−子供部屋−
(ジョー島村もしくはお嬢さんのお部屋)

 

12月31日

 

〜カウンター10万ヒット記念&年末年始特別企画〜 

「温泉旅行」

 

C温泉

夕食前に温泉に入ろうということになった。

「――あ、僕たちは後でいいよ」

と言う超銀のふたりを部屋に残し、新ゼロ・旧ゼロの二組は部屋を後にした。

「後でいい、ってどういうことかしら?一緒に入ればいいのに」
首を傾げるスリー。
「大浴場があるんだから、みんなで入っても全然大丈夫なのに。それに、僕「たち」っていうのも変だわ」

「・・・・」

一緒に歩きながらも答えない新ゼロのふたり。
新ゼロジョーがナインに何とかしろと目配せする。

「ええと、スリー?」
軽く咳払いをしてから、ナインは握っていたスリーの手を軽く引き寄せた。
少しだけ縮まった距離に頬を赤らめるスリーを可愛いなぁと見つめながら、頬を引き締め真剣な顔をつくる。

「その、・・・ひとにはそれぞれの事情っていうものがあるんだよ」
「事情?お風呂に入るのに?」
「うん」
「どんな?」
「・・・それは」

一緒に入るのは、男同士、女同士とは限らないのさ。――と言って通じるかどうか少し悩む。
おそらく、カップルで一緒に入るというのを知らないわけではないだろう。ただ、「009」と「003」もそういうことをするのかと全く思っていないところが問題で・・・
でも、僕たちだって人間だ。機械の体を持っていたって、普通の恋人同士のように過ごしてもいいだろう。
そう、普通の恋人同士のように――

黙り込んだナインを不思議そうに見つめ、そして繋いだ手元に視線を向ける。
しっかり握りしめた手が温かくて、嬉しくて、知らないうちに微笑んでいた。

前を歩く新ゼロのふたりは手を繋いでいない。
どうして手を繋がないのかしらと思っていると、「じゃあ、僕たちはこっちだから」と二人揃って右に折れた。
「ああ、わかった」と頷くナインに小さく問う。

「ねえ、あっちは露天風呂よね?・・・どうして二人で行くのかしら」

本当にわかってないのだろうかと内心悩みながらも、ナインはスリーの手を引いて大浴場へ向かって歩くのをやめない。

「――二人っきりになりたいからだろ」
「お風呂で?」
「そう」
「だって、それじゃ一緒に・・・」

言いかけて、はっと口をつぐむ。

「・・・あ。そういうことなのね。じゃあ、お部屋のふたりも」
「うん、今頃二人っきりだね」

そして、今は僕たちも二人っきりだ。
それに気付いているのかどうか、頬を真っ赤に染めて無言のままのスリー。
僕もきみと二人っきりになりたいと言ったら、何て答えるだろうか。

「――後で僕たちも露天風呂に行ってみるかい?」
「えっ!?」

びくんと揺れる手。
ナインはその様子に苦笑すると、その手を外してスリーの鼻をつんとつついた。

「冗談さ。ほら、ここでお別れだ。上がる時には声をかけるから」
「・・・わかったわ」
「湯冷めするなよ?」

片手を上げて男湯へ姿を消すナイン。その背をしばらく見つめてから、スリーは女湯ののれんをくぐった。

――冗談、じゃ・・・ないわよね?

他の二組のように二人っきりになりたくないかといえば、それはもちろん二人で居たいとは思う。でも、さすがに一緒にお風呂というのは抵抗があった。

ナインは・・・一緒にお風呂に入りたいのかしら?
――でも。

彼の事は好きだけれど、それとこれとは違うような気がした。

一緒にお風呂に入らないから、って嫌われる。なんて事はないわよね。

小さく頷いてから、脱衣所を出た。
まだ時間が早いせいか、大浴場には自分ひとりしかいなかった。
男湯の方からは誰かの鼻歌が聞こえてくる。
こちらに聞こえてるの、知らないのね――とくすくす笑いながら踏み出すと。

「おおい、フランソワーズっ」

鼻歌が止んで大きな声で呼ばれた。

「きゃっ。なに?・・・ジョー?」
「うん。こっちはひとりなんだ。そっちもひとりかい?」
「ええ。貸切よ?」

だからなんだというのだろう――と訝しく思う前に、再び鼻歌が再開された。
それは、お風呂に入ったらおそらく昭和世代のほぼ8割が頭に浮かぶであろう、あの曲だった。

びばのんのん♪

 

***

 

一方、こちらは露天風呂組。新ゼロのふたりである。

「・・・私たちも後で良かったのに」
「何が」
「先にみんなと一緒にお風呂に入るのでも良かったっていう意味よ」
「ふん」
「これじゃ、いかにも一緒にお風呂に入るのは慣れてます――って言ってるみたいで恥ずかしいわ」
「本当のことだろ」
「・・・そうだけど」

ふと服を脱ぐ手を止めて、ジョーがフランソワーズを見つめる。

「――イヤだったら、今から大きい風呂の方へ行く?」
「えっ?」
「僕はどっちでもいいよ」

優しく見つめる褐色の瞳。その真意がわからず、フランソワーズは瞬きした。
いったい彼はどうしたいのだろう?
一緒にいたいのか、そうではないのか。
たかがお風呂とはいえ、フランソワーズは混乱した。

「どうする?」
「どう、って・・・」

答えないでいると、何だか大浴場へ行ってしまいそうな話の流れに慌てた。

「・・・意地悪ね。ジョーは」
「そうかな」
「そうよ」

だって、私がこっちで一緒に居たいって思っているの、知ってるくせにそんな事言うんだもの。

「――もう、ばか」

そうしてそっとジョーの頬にくちづけた。

 

***

 

「後でいいよ、なんて随分殊勝ね?」
「そうでもしないと二人っきりになれない」

こちらは部屋にいる超銀のふたり。
ジョーはごろんと仰向けに寝そべり、フランソワーズの膝に当然のように頭を預けている。
そのジョーの額にかかる髪をよけながら、フランソワーズは自分だけの特権である彼の両目を見つめた。

「運転、疲れた?」
「いや。きみのナビがいいから」
「またそんな事言って。――本当かしら」
「本当だよ」

言いつつ、大きな欠伸。

「でも・・・ちょっと眠くなってきた」
「お風呂は後にして、夕食の前に少し休んだ方がいいわ」
「うん――そうするよ」

そうして腕を伸ばし、フランソワーズの首を引き寄せる。
フランソワーズはそのまま屈んで、彼の額にくちづけた。

「・・・それにしても、どうして3部屋にしなかったんだろう、ピュンマの奴」
「気を遣ったのよ。ナインとスリーに」
「そうかあ?」

一見、人畜無害の正義の味方のような旧ゼロジョーを思い浮かべる。
しかし、温泉旅行の話を三人の009で計画している時、彼は至って普通の男子にしかみえなかった。
つまり、もしかしたらスリーと一緒に泊まることになるかもしれない、そうしたらあれやこれや――と。
普段、なかなか二人っきりになれない彼らだから、余計に楽しみにしていたのかもしれなかった。

「結婚してない男女が同じ部屋に泊まるのはどうか・・・って、悩みそうだもの。あのふたり」
「そうかなあ」

それは違うのだけれども、ナインの面目を保つために肯定も否定もしない。

「――いいよ、あの二人のことは」

ジョーは半身を起こすとフランソワーズを引き寄せた。

「それより今夜はひとり寝だ。――寂しいなあ」
「もうっ、ジョーったら」
仕方の無いひと――と呟いて、彼の唇に唇を寄せる。

「寂しいのは、私も同じよ?」

 

****
009たち、ゴメンナサイ。次回は3部屋にするから!


 

12月30日

 

〜カウンター10万ヒット記念&年末年始特別企画〜 

「温泉旅行」

 

B部屋割り

到着した宿は、山の中腹あたりにあった。
周囲には何も無い、木々に囲まれたこじんまりとした宿である。

「ピュンマもよくこういうところを知ってるよなあ」
「絶対、泊まったことがあるな」

009たちが口々に言う。

「限定8室と言っていたな」

視線を宿に向ける。

「何だ?貸切じゃなくて残念か?」
「いや。・・・僕達が3部屋押さえたら申し訳ないなと思ってさ」

3部屋。
それは、各ペアごとの部屋割りと考えれば妥当な部屋数だった。

駐車スペースに車を止めて、それぞれ荷物を取り出す。
迎えに出ていた宿の人間が荷物を運び入れるのを手伝ってくれる。
チェックインする前に、6畳ほどの和室へ通された。そこでお茶とお菓子をふるまわれ、ゆったりと寛いで台帳に名前を記入してゆく。

「・・・代表者だけでいいんだな?」
「ああ。きみ、書いておいてくれ」
「・・・フランソワーズはどうする」
「フランソワーズ・アルヌールでいいんじゃないか?」
「いや、でも、こういうところは夫婦じゃないと同じ部屋に泊まるのは・・・」

あれこれ検討する009たち。
003たちはというと、三人揃うとおしゃべりに忙しく、彼らには構っていられないのだった。

そこへ宿の女将がやって来た。

「御記入いただけましたでしょうか」

にこやかに言いつつ、テーブルの上に部屋の鍵を置く。部屋の鍵は2つだった。

「――あれ?部屋は2つ・・・?」

いっせいに訝しげに眉を寄せる009たち。

「あの。部屋は確か3つ・・・」
「いいえ。2部屋の御予約で承っておりますが」

009たちは顔を見合わせ、
「いや、それは何かの手違いです。予約は3部屋・・・」

言いかけた009に被せるように003の声が響いた。

「ありがとうございます。お部屋は2つでいいんです」

ね?と、003たちはお互いににっこり微笑んだ。

「それでは、こちらが男性のお部屋でこちらが女性のお部屋の鍵になります」
「ありがとうございます」

009たちは訳がわからないまま、女将について立ち上がった003たちのあとをついてゆく。

「――こちらがお食事をするお部屋になっております。準備が整ったらお声をかけますので。――それから、あちらが」

指し示すのは、庭から少し行ったところにある建物。

「露天風呂になります。お部屋ごとに入られてもいいですし、その場合は履物をここで履き替えていただいて――予約制ではございません。ただ、ここに履物があれば誰かが入っていらっしゃるというお約束になりますので御了承ください。もちろん、大浴場もございます。この先の階段を下がったところになります」

そして、部屋へ到着した。

009たちは、揃ってひとつの部屋へ入っていく003たちを呆然と眺め、声をかけようとした鼻先で戸を閉められた。
腑に落ちない――といった風情でもうひとつの部屋におさまり、男3人無言で卓についた。

「・・・ピュンマが間違えたのかな」
「いや、そんなことはないだろう」
「じゃあ、わざと・・・?」

ううむと眉間に皺を寄せたとき、軽いノックの音がして003たちが部屋へ入って来た。

「あら、お茶くらい淹れたら?――しょうがないわねぇ」
「ほんと。お洋服もバッグに入ったままだわ。こうやってかけておかないと皺になっちゃうのよ?」
「浴衣もちゃんとあるから、ここに出しておくわね?」

それぞれ世話をやきながら、それぞれの009の隣に座る。

「ジョー?どうかしたの?さっきから何も喋らないけど」
「別に、どうもしないよ」

「いや。・・・ピュンマが予約する部屋の数を間違えたかもしれないと思っていたところだ」
超銀ジョーがフランソワーズからお茶を受け取りながら口火を切った。
「本当は3部屋のはずなんだ」
そんな彼をちらりと見て、超銀フランソワーズはすました顔で答えた。
「あら。間違えてないわ。合ってるわよ?」

ね?と003たちに同意を求める。
新ゼロフランソワーズもスリーも小さく頷いた。

「いや、だけどそれじゃ・・・」
「009と003に分けるのが何か変?」
「いや、そうじゃないけど」
「じゃあ何?」

首を傾げて見つめる新ゼロフランソワーズ。新ゼロジョーは言いにくそうに答えた。

「・・・その。男女で別れたら修学旅行みたいじゃないか」
「いいじゃない。楽しくて」
「いや、そうなんだけど・・・」

他の003の視線を気にして黙ってしまう。
お互いカップルで別れて泊まるのがいいな――とは、ちょっと言えないのだった。自分のフランソワーズに甘えて言うならまだしも、ここには他のフランソワーズもいるのだ。009の威厳を失墜させるわけにはゆかない。

「あら、だって、私たち夫婦じゃないもの。一緒のお部屋に泊まるのはだめよ」
スリーが真面目な顔で言い放つ。
「それに、そういうのってこういう宿はうるさいのよ?断られちゃうんだから」

そうよそうよと頷く003たち。
それを横目で見て、009たちはナインにオイ何とか言えよと目で促す。

ナインは腕組みをしたまま動かない。
「――そうだな。スリーの意見は正しいよ」
低い声で言う。

「きみたちは少し、その――慎みが足りない」

慎み?

超銀ジョーと新ゼロジョーが同時に旧ゼロジョーを見つめ、またまた同時に喉の奥で「けっ」と言ってそっぼを向いた。
言いたいことはたくさんあったが、彼の隣にいるスリーの手前、そして同じ009として、彼の面目を保たなくてはならなかった。
先日、みんなで温泉に行かないか?と話した時に、それぞれのカップルごとに泊まることも含めあらゆることを考え楽しみにしていたのは誰でもないナインそのひとだったのだから。
その思惑がすっかり外れて、一番不機嫌なのはナインだと言えるわけがない。

「女同士でお泊りって楽しみよねー」
「ほんとほんと。絶対、楽しいわ!」
「話したいことがたくさんあるのよ」

盛り上がっている女性陣を横目に、当ての外れた男性陣は小さくため息をつくのだった。

 


 

12月29日

 

〜カウンター10万ヒット記念&年末年始特別企画〜 

「温泉旅行」

 

A座席指定

「009の隣には003って決まってるだろう?」

当然の顔をして言い放ったのは超銀ジョー。それに頷く009たち。
一方、003たちはというと――

「だって私たち、色々と相談しなくちゃならないことがあるのよ?」
「いいじゃない、女子と男子に分かれたって」
「そうよ。運転が得意なんでしょう?カーナビだってあるんだし」

私たちがナビをしなくたって大丈夫でしょう?たまには休みたいのよ。

と三人が声を揃える。

「休む、って・・・」
「ダメよ。たまには自力で運転しなさい」

「だけどいつもは」
「休日なのよ?今回はスイッチはいれません」

「道に迷ったらどうするんだ」
「あら、あなたは009でしょう?道に迷うわけないじゃない」

「あ、ダメよ、その台詞を言ったら!」
新セロお嬢さんの台詞に慌てるふたりの003。

「――あ、」
新ゼロお嬢さんが慌てて口元に手を当てるけれども時既に遅し。
にやにやしながら新ゼロジョーが言った。

「そうだね。隣に003がいるんだから」

 

***

 

結局、004のワゴンを借りて行くことに決まった。のだったが、今度は席次で揉めていた。
3列シートなのだから、つまりそれぞれ二人一組で並んで座れば良いだろうというのが009たちの意見。
いっぽう、003たちは車中でお喋りしたいから、三人並んで座りたいという。
助手席にも座りたくないという003に、それは譲れないと頑張る009たち。平行線だった。

「――でも、今回は残念ながら隣にはいません」

それでも、きっぱりはっきりと告げる新ゼロお嬢さん。新ゼロジョーのすがるようなマナザシに負けないように背筋をぴんと伸ばして。

「ええっ。それはないよ、・・・・ね?フランソワーズ」
「ダメ。今回は009同士並んで座って頂戴」

新ゼロジョーの甘い声と至近距離から見つめる褐色の瞳。切なく光るその色を見ないようにしながら、断り続ける新ゼロお嬢さんを見て、ふたりの003は感嘆していた。

「凄いわねぇ!ジョーのお願いに負けてないわ」
「あんな風に言われたら、ちょっと負けそうになるわよねぇ・・・」

「へーえ?だったら僕もやってみようかな、フランソワーズ?」

背後から声がかかり、ぐいっと顎に手をかけられ009の方を向かせられる超銀お嬢さん。
「ジョー!もうっ、驚くじゃない」
「うん。僕もやってみようと思って」
「何を?」
「おねだり。もしくは泣き落とし」
「何よソレ」
「言葉通りだよ。――アイツの言う通り、009の隣には003がいるべきだと思わないかい?」
「それはそうだけど――」
「だろう?だったら大人しくそうすればいいじゃないか」
「でも、今回は任務じゃないのよ?それにカーナビだってついてるんだし、たまには休ませて欲しいわ」
「――僕はきみのナビがいい」
「ダメよ」
「・・・フランソワーズ」
「ダメだったら・・・」

超銀ジョーの熱い視線と甘い声に、超銀フランソワーズは陥落寸前だった。

 

「バカだなぁ。お願いなんてするから断られるんだ」

妙に威張った声に振り返ると、そこには両手を腰にあてて仁王立ちになっているナインの姿があった。
「命令すればいいじゃないか」
「命令?」

ちょこっと首を傾げる旧ゼロお嬢さん。

「そう、命令だ。003は009の命令には絶対服従――」
「しないわよ?」
「そう、しない・・・ええっ?」
「何言ってるのよナイン。当たり前でしょう?」
「イヤ、しかしだな」
「だってこれはミッションじゃないのよ?遊びに行くのよ?命令なんてイヤだわ」
「だけど」
「・・・ナビをして、なんて言わないで、ちゃんと言ってくれればいいのに」

ポツリと言った旧ゼロお嬢さんの言葉に、いっせいに003たちが頷いた。

「そうよ、ジョー。ちゃんと言って」

新ゼロお嬢さんが新ゼロジョーの頬に手を触れる。

「言ってくれたら考えてみるわ」

超銀お嬢さんも超銀ジョーの顔を押し戻しながら言う。

「・・・・・・」

期待に満ちた目でそれぞれ見つめられる009。
一瞬、三人の009がお互いの意志を確認するかのように視線を交錯させ。
そして。

 

「・・・隣にいて欲しいです」

 

声を揃えて言った009に、三人の003は笑顔になった。

 

「もう、しょうがないわねぇ」

 

 

*****
進みません・・・すみません。


 

12月28日

 

〜カウンター10万ヒット記念&年末年始特別企画〜 

「温泉旅行」

 

@出発

「きみの車はオープンカーだろう?無理だな」
「そういうきみのだって全員乗れるわけじゃないし、大体、あんな派手な塗装の車になんて乗りたくないね!」
「何だと?」
「何だ。本当のことを言ったまでさ」
「もう一度言ってみろ」
「ああ、何度だって言ってやるさ。派手なんだよ、は・で!――あんなの、まるでどこかの暴走族じゃないか」

がるるるる。

という擬音が聞こえてきそうな睨み合い。

「大体、あんな族上がりみたいな車にスリーを乗せるわけにはいかない」
「――アラ、乗ってみたいわ、私」
「きみは黙っててくれ」
「まあ。だったらナインだけ乗らなければいいじゃない」
「まったく、きみは――!ややこしくなるから、黙っていたまえ」

「ねえ、ジョー?いいじゃない、彼の言う通り全員は乗れないわ」
「だけど、俺の車をバカにしたんだぞ」
「してないわよ。本当のことを言っただけじゃない」
「本当のこと、って・・・フランソワーズ」
「だって、そうとう目立つわよ?気付いてないの?」

「――ねえ。もめてるみたいだわ」
「そうだね」
「あなたはいいの?」
「何が」
「どの車で行くかの相談に加わらなくて」
「――くだらない。どうせ、004のワゴンを借りないと無理だ」
「・・・そうだけど」
「やらせとけ。僕は興味ない」

 

ギルモア邸のリビングダイニングである。

ダイニングテーブルに地図を広げて声高に相談している二人の009。
それぞれの隣には003がいる。
更に、リビングの向こう側のソファにも一組の009と003。

今日は、全員で温泉へ行くその相談をしているのだった。
行く先は決まっている。008のコネで、こじんまりした宿もとれている。
微妙に近い距離なので、電車で行くよりも車の方が便利だった。それに――009が三人集まったらどうなるか・・・を考えると、003としてはひとめのない方が良いだろうと思うのだった。

「――おい。009。きみの意見はどうなんだ」

「そんなに目立つかな」
「目立つわよ。知ってるひとが見たら、「ああ、ハリケーンジョーが乗ってる車だ」ってバレバレよ?」
「そんなの言われたことないよ」
「みんな気を遣っているのよ。だって、言ったらあなた拗ねるじゃない」
「――そんなことないよ」
「あるわ。・・・ホラ、今だってちょっと拗ねてる」
「拗ねてない。怒ってるんだ」
「はいはい。そうね」

「興味ない、って・・・」
「大体、全員同じ車で行かなくてもいいじゃないか。それぞれが出せば」
「だって、せっかく揃っていくのよ?バラバラだったら現地集合でもいいじゃない」
「――その手があったな。今からでもそうするか」
「イヤよ。私たちは一緒に行くの楽しみにしてるんだから。――ね?フランソワーズ」

話が進まない。
そもそも、リーダーシップを取りたがる男が三人集まれば、決裂するのは目に見えている。
かろうじて誰も帰らずにいるのは、003が怖いからだった。

003が怒ったら、いかに009といえど嵐が過ぎ去るのを頭を低くして待っていることしかできない。
そして、嵐の後には――豪雨になるのだ。

「ねえ、オープンカーって髪が乱れない?」
「意外と大丈夫なのよ。風もそんなに受けないし」

「――乗りたいとか言うなよ?」
「あら、どうして?」
「・・・なんで他の男の車にきみを乗せなきゃならないんだ」
「他の男って・・・009よ?」
「奴はニセモノの009だ」
「もー、何をバカなコト言ってるの!」

「いいかい?絶対、あんな族車には乗るんじゃないぞ」
「でも、空を飛ぶし、海も走るのよ?凄いじゃない」
「それでもダメだ!もし落ちたらどうするんだ」
「ナインったら。きっと大丈夫よ。彼はアナタと同じレーサーなんだから、整備はきちんとしてるわ」
「そういう問題じゃない。ダメだったらダメだ!」
「もう、ナインったら」

「大体、そのフザケタ姿勢は何だ。真面目に話してるんだぞ!」
「ふざけてないよ、別に」
ねっ。フランソワーズ?と、腕の中の彼女に笑いかける。
新ゼロのふたりは、いつものように009の膝の上に003がいるのであった。
「あいつらより、ずーっと真面目だ」

視線で指す先には、ソファに陣取っている超銀のふたり。
009はごくごく自然に003の膝枕で横になり、すっかりリラックスしているのだった。

「――ったく!」

微かに頬を赤らめて視線を逸らした009。
とはいえ、旧ゼロのふたりはずっと手を繋いだままだったのだが。

 

 

*****
そんなわけで、「昭和の009」三組です。
どれが誰の台詞かわかるでしょうか。
・・・非常にヤヤコシイです。三人の009と003。でも、仲良し度はどこもひけをとりません。
でもって、話が進みません。
おそらく009に相談させていたら何も決まらないでしょう・・・(前回の超銀・新ゼロの夏休みのように。


 

12月23日

 

ともかく、ジョーは軽く不機嫌だった。何だか全てが気に入らない。
それに反し、フランソワーズは朝から上機嫌だった。ジョーの不機嫌さにも気がつかないほど。
――否。実は気付いているのかもしれなかったが。

 

***

 

「フランソワーズ。本当にその格好で行くつもり?」
「ええ、そうよ?どこか変?」
「・・・イヤ、変じゃないよ」

しぶしぶといった感じの小さい声にフランソワーズはにっこり笑い、そっと手を伸ばしてジョーのネクタイを直した。

「ジョーも素敵よ?」
「僕はどうでもいいんだよ」

黒のタキシードに真っ白なシャツ。
フランソワーズにネクタイをきゅっと締められ、小さく咳をする。

「――ん。いいわ」

数歩下がってジョーの全身をチェックする。
満足そうに頷きかけ――その目が彼の左手で止まった。

「ジョー。これはダメよ?」

そうして彼の左手からするりとそれを抜き取った。

「こういうのしていったら大変。いろいろ聞かれちゃうわ」
「今日はマスコミはいないから、いいんだよ」

返せよ、と手を伸ばすがひらりとかわされてしまう。

「ダメよ。マスコミはいなくても、そういう話のネタを自分から提供しなくたっていいでしょ?」

そう言って、自分のぶんと一緒にジョーの机の上に置いた。

「但し、帰ってきたらちゃんとつけてね」

机の上に並べて置かれたペアリングをじっと見つめ、ジョーは息をついた。

「――だったら、一人でフラフラどっか行ったりするなよ」
「アラ、どうして?」
「どうしても」
「やーね、怖い顔して。一人でも迷子になったりしないわよ」
「そうじゃなくて」
「もう・・・ジョーったら」

少し拗ねた風情のジョーをじっと見つめる。

「わかってるわ。ちゃんと」
「それならいいけど」

フランソワーズの頬に手を伸ばし、唇を近づけたジョーの顔をフランソワーズは手のひらで押し返した。

「だめよ。口紅が取れちゃうわ」
「またつければいいだろう」
「だめ。あなたがキスすると、出かけられなくなっちゃうもの!」

心なし頬を染めて軽く睨む。
「軽いキス」と思っていたのがそうではなくなり、結局出掛けるどころじゃなくなったことが過去に数回あるのだ。

「そういうコンタンなの、ミエミエよ?」
「コンタン、って・・・」

小さく息をつくと、ジョーはキスするのを諦め、代わりに両手を彼女の肩にそうっとまわしてふんわりと優しく抱き締めた。

「そういうつもりじゃないよ。ただ・・・」
「ただ、何?」
「――何でもない」

フランソワーズの肌の滑らかさを手のひらに感じ、ジョーは自分の気分が更に険しくなってゆくのを自覚した。
どんなにフランソワーズがなだめても、彼の不機嫌は一向に改善される見込みがないのである。

彼女の露わになった肩と背中。肩だけではなく、胸元も大きく開いており、これって上から覗き込んだら全部しっかり見えてしまうのではないかと心配になるほどである。試しに覗き込んでみて、さっきフランソワーズから肘鉄をくらったばかりだったが懲りてない。
いっそのこと、何にもしないよという無害な顔してさっさと胸元に痕でもつけてしまえば、このドレスを着替えざるを得ないよなと思いつつも、彼女がこのドレスをとても気に入っているのを知っていたので思い留まる。
もし実行したら――そして、その気は満々だったが――フランソワーズが大暴れすることは明らかだった。
ジョーとしては、それでも全く構わなかったし、どんな嵐でも受け止める覚悟ではあるのだが、当の彼女がどんなにこの日を楽しみにしていたのかを知っていたのでやめた。

だから、フランソワーズの髪にそっとキスするだけで我慢した。

「僕のそばを離れるなよ」
「もう、ジョーったら。朝からそれ言うの何回目?」

くすくす笑って、フランソワーズはジョーの頬にくちづけた。

「言ってるでしょう?あなたのそばから離れない、って」

 

***

 

ジョーが不機嫌なそのわけは、フランソワーズのドレスだった。
買ったのは自分なのだから文句を言えないはずなのだが、渋るジョーに反して勝手に決めて購入したのはフランソワーズだった。

その日、とあるショップに連れ立って入り、そこでフランソワーズは片端からドレスを試着した。
目の前に現れては消えるフランソワーズの姿にジョーは険しい視線を向けていたが、どれもこれも気に入らなかった。

ジョーにしてみれば、露出が多過ぎるのだが、店員によれば「夜のパーティではデコルテを出すのが正装」とのことだった。――本当かよ?と思いつつ、実は店員とフランソワーズが結託しているのではないかと思い巡らせる。が、結託しているようにもしていないようにも見えて、結局ジョーにはわからなかった。

そうして、数十着目のドレスに身を包んで現れたフランソワーズにジョーは言葉を失った。

惜しげもなく両肩を出し、背中と胸元が深く開いた大胆なデザイン。
彼女の白い肌とよく合う淡いピンクの光沢のある布地。
ハイウエストに結ばれたリボンがほどよく胸の膨らみを強調する。

「・・・あの、ジョー?」

それまでは「だめ」「却下」とひとめ見た瞬間に言っていたジョーなのに、一向に何もコメントしようとしない彼に不安になった。

「・・・変、かな」

くるりとひとまわり。

「そ、そうよね。胸も開きすぎだし、・・・って言ったんだけど」

ちらりと店員を見つめる。

「お綺麗ですよ、とっても。デコルテが開いているのはそこにジュエリーを飾るためですし。シンプルなデザインの方が美しさがより際立つんです。お似合いですわ、とっても」
「でも・・・」

店員の言葉に頬をピンクに染め、じっとジョーを見つめる。
けれども彼は依然として何も言葉を発しない。

「・・・・じゃあ、これにしようかしら」

ため息をついてジョーから視線を外すと店員に向き直る。
フランソワーズとしても、このドレスは気に入っていたのだった。

魂が抜けたようなジョーからクレジットカードを受け取り会計をすませ、引っ張り出すようにして店を後にした。

「もうっ・・・ジョーったら、どうしちゃったの?」
「・・・・・・えっ?」

ジョーが数回瞬きをして――やっとフランソワーズに焦点が合ったようだった。

「――別にどうもしないよ」
「そうかしら。後半、何にも喋らなかったじゃない。寝ちゃってたの?」
「寝てないよ」
「アヤシイ」
「寝てない、って。――で、結局どれにしたんだい?」
「はあ?」

呆れた、とフランソワーズはジョーの顔をまじまじと見た。

「さっき着てたの見てたでしょう?」
「いっぱい着たからわからない」
「一番最後のよ。薄いピンクの」
「――・・・・・・」

ジョーは虚空を見つめ、しばし考え――そして、凄い勢いでフランソワーズに向き直った。

「だ。ダメだよ、あれはっ!」
「どうして?」
「どうして、って・・・・」

フランソワーズの姿を見慣れている僕でさえ、見惚れてしまうんだぞ――とはさすがに言えず。まさか、魂を抜かれて記憶がなくなった――とは、もっと言えなかった。

「ともかく、ダメだ」

危険すぎる。
それともフランソワーズは、更に僕の忍耐力を確かめようというのだろうか?

「似合ってなかった?」
「いや、似合ってたよ、すごく。――だけど」
「そう?良かった」

何か言おうと口を開いたジョーは、安心したように微笑むフランソワーズを見て何も言えなくなってしまった。

――まぁ、いいか。当日は僕が彼女から離れなければいいんだから。

そうして決まったドレスだった。

 

 

続きはコチラ


 

12月19日

 

「・・・ドレスアップしてお越しください、って書いてある」
「ふうん」
「ね、何度読んでもそう見えるわ」
「だったらそうなんじゃない?」
「そうなんじゃない?って、もおっ」

フランソワーズはジョーの持っているF1の雑誌を取り上げた。

「あっ。何するんだよ」

ジョーの手は虚しく空を切る。

「だめよっ。さっきから私の話、ぜんっぜん聞いてないじゃない」
「忘年会パーティの話だろ?」

一向に雑誌を返してくれる気配のないフランソワーズに、雑誌の奪還を諦め、ベッドに仰向けに寝転がる。
ここはジョーの部屋。
仕事関係――つまり、レース関係やスポンサー関係――の、忘年会兼クリスマスの会に出席すると決めた矢先、フランソワーズが招待状をちゃんと見せてとジョーの部屋を家捜ししていた。そんなもの、どっかに行っちゃったよというジョーの声にまなじりを決して。

「ほらっ!やっぱり場所はホテルじゃない!」

ジョーが適当に言った「どこかの店を貸しきる」のとは全然違うのだった。招待状に印刷されているそれは、由緒正しい老舗のホテルなのだ。そこの宴会棟のワンフロアを借り切っての大宴会。ワンフロアといっても、収容人数数百人を越えるホールが4つもある。更に、休憩室としての部屋も何個もある。

「んー?」

ジョーの物憂い声に、フランソワーズは招待状を手にしたまま、ジョーの隣にダイブした。

「もお。ちゃんと見て!」

自分が飛び込んだせいで揺れて弾むベッド。それをものともせず、そのまま匍匐前進してジョーの胸の上に辿りつく。
そして目の前に招待状をひらひらかざした。

「動かしたら読めないよ」
「読む気ないくせに」

目を細めて睨むフランソワーズに、ジョーは小さく舌を出すと両手で胸の上の彼女を抱き締めた。

「代わりに読んで」
「・・・しょうがないわねぇ」

そうして二人で確認したところ、やはりどう読んでも場所はホテルだったし、フォーマルな格好で来いと書いてあるのだった。

「・・・どうしよう。私、ドレスなんて持ってないわ」
「持ってるだろう、たくさん」
「持ってないわよ」
「持ってるよ。大体、きみの部屋だけじゃ入らなくて、僕のクローゼットも使ってるじゃないか」
「もう、ジョーったらわかってない。だめなのよ。どれもこれも、ふさわしくないの!」
「何で」
「だって、大パーティなのよ?それも、ジョーと一緒なのよ?ちゃーんとした格好しないと、恥をかくのはあなたなのよ」
「そうかなぁ」
「そうよ!それに、キャンペーンガールのひとたちもたくさん来るんでしょう?」
「たぶんね」
「絶対、気合いれておめかししてくるもの!このままだと負けちゃうわ!!」
「・・・え?」

なんとなく話の方向が見えてきて、ジョーは心中ため息をついた。

「いいだろう、別に。勝ち負けなんてないさ」
「あるのよ!」

びしっとジョーに向かって人差し指をたてる。

「いい?私が古いデザインのワンピースで出席したら、ああ、島村ジョーの彼女ってあんな格好しかさせてもらえないんだ、島村ジョーってけちだなーって言われちゃうのよ?」
「・・・いいよ別に」

欠伸をしかけたところ、フランソワーズの顔が正面にやってきて慌てて欠伸を噛み殺す。

「ううん、そうじゃなくても、島村ジョーの彼女のフランソワーズ・アルヌールってださいなーって言われるのよ?島村ジョーの趣味って悪いなって」
「・・・・・・それはいけないな」
「そうでしょう?」

フランソワーズの思惑通りに運んでいるのはわかっていても、それでもやはり、フランソワーズの悪口を言われるかもしれない・・・という想像は楽しくなかった。

「んー・・・・わかったよ」

よいしょ、と言いつつ、フランソワーズを胸に抱き締めたまま上体を起こす。

「新しいの、だろう?」

去年と今年の流行にどのくらいの差があるのかなんて全くわからなかったが、ともかくジョーはフランソワーズが嬉しそうなのでよしとした。それに、一緒に出かける身としては、いつもよりも更に綺麗で可愛いフランソワーズを見てみたい。
しかし。
問題は、ジョーの目に彼女が綺麗で可愛く映ったとすれば、他の男性の目にもそう映っているということだった。
それは、どうにもこうにも我慢できるとは言い難い。

「――僕が選ぶ」
「えっ?」
「一緒に行くよ」
「ええーっ」

途端に嫌な顔をするフランソワーズ。

「イヤよ。どうせまた、これはダメあれもダメって言うんでしょ?」

何故か「出かけるための服」を買いに行く時に限って、ジョーは積極的に買い物に付き合ってくれるのだ。
が、フランソワーズが気に入った服はどれもジョーが気に入らず、決まるものも決まらない。
一緒に来てくれるのは嬉しいものの、ちょっぴりありがた迷惑なのだった。

「当たり前だ」

フランソワーズが選ぶのは、確かにデザインも凝っている可愛くて綺麗なものが多いのだが、いかんせん、肩が出ていたり背中が大きく開いていたり、デコルテをこれでもかと見せるデザインだったりするのだ。
だからジョーは、どれもこれも気に入らず、やっぱり一緒に来て良かったと毎回思う。

膨れるフランソワーズを抱き寄せ、そっと頬にキスをする。

「――本当は、僕のフランソワーズを誰にも見せたくないんだからな」
「・・・・もうっ・・・・ジョーのばか」

でも好き。

 

 


 

12月14日

(注:「ジゼル」のお話は昨日で終了してます)

 

「――そういえば、フランソワーズ。ちゃんとチケットは予約できているのかい?」
「チケット?って、何の?」
「パリ直行便の。クリスマスには帰るんだろう?」
「直行便・・・」

血の気が引いた。

「ヤダっ。すっかり忘れてた」

枕にしていたジョーの膝から頭を起こす。

「わっ。フランソワーズ、危ないなあ」

あやうくジョーの顎に頭突きをするところだったが、そんなことには構っていられない。

「だって、それどころじゃ――」

両手を頬にあてて少し考え。そして上目遣いにジョーをじっと見つめた。

「・・・なーんて言って、そんなこともあろうかと僕が買っておきましたっじゃーん!・・・とかあったりして」
「残念。ない」
「ええーっ。ヒドイわ、ジョー。私がそれどころじゃなかったの知ってるでしょう?」
「あいにく、僕もそれどころじゃなかったのさ」

ジョーは雑誌を傍らに置いて、フランソワーズの鼻をつんとつついた。

「ジゴクのような一ヶ月を耐えた男に多くを求めるなよ」
「でも、あなたも一緒にパリに行くのに」

毎年、クリスマスから年末年始はパリで過ごす。ジャン兄と三人で。それが恒例だった。

「うん。うっかりしてた。でもフランソワーズはしっかり者だから、ちゃんとチケットを予約してたかなと思って」
「してなかったわ。・・・どうしよう」
「今からだとキャンセル待ち、かぁ・・・」

今から約10日後の航空券を確保するのは難しい。

「・・・あ、でも」

フランソワーズがふと微笑む。寂しそうに。

「・・・行ってもお兄ちゃんは一緒じゃないんだったわ」

昨年から、兄は別のひとと過ごすようになったのだった。

「だったら、行かなくても・・・」
「フランソワーズ」

ジョーがそうっとフランソワーズを胸に抱き寄せた。

「何とか手を回してチケットを確保するから。そんな顔しないで」

ジョーの胸に頬を寄せながら、彼の鼓動を聞いて。
そしてフランソワーズは決心した。

「――ううん。今年はいい。行かない」
「でも」
「いいの。年が明けて空いている頃に行けばいいわ。――今から無理してチケットを取ったって、ジョーと一緒じゃなかったらイヤだもの」
「だけど、・・・それでいいのかい?」
「ん。お兄ちゃんには後で電話するわ」
「そう」
「大体、お兄ちゃんもお兄ちゃんよ。今年はいつ来るのかくらい、聞いてくれたっていいのに音沙汰ないんだもの。だからチケットの手配だって忘れちゃったのよ」

ジャン兄は別に悪くないと思うよ?と思いつつ、ジョーはフランソワーズがただ強がって言っているだけじゃないかと心配だった。

だって、今はそう言っても後になって、泣くんじゃないか?

やっぱりイワンに頼むか――と考え始めたジョーの膝に、再びフランソワーズは頭をのせた。甘えるように。
ここ最近は、彼女の中で「ジョーの膝枕」というのがブームらしく何かあるとすぐこの体勢になるのだった。

下から視線を感じ、ジョーは落ち着かなくなる――のも、いつものことだった。

「フランソワーズ。本当にそれでいいのかい?」
「うん。よく考えてみたら、パリに帰ったらお兄ちゃんにジョーをとられちゃうもの。だから、行かない」

ジョーとジャン兄は仲が良い。一緒にワインを飲んだり、オセロをしたり。並んで煙草をすったり。連れ立ってアヤシゲな店に行っているような行っていないような。

「でね、そういえば、ジョーのお仕事関係で確かパーティがあったわよね?」
「うん」

忘年会とクリスマスを兼ねて、スポンサー主催のパーティがあるのだった。家族を連れて来るのは歓迎される。
が、毎年ジョーは出席できず、ジェットのみが出席しているのだった。

「それに行ってみたいな」
「ええっ?」
「だって、ジェットがすっげー楽しかった、って言ってたもの」
「・・・アイツの言うことはあてにしないほうがいい」
「どうして?」
「どうして、ってそれは」

キャンペーンガールたちをはべらせて御機嫌なのだ――とは、さすがにちょっと言いづらい。

「ね、だめ?一緒に行くの」
「・・・行きたいの?」
「うん」
「うーん・・・」

まだ出欠の返事を出していないので、何とでもなる。
それに、クリスマスに「パリに帰りたい」と泣かれるよりは、何か注意を逸らすものがあったほうがいい。

それらを瞬時に考えた。

「・・・じゃあ、行ってみるか」

 


 

12月13日 

 

 

「で?お花はどこなの?」
「花?」

唇を離して、ジョーの胸にうっとりともたれていたフランソワーズが身体を起こした。

「そうよ。お花を持って楽屋に来てくれるって約束したでしょう?」
「・・・そうだっけ?」
「そうよ。――で?お花は?」

ジョーの背後をきょろきょろ見回す。

「・・・花なんて。さっき先生にあげちゃったよ」
「えー!?あれ、私のだったの?」
「まあね」
「どうして先生にあげちゃうのよ!」
「まぁ・・・流れで」
「ジョーのばか」

ぷいっと横を向くフランソワーズ。腕組みをして。

「知らない」
「フランソワーズ。それじゃあ僕より花を待ってたみたいじゃないか」

対するジョーも軽く頬を膨らませて拗ねる。

「だって、恋人からお花をもらうのって定番なのよ?女の子の永遠の憧れなのよ?」

それをわからないなんて。

「・・・今までさんざん持って来ただろう?」
「でも、主役は初めてだもの。それも、ジョーが観てくれた記念の舞台よ?」
「記念・・・」
「ドライフラワーにしてずーっととっておく予定だったのに」
「ドライフラワーって、花のミイラじゃないか」
「もうっ!どうしてそんな事言うの!」

オンナゴコロがわかってない、ジョーのばかばか、と彼の腕を拳で叩くフランソワーズ。その両手首を握りしめ、ジョーは彼女の耳元で囁いた。

「――記念なら、ドライフラワーなんかよりこっちの方が僕は好きだな」
「何よ、こっち、って」

そうしてジョーはフランソワーズを引き寄せ、舞台衣装の肩紐を少しずらし――胸元に唇をつけた。

「えっ?ヤダ、ちょっとジョー」
「じっとして」
「だって、一体何して――!」

ちゅ。という音がして、微かに痛みが走り――ジョーが顔を上げたときには、白い肌にくっきりと赤い痕がついていた。

「――記念」

にやりと笑うジョーに、フランソワーズは真っ赤に染まった。

「きき記念、って・・・」
「しばらく消えないだろ?――僕のフランソワーズだという証拠」
「し、証拠、って」
「もう誰にも貸さない」
「貸さない、ってそんな・・・」

しょっちゅう貸し出されたらたまらないわ。

「私はいつでも、あなたのよ」

 

 

***

 

 

フランソワーズが着替えている間、ジョーは廊下の壁にもたれて待っていた。
これから、彼女をバレエ団の打ち上げ会場まで連れて行かねばならない。いくら久しぶりでも、フランソワーズにはまだ果たさなければならない事が待っているのだ。何しろ、主役が不在というわけにはゆかない。

「お待たせっ」

急いで着替えたのか、頬をピンク色に染め息を弾ませて現れたフランソワーズにジョーは息を呑んだ。

真っ白い一枚仕立てのカシミヤのコートを着て、淡いピンクのふわふわのマフラーをした彼女は信じられないほど可愛かった。今朝、この姿でギルモア邸を後にしたはずだったが、あいにくジョーはその姿を見送ってはいない。
それをいえば、この一ヶ月間フランソワーズを送ったことも迎えたこともないのだ。何しろ、会えば――きっと抱き締めてしまう。だから、避けていた。誰よりも大切に思うひとを。

「――ふ」

フランソワーズ。と呼ぶ声が喉に絡む。
そんなジョーに構わず、フランソワーズは笑顔で彼の腕を取った。

「さ、行きましょ」

彼女の髪が頬を掠める。ふわっと漂う甘い香りに、ジョーは気が遠くなりそうだった。

「後で張々湖飯店にも行きたいな。ジョー、迎えに来てくれる?」
「えっ?――ああ、行くよ」

答えたものの、自分が何に答えたのかわかっていない。
駐車場に向かうべく廊下を急ぎ足で歩きながら、ジョーは嬉しそうに自分の腕に寄り添うフランソワーズを抱き締めたりしないよう自制するので精一杯だった。ひとめのある所で、今日の主役を思い切り抱き締めるわけにはいかない。

「――そういえば、ジョーから今日の感想を聞いてなかったわ」
「えっ?」
「ね。今日の舞台はどうだった?」
「感動したって言ったはずだけど」
「それは、先生に言ったんでしょ。そうじゃなくて、――ジゼルはどう見えたのかな、って」
「どう、って・・・」

ジゼルを観ていた時の自分。

「――フランソワーズじゃなくて、ジゼルだなぁ・・・って」

だから、舞台で誰の恋人を演じようが平気だった――と、思う。

「・・・そう。ジゼルだったのね、あなたの目には」
良かった・・・と小さく頷く。

もしもそう見えてなかったなら、完全なる失敗だった。この一ヶ月、頑張ってきたことが全て無駄になる。

「ジゼルって凄い話だなって思ったよ」

駐車場に着き、ストレンジャーの置いてある所へ向かう。

「――まぁ、解釈はたくさんあるみたいだけどね」

以前、ネットで調べたのだった。
車のキーを取り出し、ドアを開けようとしてジョーは眉間に皺を寄せた。

「フランソワーズ。きみは助手席。向こうに回らないと」

ジョーの腕をがっちりと抱き締めたまま、フランソワーズは離れようとしないのだ。

「ほら。――遅れるよ?」
「・・・イヤ」
「フランソワーズ」

先刻まで笑顔で、――少しばかり饒舌だなと思うくらいテンション高く話していたのに、突然無口になって俯いたままのフランソワーズを持て余す。

「いったい、どうしたんだい?」
「・・・・・もう離れるのはイヤ」

ぐす、と鼻をすする音がして、ジョーはフランソワーズが泣いている――かもしれないことに気がついた。

「フランソワーズ?」

俯いた顔を覗きこむけれども表情は見えなかった。
何しろフランソワーズは、ジョーのジャケットに顔を埋めているのだから。

「ヤダ。・・・・行きたくない」

ジョーのジャケットの裾を掴み、いやいやをするように首を横に振る。

「・・・主役がいないとみんながっかりするよ?」

その頭をそうっと撫でる。

「イヤ。行かない」
「フランソワーズ」
「ヤダ。ジョーと一緒にいる」
「ダメだよ。これも仕事のひとつなんだから。――取材だってあるんだろう?」
「イヤ。だって、ジョーは全然わかってない」
「わかってない、って何が?」

その声にフランソワーズは顔を上げた。既に涙でぐちゃぐちゃだった。

「あーあ、そんなに泣かなくても」
「違うの。ジョーは全然、わかってない」
「泣くほど行きたくないんだろう?そんなわがままはダメだよフランソワーズ」
「そうじゃないの!」

フランソワーズの剣幕にジョーは驚いて口を閉じた。

「私が、さっきからどんなに不安だったかわかる?・・・もしかしたら、ジョーは、・・・・たとえ一ヶ月でも誰かの恋人になっていた女なんか嫌いになっちゃったかもしれない、って怖くて怖くて」
「嫌いになるわけないじゃないか」
「だって」
「――さっき、いっぱいキスしたのにわからないのか?」
「だって。ぎゅうってしてくれない」
「え?」
「いつもみたいに。――してくれないから、だから」

その瞬間、ジョーは渾身の力をこめてフランソワーズを抱き締めていた。

「――ジョー」

力の加減なんてできなかった。フランソワーズが壊れてしまうかもしれないとちらりと脳裏をよぎったけれども、壊れてしまっても構わない――とも思った。
今まで我慢していたぶん、自制なんてできなかった。
フランソワーズも無言で抱擁を受けていた。苦しいだろうに身じろぎもせず、ジョーを受け止める。

「――ごめん」

しばらくしてからジョーがそうっと力を緩めた。思わず息をつくフランソワーズ。抱き締められている間、まともに呼吸ができなかったのだ。

「――我慢してたのに」
「どうして我慢するの?」
「・・・歯止めが利かなくなりそうだから」

だから、家に帰るまでぎゅうっと抱き締めるのは我慢するつもりだったのに。

「利かなくなっても、私はいいわよ?」

妖しく微笑むフランソワーズに、ジョーは残っていた理性をかき集め、霞む頭をひとつ大きく振った。

「――フランソワーズ。そんなことを言ったらダメだ。きみはこれから打ち上げに行くんだから」
「行きたくないもの」
「ダメ。行きなさい」
「いやよ。ジョーと一緒にいる」
「明日からいくらでも一緒にいられるだろう?」

そう言ったジョーに不満そうに唇を尖らせ、フランソワーズは小さく言った。

「明日からなんてイヤ。どうして今晩から、って言ってくれないの?」

ジョーは一瞬目を瞠り――そうしてにっこり微笑んだ。

「――甘えんぼだなあ」
「甘えんぼは嫌い?」
「――残念ながら、大好きだ」

 

 

***

 

***

 

「ジゼル」は新聞のみならずバレエ関係雑誌各種にも特集された。中でも、主役を演じたフランソワーズ・アルヌール嬢を絶賛する記事が多かったのは言うまでもない。

 

 


 

12月12日

 

アズナブールはじっとジョーを見つめ、そしてその腕に大事そうに抱き締められているフランソワーズを見つめた。
しかし、フランソワーズはその視線に全く気付かない。何しろ、ジョーの胸に顔を埋めているのだから。

アズナブールは軽く息を吐いてから、改めてジョーの顔を見た。
その琥珀色の瞳を見返す褐色の瞳。

「――乱暴なのは感心しないな。女性を扱うときはもっと優しくしなければ」

芸術家のアズナブールから見れば、レーサーである自分など、ただの粗野な男としか映らないのに違いない。
そんな自分が力づくでフランソワーズを取り返せば、良い印象は持たれないだろう。
冷静にならなければ。
非難される材料を自ら提供してやる必要はないのだ。

ジョーはフランソワーズを抱き締めている腕を静かに解いた。
彼の胸に埋まっていたフランソワーズは不安そうにジョーを見上げた。が、ジョーは彼女を見ず、アズナブールから目を離さなかった。

二人の男の視線が正面からぶつかる。

数瞬後、ジョーは大きく息をつき、肩の力を抜いた。
そして逡巡しているかのようにいったん視線を外し、再びアズナブールに視線を戻した時には微かに唇に笑みが浮かんでいた。

「・・・素晴らしい舞台でした」
「ありがとう」
「僕はバレエをちゃんと観たのは初めてですが、・・・感動しました」

ジョーの言葉をアズナブールは軽く肩を竦めて受け流す。
その彼の目の前に、ジョーは花束を差し出した。

「今までありがとうございました」
「別に私は何もしていないよ」
「それでも、僕の気持ちです」
「――男性から花を贈られるというのは妙な気分だな」

ジョーから花を受け取り、くすりと笑む。

「きみも頑張ったな」
「大した事ないです。――が、二度とごめんです」
「だろうな。――大丈夫だ。もうフランソワーズはわかっている。次回からは、どうすればいいのかちゃんとできるはずだ。独りでも」
「そう願いたいです」
「きみも、公演中の彼女にどう接したらいいのかわかったのではないかね?」
「――そうですね」

ジョーはしぶしぶといった風情で頷いた。

「今までが間違っていたとは思いませんが、・・・でも、――ええ。大丈夫です」
「それを聞いて安心したよ」

アズナブールは一歩前に出て、二人の遣り取りをじっと聞いていたフランソワーズを見つめた。

「――先生」
「きみの世界は明日から変わる。私はついていてやれないが、一人でも大丈夫だね?」
「・・・・」

フランソワーズは無言で頷く。その肩にそっとジョーの手が置かれる。

「あの、・・・ありがとうございました」
「私は何もしていない。全てはきみの力だ」

にっこり笑む。が、フランソワーズに触れはしない。

「またいつか、きみのジゼルを見せてくれ」

それだけ言って、歩き出すアズナブールをフランソワーズとジョーは並んで見送った。
その背に向けて、フランソワーズは頭を下げた。

 


アズナブールは、進む先にフランソワーズの友人たちを認めて微笑んだ。彼女たちは一様に心配そうな顔をしており、まだ舞台衣装も脱いでいない。
アズナブールが通りすぎるときも、何か言いたそうに口を開くが声は発せられなかった。

「きみたち、打ち上げには行かないのかね?」
「えっ」

びくんと弾かれたように姿勢を正すその姿にアズナブールは苦笑した。

「早く着替えてこないと遅れるぞ」
「え、ええ、そうなんです、ケド・・・」

アズナブールを見つめ、更にはその背後の二人を見つめ。

「あの、いったい」
「うん?――元々何も起きていないのだよ」
「え、でも・・・」
「――行かないのか?」
「あ、はい。でも、フランソワーズは」
「今日の主役は遅れて来る。――もし、来ればの話だが」

両手で彼女たちの背中を押して促しながら。

――全ては「ジゼル」のためとはいえ・・・

あわよくば、って思っていたけどね。

 

 

***

***

 

アズナブールの姿が見えなくなり、ジョーとフランソワーズはいまここにお互いしかいないことを突然意識した。
ジョーはフランソワーズの肩に掛けていた手をそっと外した。また、フランソワーズもジョーの腕に触れていた手を引いた。

何とも不思議な気分だった。

 

 

「あの・・・ジョー?」

おずおずとフランソワーズが声をかける。遠慮がちに。

「舞台、観てくれたのね」
「・・・ああ。約束だから」
「覚えていてくれたんだ」
「当たり前だろう?」

そう言ってジョーはちょっと笑った。
その顔を見つめ、フランソワーズは何だか泣きたくなった。
恋しい気持ちが全身にいきわたり、胸が締め付けられるようだった。
いまジョーの顔を見て、やっとジゼルからフランソワーズへ戻れたような気がする。

ジョーの胸に飛び込みたい。
ジョーの腕に抱き締められたい。

しかし、二人の間にあるこの緊張感は何だろう?一種のよそよそしさを醸し出している。
二人の間にある僅かな空間を埋めるためには、何をどうすれば良かったのだろうか。
その距離の縮め方を忘れてしまった。

ジョーがすぐそばにいるのに。

胸を黒く覆ってゆく不安は消えない。むしろ、更に気持ちが沈んでゆき冷たくなっていくようだった。
その不安の正体はわかっている。
一ヶ月離れているのはお互いに納得ずくだったとはいえ――本当に、ジョーが今でも自分を思ってくれているのかどうか自信がない。
全部、演技だったのよ。と言ったところで、彼がそう信じなければ意味がない。

――ううん。ジョーは大丈夫。一ヶ月離れたからって私のことを好きでなくなるはずがない。

不安な気持ちを一生懸命否定する。ジョーを信じる気持ちを喚起して。
ジョーを信頼できたからこそ、こんな無茶苦茶な提案も呑んだ。離れても大丈夫だと。自分を思う気持ちをジョーは失わない、と。そうでなければ最初からこんな相談はしなかった。

「――フランソワーズ」

掠れたような喉が詰まったような変な声で呼ばれた。

「・・・触っても、いい?」

 

**

 

ジョーは隣に佇むフランソワーズを見つめ、思案した。
耐え難い一ヶ月を耐えた。そしていま、彼女は自分の傍にいる。――が。
先刻は無理矢理抱き締めてしまったけれど、本当にそれで彼女が嫌がっていないのか自信がなかった。
もしかしたら、本当に彼女はあの男に気持ちを移してしまったのではないか――と、思ったこともある。
その度に、いやそんなことはないと否定し続けた。
フランソワーズは、たった一ヶ月会わなくなったからといって――たった一ヶ月、他の男のそばにいたからといって――自分のことを忘れたりなんかしない。そう信じられなかったなら、そもそも協力なんてするはずもなかった。
フランソワーズに思われている自分――にも、自信を持っていた。彼女の気持ちを疑うなどできるはずもない。

――とはいえ。

いま傍にいるフランソワーズは、先刻まで舞台にいたバレリーナであり、舞台上では他の男の恋人だった。一途に思い続け、逞しくも彼を守り愛を貫いた。
そんな彼女に不安を覚えなかったかというと嘘になる。
もしかしたら、こっちが本物なのではないか?と舞台を観ながら何度も自問していた。そしてそんな自分が情けなかった。だから、いまこうしていても現実感が湧かないのだ。

違う。僕はフランソワーズを信じているし、こうして今も彼女のことを・・・・

抱き締めたい。
その髪を撫でて、顔を埋めたい。そして、それから・・・

そうするにはどうすればよかったのだろう?
以前はどのように彼女と接していたんだろう?

気付くと問うていた。

「・・・触っても、いい?」

言った途端に舌を噛んで死んでしまいたくなった。全く、何を言い出すのだろう?こんな台詞、今まで一度だって言ったことはない。わざわざ許可をとるような、聞きようによっては何だか変質者のような。
かあっと全身が熱くなるのがわかる。

「――今の、ナシ!!何でもないっ」

思わず身を引いて言い放つ。

「何よ、ナシ、って」

対するフランソワーズは睨むように目を細めた。

「いいわよって言うつもりだったのに。――触りたくないの?」
「い、いや!そんなことは」
「じゃあ、どうしてナシなのよ?」
「いや、だからそれは」
「じゃあ、私が代わりに触るっ」
「え・・・ええっ!?」

フランソワーズの台詞に瞬時にパニックになる。

ささ触る、ってどこ、を?

ひとりでパニックを起こしているジョーに構わず、フランソワーズはネクタイに手をかけてぐいっと引いた。

「ぐっ。おい、いったい何を――」
「黙るの!」

そうしてジョーの唇は柔らかいものに覆われた。

「たっ・・・ちょっと、ふら」

パニック中のジョーは更にパニックを起こし、そのまま後退した。が、ネクタイを引くフランソワーズの手は緩まない。
ジョーは背に壁が当たるのを感じ、更に再び唇が奪われるのを意識した。

「もー!黙って!」
「いや、でもっ・・・」

一瞬、唇を離し、至近距離から蒼い双眸が睨みつける。

「私とチューするのが嫌なの?」
「いや、そんな訳では」
「だったらちゃんと応えて頂戴」
「こ、応えろ、って・・・」

そのまま再び唇が塞がれる。上唇を軽く噛むように触れられ、そして下唇をなぞられ。

「――もう。ジョーってば。ちゃんとして!」
「ちゃんと、って」

ジョーが言葉を発した途端、狙いすましたようにフランソワーズはキスを深めた。
その感触に、ジョーのパニックはだんだん収まっていった。

――フランソワーズ・・・

フランソワーズが身を引こうとした時、今度はジョーが彼女の身体を引き寄せ、抱き締めた。

「んっ。ジョー・・・」
「黙って」

そうして今度はジョーから彼女へ。

 

 

***

 

「ああ、こっちだこっち。――ったく、知ってる知ってるって全然違うほうへ行くんだからなあ」
「面目ない」

フランソワーズの控え室へ向かう途中、場所を知っているというグレートの言葉を信じ、すっかり迷っていたギルモア邸の一行がやっと目指す場所に着いた。

が。

「うわっ。何だありゃ」
「へっ?」
「おおっ。何と大胆な」

廊下の先には、ちょうどジョーの唇を奪ったフランソワーズの姿があった。そのままジョーが壁に押されて。

「――ほう。やるじゃないか」
「ジョーが襲われている・・・」

一行が見守る中、今度はジョーがフランソワーズの唇を奪った。

「お、反撃か?」
「こらジョー、しっかりせんかい!」

え?

最後の台詞はギルモア博士だった。

「ええと、まあその、何だ。何があったのか知らねえが元通りってことだな」
「そのようだね」
「博士、とりあえず張大人の店に行きませんか?」
「フランソワーズは打ち上げに行くだろうし、我々は我々で今日の成功を祝いましょうぞ」
「うむ。――ジョーはどうするかの」
「ジョー?」

再び視線が二人に集まる。

「・・・放っておきましょう。いつ離れるかわかったもんじゃありませんぜ」

二人を置いて、引き返す一行。
その背後には、誰がどう見てもしばらく離れそうにない恋人同士の姿があった。

 


 

12月11日

 

一ヶ月前。

 

「フランソワーズ。きみはこのままではジゼルを踊ることはできない」

 

そう宣言されて、フランソワーズの世界は静止した。
全ての音が聞こえなくなり、目の前のアズナブール以外は全て白く染まった。

レッスンのあと、アズナブールに連れられてカフェに来ていた。テーブルを挟んで向かい合って座っている。
が、デートなどという甘い雰囲気は微塵もなく、先刻の「ダメ出し」の延長のようだ――と、フランソワーズは感じていた。

「・・・そんな」

しわがれた声も、とても自分のものだとは思えない。

「ジゼルだけではない。他のどんな演目も無理だ」

険しい瞳で見据えられ、フランソワーズは胸が詰まり息が苦しくなった。

「何故だかわかるか?――きみはこの世界にたった一人の人間しか見えていないからだ」

そんなことない――と否定したいのに声が出ない。

「そんなきみに「演じる」ことができるとは思えないのだ。ジゼルを降りるなら、今のうちだ。早いほうがいい」

ジゼルを降りる。そんなこと、思ってもいなかった。

「――それは、私のテクニックの問題なのでしょうか」

それならば仕方がない。確かに、ダメ出しは多く、何度やってもうまくなったという自信はなかった。

「違う。そうではない。そうであればダメ出しなどしないでとっくの昔に降ろしている。――そうではなく、きみの表現する役ができてないと言っている」

あまりにも直接的な物言いにフランソワーズは声もない。

「きみの心のなかにいるのは、いつでもあの彼ではないのかね?全てのキャラクターを演じるときも、彼にあてはめて考えていないかね?そうであれば、演じる役はどれもみな同じ。素のままのきみ自身に他ならない。演じているつもりでも、演じていないのだ」

確かにその通りだった。かといって、それをどうすればいいのかわからない。

「――ならば、しばらく「演じる」ことに専念してみる必要がある」
「演じることに専念・・・」
「そうだ。私は相手役であり、舞台ではきみの恋人だ。それを舞台で完全に演じきるためには、公演までの間、私と恋人の役を演じるといい」
「――恋人の役」
「そうだ。そして、あの彼を忘れる。彼と話すのも、彼のことを考えるのもだめだ。私ひとりに集中する。――できるか?」

例えば、ドラマなどで犬猿の仲を演じる同士は普段からも反目しあい挨拶もしないという。役になりきるために。
ということは、恋人の役をするならば――

「これから約一ヶ月の間、彼を忘れてジゼルに集中する。できるかね?」
「・・・一ヶ月・・・」

一ヶ月もジョーと話さないなど考えられなかった。
不安がよぎる。
自分とアズナブールが、演技とはいえ恋人同士になったら――ジョーはどう思うのだろう?

「フランソワーズ。いいかね。きみは今のままでは何も演じることはできない。が、「演じる」ことがどういうことなのか、どうすれば役に集中し演じることができるようになるのか。その集中の仕方を学ぶ必要がある」
「・・・集中の仕方」
「そうだ。これは誰もが会得しなければならない。が、簡単ではない。しかし、それができる者にだけ未来の扉が開かれる。現実世界と演技の世界の境界を引き、どちらも自在に操れるようにする。そこで初めて「演じた」ことになるのだ」
「・・・・」
「きみはまだそれができていない。だったら、現実世界を切り離す作業から始めなければならない。自分の心の中から、いつも気にかけている人物を消すことができなくては」
「消す?」

ジョーを?

「そんなの、無理です」
「無理ではない。きみならできる」
「でもっ・・・」
「誤解するな。これは、あくまでも演技という虚構の世界においての話だ。こちらの世界では、物語の中のことが全てであり、現実となる。いま実際にいる世界とは全くの別物なのだ。つまり、もうひとりの自分を演じることになる。
それは、現実世界の全てを忘れることではなく、一時的にこちらの住人になるということなのだ」
「・・・でも」
「フランソワーズ。私はね。それをきみに教えるために日本に来たのだ」
「まさか」
「本当だ。――きみの踊りを忘れたことはなかった。きみが突然姿を消してからもずっと探していた。・・・先日、きみの大事な人に会うまでは、何故きみがいなくなったのかわからなかった」

いったん、言葉を切る。

「――彼が迎えに来たから、一緒に行ったんだね?フランソワーズ」

それを肯定することは、あの当時、お互いに思い合っていると信じていた事が事実ではなかったとアズナブールへ伝えることになる。
その時既に、フランソワーズの心にはジョーがいたのだと。

「・・・私、」
「答えなくていい」

困ったような、憐れむような表情のフランソワーズがその答えだった。
アズナブールはふっと頬を緩めると、テーブルの上で両手を組み合わせた。

「そんなに大事な彼を、演技とはいえ忘れることができるかな、フランソワーズ」

自信がなかった。だから、答えることができない。

「もちろん、これには彼の協力が必要だ。ちゃんと許可をとらねば、いくら私と恋人役を演じても台無しだ。きちんと説明して、彼に協力を仰げるかい?」

わからない。

「一ヶ月、きみを私に預けて欲しいと伝えてくれないか」

黙ったままのフランソワーズに更に言葉を重ねる。

「きみのために必要な事なのだ」

彼が本当にきみを思うのであれば――承諾するはずだ。

それができない男なら、私はきみを・・・

 

 

***

 

その日の夜。

 

話があると言われ、フランソワーズの部屋へ行ったものの一向に用件を切り出す様子がない彼女にジョーは訝しげな視線を向けた。
ソファに隣り合って座ってはいるものの、横目で窺ったフランソワーズは何か考え込んでいるようで難しい顔をしている。

「――フランソワーズ。話ってなに」

フランソワーズはジョーの声にびくんと肩を揺らした。

「何か言いにくいことなのかい?」
「ううん。そんなことは・・・」

そうしてゆっくりと顔を上げ、ジョーの瞳をじっと見つめた。

「――相談があるの」
「相談?」
「・・・というより、お願いかもしれない」
「お願い」

言ってごらん?と促す褐色の瞳に安心し、フランソワーズは今日のアズナブールとの会話をジョーに話して聞かせた。

事情を知り、ジョーは目を瞠り――けれども、真剣な様子のフランソワーズに、これはちゃんと考えなければならないと肝を据えた。

これから一ヶ月間、フランソワーズは自分のものではなくなる。
演技とはいえ、別の男のものになるのだ。更にその間、自分と彼女は接触することはできない。

それは、考えただけでも耐え難いことだった。
フランソワーズを見つめるのもダメ、話しかけることも、触れることも許されないのだ。
そんな日々に耐えられるだろうか?

しかし。

間違いなく、この「ジゼル」でフランソワーズは変わる。変わるべきだとバレエ団は思っているのだ。
それはおそらく、彼女の実力が世界レベルであるということに違いない。
何しろ、そのために相手役をわざわざ招致し、更には厳しいレッスンを課しているのだから。

伸びる実力がない者にダメ出しをする者はいない。
もっと良くなる力を持っているから、厳しくするのだ。

ジョーはよく知っていた。自分も厳しい勝負の世界に身を置いているのだから。

いま、フランソワーズが成長するために必要なのは、自分という枷を外すことだった。
自分の気持ちが、もしもフランソワーズを縛っているとするならば、いま彼女のために自分がしてあげられることは一つしかない。

「――わかった。いいよ」

勝負の世界に立つ彼女に、自分の庇護は要らない。それをちゃんとわかっているのだ。彼女の師である彼は。
そして、フランソワーズのために自分ができるのはこれしかないのだ。
一ヶ月間、フランソワーズを他人に託す。
フランソワーズがいなくても耐えられるかどうかはやってみなければわからない。が、こうして事情を知り、彼女を応援できるのならやってみるべきだと納得した。

「本当に?」
「ああ。本当だ」

僕のフランソワーズ。
きみのためなら、僕は何だってする。――そう、決めているのだから。

「きみを一ヶ月間、貸し出すことに同意します」
「・・・一ヶ月が過ぎたら、ちゃんと取り戻しに来てくれる?」
「もちろん。当たり前じゃないか」

誰が貸しっぱなしにするものか。

「・・・私が、演技の世界から戻れなかったら?」
「僕がこちらの世界へ引き戻す」
「もし・・・あなたのことを忘れてしまっていたら?」

フランソワーズの不安そうな声にジョーは苦笑した。

「ばかだなぁ。忘れるわけないだろう?――僕の顔を見れば、すぐに思い出すよ。フランソワーズが僕を忘れるわけがない」
「でも・・・あなたが、私のことを好きではなくなったら?一ヶ月も誰かの恋人の演技をしているうちに、そんな女なんか嫌になってしまったら?」
「ならないよ」
「でも」
「フランソワーズ」

フランソワーズの両肩に手をかけ、正面からじっと見つめる。

「ちゃんと僕を見て。――そんなに僕を信じられないかい?」
「信じてるわ。だけど、」
「フランソワーズ。僕がきみを貸し出すその意味がわかってる?」

誰よりもきみが大切だから。
大事なきみが成長するために必要なことだから。
だから、僕は――しばらくきみを他の男に託す。
不安がないといったら嘘になる。このままきみが戻らない可能性だって捨てきれない。
演技が真実になってしまうことだってある。演技の世界がそのまま現実世界へスライドすることも有り得るのだから。
だけど。
そんな危険性も全て、僕は引き受ける。
不安に苛まれるのは僕だけでいい。僕が我慢するだけで、きみが成長できるのなら。
大切なひとの成長を邪魔するような男でいたくはないんだ。

「――でも・・・ジョー、大丈夫?私がそばにいなくても」
「フランソワーズこそ、大丈夫かい?」

僕がそばにいなくても。

「――泣いちゃダメよ?」
「泣かないよ。我慢する。ただ、その代わり――頑張らなくちゃ許さない」
「・・・ん。頑張る。だから、ジョーも頑張って」
「うん。頑張るよ」

お互いに会えなくても。それは必要な事なのだから。
そばにいられない苦しさ。抱き締められない切なさ。会いたいと思う恋しさと、これから闘わなければならない。

お互いに、頑張る。
期間中、決して話したりしないように。
知らない者同士のように。
どちらかが負けて話しかけてしまえば、全ての計画が崩れてしまうのだから。

「・・・約束よ?」

お互いに頑張る。

「ああ。・・・期限は最終公演が終わるまで――で、いい?」
「ええ。その時が来たら、ジゼルはフランソワーズに戻ります」
「僕のフランソワーズに?」
「あなたのフランソワーズよ。だから――必ず、取り戻しに来てね」
「――必ず」
「私がジゼルのままだったら、ちゃんとこちらの世界に引き戻してね」

そうして、最後のキスを交わした。

明日からは知らない者同士になるのだ。

 

 


 

12月10日

 

綺麗だった。
いや、そんな一言ではとても言い尽くせない。

やまないカーテンコール。
輝くような笑みをこちらに向け、何度も膝を折って礼をするフランソワーズ。その隣には、当然のように彼女の手を取りエスコートするアズナブールの姿があった。

冷静に観れた――と、ジョーは思う。
自分でも意外だったが、思っていたより平気だったのだ。彼女が舞台で他の男を見つめていても。

以前は絶対ダメだった。とても観られなかった。一度観て懲りた。
どうしたって、舞台の彼女にいらついてしまう。彼女が熱く見つめる先にいるもの全てが気になって気になって仕方なくなる。だから、観なかった。
しかし、今回は「ジゼル」である。彼女が憧れてやまない演目であり、しかも主役なのだ。観ないわけにはいかない。
それに――

――観に来るのは約束だったもんな。

観客席に灯りがついて、ざわざわと席をたち出てゆく人の波。
それをジョーはぼんやりと見つめていた。

「おい、ジョー」

名前を呼ばれ、はっと我に返る。

「なに?」
「これから楽屋に行くけど、お前はどうする?」

アルベルトの声に席を立つ。

「もちろん、行くさ」

 

***

***

 

終演後の楽屋は賑やかだった。互いに健闘を讃えあい、成功した舞台に涙した。
フランソワーズも例外ではない。友人たちと抱き合って泣いた。
それがひと段落したあと、フランソワーズは着替えるために自分の控え室に向かった。
その背に声がかかる。

「フランソワーズ」

自動的に足が止まった。まるでそういう決まりであるかのように。

「――今日のきみは最高だった。ありがとう」
「そんな、・・・先生にそう言っていただけると私・・・」
「頑張ったね、フランソワーズ」
「アズナブール先生・・・」

いつものように彼の胸に顔を埋めるフランソワーズ。
その髪をそうするのが当たり前のように優しく撫でるアズナブール。
ひとけのない廊下で、互いに見つめ合い、徐々にその距離が狭まってゆく。

「――先生」
「フランソワーズ。そう呼ばないと決めたはずだろう?」

フランソワーズはその瞬間、弾かれたようにアズナブールの胸から離れた。
じっと見つめている琥珀色の瞳。それを正面から見据える。

「いいえ。あなたは私にとって、これからも先生です。――今までもそうだったように」
「フランソワーズ?」
「私・・・」

ぎゅっと手を握りしめる。

「――怖いんです」
「怖い?」

怪訝そうに眉が寄る。

「怖い、って何がだね?」
「・・・・私のこと、もう好きじゃないかもしれない」
「何を言ってるんだ。好きに決まってるだろう?」

しかし、フランソワーズは首を横に振った。

「わかりません。先のことなんて」
「フランソワーズ。――私を信じているのではなかったかね?」
「そうです。でも――」

舞台が終わったいま、フランソワーズの胸には不安が渦巻いていた。
それは徐々に心を黒く塗りつぶしていく。

「・・・怖いんです」

 

***

***

 

どんな顔をして会えばいいんだろう?

花束を抱え廊下を進みながら、ジョーはずっと考えていた。
何しろ、フランソワーズと最後に会って話したのは約一ヶ月前なのだ。その間、たまに顔を合わせることがあっても話したりなどしていない。もちろん、指いっぽんも触れてはいない。

いまさら、どんな話をすればいいのだろう。

大体、こうして中廊下を通って楽屋へ向かうのも初めてなのだ。
今までは外の楽屋口で彼女を待っていた。
だから今、終演後の興奮に包まれ、声高に話す出演者やスタッフたちの間を縫って歩くというのは初めての経験だった。

――フランソワーズの部屋はどこだ?

他のメンバーたちとはどこかではぐれてしまった。だからジョーはひとり、キョロキョロしながら歩いていたのだが。

「島村さん?!」

背後から驚いたような声がかかり、立ち止まった。

「――え、っと・・・きみは」
「フランソワーズの友人です。前にもお会いしたことありますわ」

そう自己紹介しながらも、驚いた顔でジョーを見つめることはやめない。

「あの、フランソワーズの部屋はどこかな?」
「――フランソワーズの」

確かフランソワーズは彼とは別れたはず。

「あの、・・・こういうことを言うのは筋違いかもしれないですけど、いったいフランソワーズに何の用なんですか?」
「えっ?」

険を含んだ声で言われ、ジョーはたじろいだ。

「何の用、って・・・花を」
「いまさら彼女に会ってどうしようっていうんですか。もう放っておいてあげてください」

ジョーは真剣なその顔をしみじみと見つめ、――そしてくすりと笑みをこぼした。

「放っておかないよ。ちゃんと観たと彼女に説明しなければ。――フランソワーズの部屋はどこだい?」
「教えると思ってるんですか?」
「思ってる」
「・・・・」

しばし無言で考え、結局彼女はフランソワーズの控え室の場所をジョーに告げた。

「ありがとう」

にっこり笑って言い、背を向けて歩き出したその後ろ姿をじっと見つめ――なにか起きそうだと考える。

「――ねぇ、いまのひとって」

近くにいた友人が肩に手をかける。

「うん。フランソワーズの元カレ。音速の騎士よ」
「ええっ!いったいいまさら何しに」
「さあね。花を渡しに行くみたいだけど」
「・・・まさか、修羅場になったりしないよね?」
「さあ、どうだか」
「だって確かさっき、フランソワーズを追ってムッシュウ・アズナブールがあっちの方へ行ってたもの」
「マジ?」
「うん」
「――だったら、私たちも行かないと!」
「ちょっと待ってよ、どうして?」
「フランソワーズを守るためよ!」

そして、ジョーの後を追い、フランソワーズの部屋へ向かった。

 

***

***

 

徐々に人が減ってゆき、完全なる「関係者以外立ち入り禁止」区域になった。
ジョーは教えられた通り、躊躇せずその境界を突破した。

――フランソワーズ・・・!

花束を持つ手に力が入る。

僕の姿を見て驚くだろうか。
――いや、約束していたのだから、来ると思っているはずだ。
しかし、その約束自体を覚えていなかったら?

舞台での彼女の姿がフラッシュバックする。
全身全霊を傾けて愛を表現し、恋人の前では可愛らしく、村娘の中では毅然として。そして、恋人の事情を知り身も世もないほど嘆き悲しむその姿。まるで、全身から血が流れているかのようだった。
相手役を見つめるその瞳は愛が煌き、恋人の頬に触れる手には情感がこもっていた。
誰がどう見ても、ただの「相手役」とは思えない。明らかに、恋人同士のそれだった。

ジョーの心に不安が芽生える。

まさか、フランソワーズは。

そう思いかけ、すぐに否定する。

そんなはずはない。――違う。フランソワーズは・・・

思わず足を止めた。
見つめる先にフランソワーズとその相手役の姿を認めたのだ。
こちらに背を向けているフランソワーズ。何かを話している様子の相手役の男。確か、名をアズナブールといっていた。その二人の距離が徐々に縮まり、フランソワーズの顎に手がかけられ顔が上向かされた瞬間。
ジョーは何も考えられず、地を蹴った。

「フランソワーズ!!」

驚いたように振り向くその顔を見つめたのは一瞬だった。
ぐいっと彼女の肩を引いて、アズナブールと引き剥がす。勢い余って、アズナブールの胸を突く形になった。

「ジョー!?」

一歩足を後退させただけで踏みとどまったアズナブールは、ジョーを認めて唇の端を上げた。

「乱暴だな」

それには取り合わず、ジョーは胸にフランソワーズを抱き締め言い放った。

「フランソワーズを返してもらいます」

 

 


 

12月9日

 

「ジゼル」の公演が始まった。
計3回の上演であり、ギルモア邸のみんなは最終日に観に行くことになっていた。が、フライングで既に観てきたグレートによれば、それはもう言葉に尽くせないほどの舞台だったという。

「言葉に尽くせないってどんな意味だよ?言葉にしてもらわないと俺たちにはわからないだろう?」
「んー、いやー。何と言えばいいのだろうか?あの「ジゼル」は彼女そのものであって、なおかつ彼女ではないような・・・」
「全然、わからねえ」

ウットリとあさってのほうを向くグレートに、小さく「けっ」と喉の奥で言いふてくされるジェット。
なんだかんだ言っても、メンバー全員がフランソワーズの「ジゼル」が気になって仕方がないのだ。

「まぁまぁ、ジェット。言わずともわかるだろう?チケットはとっくに完売なんだしさ。当日券だってすぐになくなるって話だし」
「それは、相手役の知名度によるんじゃないか?」

冷静に判断するのはアルベルト。

「いや!!いやいやいや、違うのだ!今はフランソワーズ目当ての輩がごまんといるのだぞ」

真剣に言い募るグレート。彼の物言いは茶化すことが多いのだが、今回は全くそのような気配がなく、むしろ己の芸術的センスにのっとって話しているようだった。
身内としての贔屓目など微塵もない。彼自身が彼女に魅せられてしまったかのような、熱い語りである。

「ともかく、あの「ジゼル」は間違いなく本年度のトップになる。話題性も十分だが、何よりフランソワーズが世界へ羽ばたく第一歩になるだろう」
「そんなに凄いのか?」
「凄いなんてもんじゃないさ。あの「ジゼル」を見たら、惚れてしまうよ。そして、泣く」
「泣く?」
「泣けるんだよ。まさに純愛。おお、彼女にふさわしい言葉ではないか」

 

***

***

 

自分に与えられた小さな部屋。
静かに集中力を高める。

――ジゼル。私は・・・

 

フランソワーズは初日が成功をおさめたことなど、どうでも良かった。そんな事より、昨日より今日、今日より明日の自分のほうに興味があった。
周囲の雑音は耳に入らない。
誰が何を言おうと関係なかった。

いま、彼女の心にあるのはバレエのことだけであり、自分がサイボーグであることも全て忘れた。

ノックの音がして、フランソワーズは立ち上がった。鏡に映る自分をちらりと見つめる。

「――アズナブール先生・・・」
「フランソワーズ。大丈夫か?」
「ええ。今日もちゃんと集中できてます」
「そうか」

アズナブールはにっこり笑って、フランソワーズの額に唇をつけた。

「――私のジゼル」

 

 

 

***

***

 

最終日の午後、ギルモア邸には気もそぞろな男ばかりが集まっていた。
誰が車を出すだの、花束は手配してあるのかだの、服装はこれでいいのかだの、誰かが誰かに話しかけ、けれども誰もがちゃんとした答えができない。落ち着かないのだ。いよいよ我が家の紅一点、フランソワーズの舞台を観に行くのだから。

リビングはスーツで正装した男たちでいっぱいだった。いつもの赤い服をブラックタイに着替えて。
イワンは残念ながら、劇場にある託児所に預けるしかなかった。未就学児童の入場は禁止なのだ。
最初は置いていく予定だったが、イワンは留守番は絶対にイヤだとごねて、託児所でもいいから連れて行けと一歩も引かなかった。最も近い位置でフランソワーズをトレースしたいのだという。

「ええと、車を出すのはジェロニモとアルベルトでいいな?」

ジェロニモのSUVとアルベルトのワゴンに分乗することになっている。

「花の担当は誰だ?」

ピュンマが仕切って確認をとってゆく。

「俺だ」

ジェットが挙手をする。
彼は花束とは無縁のように見えてそうではなかった。女性に花を贈るのは慣れている。紳士たるもの、女性に花を贈るくらい当然のたしなみだと豪語しているのだ。傍らには、豪華な花束が用意されている。

「よし。そろそろ行くか」
「ああ、そうだな」

午後7時開演ではあるが、早めに着いておきたいのだ。

「で・・・」

誰ともなく、天井に目を走らせる。
言葉にせずとも全員がわかっていた。

ジョーはどうするのか、と。

「――行かないだろ。熱々のふたりを観にわざわざ」
「そうだよな。大体、元々フランソワーズの舞台は観ないんだから」

彼が今までフランソワーズの踊る姿を観たことはなかった。

「・・・ま、放っておこうぜ」

ぞろぞろと移動し始めた一同と、二階から降りてきたジョーが玄関で出会った。

「ジョー?お前も行くのか?」

ジョーは正装しており、更に手には花束が握られていた。

「行くさ。約束したからね」
「約束、って・・・」

それはフランソワーズと別れる前の話だろう?

と、誰もが思っても怖くて口にはできない。

「ああ、心配しなくても僕はストレンジャーで行くから大丈夫だよ」

いま、彼の運転する車に乗りたい者などいるのだろうか。

凝固する一同を置いて、ジョーは靴を履いてドアを開けた。

「じゃ、あとでまた」

ゆっくりと閉じてゆくドアを前に、誰もがどう反応すればいいのかわからずにいた。

「――変な奴。付き合っている時は観に行かなくて、別れたら行くのか」
「アイツの考えていることはわからんさ。昔からそうだろう?」

そうだったなと頷きながら、一同もギルモア邸を後にした。

 

 


 

12月8日

 

「――ねぇ。最近のフランソワーズって何だか変じゃない?」

そんな言葉が交わされるようになったのは、「ジゼル」のためのレッスンが始まってしばらくしてからだった。
レッスン室はともかく、更衣室ではその話でもちきりだった。何しろ、話の中心は、新進気鋭のバレエダンサー、アズナブールなのだから。

「相手役だから、仲良くしているだけじゃない?」
「うーん。それにしても何だか変なのよね」

フランソワーズはここにはいない。
たった今、ジゼルのニ幕目のレッスンに入ったはずである。しばらくはここには来ない。

「確か、元カレ・・・ってことだったわよね?」
「たぶん。本人は何も言わないけど・・・そんなの、見てればわかるわよね」
「じゃあ、・・・やけぼっくいに火がついた、ってこと?」
「うーん・・・」
「だって彼女には音速の騎士がいるじゃない」
「最近、姿を見たひといる?」

いないのだった。
ジョーがこのビルまで迎えに来たことは少なかったが、それでも全く来なかったわけではないし、来れば誰かが目にしていたし、何よりフランソワーズが嬉しそうにしているからすぐわかる。
それが、今はない。

「・・・フランソワーズは、ムッシュウ・アズナブールと一緒に帰ってるのよね?」
「車に乗るのを見たわ」
「レッスンでも、長時間一緒よね?」

相手役と恋に落ちる――なんて、少女漫画の世界だけだと思っていたのに。実際に目の当たりにするとは誰も思ってもいなかった。
しかもフランソワーズは、誰が見ても「ジョーしか見えない」子だったのに。

「ん、まぁ、でも、いいんじゃない?別にあの子がジョーくんと結婚してたってわけでもないし」
「そ。そうよね。浮気じゃなくて本気だったら構わないわよね」
「ってことは、音速の騎士とは破局・・・?」

フランス人同士だから、話が合うだけだろう――と思っていた周囲の予想は外れた。
そういう親密度とは明らかに違うのだ。

彼女を優しくまっすぐ見つめるアズナブール。
その視線を嬉しそうに受け止めるフランソワーズ。

誰がどう見ても、彼女が「元カレ」に心変わりしたのは明らかだった。

 

***

 

「毎回送ってくれなくてもいいのに」

ベンツの助手席で、やや頬を膨らませて拗ねたように言う。
そんなフランソワーズに頬を緩ませ、ギルモア邸に車を走らせるアズナブール。

こうしてレッスン後に送ってくるのは一度や二度ではなかった。

「――迷惑?」

硬い声にはっとして首を振る。

「いいえ。そんなことないわ」
「――そうかな?」

それには答えず、外の景色に目を遣る。
いつもの見慣れた道。ギルモア邸までの景色。

「フランソワーズ。集中しろと言ったはずだ」
「・・・ごめんなさい」

小さく頷くアズナブールの腕にそっと触れる。

「・・・だめね、私。もっとちゃんとしなくちゃ」
「そうだね。今は一緒にいる私のことだけ考えてくれ」
「はい」
「公演まであと少しなのだから」
「わかってるわ」
「――そうかな?」

二度目の問いは無視できなかった。

「大丈夫です。私・・・」

車が停まる。ギルモア邸の玄関前だった。

「着いたよ、フランソワーズ」
「はい。――私、」
「わかってる。――そうだろう?」

じっと見つめる琥珀色の瞳。
フランソワーズはそうっと目を閉じた。

 

***

 

「・・・・・」

何度目だっただろう?
送られてくるフランソワーズが気になって、つい窓辺に行ってしまうのは。
毎回、こんな覗きみたいな真似はもうするもんかと思いつつも、エンジン音がすると反射的に行ってしまうのだった。
が、彼女が無事に帰宅したのを確認してほっと安心するのはほんの一瞬。
すぐに苦い後悔に変わる。

見るんじゃなかった。

ともすれば、激情にかられ階段を駆け下り、ふたりの前に行ってしまいそうな気持ちを抑えるのは易しいことではなかった。

これは、自制心との戦いだ。

まもなく車が去り、少ししてから階段を昇る足音が聞こえてくる。
そして、自分の部屋を通り越してジョーの部屋の前で止まる。が、数秒後には自分の部屋へ戻ってゆく。
扉はノックもされない。

こんなことがずっと続いている。

ノックされないドアを見つめ、いっそのことこちらから開けてしまえとも思う。それはとても簡単なことなのだから。
そうすれば、望むものが手に入るのだ。

が、しかし。

――これは、僕の自制心の問題だ。このくらい、制御できなくてどうする?

とはいえ、手を伸ばせば届くところに彼女がいるのに触れられない――という状況はまるで拷問だった。
だったら、ギルモア邸を出て自宅に帰ればいいとは思ったものの、そうすると本当に彼女の姿を見られなくなってしまう。
自分に向けられた笑顔でなくてもいい。自分にかけられた声じゃなくてもいい。
その笑顔を見られて、声を聞くことができる距離を手放す気にはなれなかった。

 


 

12月7日

 

――僕のフランソワーズ。

 

ベッドに仰向けに寝転がり、天井に向けて両手を伸ばす。その先に望むものがあるかのように。
けれども、記憶の中にある亜麻色の髪の持ち主は、彼女と同じ亜麻色の髪を持つ男性に寄り添っていた。

 

***

 

クリスマスムード一色の街。
あらゆるものがキラキラと輝いて見え、周りを行き交う人々もどこか嬉しそうな、楽しそうな感じがした。

ポケットに両手をつっこみ、あてもなくただ歩く。
雑踏は彼に優しくはなかったけれど、周囲のざわめきは迫りくる寂寥感を遠ざけてくれた。

誰も彼に気付かない。
数ヶ月前、この界隈を席巻した彼のポスターも、今は全て外されクリスマスにふさわしいものに替わっている。

首をすくめ、猫背気味に歩く。
ショーウインドウに映る自分の姿はまるで――荒んだ昔の自分のようで、ジョーは苦笑した。
その苦笑した顔の隣によく知っている顔が写った。
はっとして振り返ると、そこには仲睦まじくお互いの腰に腕を回してぴったり寄り添う外国人カップルの姿があった。
長身の男と華奢な女に共通するのは、白い肌と亜麻色の髪。
男性のそれは背中まで流れるように波打って。女性のはまっすぐで、肩にかかると外に向かってカーブを作り弾んでいる。
それは絵になるような美しい二人であり、周囲の人々も振り返り見惚れるほどだった。
美しいカップル。
幸せそうにお互いの瞳を見つめあい、頬を寄せるその女性の名は

――フランソワーズ。

 

***

 

どこをどうやって帰ってきたのか覚えていなかった。そもそも、何をしに街まで行ったのかもわからない。
ただ、もしも運命というものがあるのならば、彼にその光景を見せることが目的であったのかもしれない。

あの亜麻色の髪に指を絡めて抱き寄せたのは、いつのことだっただろう?
うんと昔のようにも思えたし、つい昨日の事のようにも感じられた。

 

――僕の、フランソワーズ。

 

ぎゅっと手を握りしめる。
この場所で「私はいつでもあなたのなのよ?」と小さく言って、自分を抱き締めた彼女。
その身体の温かさと、頬に触れた髪の愛おしさ。何より、心に流れ込んでくる温かいものが嬉しくて、誰にも渡さないようにぎゅっと抱き締めた。

あの幸せだった一瞬を、そのままとっておけたらよかったのに。永遠に。

けれども、直視しなければならない現実というものがある。
今や彼女は自分ではなく、他の男の腕の中にいる。

彼女は、その相手にも自分に言ったのと同じように同じ言葉を言うのだろうか。

 

伸ばしていた手がだらりとベッドの上に落ちる。

ぎゅっと目を瞑る。

 

――フランソワーズ。

今は、僕のものではない。

 

 

***

***

 

 

「フランソワーズ、どうかしたのか?」

優しい声が耳に響いて、フランソワーズははっと物思いから覚めた。

「何でもないわ」

にっこり笑う。そして、回した腕に微かに力をこめる。

「ねぇ、それよりこの後どうする?――」

クリスマスムード一色の街。
行き交う家族連れや、身を寄せ合う恋人たち。
イルミネーションの瞬く街は、ロマンチックな雰囲気に満ちており、デートにはもってこいの場所だった。

 

――ジョーかと思った。

先刻、歩いている時に見かけた金髪に近い栗色の髪。
あの色は見間違えようがない。
けれども、確かめるために目は使わなかった。そうやって確かめたところで、何をどうするわけでもないからだ。

「フランソワーズ、聞いてるかい?」

柔らかなフランス語で訊かれる。
フランソワーズは睫毛越しに静かに見上げた。自分と同じ色の肌を持つ人を。

にっこり笑むと、その頬に唇をつけた。軽く。

「ごめんなさい。ちょっと考えごとをしていたの」
「――またか。・・・フランソワーズ?」

少し怒ったような声に変わる。
額と額がくっつくほどに顔を寄せて。

「どうもダメだな。――集中しなければ。ん?」
「――ごめんなさい」
「今は私のことだけ考えてくれ」
「・・・そうするわ」

そうして、軽くキスを交わす。
フランス人同士、仲直りの挨拶のようなものだった。

 


 

12月6日

 

フランソワーズが公演のためのレッスンに入ってから一週間が過ぎた。
最近のギルモア邸は異様な緊張感に包まれており、他のメンバーや博士も落ち着かなかった。
勿論それは、フランソワーズが緊張しているからそれが伝染した――などという甘いものではない。
ある一部の人間関係が急速に冷えていっていることに起因する。
そして今朝も、ギルモア邸には静寂のみが満ちていた。

「――オイ」
「何だよ」

ジェットが隣のピュンマの脇腹を肘でつついた。

「アイツの好きな卵焼きが登場しなくなって一週間になるぞ」
「そうだな。――って、数えてたのか?」

ピュンマがまじまじと隣のアメリカ人を見る。

「ヒマだなぁ」
「いいじゃねーか。オフシーズンはやることがねーんだよ」

だからって、あの二人を観察しなくてもいいだろ・・・と、ピュンマはため息をついた。
そして「あの二人」に視線を移す。

朝食の席である。
いつもなら、二人のケンカのようなじゃれあいに続き、あれこれ会話が交わされる賑やかな食卓だった。が、ここ一週間ほどは誰もが黙々と食べるだけだった。一刻も早くこの気詰まりな場所から立ち去りたいかのように。

誰がどう見ても冷戦状態だった。
向かい合って座っているくせに、一言も口をきかない。
「おはよう」と小さく交わすだけで、お互いの顔も見ず黙々と食事を進めている。
大体、朝食の席にちゃんとジョーがいることも七不思議のひとつだった。何しろ、自分で起きてくるのである。フランソワーズが起こしにいっている気配はない。
自力で起きれるんじゃないか――と、誰もが思っていた。が、口に出す者はいなかった。

「ごちそうさま」

フランソワーズが立ち上がる。
自分の食器を手早くまとめてキッチンへ運び――そして出掛ける。

「行ってきます」とにっこり笑んで小さく手を振り、「いってらっしゃい」と応えるのはいつもピュンマとジェットだった。
ジョーは彼女を見ない。
今までは、嬉々として彼女の送迎をしていたのに、今は全くその気配もない。彼女と接するのは必要最小限の連絡事項に限られているようだった。

 

最初の数日は、誰もが「いつものケンカ」だと思っていた。だから明日には、すっかり仲直りをしているはず――と。
あの二人のケンカは犬も食わないと知っていたから。

しかし、一日経っても二日経っても、二人の冷戦状態が緩和する気配はみえず、むしろ更に温度が下降しているようだった。

――これはただのケンカではない。しかし、だったら何が――?

誰にも何もわからなかった。
どちらかが怒っているというのでもなく、二人ともお互いに全く興味を示していないのだ。
フランソワーズが忙しいからジョーが拗ねているだけだろうと達観していたアルベルトも首を傾げた。

「これってまさか・・・、・・・・イヤ、ありえないな」

ポツンと洩らした言葉に反応したのはピュンマ。

「――やっぱりそう思うか?」
「ああ。他に考えようがない」

アルベルトとピュンマの会話をそばで聞いていたジェットはイライラと髪をかきむしった。

「ダーッ。何だよ、二人して。はっきり言えよ」

が、二組の冷たい視線を浴びて黙った。

「何だよ、オイ・・・」

思わず声を潜める。

「お前、本当に何もわからないのか?」

アルベルトが苦々しく言う。

「わかるも何も、俺にはあの二人が別れたんじゃねーかって事くらいしか思いつかねーよ」
「――それだよ」
「へっ?」
「だから。あの二人が別れたんじゃないか、って話だ」
「まさか。それはないだろ」

大体、どちらかがどちらかに振られた――となれば、わからないはずがないのだ。
例えば、ジョーが全く使い物にならないボロ雑巾化するとか、あるいは、フランソワーズが部屋にこもってずっと泣いているとか。
それは容易に想像できるし、特にジョーの場合は今までに数回そういう事があったのでわかるのだ。

しかし。

「・・・嘘だろ。マジかよ」

円満に別れた――という事なのかもしれなかった。
いくらあの二人を子供扱いしようとも、それなりにあの二人も成長しているわけで――今までとてもそうとは思えなかったが――もしかしたら、普通の男女のように普通に静かに別れることができるようになっていたのかもしれない。そして、そう考えれば全て辻褄が合う。
ジョーを起こしに行かないフランソワーズ。
フランソワーズを送迎しようとしないジョー。
どちらも、この役だけは絶対に誰にも譲らなかった。なのにそれを簡単に放棄しているという事は、つまり・・・

本当に、「別れた」?

 

***

 

「ごちそうさま」

静かな声がして、ジョーを除く他の者は彼の存在を思い出した。
ゆっくりと食器をまとめ立ち上がるジョーに、おそるおそる声をかけたのはジェットだった。

「ジョー、ちょっといいか」
「なに?」
「お前・・・」

フランソワーズとケンカでもしたのか。

と、言いかけた言葉が舌の上で凍った。
何故なら、こちらを向いたジョーの瞳がいつもと全く違っているのである。
穏やかな声だったから気がつかなかった。彼の目はいま、――ジェットが昔、アウトサイドでよく見た目とそっくりだった。

「・・・いや、なんでもない」

――なんて目をしてやがる。

「そう」

途端にジェットに対する興味を失い、ジョーはキッチンへ向かった。
彼が出て行くまで静寂が支配する。
その後ろ姿が見えなくなってから、誰ともなく大きく息をついた。

「――なんだ、アイツ」
「今のジョーは何をするかわからんな。――それにしても、奴の正面に座っていたフランソワーズがあの目に全く気付いていないってどういうことだ」
「気付いてないというか・・・ジョーの事を見ていないんじゃないか?」

いつもなら、ジョーがそういう目をしていると必ずフランソワーズが気づいて、そしてジョーを抱き締める。
それはもう、誰がいようと全く構わずに。一種の治療のように。他の誰かが気付く前に治してしまうこともしばしばだった。だから、フランソワーズがわからないわけがない。
なのに。

「・・・まさか、スルー?」
「嘘だろ。知ってて何もしなかったっていうのか」

ジョーを見ないフランソワーズ。

それは、いつぞやの――ジョーがフランソワーズを見なくなった時ととてもよく似ていた。

「おい、待てよ。それって例の王女様の件だろう?」
「ああ。――浮気ではなく本気だったらしい、というヤツだ」
「ということは。――フランソワーズが誰かに本気になっているということか?」
「まさか。フランソワーズがジョー以外に目がいくもんか。そんなの見たことねーよ」

しかし。
状況は全てそこへ収束していく。

「・・・とうとう、フランソワーズに『本当の相手』というのが現れた。ってとこか」

いつも彼女たちが決まって口にしていた『本当の相手』の存在。
彼ら二人があまりにも真剣にそれを考えているのを全員が知っており、「おいおい、それってお前らお互いのことなんじゃないか」と心の中で突っ込みをいれるのも常だった。
だから、メンバー間では『本当の相手』というのは、一種のジョークのようになっていた。

しかし。

「本当の相手、って・・・ジョーじゃないのかよ?」

 

 

12月5日

 

「白い舞い」と呼ばれる三大バレエのうちの一つが「ジゼル」である。
昔から、いくつものバレエ団で何度も上演されている演目ではあるが、その解釈は一つだけではない。
「純愛」の話であるという者もいれば、「悲恋」もしくは「裏切り」とみなす者もあり、多岐にわたる。
同じバレエ団の中でも、踊り手の解釈により変わるのだ。
だから、「ジゼル」は深い。――と、フランソワーズは思う。
自分の解釈としては、やはり「純愛」と信じたかった。
王子は村娘ジゼルとのアバンチュールを楽しんだのではなく、婚約者よりもジゼルを深く愛していたのだと思いたかった。
だから、自分の解釈を相手役のアズナブールに思い切って伝えたところ「私もそう思う」と同意を得られて驚いた。
更に、「私はこの解釈で踊る私たちのジゼルを成功させたい」と熱く語られた。

「私たちのジゼル」

その甘美な響きにフランソワーズは夢中になった。
が、いざ合わせて踊るとなると、どうもピッタリいかず何度もダメ出しをされた。
これは単なる実力差――というものではなかった。

 

***

 

何度目かのダメ出しをされたその日、レッスンの後アズナブールは落ち込むフランソワーズを誘い、静かなカフェに行った。
ひとつのテーブルを挟んで座る亜麻色の髪の外国人カップルはどうしたって人目を引く。
だから、外国人の多い街のカフェを選んだのだった。案の定、客も店員も、誰も彼らに注意を払わない。

コーヒーが運ばれてからしばらくして、やっとフランソワーズは顔を上げた。
冷めかけたカップを持ち上げ、ひとくち飲む。

「――フランソワーズ」

まっすぐこちらを見つめる強い瞳を見ることができず、フランソワーズはカップを置くと手元を見つめた。

「私はこの「ジゼル」に賭けている」

深く諭すようなフランス語が響く。

「成功すれば、間違いなく私のタイトルの一つになるからだ。――が、しかし、これは同時に君にとってもチャンスのはずだ」

フランソワーズは手をぎゅっと握りしめた。

「私は君が世界へ出てゆくための手助けをしたい。そのために日本に来たのだ」
「・・・まさか」

そんな理由で日本に来たなど、にわかには信じ難かった。

「本当だ。フランソワーズ、君は必ずプリマになる。そのためには、もっと世間に知ってもらうことが大切だ」
「・・・・・」

フランソワーズはやっと顔を上げた。
正面の相手をじっと見つめる。

「本当に私が」
「そうだ」

アズナブールはフランソワーズの不安そうなまなざしを受け止め、小さく頷いた。

「だから君に無様なジゼルを踊らせたくない」

フランソワーズの頬がさっと赤くなった。

無様なジゼル・・・。それは、私のことだわ。

「――大丈夫だ。私がついている」

アズナブールはフランソワーズの手にそっと触れた。

「私が君に、そんなジゼルを踊らせはしない。私を信じて一緒に創ってくれないだろうか?新しいジゼルを」
「新しいジゼル・・・」
「そう。純愛という名のジゼルだ。誰よりも愛らしく、しかし、相手の事情を知って身も世もないほど嘆くジゼル。それは全て、相手に対する愛情なのだ。その大きな愛を――純愛を演じきって欲しい」
「――自信がありません」

ジョーに「君は強い子だ」と言われてもなお、不安は消えなかった。
フランソワーズの場合、彼女の失敗は自分自身のみならず、バレエ団全体の失敗に直結するのだ。

「大丈夫だ。何のために私がいる?」
「先生・・・」
「先生と呼ぶのはやめろと言ったはずだろう?」

そうして、彼が出した提案にフランソワーズは同意した。

「私たちのジゼル」を成功させるために。

目標は一つだった。

 

 

***

 

 

「――ねぇ、ジョー。お願いがあるの」

その日の夜遅く。
ジョーの肩に腕を回して頬を寄せて、甘えるようにフランソワーズが言った。

「お願い?」

対するジョーは微かに鼻にしわを寄せる。
彼女の言うお願いは、いつも予想を裏切る上に突拍子もないことが多いのだ。
心理的に身構えつつ、けれども表面上はあくまでも平静を保って彼女の言葉の続きを待つ。

「ええ。一昨日からジゼルのレッスンに入ったんだけど・・・」

散々、ダメ出しをされているのだという。

「それで、今日はとうとうアズナブール先生にも呼び出されてしまって、叱られたの」
「・・・そう」

相手役ではあっても、やはりフランソワーズにとっては「先生」なのだ。

「本気でジゼルをやる気があるのか、って」

ジョーは無言でフランソワーズの髪を撫でる。
彼女は慰めて欲しいわけではない。

「それで、色々話し合って――決めたの。でも、それにはジョーの協力が必要で」

その「協力」の内容を聞いて、ジョーは目を瞠った。

「・・・本気?」
「ええ。本気よ」

ジョーの肩に頬を寄せていたフランソワーズが身体を起こす。じっと正面からジョーの瞳を見つめる。

「――協力してもらえる?」
「・・・本気なんだね?」
「ええ。私の夢だもの」
「夢か・・・」

ジョーは少しの間、目を閉じて黙った。不安そうに見守るフランソワーズが何か言おうと口を開いた時、やっとジョーは目を開けた。

「いいよ。――わかった。協力する」
「ほんと?」
「ああ」
「本当に?」
「うん」

けれども、喜ぶかと思いきや、フランソワーズは心配そうにジョーの顔を両手で挟んだ。

「だって、・・・大丈夫、ジョー?」
「大丈夫。任せなさい」
「私を信じてくれる?」
「もちろん」

苦笑まじりに言って、フランソワーズを抱き寄せる。

「むしろ僕は、君の方が心配だよ」
「えっ?」
「本当に、大丈夫かい?」
「・・・自分で決めたことだもの。頑張るわ」

全ては憧れだった「ジゼル」のため。

「途中で挫けたら許さないからな」
「・・・ん。ジョーがついてるもの」
「つきっきりって訳にはいかないよ、知ってるだろう?――僕がいなくても頑張れるよね?」

その一言に、一瞬、フランソワーズの顔が歪む。

「――ひとりでも頑張れる、フランソワーズ?」
「・・・頑張る」
「んっ。それでこそ僕のフランソワーズだ」

 

「ジゼル」の上演まであと3週間だった。

 


 

12月4日

 

亜麻色の髪。白い肌。彫りの深い顔立ち。琥珀色の瞳。
長身ですらりとしており、しなやかな鍛えられた筋肉をまとっている。
更に言えば、その所作ひとつひとつが優雅だった。指先までも。

その手がそっと伸ばされた。

「フランソワーズ。ともかく――」

いま目の前にいる人は、昔自分が好きだと思い込んでいたひと。
確かに、いま見てもその魅力は衰えていない――と、思う。
でも、それだけだった。
胸にせまってくるようなものは何にもなかった。
いまのフランソワーズにとって、彼はただの「相手役」にすぎなかった。

その伸ばされた腕が途中で止まった。
じっとフランソワーズの背後を見つめて。

何事かと振り返ったフランソワーズの目に映ったのは、金髪に近い栗色の髪と褐色の瞳の持ち主だった。

「ジョー!」

どうしてここにいるのかなどという疑問は、一瞬頭をよぎったがそのまま手放した。
いまここにいる彼――照れたように微笑んでいるその姿が目に入った途端、他の全てのことはどうでもよくなった。
彼との距離を数歩で縮めて、フランソワーズはその腕に飛び込んでいた。

「ジョー!聞いて!私、ジゼルを踊るの!」

満面の笑みで見つめる。頬を上気させて、きらきらした瞳で。
たった今、眉間に皺を寄せ困った顔をしていた人物とは思えない。

「ん、フランソワーズ、落ち着いて」

嬉しさ全開で体当たりしてきたフランソワーズをぎゅっと抱き締め返しながらも、いちおうここは公道なんだからと周囲に目を配る。
そして、自分たちをじっと見つめる人物と目が合った。

「ジョー。一緒に喜んでくれないの?」

腕のなかから、拗ねたような怒ったような声が響く。

「んっ?」

フランソワーズに視線を戻す。
蒼い瞳が不満そうにじっと見つめていた。

「――嬉しいに決まってるだろ?」

額と額をくっつけて。

「でも、あんまり嬉しそうじゃないもの」
「そうかな。きみがジゼルに決まるって信じてたから、その確認ができて嬉しいよ?」

そう言われても、なおも不満そうなフランソワーズに苦笑する。
少し身を屈めて、フランソワーズの耳元で小さく言った。

「――だから、気になって一刻も早く知りたくて、迎えに来てしまった」
外出禁止令が出ていたのにね。

フランソワーズの髪にそっとキスをして、そうして――目の前の人物に目を移す。

ジョーの不穏な気配に気付いたフランソワーズは、彼の胸から体を引いて振り返った。

「・・・あ」

そういえば、アズナブール先生がここにいたんだったわ・・・!

ジョーに会えた事が嬉しくて、会いたいと思っていたら彼が呼ばれたかのように現れたのが嬉しくて。だから、彼以外のものはすっかり頭から消えてしまっていた。
いまのジョーとの遣り取りをずっと見られていたのかと思うと気まずかった。

「あの、紹介します。こちらは、島村ジョー。私の・・・お付き合いしている人です」
「・・・よろしく」
「ジョー?こちらはアズナブール先生。今回のジゼルの相手役なの」
「・・・よろしく」

フランソワーズの声が双方に聞こえていたのかどうか。
お互いに対峙したまま、フランソワーズのほうを見ない。

――この彼は、どこかで見たような気がする。

アズナブールは目を細め、記憶を手繰った。

――どこかで。・・・確か、あれはパリの――

フランソワーズが突然姿を消した前日に見かけたような気がした。が、確信はない。

一方、ジョーは。

・・・どこかで見たような気がする。

こちらも記憶を手繰る。
目の前の琥珀色の瞳をもつ男性は――フランソワーズと何かしら関連があったような気がして、記憶を手繰るのもざらざらした嫌な気持ちに覆われてゆく。

あれは・・・パリだろうか?

直接会ったわけではない。だったら忘れるはずがない。フランソワーズの友人であれば。しかも男性ならば。
けれども、一向に記憶は甦らず――ジョーは思い出そうとするのを断念した。

後でフランソワーズに訊けばいい。

いま問題なのは、この場の妙な空気なのだから。

じっと相対しつつもお互いに一言も発しない。
凝固したような時間と空間。それに動きを足したのはフランソワーズだった。
ぎゅっと握っていたジョーのジャケットから手を離し、背後のアズナブールに向き直った。

もし、先生が前のような――私に対する好意が残っているのなら、面倒なことになるかもしれない。

そう懸念した。
相手役なのだから、揉めるようなことは避けたかったし、何より気まずくなるのは嫌だった。何しろ、せっかく得た「ジゼル」なのだから。

けれども、アズナブールを見つめ、どうやらそうではないらしいと見当をつけた。
彼が見ていたのはジョーだったが、それもほんのわずかの時間。今はフランソワーズをじっと見ているのだが、その視線には好意とはほど遠いものが浮かんでいたのだ。

「――フランソワーズ、きみは・・・」

アズナブールはそう言いかけたものの、いま自分の目の前で起こった出来事をどう言ったらいいのかわからなかった。
フランソワーズに恋人がいて、その相手をどこかで見たことがある。それも彼女が姿を消す前日に。――ということが問題なのではなかった。
もちろん、それも気にはなったが、それ以上に問題にしなければならないことがあった。

――彼以外は何も見えないのか。

 


 

12月3日

 

携帯を閉じてバッグにしまう。という行動は無意識だった。けれども、瞳はじっと相手を見つめたまま。
その相手はフランソワーズのほうへ歩を進めながら、にっこり笑んだ。

「久しぶりだし、ちょっと話したいんだが時間はあるかい?」

――久しぶり。

なんてものではなかった。いったい何年経ったのだろう?
友人たちが軽く冗談のように「元カレ」と言っていたけれど、それは確かにそうだった――かもしれない。
少なくとも、当時は彼のことを好きだと思っていた。
しかし。

「あの、すみません。今日はちょっと急いでいるので」

曖昧な笑みを浮かべ、一歩下がる。

「フランソワーズ。もちろん、いきなり会って動揺するのはわかる。しかし、私たちは明日から組むんだし、今から打ち解けていたほうがいいと思わないか?」
「それは・・・・そうですけれど」

でも、今は。

「そんなに緊張しないで欲しい。――フランソワーズ?」

優しく微笑むその瞳が好きだ――と、思っていた。
でも。

私はあの時、ジョーを選んだ。

戦いに引き込まれるのは嫌だった。迎えに来た褐色の瞳の持ち主は、フランソワーズが嫌なら来なくてもいいのだと繰り返し言った。だから、当然そうするつもりだった。なのに、気付いたら空港にいた。

――あの時。私が選んだのは、アズナブール先生ではなく、ジョー・・・・。

ずっと忘れるしかないと思っていた。彼に会えるのは戦いの時だけなのだから。だから、平和な日々に心を埋もらせて、彼のことは考えないようにしていた。例え、いつも胸の奥に自分をじっと見つめる褐色の瞳があったとしても。
気付かないように、見ないように、考えないように。もう二度と会うことのない人なのだから。どんなに思っても、彼に会う時はサイボーグ003としてなのだ。
そうして、平和な日々の象徴のようにアズナブールとの日々を大切に守ってきた――つもりだった。
彼を好きだと、大切だと思っていた気持ちは、褐色の瞳の持ち主を前にした途端、なんともちゃちな一時しのぎの思いにしか思えなかった。本当に「好き」と思うのとは全然、違っていた。自分は彼を好きなのだと思いたかっただけだったのだ。
だから、ジョーが目の前にいて、彼の姿を見て、声を聞いた瞬間、自分は本当は誰を思っていたのかわかってしまった。

私の心の奥にはいつもジョーがいた。

忘れようと思っていたのに、忘れたつもりだったのに、結局は大事にその思いをしまい込んでいただけだった。

「フランソワーズ。踊るのに組むというのがどういうことか、君はよく知っているはずだ」
「先生・・・」
「私はそう教えたはずだが?」

彼が何を言っているのかは十分にわかっていた。
だけど。

「でも――すみません。今日は本当に時間がないんです」

相手役と演目について詰めて話し合うのは大切なことだ。それは十分、わかっている。明日からレッスンが始まるのだから、その前日の今日のうちにお互いの解釈を確認しあうことが必要だった。
しかし。

「あの、明日レッスンに入る前だったら時間が取れるので、その時に」

レッスンは午後からなので、午前中なら時間がある。

「・・・フランソワーズ。きみはいつからバレエを軽く考えるようになってしまったのかな」

軽く首を傾げ、表面上はあくまでもにこやかに諭される。

「軽くなんて考えてません」
「しかし、きみは打ち合わせも嫌だという。相手役と話すのが大切なのはわかっているはずだろう?」
「そうですけど、でも」

そんなことより何より。
今日、自分がジゼルに決まったことを一刻も早くジョーに伝えたかった。
彼はきっと、一緒に――もしかしたら、自分以上に喜んでくれるはず。
何しろ、昨夜から気を揉んで落ち着かなかったのは彼のほうだったのだから。

 

***

 

リビングをうろうろと歩き回り、うっとうしいと注意されたのは一回や二回ではなかった。
けれどもジョーは、注意されても上の空で、何度も何度も腕時計を覗き込み、いらいらとリビングをぐるぐる歩いているのだった。

「そんなに気になるなら、行ってくれば?」

ピュンマがため息とともに言う。

「行くってどこへ?」
「フランソワーズのいるところに決まっているだろ。他にどこに行くつもりなんだい?」

あっさりと当然のように言われ、ジョーは顔を赤らめた。

「だけど、外に出たらダメだと言われてるんだ」
「なに情けない事言ってるんだ。堂々と外を歩いて何が悪い」

戸口から硬質の声が響く。

「――アルベルト」
「案外、大丈夫なもんだぞ。お前はあのポスターやCMのように裸じゃないんだし、わかりっこない」

もちろん、言われなくても自分でもそう思っていた。が、心配しているのはフランソワーズなのだ。
そして、ジョーにとってフランソワーズの命令は絶対だった。彼女が「外出禁止」というなら、そうするしかないのだ。
何しろ、それに従わなかった場合は――考えたくもないが――彼女の部屋へ行くことも、彼女がジョーの部屋へくることもなくなるのだ。一週間の間。そんなことは二度と耐えられないだろう。一度やって懲りている。

「でもさ」

ピュンマがにやりと笑う。こういう顔の時は、何か悪知恵を働かせている。

「フランソワーズも今日は違うんじゃないかと思うけどな」
「違うって何が?」
「今日は配役が決まるんだろ?嬉しい報告なら、誰より先に会いたいひとがいるんじゃないか?」

にやにやしながらジョーを見る。

「誰より先に会いたいひと・・・?」

考え込む様子のジョーに、ピュンマは笑いを引っ込めると神妙な顔でため息をついた。

「・・・お前はバカか。彼女の会いたいひとってお前以外にいるわけないだろ?」
「あ。そうか」
「そうかじゃないぞ」

アルベルトがピュンマの向かいのソファにどっしり腰を降ろす。

「そんなのんびりしてていいのか?浮かれたフランソワーズは何をやらかすか知らないぞ」

ジョー以外は全員知っているのだ。浮かれたフランソワーズが何をやらかすのかを。

「大袈裟だなぁ。ちょっとくらい浮かれたって何にも心配いらないよ」

にこにこ笑うジョーを気の毒そうに見つめる二組の瞳。

「――知らないぞ。ケーキをやまほど買ってきたって、俺は手伝わないからな」
「卵の大量買いをしても、お前が責任とるんだぞ」

そう言われてもぴんとこない。

「フランソワーズがそんな真似するわけないだろう?」

くすくす笑うジョーだったが、対するアルベルトとピュンマはじっと彼を見つめ無言だった。

「――ともかく。鬱陶しいから、つべこべ言わずに行ってこいよ」

大量のDVDを抱えて入って来たアメリカ人が、話の流れもわからないまま言い放つ。

「これからDVDを観るんだから、お前がうろついてると邪魔なんだよ」
「DVDって何の?」
「今季レースの復習」
「えっ、それなら僕も」
「ダメだ」
「いいじゃないか、一緒に観たって減るもんじゃないし」
「悪いが、チャンプと一緒に観られるほど心が広くないんだよ。――ともかく、お前はフランソワーズを迎えに行って来い。このままだとアイツが何をやらかすか考えたくもねぇ」

ジョーはひどいなぁとぶつぶつ呟きながら、

「そんなにみんなが言うなら・・・しょうがないな」

そう言って、車のキーを手に取った。

 

***

 

ギルモア邸を猛スピードで遠ざかってゆくストレンジャーを見つめ、リビングにいた三人は大きく息をついた。

「全く。どうしてあんなに素直じゃないんだ」
「大義名分がないと行けなかったんだろう?ちょうど良かったじゃないか」
「バカだなぁ。その大義名分を作ってやったんだ、って」

つまり――

『みんなが迎えに行けとうるさくて』自分は迎えに来たのだ。という大義名分。

運転しながら、ジョーは我ながら良い言い訳を思いついたと悦に入っていた。
何しろ、昨夜から落ち着かず何も手につかなかったのだ。
自分のレースの方がまだ気楽だった。全ては自分のちからにかかっているのだから。
だから、自分以外のひとの大事な局面というのは苦手だった。ただ心配するだけで何もできない。それが、大切に思っているひとだから尚更だった。

――フランソワーズ。僕は信じてる。きみが主役を――ジゼルを実力で勝ち取るってことを。

「ジゼルに決まったのよ、ジョー!」
と、自分の首筋に腕を回す満面の笑みのフランソワーズしか思い浮かばない。

今となっては、外出禁止令を破ることなど大したことではなくなっていた。

構うもんか。
一週間、フランソワーズと二人っきりで会えなくたって、今日、いまこの時のフランソワーズに会えるならそれでいい。

嬉しい気持ちを早く聞きたかった。彼女が役を逃すなんて、これっぽっちも考えていない。

僕のフランソワーズは、絶対に夢を叶える。

 


 

12月2日

 

「・・・それは」

なぜ突然いなくなったのかを言えるはずもない。
しかし、アズナブールは答えを求めているわけではなさそうだった。

「いや、いいんだ。こうして再会できたのだから、何も言わないでおくよ。――フランソワーズ。会いたかった」

熱く見つめられ、フランソワーズは半歩足を引いた。そしてある可能性に気付く。

「まさか、私が今回ジゼルに選ばれたのは、先生の・・・」

確か以前にも似たようなことがあった。あの時も疑ったものだ。自分に好意を持っているから、職権濫用したのではないか、と。
自分の実力でとれた役だと思っていただけに、他人の力添えがあったと知らされるのは辛かった。
そんな役ならいらない。――と、言えない自分が情けなかった。
どんな経緯があっても、「ジゼル」は「ジゼル」なのだ。それを演じることを許された権利を捨てることはできない。

そんな彼女の心中を読んだのか、アズナブールは険しい顔で言い放った。

「誤解するな。私はそんな甘い男ではない。いくら古い知り合いとはいえ、水準に達していない者を抜擢するような事は絶対にしない」
「先生・・・」
「君は主役を実力で勝ち取った。それは本当だ。むしろ私は、君の踊りに魅入られてしまったのだから」

 

***

 

「フランソワーズ、ムッシュウ・アズナブールと知り合いなの?」
「同じフランス人だもの、バレエをしている限りどこかで会うこともあったんじゃない?」
「でも凄いよねー!あのムッシュウ・アズナブールと組むなんて!」

更衣室では大騒ぎだった。
今日は配役が発表になっただけで、公演前の本格的なレッスンは明日からである。
だったらさっさと帰ればいいものの、誰もがフランソワーズに「謎のムッシュウ・アズナブール」の話を聞きたがり、一向に帰る気配はなかった。

着替え終わり、バッグを肩にかけてロッカーの扉を閉めたフランソワーズは、振り返った先のいくつもの期待に満ちた顔に大きくため息をついた。

「・・・みんな帰らないの?」
「ばかね、こんな凄いことを放ってさっさと帰れるもんですか」
「そうよ、フランソワーズったらフランス語で話してるから、何言ってるのか全然わからなかったもの」

そうそう、と全員が頷く。

「いったい、ムッシュウ・アズナブールと何を話してたの?」
「何って・・・別に」
「別に、って顔じゃなかったわ。特にムッシュウ・アズナブールが」
「熱く見つめちゃってさ。――もしかして、ただの知り合いじゃなかったりして!」
「もしかして元カレ、とか?」
「ええーっ。ムッシュウ・アズナブールが?いくらなんでもそれはありえないでしょ」
「わからないわよー。二人とも同じ国にいたんだから、案外・・・ねぇ」

フランソワーズはどれにも答えず、微笑んだだけだった。

「でも、ムッシュウ・アズナブールといえばこの業界では有名人よ。知らない人はいないわ。それがこんな小さなバレエ団に来るなんて、不思議じゃない?いくらゲストとはいえ」
「そうよね。・・・先生達の誰かが親しいのかしら?」
「だって、知ってる?ムッシュウ・アズナブールが踊るっていうだけで、既にチケットが売れてるってこと」
「ええっ、それホント?だって配役が決まったのは今日よ?」
「そんなの関係ないんだ、って。彼が出るだけで、業界関係者は席を確保するのに走ったっていうんだから」
「チケットの正式な発売は来週でしょう?」
「だから、一般の人の手には入りにくいらしいのよ」
「それって・・・凄いことなのか、良くないことなのかわからないわね」
「凄いことに決まってるじゃない」

口々に話されることを聞きながら、最後の言葉にはっとしたフランソワーズは思わず口を開いていた。

「チケットが手に入らないなんて、困るわ」

だって、ギルモア邸のみんなの分が。

「ばかねー、大丈夫よ!私たちにはちゃーんとチケットが必要な分だけ用意されてるんだから」
「そうそう、業界関係者のひとたちに売るのは、ずうっと後ろがはしっこのほうよ」
「・・・そうなの?」
「そう。だから、愛しい音速の騎士の分もちゃーんとあるから、心配しないの!」

ばし、と背中を叩かれ、フランソワーズは咳き込んだ。

「ヤダ、そんなの心配していたわけじゃないわ」

顔が赤くなる。

「まー、この子は何てわかりやすいの!」
「ああもう、これじゃあいくらムッシュウ・アズナブールがアプローチしたって無理ね」
「アプローチ、ってそんな・・・」

そんな風に見えているのだろうかとちょっと不安になった。
何しろ、みんなが勝手にしている憶測は――事実だったのだから。

「でも、レッスンが始まったら――わからないわよ?だって、ずうっと二人で練習することになるんだし」
「いやいや、この子は彼しか目に入ってないって!ね?フランソワーズ」

ぐるりと首に腕を巻かれる。

「えっ、そんな・・・そんなこと」
「あるでしょう?」

にんまりとした顔で見つめられ、フランソワーズはますます頬を染めてうつむいた。

「・・・ええ。早くジョーに伝えたいの。・・・ジゼルを演じるんだ、ってこと」

小さい小さい声で恥ずかしそうに言う。

「たくさん、応援してくれて、心配してくれてたから。だから・・・」

首に巻かれた腕をそっと外し、肩からずり落ちていたバッグを掛け直し。軽く頭を振って、頬にかかった髪を払う。
そしてまっすぐ前を向いて、笑顔を作った。

「だから、早く帰りたいの!!お先にっ」

そうして、あっと言う間に包囲網を突破した。

「ああっ、フランソワーズ!」
「もうっ。何て逃げ足が速いの!」

その声を背中で聞きながら、フランソワーズは小走りに廊下を抜け、ビルの階段を駆け足で下った。
みんなに言った通り、一刻も早くジョーに伝えたかった。ちゃんとジゼルを勝ち取ったということを。
そして、彼の後押しがあったからこそ頑張れたのだと――抱き締めて、どんなに心強かったのかを伝えたかった。
ジョーへの思いが溢れ、彼に会うことだけしか考えられなかった。

ビルを出て、駅へ向かう。今日もジョーは迎えに来てはいない。まだ外出禁止令を解いていないのだ。
が、今日だけは迎えに来てもらえば良かったなと思う。そうすれば、いますぐに彼の腕に飛び込めたのに。
だがしかし、もしも自分の願う結果になっていなかったら――ジゼルを踊ることができなかったら――そう思うと、やはりジョーに「今日は迎えに来て」とは言えなかった。自分の力が足りないと知った時に、そこに彼がいたら絶対に甘えてしまう。それだけは避けたかった。頑張った自分を無条件に慰めるという役割を彼に課すことはプライドが許さない。
自分自身の問題なのだ。それを、彼に甘えて慰めてもらって、頑張ったねと頭を撫でてもらって――それで終わり。にしてしまったら、これから先、なにひとつ自分の力では進めなくなってしまう。
自分の大事な「バレエ」に、そんな甘えた考えは要らなかった。

とはいえ。
嬉しい気持ちの時は、彼と――ジョーと一緒にいたかった。

いま、何してるかしら。
迎えに来て、って言ったら、すぐ来てくれるかな。

思いついて、携帯を取り出してフラップを開く。通話ボタンを押そうとした時、昔よく聞いた声が耳朶を打った。

「フランソワーズ。ちょっといいかな?」

フランス語だった。
思わず止めた足の先には――

「・・・アズナブール先生・・・」

 


 

12月1日

 

フランソワーズは祈るような気持ちで胸の前に組み合わせた手に力を入れた。

――絶対、大丈夫・・・!ううん、きっと・・・

 

今日は「ジゼル」の配役が発表される日。
一番広いレッスン室にバレエ団員全員が集められていた。自然に先生の周りを囲むように幾重にも人垣ができる。
フランソワーズは3列目のほぼ中央に立っていた。そして、じっと「その時」を待つ。
主役のジゼルを狙っている者は多い。主役を踊るのにふさわしい実力も拮抗していた。つまり、誰が踊ることになってもおかしくないのだ。

「ジゼル」の主役。

このために連日遅くまでレッスンをしてきた。
憧れの役への思い入れは強い。自分なりの解釈を持つためにいくつもDVDを観て、本も読んだ。
幼い頃から、憧れて憧れて、何度も諦めそうになった。
村娘の踊りを踊るたびに、いつかソロで踊りたいと思っていた。だからずっと頑張ってきたけれど、届かなかった。

でも、今日は違う。

ジョーが頑張ってワールドチャンピオンになったことも後押しした。
自分の力でやり遂げた人を憧れるだけではなく、自分もそれを叶えられる人になりたいと思った。

だから、頑張った。

今までは「やっぱり無理かもしれない」と思うたびに心が挫けていった。
でも今は、支えてくれる人がいる。
自分を信じて思うようにやるだけだと、何度も強い視線で繰り返し話してくれた。
ともすれば、特別扱いしてくれるその腕にただ甘えてしまいたくなった。けれども彼はそれを許してはくれなかった。
僕の知っているフランソワーズは強い子なんだ。必ず自分の夢を自分の力で叶えられる。そう言って、優しく背中を押した。振り返れば、優しい笑みを浮かべ小さく頷いて。
その彼への気持ちと、彼の自分への気持ちを胸に大切に抱き締めて頑張ってきた。

自信もあったし、手応えもあったように思う。
だから「きっと」「絶対」夢は叶うと信じている。

私の夢。いつか「ジゼル」を踊ること。

今まで「ジゼル」という演目には何度も関わってきた。村娘のソロも踊った。けれどもやはり、一番願うのは・・・

 

「――ジゼルは」

 

神様!

ぎゅっと目を瞑った。息を止めて。

 

「フランソワーズ・アルヌールさん」

 

周りの友人がわあっと声をあげた。
「やったわね!」
「やっぱりそうだと思ってたわ!」
口々に祝福の言葉を言いながら、フランソワーズの肩を叩いたり背中を押したり。

「私・・・本当に?」

信じられず、ぽかんとしたまま小さな声が洩れる。
その問いに優しく答えが返った。

「本当ですよ」
「先生・・・」

思わず涙がこみ上げたが、まだ泣く場面ではないと自分を戒める。
夢が叶ったら、そこで終わりというわけではない。まだまだ先は長い。今はスタートラインに立っただけなのだから。

「はい・・・!頑張ります!」

はっきりと言う。お腹に力を入れて宣言する。
その蒼い瞳はキラキラとして、既に熱い決意が宿っているのだった。

「それから、今回は特別にフランスからダンサーをお招きしました。今度のジゼルは彼の解釈でいこうと考えています。――フランソワーズ、あなたのお相手よ」

一同がざわりと揺らめいて、先生の視線を追う。
レッスン室の一番後ろ、壁に寄りかかってひっそりと立っていた人物は、先生の声に体を起こした。

「うそっ・・・」
「ええっ、あのひとってまさか」

さざ波のようにざわめきが広がってゆく。
そう、彼は今、ヨーロッパで最も注目を集めているバレエダンサーだった。
彼がゆっくりとこちらに向かって歩を進めた。人波が左右に分かれて道を作る。
そして、先生の隣に立ったその人を見て、フランソワーズは言葉を失った。

「みなさん、既に御存知かもしれませんね。紹介します。ムッシュウ・アズナブール!」
「宜しくお願いします」

流暢な英語で話されるその声をフランソワーズは聞いていなかった。
ゆっくりと唇が開き、そこから洩れた言葉はフランス語だった。

「アズナブール先生・・・!」

いま目の前にいる人物を信じられない思いで見つめた。

「フランソワーズ。もう「先生」はやめてくれないか」

こちらもフランス語で話す。笑みを浮かべて。

「――探したよ。突然、いなくなってしまったからね」