9月28日 「うっわ、やった!!」 ピットクルーの間にざわめきが広がり、メカニックが頭を抱える。その中で思い切りジョーを罵倒しているのが古株女メカニックだった。 「あのバカっ!!あれほど気をつけろって言ったのにっ・・・!!」 50周目、ジョーがリアを縁石に乗り上げた瞬間スピンし、あっという間にコンクリートウォールに激突したのだった。 「あーあ。ったく」 クルーがブツブツ言いながら準備に散っていくなか、フランソワーズはじっとモニターを見つめていた。 *** ジョーがピットに戻ってきたのはしばらくしてからだった。まだレースは続いている。 「ほんとよ。いったいどうしてくれるの!」 古株女メカニックは大仰に息をつくと、髪をかきあげジョーを見つめた。 「・・・怪我はないようね」 そうして二人揃って傍らのフランソワーズを見つめた。遠慮しているのか、ピットの隅っこのほうに所在無げに佇んでいる。 「フラ」 ジョーが呼ぶよりも先にメカニックがフランソワーズを呼びつけてしまう。ジョーは唇を尖らせた。 「ほら。後はあなたの出番。任せたわよ」 そうしてジョーの背中をどんと突いてフランソワーズのほうへ押し遣った。 「なんだよ、ひとを子供みたいに」 フランソワーズはマシンに駆け寄ってゆく女メカニックの背中を目で追い――そして、目の前の膨れ面のジョーに視線を戻した。 「・・・ジョー」 クラッシュよりレースよりそっちなのか・・・とジョーは脱力した。 「・・・あのさ。大丈夫とか何とかもうちょっと慰めるみたいなことをしてくれてもいいと思うんだけど?」 褐色の瞳が蒼い瞳を見る。 「それともわざとクラッシュしたの?」 フランソワーズはにっこり笑んだ。 「ジョーはベストを尽くした。その結果、クラッシュしたけれど後悔なんてしてない――でしょう?」 目の前でジョーがクラッシュするのを観たのは初めてだったのだ。けれども、不思議と恐怖感や不安感は起きなかった。もちろん、彼がどうかなることなどないとわかっているとしても――それを差し引いたとしても、それでも何の特別な感情も湧かなかったのだった。ただ驚いただけで。 「もしあなたが落ち込んでいるとしたら、それは――みんなが一生懸命セッティングしたマシンを壊してしまったから、でしょう?」 フランソワーズは両手を広げると、ジョーを優しく抱き締めた。 「・・・大丈夫よ。彼女も言っていたじゃない。鈴鹿までに何とかする、って。だから、あなたは仲間を信じていればいいの」 フランソワーズがジョーに回した腕に力をこめる。 「バカねえ。わからないの?みんなが今なんて思っているか」 腕を解いて、ジョーの身体をメカニックたちのほうへ向ける。 「――みんな次のレースしか見てないわ。週末の鈴鹿に間に合わせることしか考えてない。それに、チャンピオンレースって、・・・鈴鹿で優勝すればいいんじゃないの?」 視線を宙に向け、何やら指折り数えるフランソワーズ。 「ええと、どうだったかしら?ね、ジョー。足りないかしらね?・・・中国でも優勝しなくちゃ難しいかしら」 そうしてジョーの頬にてのひらを当てて笑いかける。 「ね、鈴鹿で勝って」 フランソワーズはちょっと背伸びをするとジョーの頬にくちづけた。 「私のことだけ考えるの!」 9月26日 うわっ。修羅場――?! と、周囲に緊張が走った。メカニックマンは既に腰が引けていて、そうっとその場を離れようとする者もいる始末。 フランソワーズのスーツケースが彼女の手を離れ、横倒しになった。 「・・・ジョー・・・」 フランソワーズの唇から微かな吐息と共に声が洩れる。 ――ひどいわ、ジョーったら。と、怒るのか。 しかし。 「やあね。ここでももててるの?」 つんと唇を尖らせて、拗ねるように言い放ったフランソワーズに周囲の期待は完全に裏切られた。 「もー。しょおがないわねぇ。まあ、私のジョーはとおっても素敵だから、どこにいっても放っておかれないのはわかってるわ。そこは私も我慢しなくちゃいけないんだもの、ええ、彼女として恋人としてそのくらいの心得はあるつもりよ、でもね、こうやってやって来たのに気付かないのってどう思います?」 倒れたスーツケースを起こす間にも言葉の奔流は止まらず、いったい誰に向かって喋っているのかと思われた頃にフランソワーズは振り返って古株女メカニックを見た。 「気付いてるんじゃない?」 振り返った途端、抱き上げられていた。 「ジョー!」 つんと顔を逸らすフランソワーズにジョーはきょとんとして、彼女を腕から下ろした。 「両手に花?」 そうしてちゅっとフランソワーズの頬にくちづけた。 「もう。あなたの基準は私なの?」 フランソワーズもジョーの頬にくちづける。 「ね。調子はどうなの?」 と、ジョーが顔を歪ませたところでフランソワーズの肩がつつかれた。 「お嬢ちゃん。そのへんにしとかないと、コイツ泣くよ」 フランソワーズが慌ててジョーの顔を見る。と、ジョーは顔を歪ませたまま前髪の奥に引っ込もうとしていた。 「やだ、ジョーったら!嘘よ、ちょっと意地悪しただけじゃない!」 くつくつ笑いながら声がかかる。 「・・・うっせーな」 フランソワーズにたしなめられ、ジョーはそっぽを向いた。が、両手はフランソワーズを抱き締めたまま離しはしなかった。 「さっきコイツが手にしていたお花さんたちは怒ってどっか行っちゃったしさ」 女メカニックの声に、フランソワーズが背伸びをしてジョーの背後を見遣る。 「それにしてもサスガね、お嬢ちゃん。ジョーが浮気じゃないってすぐわかったってわけ?」 9月25日 電話を切ったジョーの後ろ姿を見て、彼のチームスタッフは黙然と腕を組んだ。 「大丈夫ですかねぇ」 みんなが頼りにしているのは、ジョーと古い付き合いの女メカニック。 「今の電話・・・彼女ですよね」 男性メカニックたちは一様に腰が引けていた。互いに顔を見合わせ、言いにくそうに目を逸らす。 「何?」 手伝いながら、若い女メカニックが沈んだ声を出す。 「島村さんが、あんな風に接するなんて」 にやりと笑うのに顔を真っ赤にする。 「ち、違いますっ。そんなんじゃっ・・・」 否定も肯定もせず、古株の女メカニックは視線を上げてレーサーを見る。 *** フランソワーズが到着したのはその日の午後遅くだった。 スーツケースを引きながら、日本を発つ前のジョーに渡されていたスタッフパスを首から下げ、フランソワーズがきょろきょろしながらジョーのチームを探す。 「フランソワーズさん!」 くるりと振り返ると、そこには顔見知りの女メカニックがいた。 「あ。こんにちは」 そんな会話を交わしながら並んで歩く。 「それにしても、ホテルが決まってなくて心配じゃなかったんですか?」 うふふ、と微笑んだフランソワーズに若いメカニックは複雑な表情で応えた。 「その島村さんなんですけど」 調子が悪いのかしらと微かに首を傾げるフランソワーズに取り合わず、メカニックは帽子の鍔を気持ち引き下げると爪先を見ながら言った。 「・・・こっちに来てからずっと、変なんです」 こっくり頷く。 「ヤダ、ジョーが変なのなんて驚くことじゃないわよっ」 ころころ笑うフランソワーズに、女メカニックは陰気な顔で首を振った。 「――そういう変さじゃないんです。いつもの感じなら、みんな心配なんかしないんですけど」 なかなかはっきり言わない彼女にフランソワーズが焦れて、大きな声を出そうとしたところで目の前に大柄な女性が立ち塞がった。 「あ」 ジョーの古い知り合いの女メカニックだった。 「――全く。余計な話、されなかった?」 それを聞いて古株メカニックは舌打ちをした。 「――遅かったか」 さっぱり意味がわからない。 ――その先には、ジョーの姿があった。 「あ、じょ」 ジョー。と呼ぼうとした声は不自然に固まった。
「アイツっ・・・」
側面からぶつかり、そうして跳ね返ってもう一回。観客席から悲鳴が上がった。
派手に巻き散るマシンの破片。
すぐにセーフティーカーが導入された。
ジョーがコックピットから出てきたところだった。もちろん無傷である。が、それは彼だからではなく、現代のF1マシンはドライバーを守ることが前提で作られており、そうそう怪我などしないのだった。
取り囲むクルーに無事を伝え、マシンを壊して申し訳ないと謝った。
「だからゴメンって」
「ったく。ギアボックスは無事だったでしょうね!?」
「さあ。どうだろう」
「どうだろう、って――」
「おかげさまで」
「そ。だったらいいわ。――鈴鹿までに何とかしとく」
「頼むよ」
「お嬢ちゃん!ちょっと来て!」
「え、出番って」
「アタシは落ち込んでいる男を慰めるのなんて旦那だけで手一杯。コイツの世話はあなたしかできないわ。お守りよろしく」
「そんな風に拗ねてるひとをオトナ扱いなんて誰がするの?」
「・・・うっせーな」
「ほら、お嬢ちゃん。よろしく」
「え。あ」
「ごめん」
「ううん。それより、さっきの言葉遣い、良くないわ」
「えっ」
「だってあなた、落ち込んでなんかいないでしょう?」
「・・・フランソワーズにはそう見えた?」
「ううん。全然」
「――うん」
「だから、それに関しては私も何も言わない。そりゃ、ちょっとは驚いたけど、ね」
「・・・うん」
「でも、もし間に合わなかったら」
「あら。あなたが仲間を信じなくて誰が信じるの?」
「・・・でも」
「でもはナシ」
「だけど、チャンピオンレースからも大きく後退してしまった」
「そんなの気にしてるの!?」
「――え」
「ほら。見てみなさい」
「!」
「――んと、私もポイントの計算ってちょっとよくわからないんだけど・・・ええと」
「――そんなことないよ」
「そう?」
「うん」
「だったらいいわ!」
「――うん」
「今日のことはもう過去よ」
「うん」
「一秒先からはもう考えない」
「うん」
「明日からは鈴鹿のことだけ考えるの」
「うん・・・。あれ、じゃあ今晩このあとは?」
「それはね」
ひとり古株女メカニックだけが悠然と腕を組み唇に笑みを浮かべていた。まるでこの状況を楽しんでいるかのように。
あるいは
――なんなの、あのひとたちは。と、呆然とした後に泣くのか。
あるいは、ここを静かに立ち去るのか派手に出てゆくのか。
ともかく、浮気現場を目撃した恋人という立ち位置にフランソワーズはいるのだと誰もが思い、来る愁嘆場に心の準備をした。
「そうかしら。――ううん、気付いてないわ、もう!ひどいわ、ジョーったら。愛が少ないとしか思えないわ!」
「そうかな?」
「ええそうよ。こんなんじゃいくら私だって誤解しちゃうかもしれないのに、わかってないんだわ、ジョーのばか」
「誰がばかだって?」
「ジョーに決まってるでしょ――きゃ!」
「酷いなあ、いきなりばかって何なんだよ」
「だって私が来たのに気付いてなかったでしょ?」
「気付いていたに決まってるだろ」
「嘘よ。もてもてだったくせに」
「うん?もててないよ別に」
「もててたわ、両手に花で」
「――両手に花?」
「ええ。可憐な乙女を両手に抱いて鼻の下のばしちゃって」
「そうよ」
「・・・花、ねぇ」
「そうよ、綺麗なひとたち」
「綺麗・・・だった、かな?」
「綺麗だったでしょ?もてすぎて基準がわからなくなっちゃったのね、可哀相に」
「僕の基準なんてないよ」
「あらそう?」
「だってフランソワーズだし」
「うん。それ以上も以下もありません」
「まあ。ジョーったら、ばかねぇ」
「うん。いいよ」
「そう。でね、私は今日、どこに泊まるの?」
「そんなの決まってるだろ」
「だってホテルはどこも一杯みたいだし」
「あのさ。僕と一緒じゃイヤなわけ?」
「だってもてもてじゃない」
「・・・もててないよ」
「他に泊まるひとがいるんじゃないのかしら」
「フランソワーズ。怒るよ?」
「あら、図星だから?」
「・・・フランソワーズ」
首を巡らせると、そこにはすっかり忘れ去られていた古株女メカニック。
「えっ、まさか」
「ほんとだって。いいのかい?ここでたいく座りされても」
「・・・ひどいよフランソワーズ。きみが来るの、ずうっと待ってたのに」
「ほんとだよ。すっごく楽しみにしてたんだよねー、島村は」
「ジョー。言葉悪い」
「え?」
確かに、先ほどの両手の花はどこにもいない。後で聞いた話では、ジョーがいきなり彼女たちを突き飛ばしフランソワーズの元へ一目散に駆け寄ったということだった。ちなみに、彼女たちはジョーとは何の関係もない、ただのF1ファンということだった。ファンサービスも仕事の一環なのである。特にまだ二回目の開催となるサーキットでは、人集めのためのイベントが多くそういった仕事も含まれているのだった。(注:もちろんフィクションです)
普段そういう仕事は極力断っているジョーなだけに、こういう光景は珍しく誰もが「浮気?」と誤解した。
「あらだって、よそゆきの顔してたもの。――ね?ジョー?」
「う?うん・・・そうだった?」
「そうよ。あーんな嘘の顔、すぐわかるんだから!」
「何が」
「だって姐さん」
「それがどうした」
「来るみたいですよ」
「いいんじゃない。それでアイツの力が出せるならさ」
「けど」
「いやあの、だから」
「余計な事言ってないで、セッティング詰めるよ」
「え、あ、はい」
「・・・ったく。変な心配するんじゃないよ。大丈夫だって。あのお嬢ちゃんなら」
「でもアタシはちょっとショックでした」
「ふうん・・・アンタはヤツのファンだったっけね」
「だからお嬢ちゃんが来るのが気になる?」
「そんなんじゃありません!だって、一緒に住んでる彼女さんのこと知ってますし会った事だってありますもん」
「じゃあいいじゃない」
「そうじゃなくてっ・・・あんなに仲良さそうなのに、彼女さんしか見えてないみたいだったのに、」
「――アイツに女の影があるのが気になる?」
「・・・はい。だって、絶対、彼女さんがあれを見たらっ」
「うーん。・・・さあて。どうだろうねぇ」
端正な横顔。浮かぶ笑み。
その笑みの向けられてる相手は女性だった。
予選を明日に控え、ジョーとスタッフはサーキットにいた。何度もセッティングをやり直し、シミュレーションをしては微調整を行う。ナイトレースだから、フリー走行も夜に行われるのだ。
パドックに着いたところで声を掛けられた。
「どうぞ。こっちです」
「ありがとう」
「空港から直接来たんですか?」
「ええ。ホテルがまだ決まってなくって」
「ホテル・・・って、島村さんと一緒なんでしょう?」
「え。――そうなのかしら」
「だって今から探すっていっても・・・無理ですよ、レース前だし」
「そうよね。じゃあ、ジョーと一緒でいいのかしら」
「そうですよ!」
「そうよね?」
「ええ」
「んー・・・たぶんジョーが手配してくれてるんじゃないかな、って思ったから」
「ジョーがどうかしたの?」
「変?」
「なに?たいく座りでもしてる?」
「いいえ、それは大丈夫です。――そうじゃなくて」
「なによ、気になるわね」
「・・・つまり、その」
「こんにちは」
若い方はほっとしたようにこれ幸いと駆け足で去ってゆく。
「余計な話・・・ですか?ええと、ジョーが変だとか」
「あの、ジョーが変っていったいどういう」
「ん。まあ――見たほうが早いかな」
「え、あの」
「変だっていうのはさっきの子の私見。私はそうは思わないけど、お嬢ちゃんがどう思うかはまた別の話になるわ」
「・・・?」
だから、立ち止まった彼女の視線の先を追う。
フランソワーズの蒼い瞳に映るジョーは――スタッフパスを首から下げた複数の女性に囲まれていたのだった。
両腕に可憐な女性が巻きついている。まさに両手に花。そしてそれを嫌がる風もなく、彼女たちに顔を寄せて何か話している。
フランソワーズの手からスーツケースが離れた。
そうしてふらりと一歩踏み出した。
9月21日
珍しく、ジョーの方が先に起きた。 ――まぁ、そうだろうな。何しろ二日酔いなんだから。 ジョーは小さく息をつくと、フランソワーズの顔にかかった髪を優しく指で除けた。 フランソワーズはまるっきり気付いていないのだが、実はジョーは「彼女が酒に強い」ということを知っているのである。 フランソワーズがアルコールに強いと知ったのはずいぶん前だった。 最初は、二人でさんざん飲んだ翌朝、ジョーがまだ朦朧としてベッドにいる時にすっきりさわやかにとっくの昔に起床し、朝食の用意と洗濯を済ませたフランソワーズに起こされたことだった。 ・・・別に隠さなくてもいいのになぁ。キッチンドランカーってわけでもないし、僕はみんなで楽しく飲むぶんにはいいと思うし。 昔の自分のように、世間を憎み、僻み、自身を否定し、壊すために飲んだのとは違う。 ――まぁ、そうだな。ただひとつ問題があるとすれば、それは僕がいない時だったということだ。 酔ったフランソワーズはそれはまた可愛いのであることを、できれば他人に知られたくはなかった。 「ん・・・」 フランソワーズが身じろぎして、うっすらと目を開けた。 「・・・ジョー・・・?」 ジョーは彼女の頭のてっぺんにキスをすると両手で抱き寄せた。 「・・・ん。ジョー。いつ帰って来たの?」 フランソワーズの眉間に皺が寄る。昨夜の記憶が半ば飛んでいるのは明らかだった。 「私・・・」 ジョーは微笑むとフランソワーズの額に唇をつけた。 「まだ寝てていいよ。――先に寝てろって言ったのに、待ってたからまだ眠いだろ?」 フランソワーズはぼんやりとジョーを見つめ、そうしてにっこり微笑んだ。 「・・・お帰りなさい」 その笑顔と声にジョーはくらくらした。 危険だった。 でも。 もう朝なんだから。 ジョーがするりとベッドから抜けようとすると、その腰に白い両手が回された。 「いやん。ジョー、まだここにいて」
そんなわけで、二人で寝坊することになった。
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9月14日
「・・・フランソワーズ・・・?」 ジョーが事態を把握しようとするよりも早く、そんなことは二の次だと言わんばかりにフランソワーズは彼の首筋にかじりついていた。その勢いそのままにジョーは絨毯に倒された。何しろ、たいく座りだったのである。そこへ勢いよく抱きつかれては、ころんと絨毯に転がるしかないではないか。 「ジョー!会いたかったわ!」 ジョーはなついてくるフランソワーズを何とか引き離そうと試みるも失敗に終わっていた。 「ジョー!」 頬をすりよせ、幸せそうに微笑むフランソワーズ。それは可愛いなあと思わないでもなかったが、いきなり飛びつかれ倒されたジョーとしては、なついてくる大型犬を思い浮かべてしまうのだった。顔を舐められないだけマシである。 ――イヤ・・・舐めるの、か? と思った途端に鼻先を舐められた。否、キスされた。 「ちょ、ちょっと待ってフランソワーズ」 ジョーの頬にキスをしていたフランソワーズは、それでも彼から唇を離そうとはしない。 「あのさ」 ジョーはくすぐったくて顔を背けるものの、フランソワーズは諦めずに彼の頬から耳にかけてキスの雨を降らせてゆく。 「なあに?――もうっ、逃げちゃイヤ。ジョーは私に会えて嬉しくないの?」 こんな強引に転送されてフランソワーズは何とも思わないのだろうか。 「あのさ、フランソワーズ」 フランソワーズの頭を手で押さえて除けながらジョーは言う。 「きみ・・・こんな簡単に当初の目的を放棄していいのかい?」 フランソワーズがジョーから顔を離し、彼の瞳をじっと見つめた。 「ジョーったら。私は冷静よ?だってこのままここに居ても、パスポートもないし、そもそも出国印も入国印も押されてないのよ?それに御覧の通り手ぶらだし。すぐに戻るに決まってるでしょ?」 実は冷静に状況を把握していたフランソワーズだった。 「だから、もうっ・・・短い逢瀬を楽しんでいるのに、ジョーったら何にもしないんだもの」 フランソワーズは頬を膨らませると、ジョーの顔を両手で挟み有無を言わせず唇を重ねていた。 「ん!ふら」 そうしてフランソワーズがしてきたキスは、いつも彼がするような――恋人同士のキスだった。
***
「じゃあね、ジョー」 数分後。フランソワーズは立ち上がると肩にかかる髪を払い、にっこりと笑った。 「じゃあ、って・・・」 せめてあと一時間くらいは時間が欲しいジョーであった。何しろ、フランソワーズに襲われただけで自分からは何も――本当に何にもしていないのだ。フランソワーズは彼女自身の気がすむまでキスして、そうしてさっさと立ち上がったのだ。 ――それはないだろう? ジョーは腰を浮かせる。が、フランソワーズが彼の肩に手を置いて「だめ」と優しく言った。 「言ったでしょう?日本からお祈りしてるわ、って」 そこまで、っていったいどこまでなんだろうか。 「・・・ずるいぞ」 ジョーは舌打ちをすると座り込んだ。 「私だって名残惜しいけど、でも・・・あなたからのキスはこの次にとっておくわ」 僕を見くびっているな、と機嫌の悪くなったジョーに、ばかねと彼の頭のてっぺんにキスを送る。 「だってそうしたら、一番速く帰ってきてくれないとキスしてもらえないじゃない」 フランソワーズはもう一度キスをすると言った。 「一番速く帰ってきてね、ジョー」 そうして消えた。
***
「よっしゃあ!」 ギルモア邸では珍しくジェットとハインリヒ、ピュンマも交えてのレース観戦となっていた。 ジェットに背中をばしんと叩かれたフランソワーズは、痛いとも何とも言わずただぼうっとテレビ画面を見つめていた。 「ん?おい、どうした」 また乙女な妄想世界に浸っているのだろうか・・・と全員が思った刹那、フランソワーズは真っ赤になって両頬をてのひらで包んでいた。 「やだ、どうしよう」 画面に何か変なものでも映っていたのかと首を巡らせるが、ジョーの姿はなかった。あるのは優勝者のみ。 「別に何もないぞ」 フランソワーズが瞳を潤ませて言う。 「だって、表彰台なのよ!帰ってきたら、ジョーにいっぱいキスされちゃうわ!!」 ・・・・。 「やだ、どうしようっ」 ピュンマの問いに大きく頷くと、フランソワーズは食い入るようにテレビ画面を見つめた。インタビューが始まったのだった。まずは優勝者。そして次は。 『・・・ええ。これで約束が果たせたと安心しています』 内容は、ああチームとの約束なのだろう・・・と思わせるものだった。が、このセリフの後に小さくウインクしてみせた彼。 「いやん、ジョーったら!!」 相変わらず公共電波を使って秋波を送る彼らに、兄組は無言で部屋に引き上げるのだった。
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9月13日
「・・・ジョー?大丈夫?」 聞こえてくる声が沈んでいるようで、フランソワーズは気を揉んだ。 ――予選の結果のせいだろうか。 それ以外には考えられないものの、フロントローのどこが悪いのかフランソワーズにはわからなかった。 「ね、いったいどうし」 どうしたの。と訊こうとして黙った。 「――ジョー?」 頷くしかしない彼にいったいどうすればいいのかと思う。いまの彼との物理的距離が恨めしい。 「・・・あのぅ・・・もしかして、私の祈りが足りなかった?」 それを怒っているのかもしれない。 「うーん・・・」 肯定なのか否定なのかわからないジョーの声。 「ねぇ、ジョー。お願い、はっきり言って!」 これでは対処のしようがない。 「うん・・・――フランソワーズ」 ジョーが一拍置いたあとにはっきりと名前を呼んだので、フランソワーズは背筋を伸ばした。 「君の言う通りだったというか、その」 なかなか話が進まない。 「でも今回はそうじゃなくて」 ジョーにつられて落ち込み気分だったフランソワーズのテンションが一気に上がった。 「やだわ、もう愛を育てちゃったの!?」 ほらほら言いなさい、言っちゃえば楽になるわよ、と明るく促され、ジョーは微かに頬を赤くした。 「・・・なんだか気に入らないよ」 あんまり愛愛って連呼しないでくれると助かるんだけど。というジョーの小さな声は、もちろん黙殺される。 「うふふっ。そうねぇ・・・日本にいるときよりもっともっと愛してるよ、かしら?」 ジョーは、いったい自分は何の為にフランソワーズに電話をしてしまったのだろうと思った。 「ねっ、言って!」 号令をかけられたからといって言えるものではないと思う。 「ジョー?」 絶対、面白がってる。 「ジョー?聞こえてる?」 思わずため息をつこうとして我慢した。耳聡い彼女にはわかってしまうだろうし、そうなったらなったでなぜため息をついたのかと追求されるに決まってる。 「もうっ。ジョー?」 フランソワーズは、先刻まで心配していたぶん安心して、ついジョーをからかって遊んでしまっていた。が、急にうんともすんとも言わなくなった彼に、遊びすぎたかな、と少しだけ反省した。 「じゃあ、私から言うわね?――早く帰ってきて!もう、会いたくて会いたくて仕方ないんだから!」 脱力していたジョーの肩がぴくんと揺れる。 「こっちだって愛が育ちまくっているのよ!ギルモア邸の屋根を突き破ってお外に出ちゃう勢いなんだから!」 ・・・愛ってどこかに生えて成長するものだったろうか? 「ああんもう、どうしようっ!」 どうもできないよ。 「よお。ジョーか?」 電話の向こうでは、やだ返してジョーと話すの、というフランソワーズの声がする。 「あのな。メンドクサイからこれから届けに行く」 ひどいわ、聞いてたのね!という声の奥に、お前、ここで電話してて聞くも何もないだろうが、というジェットの声も聞こえてくる。 「ったく。遠距離恋愛を成功させるだの何だの言ってるが、こっちは大迷惑だ。いいな?今からそっちに行くから、お前、屋上で待ってろ」 ジョーは疑わしそうに絨毯を見つめ、電話を持ってないほうの手でのの字を書いた。 「・・・でもさ」 またまた電話の相手が代わった。 「俺が連れてってもいいんだが、ずっと抱っこされるのはヤダって言うからさ」 当たり前だ、ジェット。 「ともかくこれから届けるからな。お前、一度お前がいない時のギルモア邸をこっそり見に来てみろ。それはもう無法地帯もいいとこだぞ」 何よ無法地帯って!というフランソワーズの声に、「ああん?俺の足を思い切り蹴ったのはどこのどなただったかな」というジェットの声。 ――蹴った? 『アアモウ、ウルサクテ眠ッテラレナイヨ』 不意にイワンの不機嫌な声が頭の中に響いた。――と、思ったら。 「あれ?」 目の前にフランソワーズがいた。
*** |
9月12日
「日本から応援してるわね、ジョー」 電話なのに、その向こうにやや首を傾げて微笑むフランソワーズが見えたような気がしてジョーの頬は緩んだ。 「ああ。頑張るよ」 ――自分の勝利を信じて祈ってくれる女性がいる。この広い世界のどこかに。 そう思っただけで、心の奥が温かくなり、ジョーは力が湧いてくるのだった。 今回は好きなサーキットのひとつであるモンツァ。絶対に勝ちたい。 「ね、ジョー、知ってる?会えない時間が愛を育てる、って」 確か、歌謡曲ではなかったか。 「私たちもそれね?」 愛を育てる・・・? 「きっとね、次に会う時はジョーのことをもっともっと好きになってるわ!」 電話の向こうの妙にテンションの高いフランソワーズに、ジョーは一瞬不審なマナザシになったものの、・・・可愛いかったのであまり考えないことにした。 「ね!ジョーもきっとそうなるわ」 途端に心配そうになる声ににやりと笑うとジョーは言った。 「現時点でMAXだから、これ以上っていうのは無理」 これで勝ったと思ったのだけれども。 「もうMAXなの?私なんてまだまだもーっとジョーを好きになるわよ!」 膨れた顔のフランソワーズが目に見えるようだ。 「ジョーの意地悪っ。そうじゃないの知ってるくせにっ」 ジョーはくすくす笑うと 「うん。知ってる」 と言った。
***
――祈りが足りないぞ、フランソワーズ!! 予選であわやノックアウトの憂き目に遭うところだったジョーは、コックピットで唸った。 いや別にフランソワーズのせいじゃないけど。――そうじゃなくて。 『今度こそ、遠距離恋愛を成功させましょうね、ジョー』 そうにっこり笑って手を振ったフランソワーズ。 ――やっぱり「いってらっしゃい」と「一番に帰ってきてね」があるのとないのでは違うもんだな。 昨夜はフランソワーズを日本に残してきて正解――と思ったものの、一夜明ければこんなものであった。 フランソワーズ。遠距離恋愛ってさ、・・・女性の方が向いてるかもしれないよ。 かといって浮気するとかそういう問題ではなく、ジョーはただ単にフランソワーズに甘えて甘えて甘え倒したくなってしまうのだった。 ――いかん。集中しなければ。 フランソワーズの可愛い笑顔を頭の隅に押し遣って、ジョーはレースのことだけを考えた。
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9月11日 少女漫画的ゼロナイです♪
フランソワーズは朝からそわそわと落ち着かなかった。 「フランソワーズ、お前さん、そんなに気になるならドルフィンで送ってやるぞ」 するとフランソワーズは爪先で綺麗にくるりとターンをすると、何かを決意しているかのような至極真面目な顔で答えた。 「ん。いいの!」 ハインリヒは別にフランソワーズのためを思って提案したのではなく、ギルモア邸全体を含む自分たちの生活を考えてのことだったのだが。 「ここから祈ることにしたの!」 そうして両手を胸の前で組んで、それに額をつけ目をつむり何かを唱え始めたフランソワーズをハインリヒは嫌そうに見つめた。 「放っておいたほうがいいよ。相手をすると疲れるから」 今やリビングの絨毯の上に跪いて一心不乱に何かを祈っているフランソワーズ。 安全地帯まで避難すると、ハインリヒが問うようにピュンマに目を向けた。 「遠距離恋愛なんだとさ」 と興味なさそうに言った。 「遠距離恋愛?」 確か4月頃、しばらく遠距離になってそして――別れるかもしれないくらいになったはずだった。そしてそれに懲りた二人が、相手に対して我慢しないことと決めたのも記憶に新しい。 「チャレンジなんだってさ」 そんな話をしていた兄二人は、すっかり後方への警戒がおろそかになっていた。そのため来るべき惨劇を避けられなかったのは当然の話であろう。 「邪魔なんて言ってないもんっ!!」 鈍い音がして、ハインリヒとピュンマの腰にフランソワーズの拳がめり込んでいた。 「っ、お前そこっ・・・腎臓っ・・・」 あっけなく崩折れる二人。 「邪魔なんて失礼なこと言うからよ!」 苦悶の表情を浮かべる二人には彼女が悪魔にしか見えなかった。 「ジョーは、大好きなモンツァだから勝ちたいって言ったの!集中するから、一緒にいてもフランソワーズのことが見えなくなるけどそれでもいいの、って心配そうに言ったのよ!だから私は、だったら日本から応援するわ、っていういわゆる内助の功なんだから!」 それって「妻」に使う日本語なのではないかと思ったが、ピュンマは賢明にも沈黙した。 「・・・それにしてもこれはきいたな」 ハインリヒが腰をさすりながら言う。まだ立ち上がれない。 「んふふ」 そんな彼に不敵な笑いを向け、フランソワーズは嬉しそうに言った。 「ジョーに習ったの。必殺技!「腎臓潰し!」」 いや、いつかヤツはそれを教えたことを後悔するはずだ。 兄二人は、既に自分らに興味をなくしあさっての方に笑顔を向けているフランソワーズを見ながら小さくため息をついた。
***
で、フランソワーズがいったい何を祈っていたのかというと。 「頑張ってね、ジョー。私はいつでもあなたのそばにいるわ。ううん、一緒にマシンには乗らないわよ嫌ねえ。そうじゃなくて、ずっとこうして祈って・・・え?駄目よ、膝の上ならいいだろう、って。前が見えないじゃない。危ないわ、ううん私じゃなくてジョーがケガしたら困るもの。だから無事に走りますようにっていうお祈りなの。聞こえるかしら、ジョー?」 偶然その「祈り」を聞いてしまったジェットは大笑いして、フランソワーズに弁慶の泣き所を思い切り蹴られた。
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「ねぇ。フランソワーズ」 ノックの音が虚しく響く。部屋の主は答えない。 「・・・見えてるんだろう?」 いったい自分はどのくらいの時間、ここに立っているんだろうと思いつつ、それでも立ち去れずジョーはフランソワーズの部屋の前にいた。 「――俺は何も悪いことはしてないし、したとも思ってないよ」 という宣言自体が問題なのかもしれなかったが、既にジョーはそれをどうこうしようという意図もなくなっていた。 「大体、何でそんなに怒るのかわからないよ。フランソワーズと仲良くするのがそんなに嫌なわけ?」 実際には、彼女は怒っているのではなく恥ずかしがっているのだ。が、今となっては同じようなものだった。 「俺が嫌いならそういえばいいだろ」 しかし実際にそう言われたら、とてつもなく落ち込むのだ。 「――言えよ」 しかし無言のままのドアを見つめ、ジョーは深くため息をついた。 「・・・なんで俺はここにいるんだろうな」 我ながら可笑しくなる。 「・・・別にいいじゃないか。キスマークくらい。・・・いちおう、見えないだろうって配慮したんだぜ。それでも」 目立つところにはつけない。 「それに、今は俺の方が目立つし」 頬を指先で撫でる。昼間、フランソワーズに吸われた箇所。 「・・・けっこう、恥ずかしいんだぜ、これ」 みんなの前では自慢してみせたけれど、よくよく考えれば恥ずかしいのだ。 「大体、こんなトコロにつけるかな、普通」 まさか頬のど真ん中につけられるとは予想外だった。 「・・・恥ずかしいの?」 えっ? フランソワーズの声が頭上に降ってきて、ジョーは顔を上げた。 「あれ?」 フランソワーズがしゃがみこんでジョーと同じ目線になる。微かに漂う花の香り。 「・・・もしかして風呂に入ってた?」 にっこり笑むフランソワーズにジョーは少し複雑な気持ちになった。 「・・・今日は一緒に入るつもりだったのに」 まだ継続してたのかとがっくりした。 「・・・フランソワーズ。しつこい」 拗ねたように言うジョーの頬をフランソワーズは指でつつく。 「恥ずかしいでしょう?」 ジョーは答えない。 「いい?これからはじゅうぶん気をつけてちょうだい。外から見えるところにつけるのは駄目。いい?」 目を伏せたまま小さな声で答えるジョーにフランソワーズは苦笑した。 「もう、ジョーったら。・・・ジョーにつけられるのが恥ずかしいんじゃないのよ。他人から見えるところだと恥ずかしいって言ってるだけ」 ジョーの目とフランソワーズの目が合う。 「見えないトコロだったら?」
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「ひとりで風呂に入るなんてズルイ」 フランソワーズの部屋で彼女を抱き締め、ジョーは拗ねた。 「だから言ったでしょう?絶交中だったんだから」 だって、じゅうぶん反省してたみたいだし。――第一、廊下でたいく座りされたら、・・・ね? 「ほっぺ、目立つわね」 ごめんね、と小さく言うフランソワーズにジョーは首を振った。 「いいよ、僕は男だし」 逆手にとって自慢するからいいんだ。とは言わない。せっかく彼女の機嫌が直ったのだから。
![]() (C)ヒロイ様
「そんなことよりフランソワーズ。こんな格好で邸内を歩いちゃ駄目だよ」 脚だって丸見えだし、何しろ体のラインがわかってしまう。 「心配で落ち着かない」
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9月2日 今日は「923」です♪
街でアイツらを見掛けたのは初めてだった。 ・・・気付かなければよかったのに。 それにしても、なんだかなぁ。 前方のばかっぷるを見つめ、俺は再度溜め息をついた。
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日本に来たのは久しぶりだった。インディカーレースは日程も過酷だったから、なかなか時間がとれず、気が付いたら自分のメンテナンスの時期になっていたというわけだ。 アイツらは・・・何ていうか、凄く目立っていた。 そうではなくて・・・
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「ついて来ないで」 つんと顎を上げスタスタ歩いてゆくフランソワーズ。まだ残暑も厳しいというのに、早くも秋の装いだった。 「絶交って、勝手にフランソワーズが決めただけだろ。僕は関係ない」 フランソワーズが足を止めてくるりと振り返った。ジョーは背中に追突しそうになり、慌てて体を引いた。 「よくもそんなことが言えるわね!いい?これは誰がつけたんですか!?」 ぐるぐるに巻いているストールをぐいっと引き下げ、問題の箇所をジョーに示す。 「見覚えがあるでしょ!」 ジョーは顔を近付けた。 「・・・だいぶ薄くなったね」 知らないっ、と踵を返し再び足早に歩いてゆく。 「フランソワーズ、待ってよ」 ジョーは無言でフランソワーズの後をついて行く。500メートルくらい過ぎただろうか。 「フランソワーズ」 隣に並ぶジョーを疑わしげに横目で見る。対するジョーはにこにこしてフランソワーズに顔を向けた。 「あのさ。フランソワーズも僕に痕をつけたら、おあいこだと思わない?」 何を言ってるんだろう、この人。と、フランソワーズは思わず足を止めた。 「だからさ。フランソワーズが目立つトコロに痕をつけたら同じことだろ?」 ジョーが少し屈んでフランソワーズに首筋を晒す。 「ホラって、今!?」 フランソワーズは辺りを見渡した。ここは渋谷の街である。平日とはいえ人通りもそれなりにある。 「こんなトコロでそんなことしたら目立つでしょ」 ジョーが目で示す方を見ると、大学生と思われるカップルが頬にキスをしていた。誰も注意を払わない。 「ね?」 フランソワーズはジョーをじっと見つめ、そして――彼の肩に手をかけた。
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なんなんだ、アイツらはっ!! 俺は踵を返し、もときた道を戻っているところだった。とても顔を会わせる勇気がない。
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その夜。 夕食時に現れたジョーを見て博士が言った。 「ジョー。それはどうしたのかね?ぶつけたのか?」 にこにこしているジョーにジェットは喉の奥でけっと言った。 「痣か。朝はなかったな」 ピュンマがじっと凝視する。 「何かの溶剤でも被ったとか?」 ジョーはにこにこしたまま左の頬に指を触れた。 「フランソワーズに吸われた痕だから」 ぶは。 誰かが茶を吹き出し、誰かが箸を取り落とした。 「・・・あ、そう」 顔をひきつらせ頷くピュンマ。彼には免疫があるので、この程度の話ではダメージを受けない。 「・・・吸われた。フランソワーズに」 呆然と復唱するジェロニモにジョーは笑みを浮かべたまま答えた。 しばし静寂に包まれる食卓。 そこへ、トレイを持った張々湖とフランソワーズがやって来た。 「あら、どうしたの、みんな。手が止まってるわ」 蒼い瞳がハインリヒに向けられる。 「ジョーの頬はうまかったか?」 凍りつく室内。 「っジョー・・・言ったわね?」 フランソワーズはトレイを彼に投げつけると駆け出して行ってしまった。 「あーあ」 後にはトレイを抱え椅子ごと引っくり返っているジョーが残された。 「処置ナシだな」 ジェットの言葉に全員が無言で頷いた。
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9月1日 今日は「913」です♪
009は僕の事をライバル視しているみたいだけど、お門違いもいいところだよ。 「ん?なあに?」 ミルクを飲みながら視線を上げたら、フランソワーズと目が合った。 『・・・何でもないよ』 にこにこ笑うフランソワーズ。 でもさ、009。 僕とフランソワーズはいくつ離れている? 君から見れば、彼女は崇拝する対象になりえるかもしれないけど、僕から見たら、ただのオバサンなんだけど。 「イワン。何か言った?」 え。 「ん・・・気のせいかしら」 フランソワーズはカンがいい。女の第六感というべきものだろうか。 ・・・そうなんだよな。 そう。僕はあくまでも君たちの友人であって、それ以上でも以下でもない。 「イワンったら、ご機嫌ね。うふふ」 やめてちょうだいと頬を赤くする。なるほど。009はこんなところにやられているわけか。 『仲がいいなら、早く子供を作ってよ』 真っ赤になったと思うと、ちょうどやって来た009の腕に僕を押し付け出ていってしまった。 ・・・やだなあ。 そうっと009を見ると、凄い形相で睨んでいた。 ほらみろ。 僕はこの窮地をどう乗り越えようか考え始めた。
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「・・・なんて言ったのよ、イワンったら!」 その日の夜遅く、フランソワーズはジョーの部屋で昼間のイワンとの一件を話していた。 「もう、恥ずかしくて」 思い出したのか、顔を赤らめている。 「ふうん・・・」 昼間、ジョーには別の説明をしたイワン。が、その「別の話」のせいで、彼はジョーにお尻をぺんぺんされたのだった。 「・・・でもまあ、この邸内で僕たちの事を知らない者はいないと思うけど」 ジョーはちらりとフランソワーズを見ると、少し躊躇った。言おうかどうしようか迷うみたいに。 「なあに?」 ちらちらフランソワーズを見つめ、そして言った。 「恥ずかしいとしたら、君のその痕だと思う」 きょとんとするフランソワーズに、ジョーは彼女の首筋を目で示した。 「えっ・・・えええっ!?」 加速装置を使ったような速さでフランソワーズが鏡の前に行く。 「っ!!」 どうみても防護服やマフラーでも隠れない位置である。と、いうことは今日一日白日の下に晒されていたわけであり・・・ 「ジョー!どうして教えてくれなかったの!」 そんな目立つトコロに、誰がどう見てもキスマークとしか思えないモノをつけて一日過ごしたかと思うと、フランソワーズは羞恥で気絶しそうだった。 「酷いわ!道理で三つ子がひそひそ話すはずだわ!」 ジョーが怪訝な顔をする。 「もう知らない!これが消えるまでジョーとは絶交よ!」 フランソワーズはツンと横を向くと猛然と部屋を後にした。
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