子供部屋
(ジョー島村もしくはお嬢さんのお部屋)

 

9月28日

 

「うっわ、やった!!」
「アイツっ・・・」

ピットクルーの間にざわめきが広がり、メカニックが頭を抱える。その中で思い切りジョーを罵倒しているのが古株女メカニックだった。

「あのバカっ!!あれほど気をつけろって言ったのにっ・・・!!」

50周目、ジョーがリアを縁石に乗り上げた瞬間スピンし、あっという間にコンクリートウォールに激突したのだった。
側面からぶつかり、そうして跳ね返ってもう一回。観客席から悲鳴が上がった。
派手に巻き散るマシンの破片。
すぐにセーフティーカーが導入された。

「あーあ。ったく」

クルーがブツブツ言いながら準備に散っていくなか、フランソワーズはじっとモニターを見つめていた。
ジョーがコックピットから出てきたところだった。もちろん無傷である。が、それは彼だからではなく、現代のF1マシンはドライバーを守ることが前提で作られており、そうそう怪我などしないのだった。

 

***

 

ジョーがピットに戻ってきたのはしばらくしてからだった。まだレースは続いている。
取り囲むクルーに無事を伝え、マシンを壊して申し訳ないと謝った。

「ほんとよ。いったいどうしてくれるの!」
「だからゴメンって」
「ったく。ギアボックスは無事だったでしょうね!?」
「さあ。どうだろう」
「どうだろう、って――」

古株女メカニックは大仰に息をつくと、髪をかきあげジョーを見つめた。

「・・・怪我はないようね」
「おかげさまで」
「そ。だったらいいわ。――鈴鹿までに何とかしとく」
「頼むよ」

そうして二人揃って傍らのフランソワーズを見つめた。遠慮しているのか、ピットの隅っこのほうに所在無げに佇んでいる。

「フラ」
「お嬢ちゃん!ちょっと来て!」

ジョーが呼ぶよりも先にメカニックがフランソワーズを呼びつけてしまう。ジョーは唇を尖らせた。

「ほら。後はあなたの出番。任せたわよ」
「え、出番って」
「アタシは落ち込んでいる男を慰めるのなんて旦那だけで手一杯。コイツの世話はあなたしかできないわ。お守りよろしく」

そうしてジョーの背中をどんと突いてフランソワーズのほうへ押し遣った。

「なんだよ、ひとを子供みたいに」
「そんな風に拗ねてるひとをオトナ扱いなんて誰がするの?」
「・・・うっせーな」
「ほら、お嬢ちゃん。よろしく」
「え。あ」

フランソワーズはマシンに駆け寄ってゆく女メカニックの背中を目で追い――そして、目の前の膨れ面のジョーに視線を戻した。

「・・・ジョー」
「ごめん」
「ううん。それより、さっきの言葉遣い、良くないわ」
「えっ」

クラッシュよりレースよりそっちなのか・・・とジョーは脱力した。

「・・・あのさ。大丈夫とか何とかもうちょっと慰めるみたいなことをしてくれてもいいと思うんだけど?」
「だってあなた、落ち込んでなんかいないでしょう?」

褐色の瞳が蒼い瞳を見る。

「それともわざとクラッシュしたの?」
「・・・フランソワーズにはそう見えた?」
「ううん。全然」

フランソワーズはにっこり笑んだ。

「ジョーはベストを尽くした。その結果、クラッシュしたけれど後悔なんてしてない――でしょう?」
「――うん」
「だから、それに関しては私も何も言わない。そりゃ、ちょっとは驚いたけど、ね」

目の前でジョーがクラッシュするのを観たのは初めてだったのだ。けれども、不思議と恐怖感や不安感は起きなかった。もちろん、彼がどうかなることなどないとわかっているとしても――それを差し引いたとしても、それでも何の特別な感情も湧かなかったのだった。ただ驚いただけで。

「もしあなたが落ち込んでいるとしたら、それは――みんなが一生懸命セッティングしたマシンを壊してしまったから、でしょう?」
「・・・うん」

フランソワーズは両手を広げると、ジョーを優しく抱き締めた。

「・・・大丈夫よ。彼女も言っていたじゃない。鈴鹿までに何とかする、って。だから、あなたは仲間を信じていればいいの」
「でも、もし間に合わなかったら」
「あら。あなたが仲間を信じなくて誰が信じるの?」
「・・・でも」
「でもはナシ」
「だけど、チャンピオンレースからも大きく後退してしまった」
「そんなの気にしてるの!?」

フランソワーズがジョーに回した腕に力をこめる。

「バカねえ。わからないの?みんなが今なんて思っているか」
「――え」
「ほら。見てみなさい」

腕を解いて、ジョーの身体をメカニックたちのほうへ向ける。

「――みんな次のレースしか見てないわ。週末の鈴鹿に間に合わせることしか考えてない。それに、チャンピオンレースって、・・・鈴鹿で優勝すればいいんじゃないの?」
「!」
「――んと、私もポイントの計算ってちょっとよくわからないんだけど・・・ええと」

視線を宙に向け、何やら指折り数えるフランソワーズ。

「ええと、どうだったかしら?ね、ジョー。足りないかしらね?・・・中国でも優勝しなくちゃ難しいかしら」
「――そんなことないよ」
「そう?」
「うん」
「だったらいいわ!」

そうしてジョーの頬にてのひらを当てて笑いかける。

「ね、鈴鹿で勝って」
「――うん」
「今日のことはもう過去よ」
「うん」
「一秒先からはもう考えない」
「うん」
「明日からは鈴鹿のことだけ考えるの」
「うん・・・。あれ、じゃあ今晩このあとは?」
「それはね」

フランソワーズはちょっと背伸びをするとジョーの頬にくちづけた。

「私のことだけ考えるの!」

 

 


 

9月26日

 

うわっ。修羅場――?!

と、周囲に緊張が走った。メカニックマンは既に腰が引けていて、そうっとその場を離れようとする者もいる始末。
ひとり古株女メカニックだけが悠然と腕を組み唇に笑みを浮かべていた。まるでこの状況を楽しんでいるかのように。

フランソワーズのスーツケースが彼女の手を離れ、横倒しになった。

「・・・ジョー・・・」

フランソワーズの唇から微かな吐息と共に声が洩れる。

――ひどいわ、ジョーったら。と、怒るのか。
あるいは
――なんなの、あのひとたちは。と、呆然とした後に泣くのか。
あるいは、ここを静かに立ち去るのか派手に出てゆくのか。
ともかく、浮気現場を目撃した恋人という立ち位置にフランソワーズはいるのだと誰もが思い、来る愁嘆場に心の準備をした。

しかし。

「やあね。ここでももててるの?」

つんと唇を尖らせて、拗ねるように言い放ったフランソワーズに周囲の期待は完全に裏切られた。

「もー。しょおがないわねぇ。まあ、私のジョーはとおっても素敵だから、どこにいっても放っておかれないのはわかってるわ。そこは私も我慢しなくちゃいけないんだもの、ええ、彼女として恋人としてそのくらいの心得はあるつもりよ、でもね、こうやってやって来たのに気付かないのってどう思います?」

倒れたスーツケースを起こす間にも言葉の奔流は止まらず、いったい誰に向かって喋っているのかと思われた頃にフランソワーズは振り返って古株女メカニックを見た。

「気付いてるんじゃない?」
「そうかしら。――ううん、気付いてないわ、もう!ひどいわ、ジョーったら。愛が少ないとしか思えないわ!」
「そうかな?」
「ええそうよ。こんなんじゃいくら私だって誤解しちゃうかもしれないのに、わかってないんだわ、ジョーのばか」
「誰がばかだって?」
「ジョーに決まってるでしょ――きゃ!」

振り返った途端、抱き上げられていた。

「ジョー!」
「酷いなあ、いきなりばかって何なんだよ」
「だって私が来たのに気付いてなかったでしょ?」
「気付いていたに決まってるだろ」
「嘘よ。もてもてだったくせに」
「うん?もててないよ別に」
「もててたわ、両手に花で」
「――両手に花?」
「ええ。可憐な乙女を両手に抱いて鼻の下のばしちゃって」

つんと顔を逸らすフランソワーズにジョーはきょとんとして、彼女を腕から下ろした。

「両手に花?」
「そうよ」
「・・・花、ねぇ」
「そうよ、綺麗なひとたち」
「綺麗・・・だった、かな?」
「綺麗だったでしょ?もてすぎて基準がわからなくなっちゃったのね、可哀相に」
「僕の基準なんてないよ」
「あらそう?」
「だってフランソワーズだし」

そうしてちゅっとフランソワーズの頬にくちづけた。

「もう。あなたの基準は私なの?」
「うん。それ以上も以下もありません」
「まあ。ジョーったら、ばかねぇ」

フランソワーズもジョーの頬にくちづける。

「ね。調子はどうなの?」
「うん。いいよ」
「そう。でね、私は今日、どこに泊まるの?」
「そんなの決まってるだろ」
「だってホテルはどこも一杯みたいだし」
「あのさ。僕と一緒じゃイヤなわけ?」
「だってもてもてじゃない」
「・・・もててないよ」
「他に泊まるひとがいるんじゃないのかしら」
「フランソワーズ。怒るよ?」
「あら、図星だから?」
「・・・フランソワーズ」

と、ジョーが顔を歪ませたところでフランソワーズの肩がつつかれた。
首を巡らせると、そこにはすっかり忘れ去られていた古株女メカニック。

「お嬢ちゃん。そのへんにしとかないと、コイツ泣くよ」
「えっ、まさか」
「ほんとだって。いいのかい?ここでたいく座りされても」

フランソワーズが慌ててジョーの顔を見る。と、ジョーは顔を歪ませたまま前髪の奥に引っ込もうとしていた。

「やだ、ジョーったら!嘘よ、ちょっと意地悪しただけじゃない!」
「・・・ひどいよフランソワーズ。きみが来るの、ずうっと待ってたのに」
「ほんとだよ。すっごく楽しみにしてたんだよねー、島村は」

くつくつ笑いながら声がかかる。

「・・・うっせーな」
「ジョー。言葉悪い」

フランソワーズにたしなめられ、ジョーはそっぽを向いた。が、両手はフランソワーズを抱き締めたまま離しはしなかった。

「さっきコイツが手にしていたお花さんたちは怒ってどっか行っちゃったしさ」
「え?」

女メカニックの声に、フランソワーズが背伸びをしてジョーの背後を見遣る。
確かに、先ほどの両手の花はどこにもいない。後で聞いた話では、ジョーがいきなり彼女たちを突き飛ばしフランソワーズの元へ一目散に駆け寄ったということだった。ちなみに、彼女たちはジョーとは何の関係もない、ただのF1ファンということだった。ファンサービスも仕事の一環なのである。特にまだ二回目の開催となるサーキットでは、人集めのためのイベントが多くそういった仕事も含まれているのだった。(注:もちろんフィクションです)
普段そういう仕事は極力断っているジョーなだけに、こういう光景は珍しく誰もが「浮気?」と誤解した。

「それにしてもサスガね、お嬢ちゃん。ジョーが浮気じゃないってすぐわかったってわけ?」
「あらだって、よそゆきの顔してたもの。――ね?ジョー?」
「う?うん・・・そうだった?」
「そうよ。あーんな嘘の顔、すぐわかるんだから!」

 


 

9月25日

 

電話を切ったジョーの後ろ姿を見て、彼のチームスタッフは黙然と腕を組んだ。

「大丈夫ですかねぇ」
「何が」
「だって姐さん」

みんなが頼りにしているのは、ジョーと古い付き合いの女メカニック。

「今の電話・・・彼女ですよね」
「それがどうした」
「来るみたいですよ」
「いいんじゃない。それでアイツの力が出せるならさ」
「けど」

男性メカニックたちは一様に腰が引けていた。互いに顔を見合わせ、言いにくそうに目を逸らす。

「何?」
「いやあの、だから」
「余計な事言ってないで、セッティング詰めるよ」
「え、あ、はい」
「・・・ったく。変な心配するんじゃないよ。大丈夫だって。あのお嬢ちゃんなら」
「でもアタシはちょっとショックでした」

手伝いながら、若い女メカニックが沈んだ声を出す。

「島村さんが、あんな風に接するなんて」
「ふうん・・・アンタはヤツのファンだったっけね」

にやりと笑うのに顔を真っ赤にする。

「ち、違いますっ。そんなんじゃっ・・・」
「だからお嬢ちゃんが来るのが気になる?」
「そんなんじゃありません!だって、一緒に住んでる彼女さんのこと知ってますし会った事だってありますもん」
「じゃあいいじゃない」
「そうじゃなくてっ・・・あんなに仲良さそうなのに、彼女さんしか見えてないみたいだったのに、」
「――アイツに女の影があるのが気になる?」
「・・・はい。だって、絶対、彼女さんがあれを見たらっ」
「うーん。・・・さあて。どうだろうねぇ」

否定も肯定もせず、古株の女メカニックは視線を上げてレーサーを見る。
端正な横顔。浮かぶ笑み。
その笑みの向けられてる相手は女性だった。

 

***

 

フランソワーズが到着したのはその日の午後遅くだった。
予選を明日に控え、ジョーとスタッフはサーキットにいた。何度もセッティングをやり直し、シミュレーションをしては微調整を行う。ナイトレースだから、フリー走行も夜に行われるのだ。

スーツケースを引きながら、日本を発つ前のジョーに渡されていたスタッフパスを首から下げ、フランソワーズがきょろきょろしながらジョーのチームを探す。
パドックに着いたところで声を掛けられた。

「フランソワーズさん!」

くるりと振り返ると、そこには顔見知りの女メカニックがいた。

「あ。こんにちは」
「どうぞ。こっちです」
「ありがとう」
「空港から直接来たんですか?」
「ええ。ホテルがまだ決まってなくって」
「ホテル・・・って、島村さんと一緒なんでしょう?」
「え。――そうなのかしら」
「だって今から探すっていっても・・・無理ですよ、レース前だし」
「そうよね。じゃあ、ジョーと一緒でいいのかしら」
「そうですよ!」
「そうよね?」
「ええ」

そんな会話を交わしながら並んで歩く。

「それにしても、ホテルが決まってなくて心配じゃなかったんですか?」
「んー・・・たぶんジョーが手配してくれてるんじゃないかな、って思ったから」

うふふ、と微笑んだフランソワーズに若いメカニックは複雑な表情で応えた。

「その島村さんなんですけど」
「ジョーがどうかしたの?」

調子が悪いのかしらと微かに首を傾げるフランソワーズに取り合わず、メカニックは帽子の鍔を気持ち引き下げると爪先を見ながら言った。

「・・・こっちに来てからずっと、変なんです」
「変?」

こっくり頷く。

「ヤダ、ジョーが変なのなんて驚くことじゃないわよっ」

ころころ笑うフランソワーズに、女メカニックは陰気な顔で首を振った。

「――そういう変さじゃないんです。いつもの感じなら、みんな心配なんかしないんですけど」
「なに?たいく座りでもしてる?」
「いいえ、それは大丈夫です。――そうじゃなくて」
「なによ、気になるわね」
「・・・つまり、その」

なかなかはっきり言わない彼女にフランソワーズが焦れて、大きな声を出そうとしたところで目の前に大柄な女性が立ち塞がった。

「あ」
「こんにちは」

ジョーの古い知り合いの女メカニックだった。
若い方はほっとしたようにこれ幸いと駆け足で去ってゆく。

「――全く。余計な話、されなかった?」
「余計な話・・・ですか?ええと、ジョーが変だとか」

それを聞いて古株メカニックは舌打ちをした。

「――遅かったか」
「あの、ジョーが変っていったいどういう」
「ん。まあ――見たほうが早いかな」
「え、あの」
「変だっていうのはさっきの子の私見。私はそうは思わないけど、お嬢ちゃんがどう思うかはまた別の話になるわ」
「・・・?」

さっぱり意味がわからない。
だから、立ち止まった彼女の視線の先を追う。

――その先には、ジョーの姿があった。

「あ、じょ」

ジョー。と呼ぼうとした声は不自然に固まった。
フランソワーズの蒼い瞳に映るジョーは――スタッフパスを首から下げた複数の女性に囲まれていたのだった。
両腕に可憐な女性が巻きついている。まさに両手に花。そしてそれを嫌がる風もなく、彼女たちに顔を寄せて何か話している。
フランソワーズの手からスーツケースが離れた。
そうしてふらりと一歩踏み出した。

 


 

9月24日

 

「今年は行くわ!行くって決めたの!!」

フランソワーズがそう宣言したのは朝食の席だった。
いただきますを言う前に立ち上がり、みんなを見回して言った。表情は何かを決意したかのように固く、両手はきつく握り拳にして。
そうして期待に満ちた目で全員の反応を待った。

が、しかし。

博士を含め全員は黙々と食事を始めていた。誰も彼女に注意を払っていない。
いつものように、ソースを取ってくれだの、今日の味噌汁はちょっと薄いなという会話を小さく交わすだけで。

「ねぇ、聞こえた?」

フランソワーズが焦れてそう言うと、ジェットが面倒くさそうに答えた。

「ああ、聞こえた聞こえた」

答えながらも食べる手は休めない。

「行ったらいいだろう、どこへでも。誰も止めないぜ」
「そうそう。むしろ推奨するね俺は」

ハインリヒの声に全員がごはんを見ながら無言で頷いた。

「ちょっ・・・何よ、それ!もうちょっと、どうしてなのかとかどこに行くつもりなのかとか、何か訊くべきでしょう?」
「別に」
「いいよ。好きにしてくれ」
「もうっ!あなたたち、私のことが心配じゃないの!?」
「とりあえず、お前さんも座って朝飯食ったらどうだ?」
「だって、大事な話をしてるのよ、いま」
「だから答えは出ただろうが。行けばいいだろ、って」
「だって、私どこに行くのか何にも言ってないのに」

蒼い瞳が一同を一巡する。が、誰も顔を上げない。
フランソワーズはしぶしぶ腰を降ろすと、小さくいただきますと言ってトーストに口をつけた。

「・・・どうして誰も訊いてくれないのよ」
私のこと、心配じゃないの?とトーストに向かって言う。

手元を見つめたままのフランソワーズ。それ以外の者は顔を上げてお互いに目配せを送り合った。そうして、脳波通信のようなアイコンタクトの末に貧乏くじを引かされたのは、いつもの通りピュンマ――ではなく、脳波通信装置など持っていないギルモア博士だった。

「ええと、そのう・・・どこに行くのだね?フランソワーズ」

その声にフランソワーズは弾かれたように顔を上げた。

「シンガポールですわ、博士!」

フランソワーズの声に、博士以外の者は全員「ああ、やっぱり・・・」と頷きあった。が、当然、フランソワーズにはその光景は見えていない。

「ほう。シンガポール。それはまたずいぶん急な話だな」
「ええ。そうなんです。でも、実は去年からずっと考えていて」
「・・・去年?」

何か思うことがあるのか、博士の顔が少し歪んだ。まるで何か苦いものを噛んでしまったかのように。

「博士、どうかしましたか?お顔が」
「う、あ、ああ。ちょっと気分が、な」
「まあ大変!それはいけませんわ、」

腰を浮かせるフランソワーズに博士は両手のひらを向ける。

「ああいや、大丈夫。ちょっと私は部屋で休ませてもらうよ」
「でもお食事は」
「後で食べるから、ちょっと」

そう言ってそそくさと自室にひきとってしまった。
後には、心配そうなフランソワーズと、ずるいぞ博士っという心の声を持つ一同が残された。

「――でね。話が途中になったけど」

フランソワーズが満面の笑みで誰にともなく話し始めた。

「そんなわけでシンガポールに行ってこようと思うの」
「ふうん」
「あっそ」
「行ってくれば」

冷たい機械的な返事にフランソワーズの頬が膨らむ。

「もうっ。どうして行くの、とか、いつ帰ってくるの、とか訊いてくれないの?」

お前訊けよいやお前が、と無言の空気が流れたあと、しぶしぶ口を開いたのはやはりピュンマだった。

「ええと、じゃあ訊くけど――どうしてシンガポールに行くんだい?」
「あのね、ジョーがいるから!」

待ってましたとばかりに輝くような笑みで答えるフランソワーズ。
全員が予想していた通りの答えであった。

「で、・・・いつからいつまで」
「今日、この後すぐ行くの。で、帰りは・・・うふっ、ジョーと一緒!」

いつ帰ってくるのかの答えはない。

「あそ・・・気をつけて」
「ええ!」

そうして気がすんだのか、フランソワーズはにこにこしながら食事を再開した。
誰かが小さくため息をついた。

博士と一同が思い出したのは昨年のシンガポールグランプリのことであった。F1至上初のナイトレースとなったそれは、ほぼリアルタイムで放送されたため全員がリビングに集まって視聴する予定だったのだ。――が、結局、フランソワーズを残して全員退避することになった。何しろ、ギルモア邸の若いカップルは周囲のひとなど目に入らず、公共電波を使って私信を飛ばしあったのだから。そのひとりと一緒にその相手のレースなど見られたものではなかった。
だから今年は、どうか彼女が現地に行ってくれますようにというのが全員の願いであったのだった。

「でも、チケットは持ってるのか」

常識人のジェロニモがもっともな問いを口にした。

「もちろんよ!じゃーん!」

嬉しそうに取り出したチケットに、ジェロニモは「ああ、持ってたのか。それは良かった」と言い、ハインリヒは「なくすなよ」と冷たく言った。

「なくさないわよ。当然でしょ」

そうしてチケットにキスを送る。

「あ、ヤダ。ケチャップがついちゃったわ」

――ともかく、今年はフランソワーズのお守りをしなくていいんだ・・・と、全員が胸を撫で下ろした。
お願いだから、何事もなくさっさとシンガポールに行ってくれ。

 

***

 

「――ということだったのよ。みんな酷いと思わない、ジョー?」

食事の後、電話を片手に荷造りの最終チェックをするフランソワーズ。

「で、予定通りに来れそうかい?」
「ええ、大丈夫よ」
「そうか」

ジョーの声の背後にエンジン音が響く。

「でも・・・」

フランソワーズの声が急に沈んだ。

「・・・大事なレースなのに私が行ってもいいのかしら」
「なんで?」
「だって、邪魔になるというか、その・・・」
「ん?何?」
「だから。行ったら邪魔にならないかしら私」

マシンの音が駆け抜けてゆく。
それが通り過ぎるまで待って、ジョーは口を開いた。

「フランソワーズ。それって失礼じゃないか」
「えっ!?」
「怒るぞ」
「え、だって」
「きみが来たからってどうして邪魔に思うって思うんだい?きみは僕の集中力とか僕の力を見くびっているだろ」
「そんなことないわ!」

全力で否定するフランソワーズにジョーはにっこりと笑んだ。

「――だろ?だったら来ればいいじゃないか。それに、その・・・」
「なあに?」

もう一度、マシンが通り過ぎる。

「・・・レースの後、すぐ、その」
「すぐ?」
「・・・いいよ、なんでもないっ」
「ま。ジョーったら、気になるじゃない」
「こっちに来たら話すよ」

そうしてジョーは、一方的に通話を終えた。

――レースの後、すぐにぎゅーってできるじゃないか・・・なんて、言えるもんかっ。

 

***
そんなわけで昨年のシンガポールグランプリは大変だったのです(二人を除く一同が主に)
詳細はSS「恋人はレーサー」
をドウゾ。


 

9月21日

 

珍しく、ジョーの方が先に起きた。
半身を起こし、自分の胸に頬を寄せ腕を回し抱き枕のようにして眠っているフランソワーズの髪をそうっと撫でた。
が、彼女はぴくりともしない。まるっきりの熟睡だった。

――まぁ、そうだろうな。何しろ二日酔いなんだから。

ジョーは小さく息をつくと、フランソワーズの顔にかかった髪を優しく指で除けた。
白い額。白い頬。紅い唇。とても酔っ払いには見えなかった。二日酔いのように見えないところも「フランソワーズの七不思議」のひとつに加えるべきだろうか。とジョーは真剣に悩んだ。

フランソワーズはまるっきり気付いていないのだが、実はジョーは「彼女が酒に強い」ということを知っているのである。
だから、昨夜のテキーラ勝負でハインリヒとジェロニモを潰して優勝したのが誰かということもわかっていた。
けれども彼女がせっかく一生懸命その痕跡を消したのだから、ジョーとしては気付いていないふりを通した。
それもまた可愛いなぁと思ったのが本音だったけれども。

フランソワーズがアルコールに強いと知ったのはずいぶん前だった。
何しろ、・・・自分が彼女に潰されたのだから。
とはいえ、フランソワーズ自身には今でもその自覚はないだろう。彼女にとって「ジョーがアルコールに強い」というのは刷り込み済の事実なのだから。
当然、ジョーもそう思っていたから、フランソワーズが同じ量を飲んでもけろっとしているのには驚いた。
もしかしたら、肝臓やアルコール分解酵素も強化されているのかもしれないと思ったほどだった。当然ながら、個々の情報は博士から他の者に伝えられることはないのだけれども。

最初は、二人でさんざん飲んだ翌朝、ジョーがまだ朦朧としてベッドにいる時にすっきりさわやかにとっくの昔に起床し、朝食の用意と洗濯を済ませたフランソワーズに起こされたことだった。
同じように飲んだはずなのに、なぜ彼女は元気なんだろう?
その疑問は、同じことが繰り返されるごとに深くなり、そして推測が確信に変わっていった。
つまり、フランソワーズは自分よりも酒に強いのだという。
だから昨夜の惨状と機嫌の良いフランソワーズという取り合わせで、勝者が誰なのかは想像に難くなかった。

・・・別に隠さなくてもいいのになぁ。キッチンドランカーってわけでもないし、僕はみんなで楽しく飲むぶんにはいいと思うし。

昔の自分のように、世間を憎み、僻み、自身を否定し、壊すために飲んだのとは違う。
もしも彼女がそういう目的でアルコールに手を出すのなら止めるだろう。でも、昨夜のピュンマの表情から見ても、みんなじゅうぶん楽しんだと思えるのだ。だから。

――まぁ、そうだな。ただひとつ問題があるとすれば、それは僕がいない時だったということだ。

酔ったフランソワーズはそれはまた可愛いのであることを、できれば他人に知られたくはなかった。
いつも可愛いけれど、そのいつもの可愛さとはまた違う。なんというか、こう――とにかく甘えてくるし、それがどことなく艶っぽくて――そう、可愛くて色っぽいとでもいうか。

「ん・・・」

フランソワーズが身じろぎして、うっすらと目を開けた。

「・・・ジョー・・・?」
「おはよう」

ジョーは彼女の頭のてっぺんにキスをすると両手で抱き寄せた。

「・・・ん。ジョー。いつ帰って来たの?」
「うん?昨夜だよ」
「そう・・・」

フランソワーズの眉間に皺が寄る。昨夜の記憶が半ば飛んでいるのは明らかだった。

「私・・・」

ジョーは微笑むとフランソワーズの額に唇をつけた。

「まだ寝てていいよ。――先に寝てろって言ったのに、待ってたからまだ眠いだろ?」
「・・・ん」

フランソワーズはぼんやりとジョーを見つめ、そうしてにっこり微笑んだ。

「・・・お帰りなさい」
「うん。ただいま」
「ジョー?」
「うん?」
「うふっ、なんでもない」
「なんだよ」
「なんでもないったら。ただ呼びたかっただけ」

その笑顔と声にジョーはくらくらした。
――まだアルコールの残っているフランソワーズ。

危険だった。

でも。

もう朝なんだから。
みんなも起きている気配がするし。
ここはひとつ、自分もさっさと起きるべきだろう。

ジョーがするりとベッドから抜けようとすると、その腰に白い両手が回された。

「いやん。ジョー、まだここにいて」

 

そんなわけで、二人で寝坊することになった。

 


 

9月14日

 

「・・・フランソワーズ・・・?」
「ジョー!」
「うわっ」

ジョーが事態を把握しようとするよりも早く、そんなことは二の次だと言わんばかりにフランソワーズは彼の首筋にかじりついていた。その勢いそのままにジョーは絨毯に倒された。何しろ、たいく座りだったのである。そこへ勢いよく抱きつかれては、ころんと絨毯に転がるしかないではないか。

「ジョー!会いたかったわ!」
「え、あ、フランソワーズ」

ジョーはなついてくるフランソワーズを何とか引き離そうと試みるも失敗に終わっていた。

「ジョー!」

頬をすりよせ、幸せそうに微笑むフランソワーズ。それは可愛いなあと思わないでもなかったが、いきなり飛びつかれ倒されたジョーとしては、なついてくる大型犬を思い浮かべてしまうのだった。顔を舐められないだけマシである。

――イヤ・・・舐めるの、か?

と思った途端に鼻先を舐められた。否、キスされた。

「ちょ、ちょっと待ってフランソワーズ」
「なあに?」

ジョーの頬にキスをしていたフランソワーズは、それでも彼から唇を離そうとはしない。

「あのさ」

ジョーはくすぐったくて顔を背けるものの、フランソワーズは諦めずに彼の頬から耳にかけてキスの雨を降らせてゆく。

「なあに?――もうっ、逃げちゃイヤ。ジョーは私に会えて嬉しくないの?」
「い、イヤ、嬉しい・・・けど」

こんな強引に転送されてフランソワーズは何とも思わないのだろうか。
そもそも、「遠距離恋愛で会えない時間が愛を育てるのよっ」と盛り上がっていたフランソワーズなのに。
その「遠距離恋愛」がこんな簡単かつ卑怯な手段で崩壊してもいいというのだろうか。
ジョーは解せなかった。

「あのさ、フランソワーズ」

フランソワーズの頭を手で押さえて除けながらジョーは言う。

「きみ・・・こんな簡単に当初の目的を放棄していいのかい?」
「当初の目的?」
「ほら、遠距離がどうとかっていう」
「放棄してないわよ、別に」
「いやだって、今こうしてここに居ること自体が」
「・・・レースまで居るなんて誰が言ったの?」
「えっ?」

フランソワーズがジョーから顔を離し、彼の瞳をじっと見つめた。

「ジョーったら。私は冷静よ?だってこのままここに居ても、パスポートもないし、そもそも出国印も入国印も押されてないのよ?それに御覧の通り手ぶらだし。すぐに戻るに決まってるでしょ?」

実は冷静に状況を把握していたフランソワーズだった。

「だから、もうっ・・・短い逢瀬を楽しんでいるのに、ジョーったら何にもしないんだもの」
「何にも、って・・・」
「抱き締め返してくれてないわ。それにキスだって」
「いや、それは」
「もうっ」

フランソワーズは頬を膨らませると、ジョーの顔を両手で挟み有無を言わせず唇を重ねていた。

「ん!ふら」
「黙って!」

そうしてフランソワーズがしてきたキスは、いつも彼がするような――恋人同士のキスだった。

 

***

 

「じゃあね、ジョー」

数分後。フランソワーズは立ち上がると肩にかかる髪を払い、にっこりと笑った。

「じゃあ、って・・・」

せめてあと一時間くらいは時間が欲しいジョーであった。何しろ、フランソワーズに襲われただけで自分からは何も――本当に何にもしていないのだ。フランソワーズは彼女自身の気がすむまでキスして、そうしてさっさと立ち上がったのだ。

――それはないだろう?

ジョーは腰を浮かせる。が、フランソワーズが彼の肩に手を置いて「だめ」と優しく言った。

「言ったでしょう?日本からお祈りしてるわ、って」
「でも」
「それに、会えない時間が愛をもっともっと育てるはずよ」
「・・・会いに来たくせに」
「だって、育って屋根を突き破っちゃったんだもの。ジョーはまだそこまでいってないでしょう?だから駄目」

そこまで、っていったいどこまでなんだろうか。

「・・・ずるいぞ」
「んふふ。いいでしょう。イワンは私のことがだーい好きなんだもの。ちょっとした贔屓よ」
「・・・大好きって」
「でもジョーのことはあんまり好きじゃないみたい」
「いいよ別に。男同士で好かれても嬉しくない」
「イワンもそう言ってたわ」

ジョーは舌打ちをすると座り込んだ。
その彼の髪をフランソワーズが優しく撫でる。

「私だって名残惜しいけど、でも・・・あなたからのキスはこの次にとっておくわ」
「この次?」
「目指せ表彰台、よ!」
「・・・なんで勝ったら、って言わないんだ」

僕を見くびっているな、と機嫌の悪くなったジョーに、ばかねと彼の頭のてっぺんにキスを送る。

「だってそうしたら、一番速く帰ってきてくれないとキスしてもらえないじゃない」
「・・・今の、もう一回言って」
「え?」
「いつもの」
「いつもの・・・」

フランソワーズはもう一度キスをすると言った。

「一番速く帰ってきてね、ジョー」

そうして消えた。

 

***

 

「よっしゃあ!」
「やったな、フランソワーズ!」

ギルモア邸では珍しくジェットとハインリヒ、ピュンマも交えてのレース観戦となっていた。
ジョーは2位だった。が、それでもぎりぎりまでのデッドヒートだったのだ。

ジェットに背中をばしんと叩かれたフランソワーズは、痛いとも何とも言わずただぼうっとテレビ画面を見つめていた。

「ん?おい、どうした」

また乙女な妄想世界に浸っているのだろうか・・・と全員が思った刹那、フランソワーズは真っ赤になって両頬をてのひらで包んでいた。

「やだ、どうしよう」
「ん?何がだ」

画面に何か変なものでも映っていたのかと首を巡らせるが、ジョーの姿はなかった。あるのは優勝者のみ。

「別に何もないぞ」
「だって!」

フランソワーズが瞳を潤ませて言う。

「だって、表彰台なのよ!帰ってきたら、ジョーにいっぱいキスされちゃうわ!!」

・・・・。

「やだ、どうしようっ」
「・・・そういう約束でもしたのかい?」
「ええそうなの!」

ピュンマの問いに大きく頷くと、フランソワーズは食い入るようにテレビ画面を見つめた。インタビューが始まったのだった。まずは優勝者。そして次は。

『・・・ええ。これで約束が果たせたと安心しています』

内容は、ああチームとの約束なのだろう・・・と思わせるものだった。が、このセリフの後に小さくウインクしてみせた彼。

「いやん、ジョーったら!!」

相変わらず公共電波を使って秋波を送る彼らに、兄組は無言で部屋に引き上げるのだった。

 

 


 

9月13日

 

「・・・ジョー?大丈夫?」
「うん・・・」

聞こえてくる声が沈んでいるようで、フランソワーズは気を揉んだ。
先刻、ジョーから電話がかかってきて浮かれていたのも彼の声を聞くまでだった。

――予選の結果のせいだろうか。

それ以外には考えられないものの、フロントローのどこが悪いのかフランソワーズにはわからなかった。
あるいは、ポールを取れなかったからなのだろうか。

「ね、いったいどうし」

どうしたの。と訊こうとして黙った。
彼が話したくないことなら、自分が無理に話させるわけにはいかない。
でも聞きたい。彼がいったい何を思い悩んで沈んでいるのか。だから気を揉んだ。

「――ジョー?」
「うん・・・」

頷くしかしない彼にいったいどうすればいいのかと思う。いまの彼との物理的距離が恨めしい。

「・・・あのぅ・・・もしかして、私の祈りが足りなかった?」

それを怒っているのかもしれない。

「うーん・・・」

肯定なのか否定なのかわからないジョーの声。

「ねぇ、ジョー。お願い、はっきり言って!」

これでは対処のしようがない。
いったいジョーはどうしてしまったというのか。
怒っているのか落ち込んでいるのか泣いているのか、ただ単に眠いだけなのか。

「うん・・・――フランソワーズ」
「はい」

ジョーが一拍置いたあとにはっきりと名前を呼んだので、フランソワーズは背筋を伸ばした。

「君の言う通りだったというか、その」
「ん?」
「ええと、つまりその・・・ほら、アレだよ、アレ」
「アレ?」
「うん」
「なあに?何かえっちなこと?」
「ち、違うよっ」
「だって、アレなんて言うからそうかな、って」
「ば、そんな話をするわけないだろっ」
「・・・そお?」
「・・・いや、そりゃたまにはするかもしれないけど」

なかなか話が進まない。

「でも今回はそうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
「だからその。――ほら、君が言っていただろ。会えない時間がどうとか、って」
「・・・会えない時間が愛を育てるのよ、って?」
「そう、それ」
「まっ!ジョーったら!」

ジョーにつられて落ち込み気分だったフランソワーズのテンションが一気に上がった。

「やだわ、もう愛を育てちゃったの!?」
「え、いやそういう・・・わけじゃないと・・・おも、う」
「嘘よ。はっきり言っちゃえば?」

ほらほら言いなさい、言っちゃえば楽になるわよ、と明るく促され、ジョーは微かに頬を赤くした。
ホテルの部屋から電話しているからいいものの、こんな姿をチームメイトに見られたら何を言われるかわかったものではない。だから、他に誰も近くにいないにもかかわらず、ジョーはいつもの癖で前髪の奥に表情を隠した。

「・・・なんだか気に入らないよ」
「何が?」
「君の思惑通りになったみたいで、さ」
「いいじゃない、そんなの。ほら、正直に言ってみて?」
「・・・う」
「う、じゃないでしょ?愛してるよフランソワーズ、でしょ?」
「あ」
「あ、待って。違うわ、間違った。そうじゃなかったわよね?だって愛が育ったんだから、いつもの愛してるとは訳が違うのよね?」
「・・・」

あんまり愛愛って連呼しないでくれると助かるんだけど。というジョーの小さな声は、もちろん黙殺される。

「うふふっ。そうねぇ・・・日本にいるときよりもっともっと愛してるよ、かしら?」
「・・・」
「あ、待って!違うわ、ええと、昨日よりも愛してるよ、よね?」
「・・・」

ジョーは、いったい自分は何の為にフランソワーズに電話をしてしまったのだろうと思った。
そもそも、電話したのはただ単に・・・声を聞きたかっただけのはずだったのに。なのに今や、何故かこんな責め苦に遭っている。腑に落ちない。

「ねっ、言って!」
「う」
「だから、う、じゃないでしょ?さん、はい」
「・・・」

号令をかけられたからといって言えるものではないと思う。

「ジョー?」

絶対、面白がってる。
ジョーは確信した。
フランソワーズのこのテンションは、自分をおもちゃにして遊んでいるときのテンションに近い。
ジョーはなんだか脱力してしまい、そのまま部屋の絨毯に座り込んでしまった。もちろん、たいく座りである。

「ジョー?聞こえてる?」

思わずため息をつこうとして我慢した。耳聡い彼女にはわかってしまうだろうし、そうなったらなったでなぜため息をついたのかと追求されるに決まってる。

「もうっ。ジョー?」

フランソワーズは、先刻まで心配していたぶん安心して、ついジョーをからかって遊んでしまっていた。が、急にうんともすんとも言わなくなった彼に、遊びすぎたかな、と少しだけ反省した。
だから、反省した証拠を提出することに決めた。

「じゃあ、私から言うわね?――早く帰ってきて!もう、会いたくて会いたくて仕方ないんだから!」

脱力していたジョーの肩がぴくんと揺れる。

「こっちだって愛が育ちまくっているのよ!ギルモア邸の屋根を突き破ってお外に出ちゃう勢いなんだから!」

・・・愛ってどこかに生えて成長するものだったろうか?

「ああんもう、どうしようっ!」
「どうしよう、って・・・フランソワーズ」

どうもできないよ。
そう続けようとした矢先、突然話し相手が代わった。

「よお。ジョーか?」
「・・・ハインリヒ」

電話の向こうでは、やだ返してジョーと話すの、というフランソワーズの声がする。

「あのな。メンドクサイからこれから届けに行く」
「えっ!?何を?」
「何を、って・・・屋根を突き破ってお外に出ちゃう勢いのお嬢様だ」

ひどいわ、聞いてたのね!という声の奥に、お前、ここで電話してて聞くも何もないだろうが、というジェットの声も聞こえてくる。

「ったく。遠距離恋愛を成功させるだの何だの言ってるが、こっちは大迷惑だ。いいな?今からそっちに行くから、お前、屋上で待ってろ」
「えっ・・・でもホテルの屋上には出られないことに」
「だから!許可なくても出ろって事だ。そのくらいできるだろう?」
「う・・ん」

ジョーは疑わしそうに絨毯を見つめ、電話を持ってないほうの手でのの字を書いた。

「・・・でもさ」
「おい、ジョー!」

またまた電話の相手が代わった。

「俺が連れてってもいいんだが、ずっと抱っこされるのはヤダって言うからさ」

当たり前だ、ジェット。

「ともかくこれから届けるからな。お前、一度お前がいない時のギルモア邸をこっそり見に来てみろ。それはもう無法地帯もいいとこだぞ」

何よ無法地帯って!というフランソワーズの声に、「ああん?俺の足を思い切り蹴ったのはどこのどなただったかな」というジェットの声。

――蹴った?

『アアモウ、ウルサクテ眠ッテラレナイヨ』

不意にイワンの不機嫌な声が頭の中に響いた。――と、思ったら。

「あれ?」
「あら?」

目の前にフランソワーズがいた。

 

***
だっていくらドルフィン号でもいったいいつ着くんだという話ですし。


 

9月12日

 

「日本から応援してるわね、ジョー」

電話なのに、その向こうにやや首を傾げて微笑むフランソワーズが見えたような気がしてジョーの頬は緩んだ。

「ああ。頑張るよ」
「絶対よ。ぜ・った・い」
「うん。約束する」
「私もこっちで祈ってるから!」

――自分の勝利を信じて祈ってくれる女性がいる。この広い世界のどこかに。

そう思っただけで、心の奥が温かくなり、ジョーは力が湧いてくるのだった。

今回は好きなサーキットのひとつであるモンツァ。絶対に勝ちたい。
最初はフランソワーズを日本に置いてきたのは失敗したなと思っていたものの、今になって考えるとやっぱり置いてきて正解だったのかもしれないと思う。
傍にいないと頑張れない――なんていうのはジョーの望むところではないし、たぶんフランソワーズもそうだろう。
それに。

「ね、ジョー、知ってる?会えない時間が愛を育てる、って」
「・・・聞いたことがある」

確か、歌謡曲ではなかったか。

「私たちもそれね?」
「・・・どれ?」
「だから、会えない時間が愛を育てるのよ!」
「・・・会えない時間が」

愛を育てる・・・?

「きっとね、次に会う時はジョーのことをもっともっと好きになってるわ!」

電話の向こうの妙にテンションの高いフランソワーズに、ジョーは一瞬不審なマナザシになったものの、・・・可愛いかったのであまり考えないことにした。

「ね!ジョーもきっとそうなるわ」
「うーん・・・どうかなぁ」
「なるわよ!」
「ううーん」
「・・・ならない、の?」

途端に心配そうになる声ににやりと笑うとジョーは言った。

「現時点でMAXだから、これ以上っていうのは無理」
「ま。ジョーったら」

これで勝ったと思ったのだけれども。

「もうMAXなの?私なんてまだまだもーっとジョーを好きになるわよ!」
「それって今がそれほどでもないっていう意味?」
「違うわよ、もう!」

膨れた顔のフランソワーズが目に見えるようだ。

「ジョーの意地悪っ。そうじゃないの知ってるくせにっ」

ジョーはくすくす笑うと

「うん。知ってる」

と言った。

 

***

 

――祈りが足りないぞ、フランソワーズ!!

予選であわやノックアウトの憂き目に遭うところだったジョーは、コックピットで唸った。
今はガレージでQ2のためのセッティング中である。

いや別にフランソワーズのせいじゃないけど。――そうじゃなくて。

『今度こそ、遠距離恋愛を成功させましょうね、ジョー』

そうにっこり笑って手を振ったフランソワーズ。
彼女は自信があるようだったが、ジョーは本当のところ全く自信がなかったのであった。

――やっぱり「いってらっしゃい」と「一番に帰ってきてね」があるのとないのでは違うもんだな。

昨夜はフランソワーズを日本に残してきて正解――と思ったものの、一夜明ければこんなものであった。

フランソワーズ。遠距離恋愛ってさ、・・・女性の方が向いてるかもしれないよ。

かといって浮気するとかそういう問題ではなく、ジョーはただ単にフランソワーズに甘えて甘えて甘え倒したくなってしまうのだった。

――いかん。集中しなければ。

フランソワーズの可愛い笑顔を頭の隅に押し遣って、ジョーはレースのことだけを考えた。
祈ってくれているひとのためにも頑張らなければならない。
そして、そうやって頑張ることが自分のためにも彼女のためにも、たぶん、良いことなのであろうから。

 


 

9月11日  少女漫画的ゼロナイです♪

 

フランソワーズは朝からそわそわと落ち着かなかった。
毎度の事とはいえ、見かねたハインリヒが声をかける。

「フランソワーズ、お前さん、そんなに気になるならドルフィンで送ってやるぞ」

するとフランソワーズは爪先で綺麗にくるりとターンをすると、何かを決意しているかのような至極真面目な顔で答えた。

「ん。いいの!」
「いいの、って・・・」

ハインリヒは別にフランソワーズのためを思って提案したのではなく、ギルモア邸全体を含む自分たちの生活を考えてのことだったのだが。

「ここから祈ることにしたの!」
「祈る、って・・・祈ってどうにかなるもんじゃないだろうが」
「だってジョーも、祈っててくれって言ってたもの!」

そうして両手を胸の前で組んで、それに額をつけ目をつむり何かを唱え始めたフランソワーズをハインリヒは嫌そうに見つめた。
そんな彼の肩にピュンマの手が置かれた。

「放っておいたほうがいいよ。相手をすると疲れるから」
「・・・そのようだな」

今やリビングの絨毯の上に跪いて一心不乱に何かを祈っているフランソワーズ。
兄二人は静かに静かに彼女から遠ざかって行った。

安全地帯まで避難すると、ハインリヒが問うようにピュンマに目を向けた。
ピュンマは軽く肩を竦めると、

「遠距離恋愛なんだとさ」

と興味なさそうに言った。

「遠距離恋愛?」
「・・・会えない時間が愛を育てるとか何とか」
「ほう。しかし・・・アイツら、それに失敗したんじゃなかったか」

確か4月頃、しばらく遠距離になってそして――別れるかもしれないくらいになったはずだった。そしてそれに懲りた二人が、相手に対して我慢しないことと決めたのも記憶に新しい。

「チャレンジなんだってさ」
「何だそれ」
「ジョーは今イタリアだろ。週末のレースのために」
「ああ」
「好きなサーキットだからフランソワーズがいたら邪魔なんだとさ」
「なるほど」

そんな話をしていた兄二人は、すっかり後方への警戒がおろそかになっていた。そのため来るべき惨劇を避けられなかったのは当然の話であろう。

「邪魔なんて言ってないもんっ!!」

鈍い音がして、ハインリヒとピュンマの腰にフランソワーズの拳がめり込んでいた。

「っ、お前そこっ・・・腎臓っ・・・」

あっけなく崩折れる二人。
フランソワーズは鼻息も荒く腕組みをすると仁王立ちで言い放った。

「邪魔なんて失礼なこと言うからよ!」

苦悶の表情を浮かべる二人には彼女が悪魔にしか見えなかった。

「ジョーは、大好きなモンツァだから勝ちたいって言ったの!集中するから、一緒にいてもフランソワーズのことが見えなくなるけどそれでもいいの、って心配そうに言ったのよ!だから私は、だったら日本から応援するわ、っていういわゆる内助の功なんだから!」
「内助の・・・功?」

それって「妻」に使う日本語なのではないかと思ったが、ピュンマは賢明にも沈黙した。

「・・・それにしてもこれはきいたな」

ハインリヒが腰をさすりながら言う。まだ立ち上がれない。

「んふふ」

そんな彼に不敵な笑いを向け、フランソワーズは嬉しそうに言った。

「ジョーに習ったの。必殺技!「腎臓潰し!」」
「腎臓潰し?」
「大の男でもそこは痛いんですって。あ、勘違いしないでね。私、ジョーにはしないわよ絶対。そうじゃなくて、護身用に習ったんだもの」

いや、いつかヤツはそれを教えたことを後悔するはずだ。

兄二人は、既に自分らに興味をなくしあさっての方に笑顔を向けているフランソワーズを見ながら小さくため息をついた。

 

***

 

で、フランソワーズがいったい何を祈っていたのかというと。
今日はフリー走行の日なのである。
セッティングがベストになるように、ジョーが存分に力を発揮できるように、いわゆるチーム全体を励ますための祈りだった。

「頑張ってね、ジョー。私はいつでもあなたのそばにいるわ。ううん、一緒にマシンには乗らないわよ嫌ねえ。そうじゃなくて、ずっとこうして祈って・・・え?駄目よ、膝の上ならいいだろう、って。前が見えないじゃない。危ないわ、ううん私じゃなくてジョーがケガしたら困るもの。だから無事に走りますようにっていうお祈りなの。聞こえるかしら、ジョー?」

偶然その「祈り」を聞いてしまったジェットは大笑いして、フランソワーズに弁慶の泣き所を思い切り蹴られた。
ギルモア邸は今やただの危険地帯だった。

 


 

9月3日   今日はもちろん「93」です♪

 

「ねぇ。フランソワーズ」

ノックの音が虚しく響く。部屋の主は答えない。
ジョーは小さくため息をついた。

「・・・見えてるんだろう?」

いったい自分はどのくらいの時間、ここに立っているんだろうと思いつつ、それでも立ち去れずジョーはフランソワーズの部屋の前にいた。

「――俺は何も悪いことはしてないし、したとも思ってないよ」

という宣言自体が問題なのかもしれなかったが、既にジョーはそれをどうこうしようという意図もなくなっていた。
いわゆる逆ギレの一歩手前。

「大体、何でそんなに怒るのかわからないよ。フランソワーズと仲良くするのがそんなに嫌なわけ?」

実際には、彼女は怒っているのではなく恥ずかしがっているのだ。が、今となっては同じようなものだった。

「俺が嫌いならそういえばいいだろ」

しかし実際にそう言われたら、とてつもなく落ち込むのだ。

「――言えよ」

しかし無言のままのドアを見つめ、ジョーは深くため息をついた。
そうして廊下の壁に背を預けずるずると座り込む。床がひんやりして気持ちよかった。

「・・・なんで俺はここにいるんだろうな」

我ながら可笑しくなる。
別にフランソワーズに閉め出されたからといって、行き場所がないわけではないのだ。自分の部屋に戻ればいい。
が、きっと部屋に戻っても――フランソワーズは来ないのだ。ここ数日、ずっとそう。来ないのを知っていて、でも待ってしまう夜を過ごすのはもうたくさんだった。
膝頭に頭を預ける。

「・・・別にいいじゃないか。キスマークくらい。・・・いちおう、見えないだろうって配慮したんだぜ。それでも」

目立つところにはつけない。
これはフランソワーズとの確約事項のひとつであった。

「それに、今は俺の方が目立つし」

頬を指先で撫でる。昼間、フランソワーズに吸われた箇所。

「・・・けっこう、恥ずかしいんだぜ、これ」

みんなの前では自慢してみせたけれど、よくよく考えれば恥ずかしいのだ。
なにしろ、会う人毎に「どうしたの?」と訊かれるのだから。ぶつけたのか、シミなのか。そのどちらでもないから、答える時は笑うしかない。

「大体、こんなトコロにつけるかな、普通」

まさか頬のど真ん中につけられるとは予想外だった。

「・・・恥ずかしいの?」
「うん」
「そうなんだ」

えっ?

フランソワーズの声が頭上に降ってきて、ジョーは顔を上げた。
いま、ドアの開閉音はしなかった。なのに、フランソワーズはこちら側にいる。ということは、つまり――

「あれ?」
「何してるの、ジョー」
「え。いや、その」
「どうしてたいく座り?」

フランソワーズがしゃがみこんでジョーと同じ目線になる。微かに漂う花の香り。

「・・・もしかして風呂に入ってた?」
「ええ」

にっこり笑むフランソワーズにジョーは少し複雑な気持ちになった。
何しろ、いると思っていた彼女はドアの向こうにはいなかったのだ。だから自分の言ったことは、おそらく彼女には伝わっていない。日常生活では目と耳のスイッチをいれていないのだから。
そう思うのと同時に、どうしてひとりで風呂に入ったんだという疑問も渦巻く。

「・・・今日は一緒に入るつもりだったのに」
「あら、駄目よ。絶交中なんだから」
「ぜっ・・・」

まだ継続してたのかとがっくりした。

「・・・フランソワーズ。しつこい」
「ふふ。反省した?」
「してない」

拗ねたように言うジョーの頬をフランソワーズは指でつつく。

「恥ずかしいでしょう?」
「別に。俺は平気だよ」
「もうっ。それじゃあ罰ゲームにならないじゃない」
「・・・ゲームじゃないし」
「懲りた?」

ジョーは答えない。

「いい?これからはじゅうぶん気をつけてちょうだい。外から見えるところにつけるのは駄目。いい?」
「・・・うん」

目を伏せたまま小さな声で答えるジョーにフランソワーズは苦笑した。

「もう、ジョーったら。・・・ジョーにつけられるのが恥ずかしいんじゃないのよ。他人から見えるところだと恥ずかしいって言ってるだけ」
「・・・うん」
「だからその、・・・見えないトコロだったら」

ジョーの目とフランソワーズの目が合う。

「見えないトコロだったら?」
「・・・知らない。ジョーの意地悪」

 

***

 

「ひとりで風呂に入るなんてズルイ」

フランソワーズの部屋で彼女を抱き締め、ジョーは拗ねた。

「だから言ったでしょう?絶交中だったんだから」
「今は?」
「え?」
「いま、過去形だった。てことは解除?」
「・・・そうね」

だって、じゅうぶん反省してたみたいだし。――第一、廊下でたいく座りされたら、・・・ね?

「ほっぺ、目立つわね」

ごめんね、と小さく言うフランソワーズにジョーは首を振った。

「いいよ、僕は男だし」
「でもからかわれたでしょう?」

逆手にとって自慢するからいいんだ。とは言わない。せっかく彼女の機嫌が直ったのだから。

 


(C)ヒロイ様

 

「そんなことよりフランソワーズ。こんな格好で邸内を歩いちゃ駄目だよ」
「あらどうして?」
「僕が一緒ならいいけど」
「だってお風呂上りなのよ?」
「でも駄目だ」

脚だって丸見えだし、何しろ体のラインがわかってしまう。
いくらフランソワーズにはジョーがついているとはいえ、この邸内は野郎がうようよしているのだから。

「心配で落ち着かない」
「もうっ・・・ばかね」

 

 


 

9月2日   今日は「923」です♪

 

街でアイツらを見掛けたのは初めてだった。

・・・気付かなければよかったのに。
俺は深い溜め息をついた。今から進路を変えるにしても、なにしろ相手は003だ。早晩みつかってしまうだろう。

それにしても、なんだかなぁ。

前方のばかっぷるを見つめ、俺は再度溜め息をついた。

 

***

 

日本に来たのは久しぶりだった。インディカーレースは日程も過酷だったから、なかなか時間がとれず、気が付いたら自分のメンテナンスの時期になっていたというわけだ。
ちょっとした懐かしさも手伝って、ふと雑踏を歩いてみようと思ったのが運のつき。
まさかアイツらを見ることになるなんて。知っていたら、まっすぐ研究所に行ったのに。

アイツらは・・・何ていうか、凄く目立っていた。
がしかし、それは見てくれの良し悪しではない。

そうではなくて・・・

 

***

 

「ついて来ないで」
「何でだよ」
「絶交中でしょ!」

つんと顎を上げスタスタ歩いてゆくフランソワーズ。まだ残暑も厳しいというのに、早くも秋の装いだった。
が、首にぐるぐるに巻いたストールはいただけない。それはもっと、ゆったり巻くはずのものではなかったか。

「絶交って、勝手にフランソワーズが決めただけだろ。僕は関係ない」
「関係ない、ですって!?」

フランソワーズが足を止めてくるりと振り返った。ジョーは背中に追突しそうになり、慌てて体を引いた。

「よくもそんなことが言えるわね!いい?これは誰がつけたんですか!?」

ぐるぐるに巻いているストールをぐいっと引き下げ、問題の箇所をジョーに示す。

「見覚えがあるでしょ!」

ジョーは顔を近付けた。

「・・・だいぶ薄くなったね」
「もう!そういう問題じゃないの!」

知らないっ、と踵を返し再び足早に歩いてゆく。

「フランソワーズ、待ってよ」
「絶交中」
「フランソワーズ」
「絶交の意味、知らないの?」
「知ってるよ」
「だったら話しかけないで」

ジョーは無言でフランソワーズの後をついて行く。500メートルくらい過ぎただろうか。

「フランソワーズ」
「・・・」
「ねえ、フランソワーズってば」
「絶交中」
「いいこと考えたんだけど」
「・・・何よ、いいことって」

隣に並ぶジョーを疑わしげに横目で見る。対するジョーはにこにこしてフランソワーズに顔を向けた。

「あのさ。フランソワーズも僕に痕をつけたら、おあいこだと思わない?」
「・・・は?」

何を言ってるんだろう、この人。と、フランソワーズは思わず足を止めた。
まじまじとジョーを見る。

「だからさ。フランソワーズが目立つトコロに痕をつけたら同じことだろ?」
「目立つトコロ、って・・・」
「うん。ホラ」

ジョーが少し屈んでフランソワーズに首筋を晒す。

「ホラって、今!?」
「うん」
「だってそんなのっ・・・」

フランソワーズは辺りを見渡した。ここは渋谷の街である。平日とはいえ人通りもそれなりにある。

「こんなトコロでそんなことしたら目立つでしょ」
「そんなことないよ。ホラ」

ジョーが目で示す方を見ると、大学生と思われるカップルが頬にキスをしていた。誰も注意を払わない。

「ね?」
「・・・」

フランソワーズはジョーをじっと見つめ、そして――彼の肩に手をかけた。

 

***

 

なんなんだ、アイツらはっ!!

俺は踵を返し、もときた道を戻っているところだった。とても顔を会わせる勇気がない。
ったく、ここは日本だろっ!!

 

***

 

その夜。

夕食時に現れたジョーを見て博士が言った。

「ジョー。それはどうしたのかね?ぶつけたのか?」
「あ、いえ」

にこにこしているジョーにジェットは喉の奥でけっと言った。

「痣か。朝はなかったな」
「どこでぶつけたんだ・・・うん?シミか?」

ピュンマがじっと凝視する。

「何かの溶剤でも被ったとか?」
「違うよ、ピュンマ。これは」

ジョーはにこにこしたまま左の頬に指を触れた。

「フランソワーズに吸われた痕だから」

ぶは。

誰かが茶を吹き出し、誰かが箸を取り落とした。

「・・・あ、そう」

顔をひきつらせ頷くピュンマ。彼には免疫があるので、この程度の話ではダメージを受けない。

「・・・吸われた。フランソワーズに」
「うん、そう」

呆然と復唱するジェロニモにジョーは笑みを浮かべたまま答えた。

しばし静寂に包まれる食卓。

そこへ、トレイを持った張々湖とフランソワーズがやって来た。

「あら、どうしたの、みんな。手が止まってるわ」
「・・・フランソワーズ」
「なあに?」

蒼い瞳がハインリヒに向けられる。

「ジョーの頬はうまかったか?」
「え?」

凍りつく室内。
ジョーだけがにこにこしている。

「っジョー・・・言ったわね?」
「うん。この痕は何かって訊かれたから」
「ばかっ!もう知らないっ!」

フランソワーズはトレイを彼に投げつけると駆け出して行ってしまった。

「あーあ」

後にはトレイを抱え椅子ごと引っくり返っているジョーが残された。
が、やはりにこにこしたままだった。

「処置ナシだな」

ジェットの言葉に全員が無言で頷いた。

 


 

9月1日  今日は「913」です♪

 

009は僕の事をライバル視しているみたいだけど、お門違いもいいところだよ。
全く、どうしてフランソワーズが絡むと彼は馬鹿になってしまうんだろうなぁ。
フランソワーズだって呆れているよ、絶対。

「ん?なあに?」

ミルクを飲みながら視線を上げたら、フランソワーズと目が合った。

『・・・何でもないよ』
「そう?」

にこにこ笑うフランソワーズ。
確かに可愛いかもしれない。年下の僕が言うのもなんだけど。
うん。
可愛い・・・んだろうな。そして綺麗で。

でもさ、009。
君は肝心な事を忘れているよ。

僕とフランソワーズはいくつ離れている?

君から見れば、彼女は崇拝する対象になりえるかもしれないけど、僕から見たら、ただのオバサンなんだけど。

「イワン。何か言った?」

え。
いま、僕はテレパシーを使ってないんだけど。

「ん・・・気のせいかしら」

フランソワーズはカンがいい。女の第六感というべきものだろうか。
僕はミルクを飲むのに一生懸命なふりをした。

・・・そうなんだよな。
僕が君のライバルになるわけがないよ。009。
大体、フランソワーズと買い物に行くと必ず親子って言われるんだ。誰も友人同士とは思ってくれない。・・・まぁ、ベビーカーに乗っている限り仕方ないのだろうけど。

そう。僕はあくまでも君たちの友人であって、それ以上でも以下でもない。
フランソワーズが恋愛対象になるわけないじゃないか。
第一、僕は年下が好みなんだから。

「イワンったら、ご機嫌ね。うふふ」
『機嫌がいいのは003のほうだろう』
「そうかしら」
『うん。009との仲がうまくいってるようだね』
「あら、やだわイワンったら、からかって」

やめてちょうだいと頬を赤くする。なるほど。009はこんなところにやられているわけか。
確かに、可愛いのは認めるよ。

『仲がいいなら、早く子供を作ってよ』
「えっ!?」
『僕の友達にちょうどいいだろう?早くしてくれないと、僕ばっかり年くってしまう』
「え?お友達って・・・」

真っ赤になったと思うと、ちょうどやって来た009の腕に僕を押し付け出ていってしまった。

・・・やだなあ。
今の感じだとまるで僕がフランソワーズをいじめたみたいじゃないか。

そうっと009を見ると、凄い形相で睨んでいた。

ほらみろ。

僕はこの窮地をどう乗り越えようか考え始めた。

 

***

 

「・・・なんて言ったのよ、イワンったら!」

その日の夜遅く、フランソワーズはジョーの部屋で昼間のイワンとの一件を話していた。

「もう、恥ずかしくて」

思い出したのか、顔を赤らめている。

「ふうん・・・」

昼間、ジョーには別の説明をしたイワン。が、その「別の話」のせいで、彼はジョーにお尻をぺんぺんされたのだった。
今頃はおそらく、クーハンでひとり反省していることだろう。

「・・・でもまあ、この邸内で僕たちの事を知らない者はいないと思うけど」
「それは・・・そうかもしれないけど」
「だったら別にいいだろ。事実なんだし」
「ジョー!それとこれとは違うのよ!もう、恥ずかしくてみんなの顔をみれないわ」
「いや、だから、恥ずかしいことなのかな」
「・・・だって」
「僕はそんなに恥ずかしくないよ」
「それはあなたが男だから」
「いや、そうじゃないよ。・・・だってさ、フランソワーズと仲良くするのは恥ずかしいことじゃないだろう?」
「・・・そうだけど」
「あのさ、」

ジョーはちらりとフランソワーズを見ると、少し躊躇った。言おうかどうしようか迷うみたいに。

「なあに?」
「え、あ、うん。・・・いや」

ちらちらフランソワーズを見つめ、そして言った。

「恥ずかしいとしたら、君のその痕だと思う」
「痕?」

きょとんとするフランソワーズに、ジョーは彼女の首筋を目で示した。

「えっ・・・えええっ!?」

加速装置を使ったような速さでフランソワーズが鏡の前に行く。
彼女の首筋、胸鎖乳突筋の起始部後方真上には(ってわかりにくいかも。ええと、耳の後ろ側から下へ約5センチくらいの場所です)、小さな痣ができていた。

「っ!!」

どうみても防護服やマフラーでも隠れない位置である。と、いうことは今日一日白日の下に晒されていたわけであり・・・

「ジョー!どうして教えてくれなかったの!」
「いやー、それに気付いたのが戦闘中だったし、知らない方がいいかなーと思ってさ」
「だって、そんなこと言ったってつけたのはジョーでしょ!気付かないわけないでしょう!?」
「うーん。忘れてた・・・というか」

そんな目立つトコロに、誰がどう見てもキスマークとしか思えないモノをつけて一日過ごしたかと思うと、フランソワーズは羞恥で気絶しそうだった。

「酷いわ!道理で三つ子がひそひそ話すはずだわ!」
「三つ子?」

ジョーが怪訝な顔をする。
三つ子といえば、あの禿頭三兄弟しか思い浮かばないが、今日の戦闘でそんな事があったのだろうか。

「もう知らない!これが消えるまでジョーとは絶交よ!」
「ええっ、絶交?」

フランソワーズはツンと横を向くと猛然と部屋を後にした。