと素敵な方なのでしょうね。今度ご一緒にインタビューでもいかがですか?』
『ああ、それは無理です』
『――どうしても?』
『はい』
『――お願いしても無理ですか?』
『はい』
『――なぜでしょうか?』
『単純に、僕がイヤなんです。メディアに露出すると独り占めできなくなりますからね』



ジョーったら。
インタビューとか取材って大嫌いなはずなのに。本当にこんなことを言ったのかしら?

ふと、雑誌から顔を上げる。
そうっと目を瞑って、耳をすます。

風を切る音。

よく知っている歩調――靴の音。いま玄関を抜けて、階段を昇ってくる。そして――

 

「――フランソワーズ!!」

 

赤い服に身を包んだ愛しいひとが部屋に入ってきたのは、電話を切ってから10分後だった。

 

 

 

******
いったん終わり・・・かな?


 

10月8日

 

そんな――そんなつもりじゃなかった。

そんなつもり――ジョーにそんな顔をさせるつもりでは。

だったらどんなつもりだったのかと問われれば、本当のところ自分でもわからなかった。ただ、ジョーに会いに来ただけなのだから。会ってどうしよう――という心積もりは全くなかった。

――ジョー。

大好きだったひと。
彼のためなら何だって出来た。――何だって。いつか離れる日が来ると知っていても、それでも。
大切で、守りたくて。無償の愛を知らずに育った彼だったから、再びそういう思いはさせないと心に誓ってもいた。
けれど離れてからは――

今頃、実はパリに来てたなんて言われたって困る。だって今、私には心に決めたひとがいるのだから。
・・・連絡もとれず別れたひとのことなんか知らない。

思い出さなかったわけではなかった。
一度も思い出したことなんてないなんて、そんなのは自分の気持ちを直視せずについた自分自身への嘘だった。
けれど、思い出すと辛かったから――だから、いつの日か思い出すのを本当にやめた。
彼は彼で、どこかで幸せになってくれていればそれでいい。そう思った。
たまに見かけるテレビの中の彼は充実しているようだったので、ほっと胸を撫で下ろしていた。
例え、今は私の事などすっかり忘れているのに違いなくても、それでも心配していた。ずっと。

「・・・ジョー?あなたは今、幸せじゃないの・・・?」

そう問うと、やっと――ジョーの口元に笑みらしきものが浮かんだ。

「――幸せだよ」

しかし、瞳は暗い。――痛みを堪えるのをやめたような。
諦めて、痛かろうが何だろうが何も感じていないみたいに。

「本当に?」

声だっていつもと違う。
今現在の彼の「いつも」の声なんて知らないけれど。

「――ああ。・・・きみが幸せそうだから」
僕はそれでいいんだ。と小さく聞こえた。

私が幸せなら、それでいいの?
あなたは昔から、そう言っていたけれど――だけど、いつもそう聞く時は・・・

「・・・我慢してる?」
「してないよ。――なぜ?」

だってあなたは。
昔から、――私が幸せならそれでいいと言った同じ唇で、私の隣に立つひとを殺すとそう言っていた。辛そうに。
けれどもそんな事をする前に、心臓が破れて死んでしまうだろう――とも。

「だって・・・痛そうだもの」
「痛くないよ」
「本当に?」

――どうして嘘をつくのだろう。
瞳は、光を反射せず闇に沈んでいるのに。顔だって、泣き笑いみたいになっているのに。
なのに、どうして?

きりっと胸に痛みが走った。

ジョー、どうして?
どうして私に嘘をつくの?

本当は泣きたいくせに。

痛いくせに。

――痛がって泣いたら、私が困るから・・・?だから、私に嘘をつくの?

私、に。

胸が痛かった。
服の上から、そっと左胸を押さえる。――気分が悪い。
ゆらゆらと視界が揺れている。これは自分が揺れているせいだ。
テーブルに手をついて支える。
ジョーが何かを言っているのが見える――が、声は聞こえない。

声は、何も聞こえない。

無声映画を見ているみたいに。

だって――どうして?

どうしてジョーはまだ・・・私を好きなの?
まるで、本当にそうみたいに辛そうな顔をするなんてずるい。――ずっと連絡もくれなかったくせに。
今は幸せなんでしょう?
・・・私だって幸せよ。平和な中で、恋をしてひとを愛して――

だからお願い。そんな顔はしないで。
あなたが辛いと私も辛い。
あなたが痛いと私も痛いの。だから・・・

 

――彼に辛くて痛い思いをさせたのは、私だ。
そんな思いをさせたくないのに、させているのはこの私。それも、彼がそうなるとわかっているのに、わざと――

 

そんなつもりじゃなかった。
私はいま、幸せだから心配しないで――そう、伝えたかっただけなのに。

心配しないで、って。

 

大好きなジョーに。

 

今でも――

 

大好きなのに。

 

会いたくて、声を聞きたくて、忘れられなくて。
どうしたって駄目だった。
忘れる努力をしても、ずっと心の中から消えてはくれなかった。

――大好きで、誰よりも大切で。

私の愛は、ぜんぶジョーのもの。
ずっと前からそうなの。他の誰のものでもない。・・・誰にもあげない。
もしいつか他の誰かを愛しても、それは――本当の愛じゃ、ない。だって私は。

 


 

10月7日

 

別れたわけではなかった。
009と003として過ごした日々は、今でも懐かしく切ない思いに包まれている。
009――島村ジョー。
大好きだった。
自分の何と引き換えてでも守りたいひとだった。
一緒に死線を越えてきた。互いの信頼は強固なものとなり、そのまま――ずっと一緒に居るものと思っていた。
しかし。
困難だった長期にわたるミッションの後、彼は、フランスへ戻るという自分を引き止めてはくれなかった。
そのまま、笑顔でじゃあまた――と、手を振った。何の約束もないままに。
自分と彼は恋人同士だと思っていただけにショックだった。
あんなに一緒にいたのに。そばに居るだけで幸せで、彼もきっとそうなのだろうと思っていた。
けれどもそれは、自分だけの勝手な思いだったのだ。
そうしてフランスへ帰り――それっきり、連絡はしなかった。
彼からの連絡も、なかった。
時折メンテナンスに日本へ行く以外はフランスで過ごした。日本へ行っても009には会わなかった。
そうして――少しずつ、彼への思いは風化していった。
熱く抱き締めあったことも。
彼の優しい声も、視線も。
全て、少しずつ忘れていった。

そうして、今の彼に出会った。

彼は普通の人だったけれど、自分の身体の事を話しても全く動じなかった。何しろ彼は――精密機械の開発を手がける技師だったから。生体との融合、つまり・・・事故や病気で失った四肢を機械で補おうとする研究開発をする職業だったから。だからおそらく――彼女は事故で失った手足を機械化していると、そう受け取り解釈したのだろう。
ともかく、サイボーグであると知っても眉ひとつ動かさなかった。

少しずつ、少しずつ・・・気持ちを重ねていくのは、不思議な体験だった。
今までは、明日生きているのかもわからない世界で、溢れそうな思いを我慢したり、時にはぶつけてみたり、穏やかな気持ちとは無縁だった。
だから、平和な中で育む恋や愛というものがどんなに幸せなものなのかわからずにいた。

しかし、今はそれがわかる。彼と一緒にいるだけで、安心して穏やかな気持ちになって。
自分がサイボーグであるということも、年に数回しか思い出さなくなっていた。
思い出さない――というより、意識に上らない。何しろ、彼と居るとそんなことは大した事ではないと思えるのだ。

だから、――幸せだった。

そんな自分が、なぜ今頃日本に来てここに居るのか――は、謎だったけれど、寄り添った相手を見上げ、その瞳を見つめていれば、そんな事はどうでもよくなってしまった。

――きっと、昔の彼・・・に会ってみたいとか、そういう話になったのよ。・・・たぶん。

F1レースなんてずっと見ていなかった。だから、ジョーが今世界チャンピオンなのも知らなかったし、実を言うと興味もなかった。
本当に、すっかり過去の人になっていたのだ。自分の中で。
それが、何かの拍子に話題になって。このひとは昔の彼なの・・・と、口が滑ったような気がする。

しかし。

だからといって、パリを離れ二人で日本の地に来ている理由はどうしても思い出せなかった。

 

「――フランソワーズ、ほら。順番がきたよ」

彼の腕に寄り添い、とめどない思いの中にいたフランソワーズは、彼の優しい声にはっと我に返った。
見れば、いつの間にかステージの上まで来ており――自分の番がきていたのだった。
テーブルの向こう側に座った「ハリケーン・ジョー」の姿が目に入る。
スポットライトを浴びて、金色に縁取りされた髪とその下の端正な横顔が見えた。――変わっていない。
あと数メートル歩けば、彼の前だった。
そのまま進もうとして――隣の彼に苦笑される。彼の腕を離さず、一緒に進もうとしたのだった。

「僕はここにいるから、一人で行ってごらん」
「えっ、でも――」

不安そうに彼を見つめる蒼い瞳。

「――少ししたら行くから。最初はひとりで会ったほうがいい」
「・・・ん」

しぶしぶ寄り添っていた腕を離す。

「本当にすぐ来てね?」
「フランソワーズは甘えん坊だなぁ」
「だって」
「うん。大丈夫。すぐそばにいるから」

そうしてやっと――フランソワーズは歩き出した。

 

***

 

「――フランソワーズ!?」

ジョーは思わず椅子から立ち上がっていた。

「どうしてここに――?」

後は言葉にならない。

「ごめんなさい、連絡もしないで突然来て」
「い、いや。いいよ、そんな事は」

戸惑いながらも、軽く深呼吸をして気を落ち着かせる。
改めて見つめる目の前の彼女は――以前と変わらず、綺麗だった。

「――久しぶり。元気、だった?」
「ええ。・・・あなたも元気そうね?」
「おかげさまで」
「時々、テレビで見ていたわ。――凄いのね。世界チャンピオンなんて」
「え、あ、ああ――まあ、ね」

うっすらと頬を染めて、嬉しそうに話すジョーを見つめ、フランソワーズは不思議な思いに囚われていた。
懐かしいような、嬉しいような、それでいて悲しい気持ち。――後悔にも似た思い。
自分はまだ、目の前の彼を忘れていないのだろうか?まだ――好きなのだろうか?

そして、彼の褐色の瞳を見つめた時、目の前の彼もまた自分と同じ思いを抱えているであろうことを確信した。
見つめてくる視線が優しく――甘い。

「・・・フランソワーズ。後で時間とれないかい?」

だから、ジョーが小さくこう言った時も動じなかった。

「つもる話もあるし。何と言っても久しぶりだし」
「――ありがとう。嬉しいけれど、駄目なの」
「忙しいのか?」
「ううん。そうじゃなくて」

一瞬、俯いて。
背後に来ているであろう彼の方を気にしながら言ってしまう。

「――彼と一緒だから」
「・・・彼?」
「ええ。――パリで一緒に住んでいるの」
「一緒・・・って」
「お付き合いしているの。――もう何年になるかしら。数えてないからわからないけれど」
「・・・大事なひと?」
「ええ」
「――僕よりも?」

えっ?

驚いて顔を上げる。

僕よりも、って――どういう意味?
だって、私とあなたはとっくに・・・

「きみと連絡が取れなくなって、――何度もフランスに行ったんだ。だけど、どんなに探しても会えなくて」

何度もフランスに?

「連絡が取れなかったなんて嘘よ。だって私は研究所に電話したもの」
「電話なんてかかってこなかった」
「嘘。――だって」

お互いに黙った。
何しろ、今から数年前の事実確認をしても、全く意味をなさないのだから。

時間が戻るわけではない。

「でも・・・今、私には大事なひとがいるの」
誰よりも大事なひとが。

そう言った瞬間、ジョーの瞳が揺れて――何かを我慢するような、辛そうな表情に変わった。
が、それも一瞬。
すぐに穏やかな表情に戻る。

「――そうか。・・・良かったね。フランソワーズ」

声の調子が違う。
更に言えば、平静を装ってはいるものの――

「・・・ジョー?どうかしたの」
「何が?」
「だって、なんだか」

哀しそうな――泣いているような。

「――どうもしないよ」
「嘘。・・・どうしたの、急に」
「なんでもないったら」

思わず伸ばした指先に、ジョーの前髪が触れる。懐かしい感触は、けれどもほんの一瞬だった。ジョーはすぐに身体を引いたから。指先から逃れるように。

「・・・ジョー?」
「――ごめん。・・・やっぱり、駄目だ」
「駄目、って・・・」
「――すまない。もう・・・行ってくれ」
「でも」
「・・・きみを冷静に見る事ができないんだ」

唇を噛み締め、かすかに俯いたその顔は前髪に隠されてしまい、表情を窺うことはできなかった。

「――フランソワーズ。いつかこんな日がくるとは思っていたけれど、だけど・・・」

しばしの逡巡。
フランソワーズはただ待った。彼の言葉を。

「・・・今は幸せなんだね?」
「ええ」
「――良かった」

そうして顔を上げたジョーの表情は――

ジョー?

 


 

10月6日

 

年2回開催されるそれは、「ファンの集い」と呼ばれている。バレンタインデーと、日本グランプリの前と。
直接交流ができる唯一の場・・・というわけで、ファンの間でそのイベントのチケットは高値で取り引きされる。何しろ、応募者全員が参加できるというわけではなく、抽選なのだ。これは、先着順の場合、何日も前から並ぶファンや割り込み等によるトラブルを避けるためだった。

 

「年にたった2回だぞ?つまり、2日だ。それだけ付き合えばそれでいいっていうんだから、簡単だろう?」
「・・・まぁ、な」
「いい加減、慣れろよ」

うんざり、といった風情の当事者を横目で見つめ、そのあと視線を彼の左手に移す。

「――それから、コレ!」

がっちりと手首を掴み、彼の目の前に持っていく。

「今日くらいは外せ」
「イヤだ」
「ファンとの交流だぞ?みんなお前に会いたくて来るお嬢さんばかりなんだぞ」
「・・・だからだよ」
小さな声で言うが、難なく聞き取られてしまう。

「ともかく、は・ず・せ」
「い・や・だ!」
「結婚しているわけでもないのに、どうしてそんなのしてるのか俺には理解できないな」
「・・・別に、いいだろ」
「良くないさ。これじゃあお前に特定の人がいると言っているようなもんだ」
「実際、いるし」
「黙れ。――ったく。いつもするなって言ってるわけじゃないんだ。今日だけ外してくれとお願いしているんだ」

楽屋を出て、イベント会場である大ホールへ足早に向かう。その途中での応酬なのだった。

「お前はスクープされたし、記者会見もしているし、恋人がいるのも確かにファンは知っている。だがな、テレビで観るのと実際に見るのとでは違うんだ。ファンの夢を壊すな」

黙り込んだ彼へ、畳み掛けるように言う。

「――それにだな。至近距離で見られてみろ。お前のしている指輪なんぞ、どこのブランドなのかすぐばれるぞ」
「まさか」
「女をなめるなよ」

びしっと彼の目の前に人差し指を突きつける。

「本当にばれるぞ。そうしたら、どうなると思う?」
「――そこのブランドの指輪が売れるんだろ」
「ああ。だが、それだけじゃないぞ。お前と同じのが欲しい――という問い合わせが殺到し、特別オーダーでもない限り、それは氾濫する」

確かに、特別オーダーなんぞではないのだった。

「お前は、世間の何千人もの女とお揃いの指輪をしている男、ということになるぜ」
「――まじ?」
「ああ。大事な大事な彼女とのお揃いのはずがな」
「・・・」

無言で指輪を外すのを見て、満足そうに頷く。

「初めからそうしてりゃいいんだ。なに、数時間のことさ」

ジョーは外した指輪を右手でぎゅっと握りしめ――そして、大切そうに上着の内ポケットに入れた。
普段はしない指輪だから、はっきり言ってしまえば指になじまず、外している方が気が楽だった。
が、こういうイベントは苦手であり、ともすれば何とか出なくて済む方法を探してしまう。自分が主役だということは措いて。
しかし、フランソワーズがいるなら別だった。記者会見でも何でも――彼女がそばにいる、同じ建物にいる、つまりすぐに会えるという状況であれば、ほんの数分の苦行など耐える事ができた。だから、彼女がいない時は彼女のお気に入りの指輪をすれば、彼女が近くにいるようで何とか乗り切ることもできるのだった。
とはいえ「ファンの集い」では、それはやはり無理な相談だった。
上着の上から、内ポケットの中にある指輪を確認するように触れてから、ジョーは会場へ入って行った。

 

***

 

「ファンの集い」会場には行かない。
それはずうっと前からそうだった。――スクープされる前から、ずっと。
だから、そのイベントで一体何が行われているのかなんて知らなかったし、別に知らなくていいと思っていた。

なのに。

どうして自分がその会場に居るのか、わからなかった。
しかも、一人で来ているのではなく同伴者がいる。そして列に並んでいるのだ。
どうやらこの列は、彼の――ジョーとの握手のための順番待ちのようだった。

――ヘンなの。どうしてジョーと握手をするのに並んでいるのかしら私。

ステージ上では、「レーサー・島村ジョー」がファンひとりひとりと握手をしている。サインをした後に、ちゃんと相手の目をみつめ微笑んで。
ファンの子たちは、泣き出す者、真っ赤になって彼の顔を見られない者、彼の前から動かない者・・・様々だった。
共通しているのは、みんな「ジョーが好き」ということだ。並んでいる今も、ステージ上の彼から視線を外さないのだ。

――どうして私はここに居るのかしら?

自分も彼を視界に捉えつつ、先刻からの疑問を再度考えてみる。
大体、どういう交通手段でここへ来たのかも覚えていないのだ。気付いたら、ここに居た。テレポートしたわけでもないのに。しかも、「ファンの集い」なぞ、これっぽっちも興味がないというのに。

「きっと驚くよ――彼」

隣の同伴者の存在をすっかり忘れ、話しかけられてどきりとする。

――このひとは、誰?

一緒に居るということは、きっと仲が良いのだろう。けれども、名前すら思い出せない。
探るように、凝視する。
褐色の瞳がじっとこちらを見つめ返している。

――この瞳の色には覚えがある。

世界が揺れた。
頭のなかにかかっていた靄が徐々に晴れてきて――

次の瞬間、フランソワーズは全てを理解した。思い出した。

「そうね。驚くわよね、きっと」

飛び切りの笑みを向けて、その腕にそっと寄り添う。

「ジョーに会うの、久しぶりだもの」
何年ぶりだったかしら――?

 


 

10月5日

 

「――フランソワーズが、何だって?」

話の内容とは裏腹な、のんびりした声のアルベルトに、こちらも比較的のんびりした声で応える。

「よく聞こえなかったんだけど」

煙草を口から離し、煙を吐いて。

「いまメディカルルームに居る」
「ふうん。――で?」
「――何だ。知ってたのか?」
「まあね」
「なら、いいんだが――」

口ごもる彼に苦笑する。

「知らなかったのはフランソワーズだけだよ。僕は博士とイワンから聞いていたからね」
「――そうか。その、何だ。脳内検査をするということも――?」
「ああ」

なら、いいんだが。と繰り返し、通話は切れた。
ジョーは携帯電話を胸ポケットにしまうと、そのままごろんと仰向けに寝転がった。

フランソワーズのメンテナンス。――つまり、定期健診。
それがちょうどこの時期になってしまう――というのは予測していた。博士が念入りにチェックしたがっていることも。
それはやはり、昨年の事件に関係があった。何しろ、急所は外れたとはいえ重症には違いなかったのだから。
あれから約一年が経過し、各部位のチェックをするというのは至極当然の事だった。
ただ問題は――当の本人には言っていない。と、いうこと。

脳内検査に関しては、メンバーの誰もが拒否反応を示す。いくら必要な検査とはいえ――できればしないですませたいというのが本音だった。彼女とて例外ではない。
補助脳と生身の脳。この二つを精査するためには、補助脳優位の時間と生身脳優位の時間の両者が必要であり、それはどちらが優位であっても、身体的・精神的な負荷がかかり、当事者としては気持ちのいいものではないのだ。だから、事前に知らせずに行われる事の方が多かった。もし事前に知れば、いつまでも日にちを決めあぐねておそらく――時期を逸する。
だから、フランソワーズにも言わなかった。博士とイワンとジョーの3人で勝手に決めた。彼女が何と言おうと、どうあってもしなければならない検査だったから。

とはいえ、ジョー自身も脳内検査に関しては、いつも逃げる方だった。
やはり、勝手に頭の中をいじられるというのは気持ちのいいものではない。
更に言うと、また――加速装置の不具合が生じることだってあるのだから。

自分の検査の時に、加速装置の不具合が生じたことがあるように――他のメンバーの時も、何かしらの不具合は生じているのだろう。それは、皆はっきりと口にしたことはなかったが、容易に想像できた。
だから、フランソワーズもおそらく――過去に、何かあったのだろう。脳内検査の時に。
けれども、それについて彼女がジョーに語ったことはなかった。
それで構わなかった。
自分も加速装置の一件を言っていないのだから。
検査後に、自分の身に何かが起きた――事を、誰もが経験しているにも関わらず、話題に上ったことは無い。
あまり気持ちの良い話でもないし、知ったところで誰にも何もできないからだ。
更に言うと、お互いの検査の時に、お互いの様子を知ることさえ――ご法度だったから。

そうは言っても、フランソワーズが検査をするとなれば、ジョーだって心穏やかではいられない。
どうしたってそばについていたくなってしまう。例え入室できないとわかってはいても――近くに居たくなってしまう。
それはお互いのために得策ではなかったので、ジョーがそばに居られないこの時期にすることに決めたのだ。
最初からそばに居られない状況に身を置いていれば、彼女の検査が終わるまでずっと気を揉む事もしなくてすむ。

「・・・大丈夫かな」

アルベルトが電話をしてきたという事は――既に脳内検査も始まっているのに違いない。
彼女の場合は、12対ある脳神経のうち2対を徹底的にいじるわけで、その点が他のメンバーと異なっている。
目と耳が全く使えなくなる状況というのが、彼女にとってどのくらいの精神的負荷になるのかはわからなかった。
どのくらい苦しくて辛いのか。
それは想像するしかなかったが、想像すると――いてもたってもいられなくなってしまうのも常だった。
ともすれば、今すぐに加速装置を噛んで帰ってしまいたい。そばに居ることが叶わないとしても近くにいたかった。

――フランソワーズ。

彼女の検査が全て終わるのは2日後だった。

 


 

10月4日

 

どうしてここにお兄ちゃんがいるの?

メールも電話も、何ひとつ連絡がなかった。なのに、いまフランスにいるはずのジャン兄が何故かギルモア邸の前に居る。
首を傾げつつも、フランソワーズはともかく出迎えるために階下に下りていった。

「お兄ちゃん、一体どうし――」

ドアを開けた途端。

ブラックアウトした。

 

***

***

 

――目が視えない。

瞼を開いているのか閉じているのかもわからなかった。そのくらいの漆黒の闇に包まれている。

音、は――微かに電子音が聞こえる。が、それだけだった。
おそらくどこかの部屋の中だろうと見当をつけるものの、それを作る四方に在るはずの壁は何故か突破できなかった。
部屋の外の音が何一つ聞き取れない。
瞬時にパニックに襲われた。
自分の耳が使えない。それは、サイボーグになってから感じるようになった恐怖のうちのひとつだった。
目が見えない今、頼りになるのは聴覚だけだった。が、それも使えない。――と、なると。
自分はただの人間と何ら変わりがないのだった。
それは、普段ならそう望み、そう在りたいと願うものだったが、有事である今は要らなかった。
――勝手なものだ、と思う。
サイボーグであることを忌むくせに、いざとなるとその能力に頼ってしまう。
とはいえ、普通の女の子が生命の危機に晒される機会など殆ど無いのだ。だから、その機会がある今となってはやはり機能に頼ってしまうのだった。

――ここはどこ?

私は――いったい?

手を動かしてみる。――動く。が、それを目の前に持って来ても――持って来ているはずだったが――何も見えなかった。自分の手が視認できない。
足を動かしてみる。――こちらも動く。が、いま自分は立っているのか横になっているのか、それすらもわからなかった。平衡感覚はひどく曖昧だった。

私は――どうしてしまったの?
何が起こっているの?

まるで、意識だけが闇のなかに漂っているようだった。

意識だけが。

私の腕は、私の足は、私の――身体は。

どれも現実感がなかった。
およそ質量というものが感じられない。
手を動かしてみる。動く。両手で自分の身体を抱いてみる。――ある。身体は、ちゃんとそこにあるようだった。
が。
触っても、抱き締めても――何も感じられない。
確かに手が、指先が、自分の身体に触れているはずなのに、触れている感覚も、身体が抱き締められている感覚も、何も――感じなかった。

私、は。

 

――落ち着かなくては。

おそらく、パニックになっているせいで――本当はそこにあるはずのものがわからなくなっているだけなのだ。
――落ち着け。

息を吸って。
吐いて。
それを繰り返す。

――繰り返した、つもりだった。何しろ、自分の肺が空気を吸い込む感覚も――空気が気管を通ってゆく感覚も――何も感じなかったのだ。

あくまでも、つもり。

息を吸った、つもり。
触った、つもり。
動かした、つもり。

ひどく現実感に乏しい。ただ、意識だけが清明だった。

 

――私、は。

 

ただ一つの安心できる要素は――この状況には覚えがある。と、いうことだった。
ありがたいことに。

 


 

10月3日

 

去年の日本グランプリの時はタイヘンだったんだよなぁー・・・・

ぷかり、と自分の作った輪が頭の上を漂ってゆくのを見送りながら、ジョーはぼんやりと空を眺めていた。
サーキットの傍らの草の上に足を投げ出して座り、後ろの地面についた両手に体重を預けるようにして。

――今年は何事もなく終わる・・・よ、な?

毎年あんな事が起きるなんてゴメンだった。

本当に、死ぬ思いだったんだ。

記憶を失うくらいの、焦りと恐怖。
フランソワーズを失ったかもしれない、という現実は、容赦なくジョーの気持ちをかき乱した。
加速装置を噛んで、走りながら――泣いていたのかどうかも覚えていなかった。

うう。
いかんいかん。
思い出したって、なんにもイイコトなんかないぞ――

顔をしかめて、苦い記憶を封印する。

今年は大丈夫だ。

根拠はない。が、そう断言することによって、あらゆる心配事を回避できるような気がした。

・・・今年は大丈夫なんだ。

自分で言って頷く。

全く、フランソワーズが僕以外の男に目を向けるなんて事は・・・

 

胸ポケットの携帯が振動した。
咥え煙草のまま、耳に当てる。

「もしもし?」

「ジョーか?俺だ」

アルベルトだった。

「――珍しいな。何か用?」
「用もなくお前にかけるかよ。あのな。落ち着いて聞けよ」
「ああ」
「フランソワーズが――」

 

***

 

ジョーの素顔。

その見出しにドキドキしながら文字を追う。
いったいどんな質問をされているのか。そしてジョーは何と答えているのか。

『――女性にも絶大な人気を誇る、F1レーサーの島村さんですが、お休みの日はどう過ごされているのでしょうか?』
『特にこれといってないです。』
『――やはり休暇中は、車には乗らない?』
『そんなことはないです。普通に乗ってます』
『――それは、ドライブとか・・・?』
『まあ、そんなとこです』
『――隣にはやはり女性がいる?』
『さあ・・・どうでしょう』
『――確か、熱愛宣言なさったのでしたよね?』
『そう・・・でしたっけ?』
『――泣いた女性ファンはたくさんいますよ』
『そうですか』
『――そのお相手の方とは、今も?』
『ええまあ』



・・・・・なにコレ。何にもマトモに答えてないじゃないの!

一応、対談形式とうたってはいるものの、ジョーはのらりくらりと質問を受け流しているだけだった。何も明言してはしないし、およそ「会話」というものも成立していない。とはいえ、これを記事にしてしまう雑誌側も雑誌側である。「島村ジョー」の名前と写真さえ載っていれば、中身はどうでも良いのかもしれなかった。

じっと写真を見る。
そこには、よそゆき顔の見知らぬジョーがいた。

・・・ヘンな顔。

指先で軽く弾いて、雑誌を閉じた。

「――さて、と」

洗濯物を取り込まなくちゃ――と立ち上がった時だった。見るともなく眺めた窓の外に、人影を見つけたのは。

「・・・?」

不審に思いつつ、目と耳のスイッチを入れる。
ズームして確認したその人物は。

「――お兄ちゃん?」

 

*****
去年の日本グランプリのお話はコチラ


 

10月2日

 

日本グランプリまであと10日。

同じ国内に居ながら会えない。というのは何とも不思議な話のような気がするが――意外とこの国は広いのだ。
もちろん、本気で会おうと思えば会えない距離なんかではない。が、今、彼の集中が妨げられるようなことを自分がするわけにはいかない。例え、自分の存在が彼の邪魔になんかならないとわかってはいても。

――この前、会ったばかりだもの。

たくさんキスをして、たくさん抱き締められて。
寂しいなんて言ったら、きっと彼は笑うだろう。――でも。
会った後の方が数段寂しいということに、彼は果たして気付いているだろうか?

そんな風に思うのはきっと私だけね。

少し寂しいけれど、そう思ってしまうのはきっと自分が欲張りなせいだと思う。
一度でも、彼の瞳を見つめて――見つめられたら。
彼の腕の中で眠って、彼の腕の中で目覚めたら。
それが毎日続くといいと思ってしまう。

だめだめ。贅沢者!

自分を諌めて、ひとつ大きく頭を振ると、彼のことを頭の中から追い出すように――目の前の雑誌に集中しようと努めた。
今日発売されたばかりのファッション誌。
フランソワーズは、こういう雑誌を読むのが大好きだった。可愛い洋服や小物・・・それらを眺めるのもいいし、実際にその店に行って実物に触れるのもいい。その時間だけは、自分は普通の――ネオブラックゴーストや、サイボーグなどというものとは無縁の――女の子でいられる。

「今月は秋物の今年の傾向ね」

既にショップでは晩秋ものにシフトしているが、実際にはまだ初秋。とはいえ、今年の流行色やデザインを見るのはいつでも楽しいのだった。
瞳を輝かせて、ゆっくりとページを繰ってゆく。
時折、手を止めて虚空を見つめ――こいう格好ってジョーの目にはどう映るかしら、などと考えてみたりもする。
間違っても「似合うよ」や「綺麗だね」や「可愛いね」を安売りしない彼。かといって、ファッションにうるさいわけではない彼。いったい自分はどう映っているのだろう・・・と、フランソワーズはいつも知りたくて仕方がなかった。

「日本グランプリの頃って今よりも涼しくなっているわよね」

既にチケットとスタッフパスはもらっている。予選の前日のフリー走行から観に行く予定になっていた。
今年は、いつもこの時期に行われる公演も、おなじみのホールの改修工事のため延期になっていた。
だから、ジョーのレースは存分に楽しむ時間的余裕があった。

「・・・ブーツじゃ暑いかしら。うーん・・・」

悩むのも楽しかった。明日、ショップに行ってみようかしら――と思いながら、ページを繰った。
と。

「――え?」

慌てて表紙を確かめる。間違いなく女性ファッション誌だった。
もう一度、ページに戻る。

「・・・聞いてないわよ、こんなの」

そのページには、レーシングウエア姿の「ハリケーン・ジョー」がいたのだった。

「・・・・」

軽く眉間に皺を寄せ、次のページを開く。そこは見開きページで、私服のジョーが何かを語っているような雰囲気のショットが2枚あり、あとは対談形式のインタビュー記事だった。
とりあえず、読むのは後回しにして次のページを開く。が、それ以降は違う特集になっていた。どうやら3ページだけらしい。
もう一度、扉である「ハリケーン・ジョー」のグラビアに戻る。
横顔のアップに被せて、マシンの前に佇むジョー。カメラ目線ではなく、どこか遠くを見つめている。
『日本グランプリ間近のハリケーン・ジョー独占インタピュー〜彼の素顔は?〜』

・・・素顔?

そういえば、取材も数件こなしたと前に話していた。その「数件」のうちのひとつがこれだったのだろう。
ともかく――「素顔」が気になった。

 

 

*****
・・・「素顔」??