「僕の知らないきみ」

 

 

きみはどういう女の子だったんだろう。

僕はたまに――何かの折にふっとそう思うことがある。

ブラックゴーストに攫われる前のきみ。ちょっぴり気が強くて、たぶん…けっこうお転婆?
バレエを愛しバレリーナを夢見てレッスンに通い、家族と幸せに暮らすパリの街。
ケーキが好きで、おしゃべりが好きで、カフェで友人と何時間も過ごすような普通の幸せな毎日。

きっとそんな感じだったのだろう。

きらきらと輝いて。

明日を見つめて。

好きなひとはいたのかな。

ボーイフレンドは?

恋人は?

片思い、それとも進行形?あるいは失恋だってしただろうか。

そんなきみに会ってみたかった――というのは無理な相談であり、そもそも会えるわけもなかったけれど。
でも…そう、もしも時間をほんの少しだけ逆行できるのならば、そんなきみを見に行ってもいい。

僕の知らないきみ。

そんなきみを見て、僕はきっと恋に落ちるだろう。焦がれて焦がれて、でも手が届くはずもなくて、辛く切ないやりきれない日々を送るのだろう。
それは今でもそうなのだけど、それでも今は手を伸ばせばすぐに触れられるくらい近くに居て、何の間違いか僕のそばにいたいと言ってもくれる。それは優しいきみの勘違いに過ぎないよと僕が何度言っても聞いてくれないから、僕は自分の胸のなかだけで言うことにしている。

きみがいま、こうして僕の隣にいるのはただの勘違いで同情なんだよ。って。

でも僕は――それでも、こうしてきみがそばに居てくれるのなら、それでいいと思っている。

うん。

それでいい。

僕の知らないきみだったら、きっと僕のことなんか気がつきもしないだろう。

棲む世界が違いすぎる。

きらきらまばゆいばかりのきみの世界と闇に閉ざされ冷たく荒んだ僕の世界。絶対に交わることはない。
こうしていま隣に居てくれるのが何かの間違いで、きみはいつかそれに気付いて去ってゆくのだとしても――僕は自分の闇にきみを引き込まないように常に細心の注意を払わなくてはならない。

僕の大切なきみ。

きみだけはいつまでも輝いていて欲しい。

僕と出会う前のきみの輝きが、どうぞ失われませんように。
僕の闇がきみを翳らせたりしませんように。

僕は胸のなかで祈りを捧げ――捧げる対象なんていやしなかったから、自分自身に誓ったようなものだけど――そうして目を閉じた。
隣に眠る大事なきみのぬくもりを感じながら。

 

 

***

***

 

「ジョー!待った?ごめんなさい、レッスンが長引いてしまって」

息を弾ませ駆け寄ってきたフランソワーズ。頬が赤い。

「別に走ってこなくたっていいのに」

対する待ち合わせの相手のジョーはそっけなく言い放った。
ちらりとフランソワーズの頭のてっぺん辺りを見たきり視線は彼女から離れ宙を彷徨う。

「だって、ジョーったら平気で何時間も待てる変な人種でしょう――あら?」

変な人種で悪かったな、君のことなら何時間でも待てるんだからしょうがないだろ…と声には出さず胸の裡で言った時、蒼い双眸がこちらを注視したことに気付いた。

「ジョー?」
「なに」

先刻までの可愛らしい甘えるような声とは一転した険を含んだ声。

「またケンカしたの!?」
「してないよ」
「嘘。だったらどうしたのよ、この手」
「なんでもないよ、離せよ」

フランソワーズがジョーの右手をがっしと掴み、持ち上げる。

「ほら、ここに痣ができてる。いったい何をしたの?また誰か殴ったの?」

暴力反対、と言うフランソワーズにジョーは冷たく言った。

「――俺のせいじゃねーよ」
「もうっ、そういう言い方やめて」
「むこうが絡んできたんだ」
「だからって…もうっ。血が出てるじゃない」

痣だけではなく擦り傷もあり、微かに血が滲んでいた。

「ええと、タオルが奥のほうにあったはずだわ」

肩にかけたバッグの底をさぐってフランソワーズはタオルまたはハンカチを探した。が、レッスン後に急いで着替えた上に無造作に着替えを突っ込んできただけだったから、タオルの行方は杳として知れなかった。

「いいよ、こんなの」
「駄目よ。黴菌がはいったらどうするの」
「黴菌なんかに負けないさ」
「もうっ、ああ言えばこう言うんだから!タオルも見つからないし、もうっ!」

フランソワーズはジョーの右手を持ったまま、その手の甲にある傷をぺろりと舐めた。

「なっ…!」

ジョーが慌てて手を引く。が、離さない。伊達にバレエで鍛えているわけではないのだ。そこらの女の子とは筋力が違う。

「離せっ、何をするっ」
「何って消毒。しょうがないでしょ、舐めておけば治るわ」
「な、舐めておけば、って…」

まるで乱暴な男子のような言い草にジョーは少なからずショックを受けた。見たところ可憐な少女なのに。とてもこんな雑なことをするようには見えないのに。

「…意外とオトコマエだな。フランソワーズ」
「そうよ。バレエって擦り傷とか日常茶飯事ですもの。慣れてるの」
「ふうん」
「でも普段はひとの傷を舐めたりしないわよ。ジョーだけですからね?特別扱いするの」

上目遣いに意味ありげに見つめるフランソワーズにジョーは知らず頬が熱くなるのだった。

 

 

***

***

 

「……」

ジョーはぱっちりと目を開けた。

妙にリアルな夢だった。

どう見てもサイボーグではない、15歳くらいの自分とフランソワーズ。
場所はおそらくパリの街だろう。
そのくらいの年齢の時に外国にいるなんて有り得ない。なんとも現実味のない夢であった。が、現実味がないから夢なのだろうとジョーは納得して再び目をつむった。

昨夜眠る前に、サイボーグとして出会う前のフランソワーズはどんな女の子だったんだろうと思っていたから、こんな夢を見たのだろうか。なんだか楽しそうなふたりだった。

僕とフランソワーズは…付き合い始めたばかり、っていう設定なのかな。

押されっぱなしで不良形無しだなぁと思ったところで、隣のフランソワーズが身じろぎした。どうやら目を覚ましたらしい。ジョーは再び目を開けると小さく言った。

「おはよう」
「おはよう、ジョー」

フランソワーズはじっとジョーの顔を見ている。

「なに?何かついてる?」
「ううん。…変な夢を見たの」
「変な夢?」
「ええ」
「怖い夢?」
「ううん。ジョーが出てくるの」
「それが変な夢?」
「だって、パリなのよ。それもずうっと前の。まだ学校に行っていた頃みたいな」
「…ふうん」
「ジョーったらケンカばっかりしててね。問題児なのよ」
「僕がパリの学校に通ってるのかい」
「そうよ。そして私たちは付き合ってるの。デートだってするのよ」
「ふうん…」
「でもね、私はバレエのレッスンもあって忙しくて、なかなか会えないの。夢のなかではレッスンが長引いちゃってジョーを2時間も待たせることになったんだけど、でもね。ジョーはずうっと待ち合わせ場所で待っててくれたの!不良なのに、寒い中、ずうっと」
「冬なんだ?」
「そうよ!雪が降ってるパリってすごーく寒いんだから!なのにジョーったらずうっと待っててくれたのよ!普通なら、帰っちゃうと思わない?」
「そうだね」
「でも待っててくれたの。嬉しかったわ。――ね、ジョーってそんな少年だった?」
「うん?」
「私と会う前のジョー。不良だけど、実は誠実ですごーく照れやさん。でもって意外とオトメ」
「…うるさいな。夢だろ、そんなの。何時間もひとを待つなんてしたことないよ」
「そう?」
「そ。きっとフランソワーズ限定だよそんなの」
「ふうん…惚れた弱味?」
「さあね」

オトコマエなフランソワーズとオトメなジョー。

もしかしたら、本当にそんなふたりだったのかもしれない。

 

 

2009.12 「子供部屋」初出