−子供部屋−
(ジョー島村もしくはお嬢さんのお部屋)
12月31日 〜カウンター10万ヒット記念&年末年始特別企画〜 「温泉旅行」 C温泉 夕食前に温泉に入ろうということになった。 「――あ、僕たちは後でいいよ」 と言う超銀のふたりを部屋に残し、新ゼロ・旧ゼロの二組は部屋を後にした。 「後でいい、ってどういうことかしら?一緒に入ればいいのに」 「・・・・」 一緒に歩きながらも答えない新ゼロのふたり。 「ええと、スリー?」 「その、・・・ひとにはそれぞれの事情っていうものがあるんだよ」 一緒に入るのは、男同士、女同士とは限らないのさ。――と言って通じるかどうか少し悩む。 黙り込んだナインを不思議そうに見つめ、そして繋いだ手元に視線を向ける。 前を歩く新ゼロのふたりは手を繋いでいない。 「ねえ、あっちは露天風呂よね?・・・どうして二人で行くのかしら」 本当にわかってないのだろうかと内心悩みながらも、ナインはスリーの手を引いて大浴場へ向かって歩くのをやめない。 「――二人っきりになりたいからだろ」 言いかけて、はっと口をつぐむ。 「・・・あ。そういうことなのね。じゃあ、お部屋のふたりも」 そして、今は僕たちも二人っきりだ。 「――後で僕たちも露天風呂に行ってみるかい?」 びくんと揺れる手。 「冗談さ。ほら、ここでお別れだ。上がる時には声をかけるから」 片手を上げて男湯へ姿を消すナイン。その背をしばらく見つめてから、スリーは女湯ののれんをくぐった。 ――冗談、じゃ・・・ないわよね? 他の二組のように二人っきりになりたくないかといえば、それはもちろん二人で居たいとは思う。でも、さすがに一緒にお風呂というのは抵抗があった。 ナインは・・・一緒にお風呂に入りたいのかしら? 彼の事は好きだけれど、それとこれとは違うような気がした。 一緒にお風呂に入らないから、って嫌われる。なんて事はないわよね。 小さく頷いてから、脱衣所を出た。 「おおい、フランソワーズっ」 鼻歌が止んで大きな声で呼ばれた。 「きゃっ。なに?・・・ジョー?」 だからなんだというのだろう――と訝しく思う前に、再び鼻歌が再開された。 びばのんのん♪ *** 一方、こちらは露天風呂組。新ゼロのふたりである。 「・・・私たちも後で良かったのに」 ふと服を脱ぐ手を止めて、ジョーがフランソワーズを見つめる。 「――イヤだったら、今から大きい風呂の方へ行く?」 優しく見つめる褐色の瞳。その真意がわからず、フランソワーズは瞬きした。 「どうする?」 答えないでいると、何だか大浴場へ行ってしまいそうな話の流れに慌てた。 「・・・意地悪ね。ジョーは」 だって、私がこっちで一緒に居たいって思っているの、知ってるくせにそんな事言うんだもの。 「――もう、ばか」 そうしてそっとジョーの頬にくちづけた。 *** 「後でいいよ、なんて随分殊勝ね?」 こちらは部屋にいる超銀のふたり。 「運転、疲れた?」 言いつつ、大きな欠伸。 「でも・・・ちょっと眠くなってきた」 そうして腕を伸ばし、フランソワーズの首を引き寄せる。 「・・・それにしても、どうして3部屋にしなかったんだろう、ピュンマの奴」 一見、人畜無害の正義の味方のような旧ゼロジョーを思い浮かべる。 「結婚してない男女が同じ部屋に泊まるのはどうか・・・って、悩みそうだもの。あのふたり」 それは違うのだけれども、ナインの面目を保つために肯定も否定もしない。 「――いいよ、あの二人のことは」 ジョーは半身を起こすとフランソワーズを引き寄せた。 「それより今夜はひとり寝だ。――寂しいなあ」 「寂しいのは、私も同じよ?」 **** 12月30日 〜カウンター10万ヒット記念&年末年始特別企画〜 「温泉旅行」 B部屋割り 到着した宿は、山の中腹あたりにあった。 「ピュンマもよくこういうところを知ってるよなあ」 009たちが口々に言う。 「限定8室と言っていたな」 視線を宿に向ける。 「何だ?貸切じゃなくて残念か?」 3部屋。 駐車スペースに車を止めて、それぞれ荷物を取り出す。 「・・・代表者だけでいいんだな?」 あれこれ検討する009たち。 そこへ宿の女将がやって来た。 「御記入いただけましたでしょうか」 にこやかに言いつつ、テーブルの上に部屋の鍵を置く。部屋の鍵は2つだった。 「――あれ?部屋は2つ・・・?」 いっせいに訝しげに眉を寄せる009たち。 「あの。部屋は確か3つ・・・」 009たちは顔を見合わせ、 言いかけた009に被せるように003の声が響いた。 「ありがとうございます。お部屋は2つでいいんです」 ね?と、003たちはお互いににっこり微笑んだ。 「それでは、こちらが男性のお部屋でこちらが女性のお部屋の鍵になります」 009たちは訳がわからないまま、女将について立ち上がった003たちのあとをついてゆく。 「――こちらがお食事をするお部屋になっております。準備が整ったらお声をかけますので。――それから、あちらが」 指し示すのは、庭から少し行ったところにある建物。 「露天風呂になります。お部屋ごとに入られてもいいですし、その場合は履物をここで履き替えていただいて――予約制ではございません。ただ、ここに履物があれば誰かが入っていらっしゃるというお約束になりますので御了承ください。もちろん、大浴場もございます。この先の階段を下がったところになります」 そして、部屋へ到着した。 009たちは、揃ってひとつの部屋へ入っていく003たちを呆然と眺め、声をかけようとした鼻先で戸を閉められた。 「・・・ピュンマが間違えたのかな」 ううむと眉間に皺を寄せたとき、軽いノックの音がして003たちが部屋へ入って来た。 「あら、お茶くらい淹れたら?――しょうがないわねぇ」 それぞれ世話をやきながら、それぞれの009の隣に座る。 「ジョー?どうかしたの?さっきから何も喋らないけど」 「いや。・・・ピュンマが予約する部屋の数を間違えたかもしれないと思っていたところだ」 ね?と003たちに同意を求める。 「いや、だけどそれじゃ・・・」 首を傾げて見つめる新ゼロフランソワーズ。新ゼロジョーは言いにくそうに答えた。 「・・・その。男女で別れたら修学旅行みたいじゃないか」 他の003の視線を気にして黙ってしまう。 「あら、だって、私たち夫婦じゃないもの。一緒のお部屋に泊まるのはだめよ」 そうよそうよと頷く003たち。 ナインは腕組みをしたまま動かない。 「きみたちは少し、その――慎みが足りない」 慎み? 超銀ジョーと新ゼロジョーが同時に旧ゼロジョーを見つめ、またまた同時に喉の奥で「けっ」と言ってそっぼを向いた。 「女同士でお泊りって楽しみよねー」 盛り上がっている女性陣を横目に、当ての外れた男性陣は小さくため息をつくのだった。 12月29日 〜カウンター10万ヒット記念&年末年始特別企画〜 「温泉旅行」 A座席指定 「009の隣には003って決まってるだろう?」 当然の顔をして言い放ったのは超銀ジョー。それに頷く009たち。 「だって私たち、色々と相談しなくちゃならないことがあるのよ?」 私たちがナビをしなくたって大丈夫でしょう?たまには休みたいのよ。 と三人が声を揃える。 「休む、って・・・」 「だけどいつもは」 「道に迷ったらどうするんだ」 「あ、ダメよ、その台詞を言ったら!」 「――あ、」 「そうだね。隣に003がいるんだから」 *** 結局、004のワゴンを借りて行くことに決まった。のだったが、今度は席次で揉めていた。 「――でも、今回は残念ながら隣にはいません」 それでも、きっぱりはっきりと告げる新ゼロお嬢さん。新ゼロジョーのすがるようなマナザシに負けないように背筋をぴんと伸ばして。 「ええっ。それはないよ、・・・・ね?フランソワーズ」 新ゼロジョーの甘い声と至近距離から見つめる褐色の瞳。切なく光るその色を見ないようにしながら、断り続ける新ゼロお嬢さんを見て、ふたりの003は感嘆していた。 「凄いわねぇ!ジョーのお願いに負けてないわ」 「へーえ?だったら僕もやってみようかな、フランソワーズ?」 背後から声がかかり、ぐいっと顎に手をかけられ009の方を向かせられる超銀お嬢さん。 超銀ジョーの熱い視線と甘い声に、超銀フランソワーズは陥落寸前だった。 「バカだなぁ。お願いなんてするから断られるんだ」 妙に威張った声に振り返ると、そこには両手を腰にあてて仁王立ちになっているナインの姿があった。 ちょこっと首を傾げる旧ゼロお嬢さん。 「そう、命令だ。003は009の命令には絶対服従――」 ポツリと言った旧ゼロお嬢さんの言葉に、いっせいに003たちが頷いた。 「そうよ、ジョー。ちゃんと言って」 新ゼロお嬢さんが新ゼロジョーの頬に手を触れる。 「言ってくれたら考えてみるわ」 超銀お嬢さんも超銀ジョーの顔を押し戻しながら言う。 「・・・・・・」 期待に満ちた目でそれぞれ見つめられる009。 「・・・隣にいて欲しいです」 声を揃えて言った009に、三人の003は笑顔になった。 「もう、しょうがないわねぇ」 ***** 12月28日 〜カウンター10万ヒット記念&年末年始特別企画〜 「温泉旅行」 @出発 「きみの車はオープンカーだろう?無理だな」 がるるるる。 という擬音が聞こえてきそうな睨み合い。 「大体、あんな族上がりみたいな車にスリーを乗せるわけにはいかない」 「ねえ、ジョー?いいじゃない、彼の言う通り全員は乗れないわ」 「――ねえ。もめてるみたいだわ」 ギルモア邸のリビングダイニングである。 ダイニングテーブルに地図を広げて声高に相談している二人の009。 今日は、全員で温泉へ行くその相談をしているのだった。 「――おい。009。きみの意見はどうなんだ」 「そんなに目立つかな」 「興味ない、って・・・」 話が進まない。 003が怒ったら、いかに009といえど嵐が過ぎ去るのを頭を低くして待っていることしかできない。 「ねえ、オープンカーって髪が乱れない?」 「――乗りたいとか言うなよ?」 「いいかい?絶対、あんな族車には乗るんじゃないぞ」 「大体、そのフザケタ姿勢は何だ。真面目に話してるんだぞ!」 視線で指す先には、ソファに陣取っている超銀のふたり。 「――ったく!」 微かに頬を赤らめて視線を逸らした009。 ***** 12月23日 ともかく、ジョーは軽く不機嫌だった。何だか全てが気に入らない。 *** 「フランソワーズ。本当にその格好で行くつもり?」 しぶしぶといった感じの小さい声にフランソワーズはにっこり笑い、そっと手を伸ばしてジョーのネクタイを直した。 「ジョーも素敵よ?」 黒のタキシードに真っ白なシャツ。 「――ん。いいわ」 数歩下がってジョーの全身をチェックする。 「ジョー。これはダメよ?」 そうして彼の左手からするりとそれを抜き取った。 「こういうのしていったら大変。いろいろ聞かれちゃうわ」 返せよ、と手を伸ばすがひらりとかわされてしまう。 「ダメよ。マスコミはいなくても、そういう話のネタを自分から提供しなくたっていいでしょ?」 そう言って、自分のぶんと一緒にジョーの机の上に置いた。 「但し、帰ってきたらちゃんとつけてね」 机の上に並べて置かれたペアリングをじっと見つめ、ジョーは息をついた。 「――だったら、一人でフラフラどっか行ったりするなよ」 少し拗ねた風情のジョーをじっと見つめる。 「わかってるわ。ちゃんと」 フランソワーズの頬に手を伸ばし、唇を近づけたジョーの顔をフランソワーズは手のひらで押し返した。 「だめよ。口紅が取れちゃうわ」 心なし頬を染めて軽く睨む。 「そういうコンタンなの、ミエミエよ?」 小さく息をつくと、ジョーはキスするのを諦め、代わりに両手を彼女の肩にそうっとまわしてふんわりと優しく抱き締めた。 「そういうつもりじゃないよ。ただ・・・」 フランソワーズの肌の滑らかさを手のひらに感じ、ジョーは自分の気分が更に険しくなってゆくのを自覚した。 彼女の露わになった肩と背中。肩だけではなく、胸元も大きく開いており、これって上から覗き込んだら全部しっかり見えてしまうのではないかと心配になるほどである。試しに覗き込んでみて、さっきフランソワーズから肘鉄をくらったばかりだったが懲りてない。 だから、フランソワーズの髪にそっとキスするだけで我慢した。 「僕のそばを離れるなよ」 くすくす笑って、フランソワーズはジョーの頬にくちづけた。 「言ってるでしょう?あなたのそばから離れない、って」 *** ジョーが不機嫌なそのわけは、フランソワーズのドレスだった。 その日、とあるショップに連れ立って入り、そこでフランソワーズは片端からドレスを試着した。 ジョーにしてみれば、露出が多過ぎるのだが、店員によれば「夜のパーティではデコルテを出すのが正装」とのことだった。――本当かよ?と思いつつ、実は店員とフランソワーズが結託しているのではないかと思い巡らせる。が、結託しているようにもしていないようにも見えて、結局ジョーにはわからなかった。 そうして、数十着目のドレスに身を包んで現れたフランソワーズにジョーは言葉を失った。 惜しげもなく両肩を出し、背中と胸元が深く開いた大胆なデザイン。 「・・・あの、ジョー?」 それまでは「だめ」「却下」とひとめ見た瞬間に言っていたジョーなのに、一向に何もコメントしようとしない彼に不安になった。 「・・・変、かな」 くるりとひとまわり。 「そ、そうよね。胸も開きすぎだし、・・・って言ったんだけど」 ちらりと店員を見つめる。 「お綺麗ですよ、とっても。デコルテが開いているのはそこにジュエリーを飾るためですし。シンプルなデザインの方が美しさがより際立つんです。お似合いですわ、とっても」 店員の言葉に頬をピンクに染め、じっとジョーを見つめる。 「・・・・じゃあ、これにしようかしら」 ため息をついてジョーから視線を外すと店員に向き直る。 魂が抜けたようなジョーからクレジットカードを受け取り会計をすませ、引っ張り出すようにして店を後にした。 「もうっ・・・ジョーったら、どうしちゃったの?」 ジョーが数回瞬きをして――やっとフランソワーズに焦点が合ったようだった。 「――別にどうもしないよ」 呆れた、とフランソワーズはジョーの顔をまじまじと見た。 「さっき着てたの見てたでしょう?」 ジョーは虚空を見つめ、しばし考え――そして、凄い勢いでフランソワーズに向き直った。 「だ。ダメだよ、あれはっ!」 フランソワーズの姿を見慣れている僕でさえ、見惚れてしまうんだぞ――とはさすがに言えず。まさか、魂を抜かれて記憶がなくなった――とは、もっと言えなかった。 「ともかく、ダメだ」 危険すぎる。 「似合ってなかった?」 何か言おうと口を開いたジョーは、安心したように微笑むフランソワーズを見て何も言えなくなってしまった。 ――まぁ、いいか。当日は僕が彼女から離れなければいいんだから。 そうして決まったドレスだった。
首を傾げるスリー。
「大浴場があるんだから、みんなで入っても全然大丈夫なのに。それに、僕「たち」っていうのも変だわ」
新ゼロジョーがナインに何とかしろと目配せする。
軽く咳払いをしてから、ナインは握っていたスリーの手を軽く引き寄せた。
少しだけ縮まった距離に頬を赤らめるスリーを可愛いなぁと見つめながら、頬を引き締め真剣な顔をつくる。
「事情?お風呂に入るのに?」
「うん」
「どんな?」
「・・・それは」
おそらく、カップルで一緒に入るというのを知らないわけではないだろう。ただ、「009」と「003」もそういうことをするのかと全く思っていないところが問題で・・・
でも、僕たちだって人間だ。機械の体を持っていたって、普通の恋人同士のように過ごしてもいいだろう。
そう、普通の恋人同士のように――
しっかり握りしめた手が温かくて、嬉しくて、知らないうちに微笑んでいた。
どうして手を繋がないのかしらと思っていると、「じゃあ、僕たちはこっちだから」と二人揃って右に折れた。
「ああ、わかった」と頷くナインに小さく問う。
「お風呂で?」
「そう」
「だって、それじゃ一緒に・・・」
「うん、今頃二人っきりだね」
それに気付いているのかどうか、頬を真っ赤に染めて無言のままのスリー。
僕もきみと二人っきりになりたいと言ったら、何て答えるだろうか。
「えっ!?」
ナインはその様子に苦笑すると、その手を外してスリーの鼻をつんとつついた。
「・・・わかったわ」
「湯冷めするなよ?」
――でも。
まだ時間が早いせいか、大浴場には自分ひとりしかいなかった。
男湯の方からは誰かの鼻歌が聞こえてくる。
こちらに聞こえてるの、知らないのね――とくすくす笑いながら踏み出すと。
「うん。こっちはひとりなんだ。そっちもひとりかい?」
「ええ。貸切よ?」
それは、お風呂に入ったらおそらく昭和世代のほぼ8割が頭に浮かぶであろう、あの曲だった。
「何が」
「先にみんなと一緒にお風呂に入るのでも良かったっていう意味よ」
「ふん」
「これじゃ、いかにも一緒にお風呂に入るのは慣れてます――って言ってるみたいで恥ずかしいわ」
「本当のことだろ」
「・・・そうだけど」
「えっ?」
「僕はどっちでもいいよ」
いったい彼はどうしたいのだろう?
一緒にいたいのか、そうではないのか。
たかがお風呂とはいえ、フランソワーズは混乱した。
「どう、って・・・」
「そうかな」
「そうよ」
「そうでもしないと二人っきりになれない」
ジョーはごろんと仰向けに寝そべり、フランソワーズの膝に当然のように頭を預けている。
そのジョーの額にかかる髪をよけながら、フランソワーズは自分だけの特権である彼の両目を見つめた。
「いや。きみのナビがいいから」
「またそんな事言って。――本当かしら」
「本当だよ」
「お風呂は後にして、夕食の前に少し休んだ方がいいわ」
「うん――そうするよ」
フランソワーズはそのまま屈んで、彼の額にくちづけた。
「気を遣ったのよ。ナインとスリーに」
「そうかあ?」
しかし、温泉旅行の話を三人の009で計画している時、彼は至って普通の男子にしかみえなかった。
つまり、もしかしたらスリーと一緒に泊まることになるかもしれない、そうしたらあれやこれや――と。
普段、なかなか二人っきりになれない彼らだから、余計に楽しみにしていたのかもしれなかった。
「そうかなあ」
「もうっ、ジョーったら」
仕方の無いひと――と呟いて、彼の唇に唇を寄せる。
009たち、ゴメンナサイ。次回は3部屋にするから!
周囲には何も無い、木々に囲まれたこじんまりとした宿である。
「絶対、泊まったことがあるな」
「いや。・・・僕達が3部屋押さえたら申し訳ないなと思ってさ」
それは、各ペアごとの部屋割りと考えれば妥当な部屋数だった。
迎えに出ていた宿の人間が荷物を運び入れるのを手伝ってくれる。
チェックインする前に、6畳ほどの和室へ通された。そこでお茶とお菓子をふるまわれ、ゆったりと寛いで台帳に名前を記入してゆく。
「ああ。きみ、書いておいてくれ」
「・・・フランソワーズはどうする」
「フランソワーズ・アルヌールでいいんじゃないか?」
「いや、でも、こういうところは夫婦じゃないと同じ部屋に泊まるのは・・・」
003たちはというと、三人揃うとおしゃべりに忙しく、彼らには構っていられないのだった。
「いいえ。2部屋の御予約で承っておりますが」
「いや、それは何かの手違いです。予約は3部屋・・・」
「ありがとうございます」
腑に落ちない――といった風情でもうひとつの部屋におさまり、男3人無言で卓についた。
「いや、そんなことはないだろう」
「じゃあ、わざと・・・?」
「ほんと。お洋服もバッグに入ったままだわ。こうやってかけておかないと皺になっちゃうのよ?」
「浴衣もちゃんとあるから、ここに出しておくわね?」
「別に、どうもしないよ」
超銀ジョーがフランソワーズからお茶を受け取りながら口火を切った。
「本当は3部屋のはずなんだ」
そんな彼をちらりと見て、超銀フランソワーズはすました顔で答えた。
「あら。間違えてないわ。合ってるわよ?」
新ゼロフランソワーズもスリーも小さく頷いた。
「009と003に分けるのが何か変?」
「いや、そうじゃないけど」
「じゃあ何?」
「いいじゃない。楽しくて」
「いや、そうなんだけど・・・」
お互いカップルで別れて泊まるのがいいな――とは、ちょっと言えないのだった。自分のフランソワーズに甘えて言うならまだしも、ここには他のフランソワーズもいるのだ。009の威厳を失墜させるわけにはゆかない。
スリーが真面目な顔で言い放つ。
「それに、そういうのってこういう宿はうるさいのよ?断られちゃうんだから」
それを横目で見て、009たちはナインにオイ何とか言えよと目で促す。
「――そうだな。スリーの意見は正しいよ」
低い声で言う。
言いたいことはたくさんあったが、彼の隣にいるスリーの手前、そして同じ009として、彼の面目を保たなくてはならなかった。
先日、みんなで温泉に行かないか?と話した時に、それぞれのカップルごとに泊まることも含めあらゆることを考え楽しみにしていたのは誰でもないナインそのひとだったのだから。
その思惑がすっかり外れて、一番不機嫌なのはナインだと言えるわけがない。
「ほんとほんと。絶対、楽しいわ!」
「話したいことがたくさんあるのよ」
一方、003たちはというと――
「いいじゃない、女子と男子に分かれたって」
「そうよ。運転が得意なんでしょう?カーナビだってあるんだし」
「ダメよ。たまには自力で運転しなさい」
「休日なのよ?今回はスイッチはいれません」
「あら、あなたは009でしょう?道に迷うわけないじゃない」
新セロお嬢さんの台詞に慌てるふたりの003。
新ゼロお嬢さんが慌てて口元に手を当てるけれども時既に遅し。
にやにやしながら新ゼロジョーが言った。
3列シートなのだから、つまりそれぞれ二人一組で並んで座れば良いだろうというのが009たちの意見。
いっぽう、003たちは車中でお喋りしたいから、三人並んで座りたいという。
助手席にも座りたくないという003に、それは譲れないと頑張る009たち。平行線だった。
「ダメ。今回は009同士並んで座って頂戴」
「あんな風に言われたら、ちょっと負けそうになるわよねぇ・・・」
「ジョー!もうっ、驚くじゃない」
「うん。僕もやってみようと思って」
「何を?」
「おねだり。もしくは泣き落とし」
「何よソレ」
「言葉通りだよ。――アイツの言う通り、009の隣には003がいるべきだと思わないかい?」
「それはそうだけど――」
「だろう?だったら大人しくそうすればいいじゃないか」
「でも、今回は任務じゃないのよ?それにカーナビだってついてるんだし、たまには休ませて欲しいわ」
「――僕はきみのナビがいい」
「ダメよ」
「・・・フランソワーズ」
「ダメだったら・・・」
「命令すればいいじゃないか」
「命令?」
「しないわよ?」
「そう、しない・・・ええっ?」
「何言ってるのよナイン。当たり前でしょう?」
「イヤ、しかしだな」
「だってこれはミッションじゃないのよ?遊びに行くのよ?命令なんてイヤだわ」
「だけど」
「・・・ナビをして、なんて言わないで、ちゃんと言ってくれればいいのに」
一瞬、三人の009がお互いの意志を確認するかのように視線を交錯させ。
そして。
進みません・・・すみません。
「そういうきみのだって全員乗れるわけじゃないし、大体、あんな派手な塗装の車になんて乗りたくないね!」
「何だと?」
「何だ。本当のことを言ったまでさ」
「もう一度言ってみろ」
「ああ、何度だって言ってやるさ。派手なんだよ、は・で!――あんなの、まるでどこかの暴走族じゃないか」
「――アラ、乗ってみたいわ、私」
「きみは黙っててくれ」
「まあ。だったらナインだけ乗らなければいいじゃない」
「まったく、きみは――!ややこしくなるから、黙っていたまえ」
「だけど、俺の車をバカにしたんだぞ」
「してないわよ。本当のことを言っただけじゃない」
「本当のこと、って・・・フランソワーズ」
「だって、そうとう目立つわよ?気付いてないの?」
「そうだね」
「あなたはいいの?」
「何が」
「どの車で行くかの相談に加わらなくて」
「――くだらない。どうせ、004のワゴンを借りないと無理だ」
「・・・そうだけど」
「やらせとけ。僕は興味ない」
それぞれの隣には003がいる。
更に、リビングの向こう側のソファにも一組の009と003。
行く先は決まっている。008のコネで、こじんまりした宿もとれている。
微妙に近い距離なので、電車で行くよりも車の方が便利だった。それに――009が三人集まったらどうなるか・・・を考えると、003としてはひとめのない方が良いだろうと思うのだった。
「目立つわよ。知ってるひとが見たら、「ああ、ハリケーンジョーが乗ってる車だ」ってバレバレよ?」
「そんなの言われたことないよ」
「みんな気を遣っているのよ。だって、言ったらあなた拗ねるじゃない」
「――そんなことないよ」
「あるわ。・・・ホラ、今だってちょっと拗ねてる」
「拗ねてない。怒ってるんだ」
「はいはい。そうね」
「大体、全員同じ車で行かなくてもいいじゃないか。それぞれが出せば」
「だって、せっかく揃っていくのよ?バラバラだったら現地集合でもいいじゃない」
「――その手があったな。今からでもそうするか」
「イヤよ。私たちは一緒に行くの楽しみにしてるんだから。――ね?フランソワーズ」
そもそも、リーダーシップを取りたがる男が三人集まれば、決裂するのは目に見えている。
かろうじて誰も帰らずにいるのは、003が怖いからだった。
そして、嵐の後には――豪雨になるのだ。
「意外と大丈夫なのよ。風もそんなに受けないし」
「あら、どうして?」
「・・・なんで他の男の車にきみを乗せなきゃならないんだ」
「他の男って・・・009よ?」
「奴はニセモノの009だ」
「もー、何をバカなコト言ってるの!」
「でも、空を飛ぶし、海も走るのよ?凄いじゃない」
「それでもダメだ!もし落ちたらどうするんだ」
「ナインったら。きっと大丈夫よ。彼はアナタと同じレーサーなんだから、整備はきちんとしてるわ」
「そういう問題じゃない。ダメだったらダメだ!」
「もう、ナインったら」
「ふざけてないよ、別に」
ねっ。フランソワーズ?と、腕の中の彼女に笑いかける。
新ゼロのふたりは、いつものように009の膝の上に003がいるのであった。
「あいつらより、ずーっと真面目だ」
009はごくごく自然に003の膝枕で横になり、すっかりリラックスしているのだった。
とはいえ、旧ゼロのふたりはずっと手を繋いだままだったのだが。
そんなわけで、「昭和の009」三組です。
どれが誰の台詞かわかるでしょうか。
・・・非常にヤヤコシイです。三人の009と003。でも、仲良し度はどこもひけをとりません。
でもって、話が進みません。
おそらく009に相談させていたら何も決まらないでしょう・・・(前回の超銀・新ゼロの夏休みのように。
それに反し、フランソワーズは朝から上機嫌だった。ジョーの不機嫌さにも気がつかないほど。
――否。実は気付いているのかもしれなかったが。
「ええ、そうよ?どこか変?」
「・・・イヤ、変じゃないよ」
「僕はどうでもいいんだよ」
フランソワーズにネクタイをきゅっと締められ、小さく咳をする。
満足そうに頷きかけ――その目が彼の左手で止まった。
「今日はマスコミはいないから、いいんだよ」
「アラ、どうして?」
「どうしても」
「やーね、怖い顔して。一人でも迷子になったりしないわよ」
「そうじゃなくて」
「もう・・・ジョーったら」
「それならいいけど」
「またつければいいだろう」
「だめ。あなたがキスすると、出かけられなくなっちゃうもの!」
「軽いキス」と思っていたのがそうではなくなり、結局出掛けるどころじゃなくなったことが過去に数回あるのだ。
「コンタン、って・・・」
「ただ、何?」
「――何でもない」
どんなにフランソワーズがなだめても、彼の不機嫌は一向に改善される見込みがないのである。
いっそのこと、何にもしないよという無害な顔してさっさと胸元に痕でもつけてしまえば、このドレスを着替えざるを得ないよなと思いつつも、彼女がこのドレスをとても気に入っているのを知っていたので思い留まる。
もし実行したら――そして、その気は満々だったが――フランソワーズが大暴れすることは明らかだった。
ジョーとしては、それでも全く構わなかったし、どんな嵐でも受け止める覚悟ではあるのだが、当の彼女がどんなにこの日を楽しみにしていたのかを知っていたのでやめた。
「もう、ジョーったら。朝からそれ言うの何回目?」
買ったのは自分なのだから文句を言えないはずなのだが、渋るジョーに反して勝手に決めて購入したのはフランソワーズだった。
目の前に現れては消えるフランソワーズの姿にジョーは険しい視線を向けていたが、どれもこれも気に入らなかった。
彼女の白い肌とよく合う淡いピンクの光沢のある布地。
ハイウエストに結ばれたリボンがほどよく胸の膨らみを強調する。
「でも・・・」
けれども彼は依然として何も言葉を発しない。
フランソワーズとしても、このドレスは気に入っていたのだった。
「・・・・・・えっ?」
「そうかしら。後半、何にも喋らなかったじゃない。寝ちゃってたの?」
「寝てないよ」
「アヤシイ」
「寝てない、って。――で、結局どれにしたんだい?」
「はあ?」
「いっぱい着たからわからない」
「一番最後のよ。薄いピンクの」
「――・・・・・・」
「どうして?」
「どうして、って・・・・」
それともフランソワーズは、更に僕の忍耐力を確かめようというのだろうか?
「いや、似合ってたよ、すごく。――だけど」
「そう?良かった」
12月19日
「・・・ドレスアップしてお越しください、って書いてある」 フランソワーズはジョーの持っているF1の雑誌を取り上げた。 「あっ。何するんだよ」 ジョーの手は虚しく空を切る。 「だめよっ。さっきから私の話、ぜんっぜん聞いてないじゃない」 一向に雑誌を返してくれる気配のないフランソワーズに、雑誌の奪還を諦め、ベッドに仰向けに寝転がる。 「ほらっ!やっぱり場所はホテルじゃない!」 ジョーが適当に言った「どこかの店を貸しきる」のとは全然違うのだった。招待状に印刷されているそれは、由緒正しい老舗のホテルなのだ。そこの宴会棟のワンフロアを借り切っての大宴会。ワンフロアといっても、収容人数数百人を越えるホールが4つもある。更に、休憩室としての部屋も何個もある。 「んー?」 ジョーの物憂い声に、フランソワーズは招待状を手にしたまま、ジョーの隣にダイブした。 「もお。ちゃんと見て!」 自分が飛び込んだせいで揺れて弾むベッド。それをものともせず、そのまま匍匐前進してジョーの胸の上に辿りつく。 「動かしたら読めないよ」 目を細めて睨むフランソワーズに、ジョーは小さく舌を出すと両手で胸の上の彼女を抱き締めた。 「代わりに読んで」 そうして二人で確認したところ、やはりどう読んでも場所はホテルだったし、フォーマルな格好で来いと書いてあるのだった。 「・・・どうしよう。私、ドレスなんて持ってないわ」 なんとなく話の方向が見えてきて、ジョーは心中ため息をついた。 「いいだろう、別に。勝ち負けなんてないさ」 びしっとジョーに向かって人差し指をたてる。 「いい?私が古いデザインのワンピースで出席したら、ああ、島村ジョーの彼女ってあんな格好しかさせてもらえないんだ、島村ジョーってけちだなーって言われちゃうのよ?」 欠伸をしかけたところ、フランソワーズの顔が正面にやってきて慌てて欠伸を噛み殺す。 「ううん、そうじゃなくても、島村ジョーの彼女のフランソワーズ・アルヌールってださいなーって言われるのよ?島村ジョーの趣味って悪いなって」 フランソワーズの思惑通りに運んでいるのはわかっていても、それでもやはり、フランソワーズの悪口を言われるかもしれない・・・という想像は楽しくなかった。 「んー・・・・わかったよ」 よいしょ、と言いつつ、フランソワーズを胸に抱き締めたまま上体を起こす。 「新しいの、だろう?」 去年と今年の流行にどのくらいの差があるのかなんて全くわからなかったが、ともかくジョーはフランソワーズが嬉しそうなのでよしとした。それに、一緒に出かける身としては、いつもよりも更に綺麗で可愛いフランソワーズを見てみたい。 「――僕が選ぶ」 途端に嫌な顔をするフランソワーズ。 「イヤよ。どうせまた、これはダメあれもダメって言うんでしょ?」 何故か「出かけるための服」を買いに行く時に限って、ジョーは積極的に買い物に付き合ってくれるのだ。 「当たり前だ」 フランソワーズが選ぶのは、確かにデザインも凝っている可愛くて綺麗なものが多いのだが、いかんせん、肩が出ていたり背中が大きく開いていたり、デコルテをこれでもかと見せるデザインだったりするのだ。 膨れるフランソワーズを抱き寄せ、そっと頬にキスをする。 「――本当は、僕のフランソワーズを誰にも見せたくないんだからな」 でも好き。
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12月14日 (注:「ジゼル」のお話は昨日で終了してます)
「――そういえば、フランソワーズ。ちゃんとチケットは予約できているのかい?」 血の気が引いた。 「ヤダっ。すっかり忘れてた」 枕にしていたジョーの膝から頭を起こす。 「わっ。フランソワーズ、危ないなあ」 あやうくジョーの顎に頭突きをするところだったが、そんなことには構っていられない。 「だって、それどころじゃ――」 両手を頬にあてて少し考え。そして上目遣いにジョーをじっと見つめた。 「・・・なーんて言って、そんなこともあろうかと僕が買っておきましたっじゃーん!・・・とかあったりして」 ジョーは雑誌を傍らに置いて、フランソワーズの鼻をつんとつついた。 「ジゴクのような一ヶ月を耐えた男に多くを求めるなよ」 毎年、クリスマスから年末年始はパリで過ごす。ジャン兄と三人で。それが恒例だった。 「うん。うっかりしてた。でもフランソワーズはしっかり者だから、ちゃんとチケットを予約してたかなと思って」 今から約10日後の航空券を確保するのは難しい。 「・・・あ、でも」 フランソワーズがふと微笑む。寂しそうに。 「・・・行ってもお兄ちゃんは一緒じゃないんだったわ」 昨年から、兄は別のひとと過ごすようになったのだった。 「だったら、行かなくても・・・」 ジョーがそうっとフランソワーズを胸に抱き寄せた。 「何とか手を回してチケットを確保するから。そんな顔しないで」 ジョーの胸に頬を寄せながら、彼の鼓動を聞いて。 「――ううん。今年はいい。行かない」 ジャン兄は別に悪くないと思うよ?と思いつつ、ジョーはフランソワーズがただ強がって言っているだけじゃないかと心配だった。 だって、今はそう言っても後になって、泣くんじゃないか? やっぱりイワンに頼むか――と考え始めたジョーの膝に、再びフランソワーズは頭をのせた。甘えるように。 下から視線を感じ、ジョーは落ち着かなくなる――のも、いつものことだった。 「フランソワーズ。本当にそれでいいのかい?」 ジョーとジャン兄は仲が良い。一緒にワインを飲んだり、オセロをしたり。並んで煙草をすったり。連れ立ってアヤシゲな店に行っているような行っていないような。 「でね、そういえば、ジョーのお仕事関係で確かパーティがあったわよね?」 忘年会とクリスマスを兼ねて、スポンサー主催のパーティがあるのだった。家族を連れて来るのは歓迎される。 「それに行ってみたいな」 キャンペーンガールたちをはべらせて御機嫌なのだ――とは、さすがにちょっと言いづらい。 「ね、だめ?一緒に行くの」 まだ出欠の返事を出していないので、何とでもなる。 それらを瞬時に考えた。 「・・・じゃあ、行ってみるか」
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12月13日
「で?お花はどこなの?」 唇を離して、ジョーの胸にうっとりともたれていたフランソワーズが身体を起こした。 「そうよ。お花を持って楽屋に来てくれるって約束したでしょう?」 ジョーの背後をきょろきょろ見回す。 「・・・花なんて。さっき先生にあげちゃったよ」 ぷいっと横を向くフランソワーズ。腕組みをして。 「知らない」 対するジョーも軽く頬を膨らませて拗ねる。 「だって、恋人からお花をもらうのって定番なのよ?女の子の永遠の憧れなのよ?」 それをわからないなんて。 「・・・今までさんざん持って来ただろう?」 オンナゴコロがわかってない、ジョーのばかばか、と彼の腕を拳で叩くフランソワーズ。その両手首を握りしめ、ジョーは彼女の耳元で囁いた。 「――記念なら、ドライフラワーなんかよりこっちの方が僕は好きだな」 そうしてジョーはフランソワーズを引き寄せ、舞台衣装の肩紐を少しずらし――胸元に唇をつけた。 「えっ?ヤダ、ちょっとジョー」 ちゅ。という音がして、微かに痛みが走り――ジョーが顔を上げたときには、白い肌にくっきりと赤い痕がついていた。 「――記念」 にやりと笑うジョーに、フランソワーズは真っ赤に染まった。 「きき記念、って・・・」 しょっちゅう貸し出されたらたまらないわ。 「私はいつでも、あなたのよ」
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フランソワーズが着替えている間、ジョーは廊下の壁にもたれて待っていた。 「お待たせっ」 急いで着替えたのか、頬をピンク色に染め息を弾ませて現れたフランソワーズにジョーは息を呑んだ。 真っ白い一枚仕立てのカシミヤのコートを着て、淡いピンクのふわふわのマフラーをした彼女は信じられないほど可愛かった。今朝、この姿でギルモア邸を後にしたはずだったが、あいにくジョーはその姿を見送ってはいない。 「――ふ」 フランソワーズ。と呼ぶ声が喉に絡む。 「さ、行きましょ」 彼女の髪が頬を掠める。ふわっと漂う甘い香りに、ジョーは気が遠くなりそうだった。 「後で張々湖飯店にも行きたいな。ジョー、迎えに来てくれる?」 答えたものの、自分が何に答えたのかわかっていない。 「――そういえば、ジョーから今日の感想を聞いてなかったわ」 ジゼルを観ていた時の自分。 「――フランソワーズじゃなくて、ジゼルだなぁ・・・って」 だから、舞台で誰の恋人を演じようが平気だった――と、思う。 「・・・そう。ジゼルだったのね、あなたの目には」 もしもそう見えてなかったなら、完全なる失敗だった。この一ヶ月、頑張ってきたことが全て無駄になる。 「ジゼルって凄い話だなって思ったよ」 駐車場に着き、ストレンジャーの置いてある所へ向かう。 「――まぁ、解釈はたくさんあるみたいだけどね」 以前、ネットで調べたのだった。 「フランソワーズ。きみは助手席。向こうに回らないと」 ジョーの腕をがっちりと抱き締めたまま、フランソワーズは離れようとしないのだ。 「ほら。――遅れるよ?」 先刻まで笑顔で、――少しばかり饒舌だなと思うくらいテンション高く話していたのに、突然無口になって俯いたままのフランソワーズを持て余す。 「いったい、どうしたんだい?」 ぐす、と鼻をすする音がして、ジョーはフランソワーズが泣いている――かもしれないことに気がついた。 「フランソワーズ?」 俯いた顔を覗きこむけれども表情は見えなかった。 「ヤダ。・・・・行きたくない」 ジョーのジャケットの裾を掴み、いやいやをするように首を横に振る。 「・・・主役がいないとみんながっかりするよ?」 その頭をそうっと撫でる。 「イヤ。行かない」 その声にフランソワーズは顔を上げた。既に涙でぐちゃぐちゃだった。 「あーあ、そんなに泣かなくても」 フランソワーズの剣幕にジョーは驚いて口を閉じた。 「私が、さっきからどんなに不安だったかわかる?・・・もしかしたら、ジョーは、・・・・たとえ一ヶ月でも誰かの恋人になっていた女なんか嫌いになっちゃったかもしれない、って怖くて怖くて」 その瞬間、ジョーは渾身の力をこめてフランソワーズを抱き締めていた。 「――ジョー」 力の加減なんてできなかった。フランソワーズが壊れてしまうかもしれないとちらりと脳裏をよぎったけれども、壊れてしまっても構わない――とも思った。 「――ごめん」 しばらくしてからジョーがそうっと力を緩めた。思わず息をつくフランソワーズ。抱き締められている間、まともに呼吸ができなかったのだ。 「――我慢してたのに」 だから、家に帰るまでぎゅうっと抱き締めるのは我慢するつもりだったのに。 「利かなくなっても、私はいいわよ?」 妖しく微笑むフランソワーズに、ジョーは残っていた理性をかき集め、霞む頭をひとつ大きく振った。 「――フランソワーズ。そんなことを言ったらダメだ。きみはこれから打ち上げに行くんだから」 そう言ったジョーに不満そうに唇を尖らせ、フランソワーズは小さく言った。 「明日からなんてイヤ。どうして今晩から、って言ってくれないの?」 ジョーは一瞬目を瞠り――そうしてにっこり微笑んだ。 「――甘えんぼだなあ」
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「ジゼル」は新聞のみならずバレエ関係雑誌各種にも特集された。中でも、主役を演じたフランソワーズ・アルヌール嬢を絶賛する記事が多かったのは言うまでもない。
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12月12日
アズナブールはじっとジョーを見つめ、そしてその腕に大事そうに抱き締められているフランソワーズを見つめた。 アズナブールは軽く息を吐いてから、改めてジョーの顔を見た。 「――乱暴なのは感心しないな。女性を扱うときはもっと優しくしなければ」 芸術家のアズナブールから見れば、レーサーである自分など、ただの粗野な男としか映らないのに違いない。 ジョーはフランソワーズを抱き締めている腕を静かに解いた。 二人の男の視線が正面からぶつかる。 数瞬後、ジョーは大きく息をつき、肩の力を抜いた。 「・・・素晴らしい舞台でした」 ジョーの言葉をアズナブールは軽く肩を竦めて受け流す。 「今までありがとうございました」 ジョーから花を受け取り、くすりと笑む。 「きみも頑張ったな」 ジョーはしぶしぶといった風情で頷いた。 「今までが間違っていたとは思いませんが、・・・でも、――ええ。大丈夫です」 アズナブールは一歩前に出て、二人の遣り取りをじっと聞いていたフランソワーズを見つめた。 「――先生」 フランソワーズは無言で頷く。その肩にそっとジョーの手が置かれる。 「あの、・・・ありがとうございました」 にっこり笑む。が、フランソワーズに触れはしない。 「またいつか、きみのジゼルを見せてくれ」 それだけ言って、歩き出すアズナブールをフランソワーズとジョーは並んで見送った。
「きみたち、打ち上げには行かないのかね?」 びくんと弾かれたように姿勢を正すその姿にアズナブールは苦笑した。 「早く着替えてこないと遅れるぞ」 アズナブールを見つめ、更にはその背後の二人を見つめ。 「あの、いったい」 両手で彼女たちの背中を押して促しながら。 ――全ては「ジゼル」のためとはいえ・・・ あわよくば、って思っていたけどね。
*** ***
アズナブールの姿が見えなくなり、ジョーとフランソワーズはいまここにお互いしかいないことを突然意識した。 何とも不思議な気分だった。
「あの・・・ジョー?」 おずおずとフランソワーズが声をかける。遠慮がちに。 「舞台、観てくれたのね」 そう言ってジョーはちょっと笑った。 ジョーの胸に飛び込みたい。 しかし、二人の間にあるこの緊張感は何だろう?一種のよそよそしさを醸し出している。 ジョーがすぐそばにいるのに。 胸を黒く覆ってゆく不安は消えない。むしろ、更に気持ちが沈んでゆき冷たくなっていくようだった。 ――ううん。ジョーは大丈夫。一ヶ月離れたからって私のことを好きでなくなるはずがない。 不安な気持ちを一生懸命否定する。ジョーを信じる気持ちを喚起して。 「――フランソワーズ」 掠れたような喉が詰まったような変な声で呼ばれた。 「・・・触っても、いい?」
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ジョーは隣に佇むフランソワーズを見つめ、思案した。 ――とはいえ。 いま傍にいるフランソワーズは、先刻まで舞台にいたバレリーナであり、舞台上では他の男の恋人だった。一途に思い続け、逞しくも彼を守り愛を貫いた。 違う。僕はフランソワーズを信じているし、こうして今も彼女のことを・・・・ 抱き締めたい。 そうするにはどうすればよかったのだろう? 気付くと問うていた。 「・・・触っても、いい?」 言った途端に舌を噛んで死んでしまいたくなった。全く、何を言い出すのだろう?こんな台詞、今まで一度だって言ったことはない。わざわざ許可をとるような、聞きようによっては何だか変質者のような。 「――今の、ナシ!!何でもないっ」 思わず身を引いて言い放つ。 「何よ、ナシ、って」 対するフランソワーズは睨むように目を細めた。 「いいわよって言うつもりだったのに。――触りたくないの?」 フランソワーズの台詞に瞬時にパニックになる。 ささ触る、ってどこ、を? ひとりでパニックを起こしているジョーに構わず、フランソワーズはネクタイに手をかけてぐいっと引いた。 「ぐっ。おい、いったい何を――」 そうしてジョーの唇は柔らかいものに覆われた。 「たっ・・・ちょっと、ふら」 パニック中のジョーは更にパニックを起こし、そのまま後退した。が、ネクタイを引くフランソワーズの手は緩まない。 「もー!黙って!」 一瞬、唇を離し、至近距離から蒼い双眸が睨みつける。 「私とチューするのが嫌なの?」 そのまま再び唇が塞がれる。上唇を軽く噛むように触れられ、そして下唇をなぞられ。 「――もう。ジョーってば。ちゃんとして!」 ジョーが言葉を発した途端、狙いすましたようにフランソワーズはキスを深めた。 ――フランソワーズ・・・ フランソワーズが身を引こうとした時、今度はジョーが彼女の身体を引き寄せ、抱き締めた。 「んっ。ジョー・・・」 そうして今度はジョーから彼女へ。
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「ああ、こっちだこっち。――ったく、知ってる知ってるって全然違うほうへ行くんだからなあ」 フランソワーズの控え室へ向かう途中、場所を知っているというグレートの言葉を信じ、すっかり迷っていたギルモア邸の一行がやっと目指す場所に着いた。 が。 「うわっ。何だありゃ」 廊下の先には、ちょうどジョーの唇を奪ったフランソワーズの姿があった。そのままジョーが壁に押されて。 「――ほう。やるじゃないか」 一行が見守る中、今度はジョーがフランソワーズの唇を奪った。 「お、反撃か?」 え? 最後の台詞はギルモア博士だった。 「ええと、まあその、何だ。何があったのか知らねえが元通りってことだな」 再び視線が二人に集まる。 「・・・放っておきましょう。いつ離れるかわかったもんじゃありませんぜ」 二人を置いて、引き返す一行。
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12月11日
一ヶ月前。
「フランソワーズ。きみはこのままではジゼルを踊ることはできない」
そう宣言されて、フランソワーズの世界は静止した。 レッスンのあと、アズナブールに連れられてカフェに来ていた。テーブルを挟んで向かい合って座っている。 「・・・そんな」 しわがれた声も、とても自分のものだとは思えない。 「ジゼルだけではない。他のどんな演目も無理だ」 険しい瞳で見据えられ、フランソワーズは胸が詰まり息が苦しくなった。 「何故だかわかるか?――きみはこの世界にたった一人の人間しか見えていないからだ」 そんなことない――と否定したいのに声が出ない。 「そんなきみに「演じる」ことができるとは思えないのだ。ジゼルを降りるなら、今のうちだ。早いほうがいい」 ジゼルを降りる。そんなこと、思ってもいなかった。 「――それは、私のテクニックの問題なのでしょうか」 それならば仕方がない。確かに、ダメ出しは多く、何度やってもうまくなったという自信はなかった。 「違う。そうではない。そうであればダメ出しなどしないでとっくの昔に降ろしている。――そうではなく、きみの表現する役ができてないと言っている」 あまりにも直接的な物言いにフランソワーズは声もない。 「きみの心のなかにいるのは、いつでもあの彼ではないのかね?全てのキャラクターを演じるときも、彼にあてはめて考えていないかね?そうであれば、演じる役はどれもみな同じ。素のままのきみ自身に他ならない。演じているつもりでも、演じていないのだ」 確かにその通りだった。かといって、それをどうすればいいのかわからない。 「――ならば、しばらく「演じる」ことに専念してみる必要がある」 例えば、ドラマなどで犬猿の仲を演じる同士は普段からも反目しあい挨拶もしないという。役になりきるために。 「これから約一ヶ月の間、彼を忘れてジゼルに集中する。できるかね?」 一ヶ月もジョーと話さないなど考えられなかった。 「フランソワーズ。いいかね。きみは今のままでは何も演じることはできない。が、「演じる」ことがどういうことなのか、どうすれば役に集中し演じることができるようになるのか。その集中の仕方を学ぶ必要がある」 ジョーを? 「そんなの、無理です」 いったん、言葉を切る。 「――彼が迎えに来たから、一緒に行ったんだね?フランソワーズ」 それを肯定することは、あの当時、お互いに思い合っていると信じていた事が事実ではなかったとアズナブールへ伝えることになる。 「・・・私、」 困ったような、憐れむような表情のフランソワーズがその答えだった。 「そんなに大事な彼を、演技とはいえ忘れることができるかな、フランソワーズ」 自信がなかった。だから、答えることができない。 「もちろん、これには彼の協力が必要だ。ちゃんと許可をとらねば、いくら私と恋人役を演じても台無しだ。きちんと説明して、彼に協力を仰げるかい?」 わからない。 「一ヶ月、きみを私に預けて欲しいと伝えてくれないか」 黙ったままのフランソワーズに更に言葉を重ねる。 「きみのために必要な事なのだ」 彼が本当にきみを思うのであれば――承諾するはずだ。 それができない男なら、私はきみを・・・
***
その日の夜。
話があると言われ、フランソワーズの部屋へ行ったものの一向に用件を切り出す様子がない彼女にジョーは訝しげな視線を向けた。 「――フランソワーズ。話ってなに」 フランソワーズはジョーの声にびくんと肩を揺らした。 「何か言いにくいことなのかい?」 そうしてゆっくりと顔を上げ、ジョーの瞳をじっと見つめた。 「――相談があるの」 言ってごらん?と促す褐色の瞳に安心し、フランソワーズは今日のアズナブールとの会話をジョーに話して聞かせた。 事情を知り、ジョーは目を瞠り――けれども、真剣な様子のフランソワーズに、これはちゃんと考えなければならないと肝を据えた。 これから一ヶ月間、フランソワーズは自分のものではなくなる。 それは、考えただけでも耐え難いことだった。 しかし。 間違いなく、この「ジゼル」でフランソワーズは変わる。変わるべきだとバレエ団は思っているのだ。 伸びる実力がない者にダメ出しをする者はいない。 ジョーはよく知っていた。自分も厳しい勝負の世界に身を置いているのだから。 いま、フランソワーズが成長するために必要なのは、自分という枷を外すことだった。 「――わかった。いいよ」 勝負の世界に立つ彼女に、自分の庇護は要らない。それをちゃんとわかっているのだ。彼女の師である彼は。 「本当に?」 僕のフランソワーズ。 「きみを一ヶ月間、貸し出すことに同意します」 誰が貸しっぱなしにするものか。 「・・・私が、演技の世界から戻れなかったら?」 フランソワーズの不安そうな声にジョーは苦笑した。 「ばかだなぁ。忘れるわけないだろう?――僕の顔を見れば、すぐに思い出すよ。フランソワーズが僕を忘れるわけがない」 フランソワーズの両肩に手をかけ、正面からじっと見つめる。 「ちゃんと僕を見て。――そんなに僕を信じられないかい?」 誰よりもきみが大切だから。 「――でも・・・ジョー、大丈夫?私がそばにいなくても」 僕がそばにいなくても。 「――泣いちゃダメよ?」 お互いに会えなくても。それは必要な事なのだから。 お互いに、頑張る。 「・・・約束よ?」 お互いに頑張る。 「ああ。・・・期限は最終公演が終わるまで――で、いい?」 そうして、最後のキスを交わした。 明日からは知らない者同士になるのだ。
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12月10日
綺麗だった。 やまないカーテンコール。 冷静に観れた――と、ジョーは思う。 以前は絶対ダメだった。とても観られなかった。一度観て懲りた。 ――観に来るのは約束だったもんな。 観客席に灯りがついて、ざわざわと席をたち出てゆく人の波。 「おい、ジョー」 名前を呼ばれ、はっと我に返る。 「なに?」 アルベルトの声に席を立つ。 「もちろん、行くさ」
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終演後の楽屋は賑やかだった。互いに健闘を讃えあい、成功した舞台に涙した。 「フランソワーズ」 自動的に足が止まった。まるでそういう決まりであるかのように。 「――今日のきみは最高だった。ありがとう」 いつものように彼の胸に顔を埋めるフランソワーズ。 「――先生」 フランソワーズはその瞬間、弾かれたようにアズナブールの胸から離れた。 「いいえ。あなたは私にとって、これからも先生です。――今までもそうだったように」 ぎゅっと手を握りしめる。 「――怖いんです」 怪訝そうに眉が寄る。 「怖い、って何がだね?」 しかし、フランソワーズは首を横に振った。 「わかりません。先のことなんて」 舞台が終わったいま、フランソワーズの胸には不安が渦巻いていた。 「・・・怖いんです」
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どんな顔をして会えばいいんだろう? 花束を抱え廊下を進みながら、ジョーはずっと考えていた。 いまさら、どんな話をすればいいのだろう。 大体、こうして中廊下を通って楽屋へ向かうのも初めてなのだ。 ――フランソワーズの部屋はどこだ? 他のメンバーたちとはどこかではぐれてしまった。だからジョーはひとり、キョロキョロしながら歩いていたのだが。 「島村さん?!」 背後から驚いたような声がかかり、立ち止まった。 「――え、っと・・・きみは」 そう自己紹介しながらも、驚いた顔でジョーを見つめることはやめない。 「あの、フランソワーズの部屋はどこかな?」 確かフランソワーズは彼とは別れたはず。 「あの、・・・こういうことを言うのは筋違いかもしれないですけど、いったいフランソワーズに何の用なんですか?」 険を含んだ声で言われ、ジョーはたじろいだ。 「何の用、って・・・花を」 ジョーは真剣なその顔をしみじみと見つめ、――そしてくすりと笑みをこぼした。 「放っておかないよ。ちゃんと観たと彼女に説明しなければ。――フランソワーズの部屋はどこだい?」 しばし無言で考え、結局彼女はフランソワーズの控え室の場所をジョーに告げた。 「ありがとう」 にっこり笑って言い、背を向けて歩き出したその後ろ姿をじっと見つめ――なにか起きそうだと考える。 「――ねぇ、いまのひとって」 近くにいた友人が肩に手をかける。 「うん。フランソワーズの元カレ。音速の騎士よ」 そして、ジョーの後を追い、フランソワーズの部屋へ向かった。
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徐々に人が減ってゆき、完全なる「関係者以外立ち入り禁止」区域になった。 ――フランソワーズ・・・! 花束を持つ手に力が入る。 僕の姿を見て驚くだろうか。 舞台での彼女の姿がフラッシュバックする。 ジョーの心に不安が芽生える。 まさか、フランソワーズは。 そう思いかけ、すぐに否定する。 そんなはずはない。――違う。フランソワーズは・・・ 思わず足を止めた。 「フランソワーズ!!」 驚いたように振り向くその顔を見つめたのは一瞬だった。 「ジョー!?」 一歩足を後退させただけで踏みとどまったアズナブールは、ジョーを認めて唇の端を上げた。 「乱暴だな」 それには取り合わず、ジョーは胸にフランソワーズを抱き締め言い放った。 「フランソワーズを返してもらいます」
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12月9日
「ジゼル」の公演が始まった。 「言葉に尽くせないってどんな意味だよ?言葉にしてもらわないと俺たちにはわからないだろう?」 ウットリとあさってのほうを向くグレートに、小さく「けっ」と喉の奥で言いふてくされるジェット。 「まぁまぁ、ジェット。言わずともわかるだろう?チケットはとっくに完売なんだしさ。当日券だってすぐになくなるって話だし」 冷静に判断するのはアルベルト。 「いや!!いやいやいや、違うのだ!今はフランソワーズ目当ての輩がごまんといるのだぞ」 真剣に言い募るグレート。彼の物言いは茶化すことが多いのだが、今回は全くそのような気配がなく、むしろ己の芸術的センスにのっとって話しているようだった。 「ともかく、あの「ジゼル」は間違いなく本年度のトップになる。話題性も十分だが、何よりフランソワーズが世界へ羽ばたく第一歩になるだろう」
*** ***
自分に与えられた小さな部屋。 ――ジゼル。私は・・・
フランソワーズは初日が成功をおさめたことなど、どうでも良かった。そんな事より、昨日より今日、今日より明日の自分のほうに興味があった。 いま、彼女の心にあるのはバレエのことだけであり、自分がサイボーグであることも全て忘れた。 ノックの音がして、フランソワーズは立ち上がった。鏡に映る自分をちらりと見つめる。 「――アズナブール先生・・・」 アズナブールはにっこり笑って、フランソワーズの額に唇をつけた。 「――私のジゼル」
*** ***
最終日の午後、ギルモア邸には気もそぞろな男ばかりが集まっていた。 リビングはスーツで正装した男たちでいっぱいだった。いつもの赤い服をブラックタイに着替えて。 「ええと、車を出すのはジェロニモとアルベルトでいいな?」 ジェロニモのSUVとアルベルトのワゴンに分乗することになっている。 「花の担当は誰だ?」 ピュンマが仕切って確認をとってゆく。 「俺だ」 ジェットが挙手をする。 「よし。そろそろ行くか」 午後7時開演ではあるが、早めに着いておきたいのだ。 「で・・・」 誰ともなく、天井に目を走らせる。 ジョーはどうするのか、と。 「――行かないだろ。熱々のふたりを観にわざわざ」 彼が今までフランソワーズの踊る姿を観たことはなかった。 「・・・ま、放っておこうぜ」 ぞろぞろと移動し始めた一同と、二階から降りてきたジョーが玄関で出会った。 「ジョー?お前も行くのか?」 ジョーは正装しており、更に手には花束が握られていた。 「行くさ。約束したからね」 それはフランソワーズと別れる前の話だろう? と、誰もが思っても怖くて口にはできない。 「ああ、心配しなくても僕はストレンジャーで行くから大丈夫だよ」 いま、彼の運転する車に乗りたい者などいるのだろうか。 凝固する一同を置いて、ジョーは靴を履いてドアを開けた。 「じゃ、あとでまた」 ゆっくりと閉じてゆくドアを前に、誰もがどう反応すればいいのかわからずにいた。 「――変な奴。付き合っている時は観に行かなくて、別れたら行くのか」 そうだったなと頷きながら、一同もギルモア邸を後にした。
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12月8日
「――ねぇ。最近のフランソワーズって何だか変じゃない?」 そんな言葉が交わされるようになったのは、「ジゼル」のためのレッスンが始まってしばらくしてからだった。 「相手役だから、仲良くしているだけじゃない?」 フランソワーズはここにはいない。 「確か、元カレ・・・ってことだったわよね?」 いないのだった。 「・・・フランソワーズは、ムッシュウ・アズナブールと一緒に帰ってるのよね?」 相手役と恋に落ちる――なんて、少女漫画の世界だけだと思っていたのに。実際に目の当たりにするとは誰も思ってもいなかった。 「ん、まぁ、でも、いいんじゃない?別にあの子がジョーくんと結婚してたってわけでもないし」 フランス人同士だから、話が合うだけだろう――と思っていた周囲の予想は外れた。 彼女を優しくまっすぐ見つめるアズナブール。 誰がどう見ても、彼女が「元カレ」に心変わりしたのは明らかだった。
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「毎回送ってくれなくてもいいのに」 ベンツの助手席で、やや頬を膨らませて拗ねたように言う。 こうしてレッスン後に送ってくるのは一度や二度ではなかった。 「――迷惑?」 硬い声にはっとして首を振る。 「いいえ。そんなことないわ」 それには答えず、外の景色に目を遣る。 「フランソワーズ。集中しろと言ったはずだ」 小さく頷くアズナブールの腕にそっと触れる。 「・・・だめね、私。もっとちゃんとしなくちゃ」 二度目の問いは無視できなかった。 「大丈夫です。私・・・」 車が停まる。ギルモア邸の玄関前だった。 「着いたよ、フランソワーズ」 じっと見つめる琥珀色の瞳。
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「・・・・・」 何度目だっただろう? 見るんじゃなかった。 ともすれば、激情にかられ階段を駆け下り、ふたりの前に行ってしまいそうな気持ちを抑えるのは易しいことではなかった。 これは、自制心との戦いだ。 まもなく車が去り、少ししてから階段を昇る足音が聞こえてくる。 こんなことがずっと続いている。 ノックされないドアを見つめ、いっそのことこちらから開けてしまえとも思う。それはとても簡単なことなのだから。 が、しかし。 ――これは、僕の自制心の問題だ。このくらい、制御できなくてどうする? とはいえ、手を伸ばせば届くところに彼女がいるのに触れられない――という状況はまるで拷問だった。
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12月7日
――僕のフランソワーズ。
ベッドに仰向けに寝転がり、天井に向けて両手を伸ばす。その先に望むものがあるかのように。
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クリスマスムード一色の街。 ポケットに両手をつっこみ、あてもなくただ歩く。 誰も彼に気付かない。 首をすくめ、猫背気味に歩く。 ――フランソワーズ。
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どこをどうやって帰ってきたのか覚えていなかった。そもそも、何をしに街まで行ったのかもわからない。 あの亜麻色の髪に指を絡めて抱き寄せたのは、いつのことだっただろう?
――僕の、フランソワーズ。
ぎゅっと手を握りしめる。 あの幸せだった一瞬を、そのままとっておけたらよかったのに。永遠に。 けれども、直視しなければならない現実というものがある。 彼女は、その相手にも自分に言ったのと同じように同じ言葉を言うのだろうか。
伸ばしていた手がだらりとベッドの上に落ちる。 ぎゅっと目を瞑る。
――フランソワーズ。 今は、僕のものではない。
*** ***
「フランソワーズ、どうかしたのか?」 優しい声が耳に響いて、フランソワーズははっと物思いから覚めた。 「何でもないわ」 にっこり笑う。そして、回した腕に微かに力をこめる。 「ねぇ、それよりこの後どうする?――」 クリスマスムード一色の街。
――ジョーかと思った。 先刻、歩いている時に見かけた金髪に近い栗色の髪。 「フランソワーズ、聞いてるかい?」 柔らかなフランス語で訊かれる。 にっこり笑むと、その頬に唇をつけた。軽く。 「ごめんなさい。ちょっと考えごとをしていたの」 少し怒ったような声に変わる。 「どうもダメだな。――集中しなければ。ん?」 そうして、軽くキスを交わす。
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12月6日
フランソワーズが公演のためのレッスンに入ってから一週間が過ぎた。 「――オイ」 ジェットが隣のピュンマの脇腹を肘でつついた。 「アイツの好きな卵焼きが登場しなくなって一週間になるぞ」 ピュンマがまじまじと隣のアメリカ人を見る。 「ヒマだなぁ」 だからって、あの二人を観察しなくてもいいだろ・・・と、ピュンマはため息をついた。 朝食の席である。 誰がどう見ても冷戦状態だった。 「ごちそうさま」 フランソワーズが立ち上がる。 「行ってきます」とにっこり笑んで小さく手を振り、「いってらっしゃい」と応えるのはいつもピュンマとジェットだった。
最初の数日は、誰もが「いつものケンカ」だと思っていた。だから明日には、すっかり仲直りをしているはず――と。 しかし、一日経っても二日経っても、二人の冷戦状態が緩和する気配はみえず、むしろ更に温度が下降しているようだった。 ――これはただのケンカではない。しかし、だったら何が――? 誰にも何もわからなかった。 「これってまさか・・・、・・・・イヤ、ありえないな」 ポツンと洩らした言葉に反応したのはピュンマ。 「――やっぱりそう思うか?」 アルベルトとピュンマの会話をそばで聞いていたジェットはイライラと髪をかきむしった。 「ダーッ。何だよ、二人して。はっきり言えよ」 が、二組の冷たい視線を浴びて黙った。 「何だよ、オイ・・・」 思わず声を潜める。 「お前、本当に何もわからないのか?」 アルベルトが苦々しく言う。 「わかるも何も、俺にはあの二人が別れたんじゃねーかって事くらいしか思いつかねーよ」 大体、どちらかがどちらかに振られた――となれば、わからないはずがないのだ。 しかし。 「・・・嘘だろ。マジかよ」 円満に別れた――という事なのかもしれなかった。 本当に、「別れた」?
***
「ごちそうさま」 静かな声がして、ジョーを除く他の者は彼の存在を思い出した。 「ジョー、ちょっといいか」 フランソワーズとケンカでもしたのか。 と、言いかけた言葉が舌の上で凍った。 「・・・いや、なんでもない」 ――なんて目をしてやがる。 「そう」 途端にジェットに対する興味を失い、ジョーはキッチンへ向かった。 「――なんだ、アイツ」 いつもなら、ジョーがそういう目をしていると必ずフランソワーズが気づいて、そしてジョーを抱き締める。 「・・・まさか、スルー?」 ジョーを見ないフランソワーズ。 それは、いつぞやの――ジョーがフランソワーズを見なくなった時ととてもよく似ていた。 「おい、待てよ。それって例の王女様の件だろう?」 しかし。 「・・・とうとう、フランソワーズに『本当の相手』というのが現れた。ってとこか」 いつも彼女たちが決まって口にしていた『本当の相手』の存在。 しかし。 「本当の相手、って・・・ジョーじゃないのかよ?」
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12月5日 「白い舞い」と呼ばれる三大バレエのうちの一つが「ジゼル」である。 「私たちのジゼル」 その甘美な響きにフランソワーズは夢中になった。 *** 何度目かのダメ出しをされたその日、レッスンの後アズナブールは落ち込むフランソワーズを誘い、静かなカフェに行った。 コーヒーが運ばれてからしばらくして、やっとフランソワーズは顔を上げた。 「――フランソワーズ」 まっすぐこちらを見つめる強い瞳を見ることができず、フランソワーズはカップを置くと手元を見つめた。 「私はこの「ジゼル」に賭けている」 深く諭すようなフランス語が響く。 「成功すれば、間違いなく私のタイトルの一つになるからだ。――が、しかし、これは同時に君にとってもチャンスのはずだ」 フランソワーズは手をぎゅっと握りしめた。 「私は君が世界へ出てゆくための手助けをしたい。そのために日本に来たのだ」 そんな理由で日本に来たなど、にわかには信じ難かった。 「本当だ。フランソワーズ、君は必ずプリマになる。そのためには、もっと世間に知ってもらうことが大切だ」 フランソワーズはやっと顔を上げた。 「本当に私が」 アズナブールはフランソワーズの不安そうなまなざしを受け止め、小さく頷いた。 「だから君に無様なジゼルを踊らせたくない」 フランソワーズの頬がさっと赤くなった。 無様なジゼル・・・。それは、私のことだわ。 「――大丈夫だ。私がついている」 アズナブールはフランソワーズの手にそっと触れた。 「私が君に、そんなジゼルを踊らせはしない。私を信じて一緒に創ってくれないだろうか?新しいジゼルを」 ジョーに「君は強い子だ」と言われてもなお、不安は消えなかった。 「大丈夫だ。何のために私がいる?」 そうして、彼が出した提案にフランソワーズは同意した。 「私たちのジゼル」を成功させるために。 目標は一つだった。 *** 「――ねぇ、ジョー。お願いがあるの」 その日の夜遅く。 「お願い?」 対するジョーは微かに鼻にしわを寄せる。 「ええ。一昨日からジゼルのレッスンに入ったんだけど・・・」 散々、ダメ出しをされているのだという。 「それで、今日はとうとうアズナブール先生にも呼び出されてしまって、叱られたの」 相手役ではあっても、やはりフランソワーズにとっては「先生」なのだ。 「本気でジゼルをやる気があるのか、って」 ジョーは無言でフランソワーズの髪を撫でる。 「それで、色々話し合って――決めたの。でも、それにはジョーの協力が必要で」 その「協力」の内容を聞いて、ジョーは目を瞠った。 「・・・本気?」 ジョーの肩に頬を寄せていたフランソワーズが身体を起こす。じっと正面からジョーの瞳を見つめる。 「――協力してもらえる?」 ジョーは少しの間、目を閉じて黙った。不安そうに見守るフランソワーズが何か言おうと口を開いた時、やっとジョーは目を開けた。 「いいよ。――わかった。協力する」 けれども、喜ぶかと思いきや、フランソワーズは心配そうにジョーの顔を両手で挟んだ。 「だって、・・・大丈夫、ジョー?」 苦笑まじりに言って、フランソワーズを抱き寄せる。 「むしろ僕は、君の方が心配だよ」 全ては憧れだった「ジゼル」のため。 「途中で挫けたら許さないからな」 その一言に、一瞬、フランソワーズの顔が歪む。 「――ひとりでも頑張れる、フランソワーズ?」 「ジゼル」の上演まであと3週間だった。 12月4日 亜麻色の髪。白い肌。彫りの深い顔立ち。琥珀色の瞳。 その手がそっと伸ばされた。 「フランソワーズ。ともかく――」 いま目の前にいる人は、昔自分が好きだと思い込んでいたひと。 その伸ばされた腕が途中で止まった。 何事かと振り返ったフランソワーズの目に映ったのは、金髪に近い栗色の髪と褐色の瞳の持ち主だった。 「ジョー!」 どうしてここにいるのかなどという疑問は、一瞬頭をよぎったがそのまま手放した。 「ジョー!聞いて!私、ジゼルを踊るの!」 満面の笑みで見つめる。頬を上気させて、きらきらした瞳で。 「ん、フランソワーズ、落ち着いて」 嬉しさ全開で体当たりしてきたフランソワーズをぎゅっと抱き締め返しながらも、いちおうここは公道なんだからと周囲に目を配る。 「ジョー。一緒に喜んでくれないの?」 腕のなかから、拗ねたような怒ったような声が響く。 「んっ?」 フランソワーズに視線を戻す。 「――嬉しいに決まってるだろ?」 額と額をくっつけて。 「でも、あんまり嬉しそうじゃないもの」 そう言われても、なおも不満そうなフランソワーズに苦笑する。 「――だから、気になって一刻も早く知りたくて、迎えに来てしまった」 フランソワーズの髪にそっとキスをして、そうして――目の前の人物に目を移す。 ジョーの不穏な気配に気付いたフランソワーズは、彼の胸から体を引いて振り返った。 「・・・あ」 そういえば、アズナブール先生がここにいたんだったわ・・・! ジョーに会えた事が嬉しくて、会いたいと思っていたら彼が呼ばれたかのように現れたのが嬉しくて。だから、彼以外のものはすっかり頭から消えてしまっていた。 「あの、紹介します。こちらは、島村ジョー。私の・・・お付き合いしている人です」 フランソワーズの声が双方に聞こえていたのかどうか。 ――この彼は、どこかで見たような気がする。 アズナブールは目を細め、記憶を手繰った。 ――どこかで。・・・確か、あれはパリの―― フランソワーズが突然姿を消した前日に見かけたような気がした。が、確信はない。 一方、ジョーは。 ・・・どこかで見たような気がする。 こちらも記憶を手繰る。 あれは・・・パリだろうか? 直接会ったわけではない。だったら忘れるはずがない。フランソワーズの友人であれば。しかも男性ならば。 後でフランソワーズに訊けばいい。 いま問題なのは、この場の妙な空気なのだから。 じっと相対しつつもお互いに一言も発しない。 もし、先生が前のような――私に対する好意が残っているのなら、面倒なことになるかもしれない。 そう懸念した。 けれども、アズナブールを見つめ、どうやらそうではないらしいと見当をつけた。 「――フランソワーズ、きみは・・・」 アズナブールはそう言いかけたものの、いま自分の目の前で起こった出来事をどう言ったらいいのかわからなかった。 ――彼以外は何も見えないのか。 12月3日 携帯を閉じてバッグにしまう。という行動は無意識だった。けれども、瞳はじっと相手を見つめたまま。 「久しぶりだし、ちょっと話したいんだが時間はあるかい?」 ――久しぶり。 なんてものではなかった。いったい何年経ったのだろう? 「あの、すみません。今日はちょっと急いでいるので」 曖昧な笑みを浮かべ、一歩下がる。 「フランソワーズ。もちろん、いきなり会って動揺するのはわかる。しかし、私たちは明日から組むんだし、今から打ち解けていたほうがいいと思わないか?」 でも、今は。 「そんなに緊張しないで欲しい。――フランソワーズ?」 優しく微笑むその瞳が好きだ――と、思っていた。 私はあの時、ジョーを選んだ。 戦いに引き込まれるのは嫌だった。迎えに来た褐色の瞳の持ち主は、フランソワーズが嫌なら来なくてもいいのだと繰り返し言った。だから、当然そうするつもりだった。なのに、気付いたら空港にいた。 ――あの時。私が選んだのは、アズナブール先生ではなく、ジョー・・・・。 ずっと忘れるしかないと思っていた。彼に会えるのは戦いの時だけなのだから。だから、平和な日々に心を埋もらせて、彼のことは考えないようにしていた。例え、いつも胸の奥に自分をじっと見つめる褐色の瞳があったとしても。 私の心の奥にはいつもジョーがいた。 忘れようと思っていたのに、忘れたつもりだったのに、結局は大事にその思いをしまい込んでいただけだった。 「フランソワーズ。踊るのに組むというのがどういうことか、君はよく知っているはずだ」 彼が何を言っているのかは十分にわかっていた。 「でも――すみません。今日は本当に時間がないんです」 相手役と演目について詰めて話し合うのは大切なことだ。それは十分、わかっている。明日からレッスンが始まるのだから、その前日の今日のうちにお互いの解釈を確認しあうことが必要だった。 「あの、明日レッスンに入る前だったら時間が取れるので、その時に」 レッスンは午後からなので、午前中なら時間がある。 「・・・フランソワーズ。きみはいつからバレエを軽く考えるようになってしまったのかな」 軽く首を傾げ、表面上はあくまでもにこやかに諭される。 「軽くなんて考えてません」 そんなことより何より。 *** リビングをうろうろと歩き回り、うっとうしいと注意されたのは一回や二回ではなかった。 「そんなに気になるなら、行ってくれば?」 ピュンマがため息とともに言う。 「行くってどこへ?」 あっさりと当然のように言われ、ジョーは顔を赤らめた。 「だけど、外に出たらダメだと言われてるんだ」 戸口から硬質の声が響く。 「――アルベルト」 もちろん、言われなくても自分でもそう思っていた。が、心配しているのはフランソワーズなのだ。 「でもさ」 ピュンマがにやりと笑う。こういう顔の時は、何か悪知恵を働かせている。 「フランソワーズも今日は違うんじゃないかと思うけどな」 にやにやしながらジョーを見る。 「誰より先に会いたいひと・・・?」 考え込む様子のジョーに、ピュンマは笑いを引っ込めると神妙な顔でため息をついた。 「・・・お前はバカか。彼女の会いたいひとってお前以外にいるわけないだろ?」 アルベルトがピュンマの向かいのソファにどっしり腰を降ろす。 「そんなのんびりしてていいのか?浮かれたフランソワーズは何をやらかすか知らないぞ」 ジョー以外は全員知っているのだ。浮かれたフランソワーズが何をやらかすのかを。 「大袈裟だなぁ。ちょっとくらい浮かれたって何にも心配いらないよ」 にこにこ笑うジョーを気の毒そうに見つめる二組の瞳。 「――知らないぞ。ケーキをやまほど買ってきたって、俺は手伝わないからな」 そう言われてもぴんとこない。 「フランソワーズがそんな真似するわけないだろう?」 くすくす笑うジョーだったが、対するアルベルトとピュンマはじっと彼を見つめ無言だった。 「――ともかく。鬱陶しいから、つべこべ言わずに行ってこいよ」 大量のDVDを抱えて入って来たアメリカ人が、話の流れもわからないまま言い放つ。 「これからDVDを観るんだから、お前がうろついてると邪魔なんだよ」 ジョーはひどいなぁとぶつぶつ呟きながら、 「そんなにみんなが言うなら・・・しょうがないな」 そう言って、車のキーを手に取った。 *** ギルモア邸を猛スピードで遠ざかってゆくストレンジャーを見つめ、リビングにいた三人は大きく息をついた。 「全く。どうしてあんなに素直じゃないんだ」 つまり―― 『みんなが迎えに行けとうるさくて』自分は迎えに来たのだ。という大義名分。 運転しながら、ジョーは我ながら良い言い訳を思いついたと悦に入っていた。 ――フランソワーズ。僕は信じてる。きみが主役を――ジゼルを実力で勝ち取るってことを。 「ジゼルに決まったのよ、ジョー!」 今となっては、外出禁止令を破ることなど大したことではなくなっていた。 構うもんか。 嬉しい気持ちを早く聞きたかった。彼女が役を逃すなんて、これっぽっちも考えていない。 僕のフランソワーズは、絶対に夢を叶える。 12月2日 「・・・それは」 なぜ突然いなくなったのかを言えるはずもない。 「いや、いいんだ。こうして再会できたのだから、何も言わないでおくよ。――フランソワーズ。会いたかった」 熱く見つめられ、フランソワーズは半歩足を引いた。そしてある可能性に気付く。 「まさか、私が今回ジゼルに選ばれたのは、先生の・・・」 確か以前にも似たようなことがあった。あの時も疑ったものだ。自分に好意を持っているから、職権濫用したのではないか、と。 そんな彼女の心中を読んだのか、アズナブールは険しい顔で言い放った。 「誤解するな。私はそんな甘い男ではない。いくら古い知り合いとはいえ、水準に達していない者を抜擢するような事は絶対にしない」 *** 「フランソワーズ、ムッシュウ・アズナブールと知り合いなの?」 更衣室では大騒ぎだった。 着替え終わり、バッグを肩にかけてロッカーの扉を閉めたフランソワーズは、振り返った先のいくつもの期待に満ちた顔に大きくため息をついた。 「・・・みんな帰らないの?」 そうそう、と全員が頷く。 「いったい、ムッシュウ・アズナブールと何を話してたの?」 フランソワーズはどれにも答えず、微笑んだだけだった。 「でも、ムッシュウ・アズナブールといえばこの業界では有名人よ。知らない人はいないわ。それがこんな小さなバレエ団に来るなんて、不思議じゃない?いくらゲストとはいえ」 口々に話されることを聞きながら、最後の言葉にはっとしたフランソワーズは思わず口を開いていた。 「チケットが手に入らないなんて、困るわ」 だって、ギルモア邸のみんなの分が。 「ばかねー、大丈夫よ!私たちにはちゃーんとチケットが必要な分だけ用意されてるんだから」 ばし、と背中を叩かれ、フランソワーズは咳き込んだ。 「ヤダ、そんなの心配していたわけじゃないわ」 顔が赤くなる。 「まー、この子は何てわかりやすいの!」 そんな風に見えているのだろうかとちょっと不安になった。 「でも、レッスンが始まったら――わからないわよ?だって、ずうっと二人で練習することになるんだし」 ぐるりと首に腕を巻かれる。 「えっ、そんな・・・そんなこと」 にんまりとした顔で見つめられ、フランソワーズはますます頬を染めてうつむいた。 「・・・ええ。早くジョーに伝えたいの。・・・ジゼルを演じるんだ、ってこと」 小さい小さい声で恥ずかしそうに言う。 「たくさん、応援してくれて、心配してくれてたから。だから・・・」 首に巻かれた腕をそっと外し、肩からずり落ちていたバッグを掛け直し。軽く頭を振って、頬にかかった髪を払う。 「だから、早く帰りたいの!!お先にっ」 そうして、あっと言う間に包囲網を突破した。 「ああっ、フランソワーズ!」 その声を背中で聞きながら、フランソワーズは小走りに廊下を抜け、ビルの階段を駆け足で下った。 ビルを出て、駅へ向かう。今日もジョーは迎えに来てはいない。まだ外出禁止令を解いていないのだ。 とはいえ。 いま、何してるかしら。 思いついて、携帯を取り出してフラップを開く。通話ボタンを押そうとした時、昔よく聞いた声が耳朶を打った。 「フランソワーズ。ちょっといいかな?」 フランス語だった。 「・・・アズナブール先生・・・」 12月1日 フランソワーズは祈るような気持ちで胸の前に組み合わせた手に力を入れた。 ――絶対、大丈夫・・・!ううん、きっと・・・ 今日は「ジゼル」の配役が発表される日。 「ジゼル」の主役。 このために連日遅くまでレッスンをしてきた。 でも、今日は違う。 ジョーが頑張ってワールドチャンピオンになったことも後押しした。 だから、頑張った。 今までは「やっぱり無理かもしれない」と思うたびに心が挫けていった。 自信もあったし、手応えもあったように思う。 私の夢。いつか「ジゼル」を踊ること。 今まで「ジゼル」という演目には何度も関わってきた。村娘のソロも踊った。けれどもやはり、一番願うのは・・・ 「――ジゼルは」 神様! ぎゅっと目を瞑った。息を止めて。 「フランソワーズ・アルヌールさん」 周りの友人がわあっと声をあげた。 「私・・・本当に?」 信じられず、ぽかんとしたまま小さな声が洩れる。 「本当ですよ」 思わず涙がこみ上げたが、まだ泣く場面ではないと自分を戒める。 「はい・・・!頑張ります!」 はっきりと言う。お腹に力を入れて宣言する。 「それから、今回は特別にフランスからダンサーをお招きしました。今度のジゼルは彼の解釈でいこうと考えています。――フランソワーズ、あなたのお相手よ」 一同がざわりと揺らめいて、先生の視線を追う。 「うそっ・・・」 さざ波のようにざわめきが広がってゆく。 「みなさん、既に御存知かもしれませんね。紹介します。ムッシュウ・アズナブール!」 流暢な英語で話されるその声をフランソワーズは聞いていなかった。 「アズナブール先生・・・!」 いま目の前にいる人物を信じられない思いで見つめた。 「フランソワーズ。もう「先生」はやめてくれないか」 こちらもフランス語で話す。笑みを浮かべて。 「――探したよ。突然、いなくなってしまったからね」
昔から、いくつものバレエ団で何度も上演されている演目ではあるが、その解釈は一つだけではない。
「純愛」の話であるという者もいれば、「悲恋」もしくは「裏切り」とみなす者もあり、多岐にわたる。
同じバレエ団の中でも、踊り手の解釈により変わるのだ。
だから、「ジゼル」は深い。――と、フランソワーズは思う。
自分の解釈としては、やはり「純愛」と信じたかった。
王子は村娘ジゼルとのアバンチュールを楽しんだのではなく、婚約者よりもジゼルを深く愛していたのだと思いたかった。
だから、自分の解釈を相手役のアズナブールに思い切って伝えたところ「私もそう思う」と同意を得られて驚いた。
更に、「私はこの解釈で踊る私たちのジゼルを成功させたい」と熱く語られた。
が、いざ合わせて踊るとなると、どうもピッタリいかず何度もダメ出しをされた。
これは単なる実力差――というものではなかった。
ひとつのテーブルを挟んで座る亜麻色の髪の外国人カップルはどうしたって人目を引く。
だから、外国人の多い街のカフェを選んだのだった。案の定、客も店員も、誰も彼らに注意を払わない。
冷めかけたカップを持ち上げ、ひとくち飲む。
「・・・まさか」
「・・・・・」
正面の相手をじっと見つめる。
「そうだ」
「新しいジゼル・・・」
「そう。純愛という名のジゼルだ。誰よりも愛らしく、しかし、相手の事情を知って身も世もないほど嘆くジゼル。それは全て、相手に対する愛情なのだ。その大きな愛を――純愛を演じきって欲しい」
「――自信がありません」
フランソワーズの場合、彼女の失敗は自分自身のみならず、バレエ団全体の失敗に直結するのだ。
「先生・・・」
「先生と呼ぶのはやめろと言ったはずだろう?」
ジョーの肩に腕を回して頬を寄せて、甘えるようにフランソワーズが言った。
彼女の言うお願いは、いつも予想を裏切る上に突拍子もないことが多いのだ。
心理的に身構えつつ、けれども表面上はあくまでも平静を保って彼女の言葉の続きを待つ。
「・・・そう」
彼女は慰めて欲しいわけではない。
「ええ。本気よ」
「・・・本気なんだね?」
「ええ。私の夢だもの」
「夢か・・・」
「ほんと?」
「ああ」
「本当に?」
「うん」
「大丈夫。任せなさい」
「私を信じてくれる?」
「もちろん」
「えっ?」
「本当に、大丈夫かい?」
「・・・自分で決めたことだもの。頑張るわ」
「・・・ん。ジョーがついてるもの」
「つきっきりって訳にはいかないよ、知ってるだろう?――僕がいなくても頑張れるよね?」
「・・・頑張る」
「んっ。それでこそ僕のフランソワーズだ」
長身ですらりとしており、しなやかな鍛えられた筋肉をまとっている。
更に言えば、その所作ひとつひとつが優雅だった。指先までも。
確かに、いま見てもその魅力は衰えていない――と、思う。
でも、それだけだった。
胸にせまってくるようなものは何にもなかった。
いまのフランソワーズにとって、彼はただの「相手役」にすぎなかった。
じっとフランソワーズの背後を見つめて。
いまここにいる彼――照れたように微笑んでいるその姿が目に入った途端、他の全てのことはどうでもよくなった。
彼との距離を数歩で縮めて、フランソワーズはその腕に飛び込んでいた。
たった今、眉間に皺を寄せ困った顔をしていた人物とは思えない。
そして、自分たちをじっと見つめる人物と目が合った。
蒼い瞳が不満そうにじっと見つめていた。
「そうかな。きみがジゼルに決まるって信じてたから、その確認ができて嬉しいよ?」
少し身を屈めて、フランソワーズの耳元で小さく言った。
外出禁止令が出ていたのにね。
いまのジョーとの遣り取りをずっと見られていたのかと思うと気まずかった。
「・・・よろしく」
「ジョー?こちらはアズナブール先生。今回のジゼルの相手役なの」
「・・・よろしく」
お互いに対峙したまま、フランソワーズのほうを見ない。
目の前の琥珀色の瞳をもつ男性は――フランソワーズと何かしら関連があったような気がして、記憶を手繰るのもざらざらした嫌な気持ちに覆われてゆく。
けれども、一向に記憶は甦らず――ジョーは思い出そうとするのを断念した。
凝固したような時間と空間。それに動きを足したのはフランソワーズだった。
ぎゅっと握っていたジョーのジャケットから手を離し、背後のアズナブールに向き直った。
相手役なのだから、揉めるようなことは避けたかったし、何より気まずくなるのは嫌だった。何しろ、せっかく得た「ジゼル」なのだから。
彼が見ていたのはジョーだったが、それもほんのわずかの時間。今はフランソワーズをじっと見ているのだが、その視線には好意とはほど遠いものが浮かんでいたのだ。
フランソワーズに恋人がいて、その相手をどこかで見たことがある。それも彼女が姿を消す前日に。――ということが問題なのではなかった。
もちろん、それも気にはなったが、それ以上に問題にしなければならないことがあった。
その相手はフランソワーズのほうへ歩を進めながら、にっこり笑んだ。
友人たちが軽く冗談のように「元カレ」と言っていたけれど、それは確かにそうだった――かもしれない。
少なくとも、当時は彼のことを好きだと思っていた。
しかし。
「それは・・・・そうですけれど」
でも。
気付かないように、見ないように、考えないように。もう二度と会うことのない人なのだから。どんなに思っても、彼に会う時はサイボーグ003としてなのだ。
そうして、平和な日々の象徴のようにアズナブールとの日々を大切に守ってきた――つもりだった。
彼を好きだと、大切だと思っていた気持ちは、褐色の瞳の持ち主を前にした途端、なんともちゃちな一時しのぎの思いにしか思えなかった。本当に「好き」と思うのとは全然、違っていた。自分は彼を好きなのだと思いたかっただけだったのだ。
だから、ジョーが目の前にいて、彼の姿を見て、声を聞いた瞬間、自分は本当は誰を思っていたのかわかってしまった。
「先生・・・」
「私はそう教えたはずだが?」
だけど。
しかし。
「しかし、きみは打ち合わせも嫌だという。相手役と話すのが大切なのはわかっているはずだろう?」
「そうですけど、でも」
今日、自分がジゼルに決まったことを一刻も早くジョーに伝えたかった。
彼はきっと、一緒に――もしかしたら、自分以上に喜んでくれるはず。
何しろ、昨夜から気を揉んで落ち着かなかったのは彼のほうだったのだから。
けれどもジョーは、注意されても上の空で、何度も何度も腕時計を覗き込み、いらいらとリビングをぐるぐる歩いているのだった。
「フランソワーズのいるところに決まっているだろ。他にどこに行くつもりなんだい?」
「なに情けない事言ってるんだ。堂々と外を歩いて何が悪い」
「案外、大丈夫なもんだぞ。お前はあのポスターやCMのように裸じゃないんだし、わかりっこない」
そして、ジョーにとってフランソワーズの命令は絶対だった。彼女が「外出禁止」というなら、そうするしかないのだ。
何しろ、それに従わなかった場合は――考えたくもないが――彼女の部屋へ行くことも、彼女がジョーの部屋へくることもなくなるのだ。一週間の間。そんなことは二度と耐えられないだろう。一度やって懲りている。
「違うって何が?」
「今日は配役が決まるんだろ?嬉しい報告なら、誰より先に会いたいひとがいるんじゃないか?」
「あ。そうか」
「そうかじゃないぞ」
「卵の大量買いをしても、お前が責任とるんだぞ」
「DVDって何の?」
「今季レースの復習」
「えっ、それなら僕も」
「ダメだ」
「いいじゃないか、一緒に観たって減るもんじゃないし」
「悪いが、チャンプと一緒に観られるほど心が広くないんだよ。――ともかく、お前はフランソワーズを迎えに行って来い。このままだとアイツが何をやらかすか考えたくもねぇ」
「大義名分がないと行けなかったんだろう?ちょうど良かったじゃないか」
「バカだなぁ。その大義名分を作ってやったんだ、って」
何しろ、昨夜から落ち着かず何も手につかなかったのだ。
自分のレースの方がまだ気楽だった。全ては自分のちからにかかっているのだから。
だから、自分以外のひとの大事な局面というのは苦手だった。ただ心配するだけで何もできない。それが、大切に思っているひとだから尚更だった。
と、自分の首筋に腕を回す満面の笑みのフランソワーズしか思い浮かばない。
一週間、フランソワーズと二人っきりで会えなくたって、今日、いまこの時のフランソワーズに会えるならそれでいい。
しかし、アズナブールは答えを求めているわけではなさそうだった。
自分の実力でとれた役だと思っていただけに、他人の力添えがあったと知らされるのは辛かった。
そんな役ならいらない。――と、言えない自分が情けなかった。
どんな経緯があっても、「ジゼル」は「ジゼル」なのだ。それを演じることを許された権利を捨てることはできない。
「先生・・・」
「君は主役を実力で勝ち取った。それは本当だ。むしろ私は、君の踊りに魅入られてしまったのだから」
「同じフランス人だもの、バレエをしている限りどこかで会うこともあったんじゃない?」
「でも凄いよねー!あのムッシュウ・アズナブールと組むなんて!」
今日は配役が発表になっただけで、公演前の本格的なレッスンは明日からである。
だったらさっさと帰ればいいものの、誰もがフランソワーズに「謎のムッシュウ・アズナブール」の話を聞きたがり、一向に帰る気配はなかった。
「ばかね、こんな凄いことを放ってさっさと帰れるもんですか」
「そうよ、フランソワーズったらフランス語で話してるから、何言ってるのか全然わからなかったもの」
「何って・・・別に」
「別に、って顔じゃなかったわ。特にムッシュウ・アズナブールが」
「熱く見つめちゃってさ。――もしかして、ただの知り合いじゃなかったりして!」
「もしかして元カレ、とか?」
「ええーっ。ムッシュウ・アズナブールが?いくらなんでもそれはありえないでしょ」
「わからないわよー。二人とも同じ国にいたんだから、案外・・・ねぇ」
「そうよね。・・・先生達の誰かが親しいのかしら?」
「だって、知ってる?ムッシュウ・アズナブールが踊るっていうだけで、既にチケットが売れてるってこと」
「ええっ、それホント?だって配役が決まったのは今日よ?」
「そんなの関係ないんだ、って。彼が出るだけで、業界関係者は席を確保するのに走ったっていうんだから」
「チケットの正式な発売は来週でしょう?」
「だから、一般の人の手には入りにくいらしいのよ」
「それって・・・凄いことなのか、良くないことなのかわからないわね」
「凄いことに決まってるじゃない」
「そうそう、業界関係者のひとたちに売るのは、ずうっと後ろがはしっこのほうよ」
「・・・そうなの?」
「そう。だから、愛しい音速の騎士の分もちゃーんとあるから、心配しないの!」
「ああもう、これじゃあいくらムッシュウ・アズナブールがアプローチしたって無理ね」
「アプローチ、ってそんな・・・」
何しろ、みんなが勝手にしている憶測は――事実だったのだから。
「いやいや、この子は彼しか目に入ってないって!ね?フランソワーズ」
「あるでしょう?」
そしてまっすぐ前を向いて、笑顔を作った。
「もうっ。何て逃げ足が速いの!」
みんなに言った通り、一刻も早くジョーに伝えたかった。ちゃんとジゼルを勝ち取ったということを。
そして、彼の後押しがあったからこそ頑張れたのだと――抱き締めて、どんなに心強かったのかを伝えたかった。
ジョーへの思いが溢れ、彼に会うことだけしか考えられなかった。
が、今日だけは迎えに来てもらえば良かったなと思う。そうすれば、いますぐに彼の腕に飛び込めたのに。
だがしかし、もしも自分の願う結果になっていなかったら――ジゼルを踊ることができなかったら――そう思うと、やはりジョーに「今日は迎えに来て」とは言えなかった。自分の力が足りないと知った時に、そこに彼がいたら絶対に甘えてしまう。それだけは避けたかった。頑張った自分を無条件に慰めるという役割を彼に課すことはプライドが許さない。
自分自身の問題なのだ。それを、彼に甘えて慰めてもらって、頑張ったねと頭を撫でてもらって――それで終わり。にしてしまったら、これから先、なにひとつ自分の力では進めなくなってしまう。
自分の大事な「バレエ」に、そんな甘えた考えは要らなかった。
嬉しい気持ちの時は、彼と――ジョーと一緒にいたかった。
迎えに来て、って言ったら、すぐ来てくれるかな。
思わず止めた足の先には――
一番広いレッスン室にバレエ団員全員が集められていた。自然に先生の周りを囲むように幾重にも人垣ができる。
フランソワーズは3列目のほぼ中央に立っていた。そして、じっと「その時」を待つ。
主役のジゼルを狙っている者は多い。主役を踊るのにふさわしい実力も拮抗していた。つまり、誰が踊ることになってもおかしくないのだ。
憧れの役への思い入れは強い。自分なりの解釈を持つためにいくつもDVDを観て、本も読んだ。
幼い頃から、憧れて憧れて、何度も諦めそうになった。
村娘の踊りを踊るたびに、いつかソロで踊りたいと思っていた。だからずっと頑張ってきたけれど、届かなかった。
自分の力でやり遂げた人を憧れるだけではなく、自分もそれを叶えられる人になりたいと思った。
でも今は、支えてくれる人がいる。
自分を信じて思うようにやるだけだと、何度も強い視線で繰り返し話してくれた。
ともすれば、特別扱いしてくれるその腕にただ甘えてしまいたくなった。けれども彼はそれを許してはくれなかった。
僕の知っているフランソワーズは強い子なんだ。必ず自分の夢を自分の力で叶えられる。そう言って、優しく背中を押した。振り返れば、優しい笑みを浮かべ小さく頷いて。
その彼への気持ちと、彼の自分への気持ちを胸に大切に抱き締めて頑張ってきた。
だから「きっと」「絶対」夢は叶うと信じている。
「やったわね!」
「やっぱりそうだと思ってたわ!」
口々に祝福の言葉を言いながら、フランソワーズの肩を叩いたり背中を押したり。
その問いに優しく答えが返った。
「先生・・・」
夢が叶ったら、そこで終わりというわけではない。まだまだ先は長い。今はスタートラインに立っただけなのだから。
その蒼い瞳はキラキラとして、既に熱い決意が宿っているのだった。
レッスン室の一番後ろ、壁に寄りかかってひっそりと立っていた人物は、先生の声に体を起こした。
「ええっ、あのひとってまさか」
そう、彼は今、ヨーロッパで最も注目を集めているバレエダンサーだった。
彼がゆっくりとこちらに向かって歩を進めた。人波が左右に分かれて道を作る。
そして、先生の隣に立ったその人を見て、フランソワーズは言葉を失った。
「宜しくお願いします」
ゆっくりと唇が開き、そこから洩れた言葉はフランス語だった。