「恋人はレーサー」

 

シンガポールグランプリ。
これはF1史上初のナイトレースだった。

そして――日本での放送は生中継だった。(注:フィクションです)

そのため、ギルモア邸は大騒ぎ。
もっとも、落ち着かなかったのはフランソワーズただひとりだけだったのではあるが。

リビングにある大画面テレビの前に、ギルモア博士、ピュンマ、ジェロニモ、アルベルト、そしてフランソワーズが集まった。イワンのクーハンも傍らにあるが、起きているのか眠っているのか定かではない。

「お。始まるぞ」

ピュンマの声に一同の視線が画面に向かう。

――ジョー。頑張って!
フランソワーズは知らず胸の前で両手を組み合わせていた。
日本を発つ時にジョーが「初めてのナイトレースだからね。何としても勝ちたいんだ」と強い視線で言っていたのを思い出す。
――頑張って。
祈るように思う。
いつも彼のレースではそう思っているのだが、やはりリアルタイムで観るのと録画を観るのとでは違う。
何しろ、いまこの同じ時間に、彼は目の前の映像通りにグリッドに立っているのだから。
思わず、組み合わせた両手に力が入る。

「フランソワーズも一緒に行けば良かったのに」
「――えっ?」

ピュンマの声に画面から目を離さず、声だけで反応する。

「そうだな。ちょうどバレエの方も休みだし、行けば良かったんじゃないのか」

アルベルトも同意する。
が。

「そんなわけにいかないわ。・・・だって」
「だって、どうした?」

ジェロニモも尋ねてくる。

「だって・・・夜のレース場に来るのは危ないから、ってジョーが・・・」
「ハァ?」
「一緒に行って、後はピットクルーやスタッフと居ればいいだろうが」
「・・・落ち着かなくて、レースに集中できない。って」

フランソワーズの言葉にピュンマとアルベルトは脱力した。

「・・・ま、アイツらしいといえばアイツらしいか」
「奴のツレに手を出すような命知らずはいないと思うけどな」
「それが・・・」

やはり画面から目を離さず、フランソワーズは小さな声で言った。

「もし来たら、心配だからレースは見せない。って」
別の部屋に閉じ込めておく――とも言っていたとは、さすがに言えないのだった。

「――なるほどね」

ピュンマが半ばうんざりした顔で画面に目を移した時、ちょうどレース直前のグリッドでのインタビューが始まった。
ジョーは4番グリッドからのスタートだった。

『惜しくもフロントローを逃しましたが、今回この2列目からの作戦は?』
『とにかく早い段階で前に出るだけですね』

涼やかで精悍な横顔。甘い声。
画面の中の彼を見て、その姿に見惚れている女性ファンは多いだろうなとピュンマは思った。が、その点、フランソワーズは見慣れてるしね・・・と目を遣ると、彼女は胸の前で両手を組み合わせたまま、心なしか身を乗り出して画面を凝視しているのだった。

――オイオイ。見慣れているんじゃないのか?

確かに「009」の彼や「普段の彼」ならば見慣れている。が、いくらフランソワーズでも彼のレーシングウエア姿をそうそう頻繁に見ているわけではないのだ。
フランソワーズにとって、いま目の前にいるジョーは「仕事にうちこむ男の姿」であり、滅多に観た事のない彼なのだった。

インタビューに淡々と答えているジョーだが、フランソワーズにその声は届いているものの、内容までは届いていなかった。何しろ今は、それどころではなかったのだ。彼女のなかでは。

――ジョーったら、なんて素敵なの!・・・やっぱり、駄目って言われても一緒に行けば良かった。だってこんなに素敵だとは思わなかったんだもの。夜のレースだから、余計にそう見えるのかしら。ジョーのレースなんて何度も録画で観てるし、直接観たことだってあるのに。
――ううん。それでも、それを差し引いても・・・今日のジョーは本当に素敵。ああもうっ。本当に行けば良かった!
とてもいつものジョーと同一人物とは思えないわ。――あ、ううん、もちろん、いつものジョーも素敵よ。優しくて、男らしくて、でも甘えんぼで泣き虫で・・・うふっ。
でも、それとこれとは別なのよ。レース場にいる時のジョーは「ハリケーン・ジョー」であり「島村ジョー」であって、「009」ではないの。違う顔になるの。だから私は、いつも惚れ直してしまって、それで・・・私は本当にこの人の恋人だったかしら、って心配になってしまう・・・。
――だめよ。そんな心配したらジョーに怒られちゃうわ。うん。私はこのひとのカノジョなんだから、しっかりしなくちゃ!
みんな見て!テレビのなかのこのひとは私のカレシなんだから!素敵でしょう?
――でも今日のジョーは本当に素敵。見た事がないくらい。・・・「ハリケーン・ジョー」なんだわ。今は。
こんなに遠くに感じてしまうのはそのせいなのかしら。なんだか知らない人みたい・・・。
私は・・・最速の男についていけなくて、置いてきぼりで――

目に映るのは画面のなかのジョーの姿だったが、音声は何ひとつ届いていなかった。
何しろ頭の中では色々な想いが暴走していたのだから。

――このひとは本当に私のジョーなのかしら。だって、こんなに素敵でかっこよくて・・・きっと全世界にファンがいるわ。
そんな人が、本当に私の・・・?

その時だった。
淡々とインタビューに答えていたジョーが、カメラに向き直り笑顔を見せたのは。

「え?」

その笑顔にフランソワーズが一瞬思考を停止した。その瞬間。

「――!!」

ジョーは左手のリングに軽くキスをすると、画面に向かって
『誰よりも早く帰ってくるから、待っていて』
と言ったのだった。

インタビュアーの
『意味深ですねぇ。誰か特定の方へのメッセージでは?』
との問いに
『全ての応援してくださる方へのメッセージです』
としれっと答えて。

・・・・・。

「うわっ。お前、何泣いてんだ」

アルベルトが心底嫌そうな声を出す。
何しろフランソワーズは、胸の前で固く手を組み、心もち身を乗り出して――そして、頬を真っ赤に染めながらもボロボロ泣いていたのだから。

――ジョーってばジョーってば!まるで私の声が聞こえたみたいに・・・・
私は置いてきぼりじゃなくて、・・・待っていればいいのね?
あなたは誰よりも早く、一番にここに帰って来てくれるのだから。
――ええ。私、待ってるわ。ジョー・・・

レースが始まるまであと数分だったが、フランソワーズが我に返った時には、リビングは無人になっていた。

「・・・あら?みんな・・・?」

博士はイワンを連れて自室に引き取り、他の3名もそれにならった。
やっぱりフランソワーズと一緒にレースを観るのはキツイなぁと思いながら。

実は、今まで彼女が夜中にひとりでレースを観ていたのは、こういう訳だったのである。もちろん、放送が真夜中であるため観られないというのも理由のひとつではあったが、何しろフランソワーズはレースが始まると完全に自分の世界に入ってしまうのだ。
けれども今回は生中継だし、他の者も観られる時間帯だし、「たまには観てみるか」という気になった一同ではあるが――結果的には同じことだった。
一見、全世界のファンへのメッセージのようだけれど、実は特定個人――フランソワーズへの私信を公共の電波を使って堂々と言うハリケーン・ジョー。
一方、その彼といま二人っきりであるかのように浸っているフランソワーズ。
こんな二人を目の前にして静かに観戦しているのは難しい上に――画面を通して二人にあてられるのはゴメンだった。

 

ひとりリビングに残されたフランソワーズは、一度だけ不思議そうに辺りを見回したものの、すぐに画面に戻った。
フォーメーションラップが始まったのだった。
ジョーが乗っていると思うだけで、そのマシンの色や形、部品のひとつひとつすら愛おしい。
タイヤを温めるためのジグザグ走行さえ、頼もしく見えるのだった。

――ジョー。誰よりも早く帰ってきてね。私のところへ。