子供部屋
(新ゼロなふたりの日常です)
4月22日 今年の日本の気候は変である。 「だってお日様のにおいがするほうが気持ちいいでしょう?そりゃ、今時、部屋干しだからってかび臭いとかそんなことはないし、そういう用の洗剤や柔軟剤だってあるけれど」 窓から外を見ながら、フランソワーズはジョーに向かって話す。が、返事がないものだから、それは彼女の独り言のようだった。 「あーあ、もう。思いっきりシーツを干したいわ」 そうしてくるりと振り返った。ジョーの姿はない。 フランソワーズは小さく息をつくと、自分のいる場所からずうっと離れた部屋の隅っこに向かって言った。 「ジョー?いつまでそこにいるつもり?」 フランソワーズに背を向けて――全てのものに背を向けて――ただひたすら壁の隅に向かって小さくなっている。 上海から戻ってきてから、ずっとこんな調子だった。 とはいえ、ジョーにも言い分はある。 ダウンフォースのないマシンでは曲がれない。 いくら技術でカバーしても――無理なものは無理なのだ。 だから。 「ジョー?」 最初はただ慰めていたフランソワーズも、最近では腫れ物に触るように扱うのはやめていた。こんな時、甘やかしたら甘やかした分だけジョーは腑抜けになっていく。 ――戦う前から諦めるようなジョーは好きではない。 でも、そんな駄目男ではないはずなのだ。 「ね。そろそろ飽きてきたんですけど?その背中を見るの」 落書きしちゃうわよ、と言ってみたが反応は無かった。 「・・・もうっ」 数歩でジョーの元へ到達する。 「ジョー?」 そんなジョーは嫌いよ。 そう言ってみても良かった。そう言えば、あるいは彼は奮い立つかもしれないから。嫌われたくない一心で。 「もう、ジョーったら。こっち向いて」 フランソワーズは甘えるように彼の背中から彼を抱き締め、頬を首筋に摺り寄せた。 「・・・自信があったのよ?私」 無言のままのジョーに、半ば独り言みたいに話す。 「私の好きになったジョーは、最後まで諦めない。って。・・・いつもそう言ってたじゃない。私が初めてジゼルを演じたときだって自分を信じろって言ってくれたでしょう?」 だから自分は頑張れたのだ。 「・・・あの時はワールドチャンピオンだったから強気だった。今は違う」 ぽつりとジョーが言う。 「ジョーはそういう肩書きがないと駄目なの?」 ジョーは鼻を鳴らしただけで答えない。 「私ね、いまこう見えてもけっこう怒っているのよ。だって、私が信じているジョーをジョー自身が信じてくれてないんだもの。ほんと、あったまくるのよね」 ジョーは答えない。 「自分で限界を決めるのって嫌いじゃなかったの?いつの間にか好きになったの?」 ジョーは黙る。 「無駄かそうじゃないかなんて、未来にならなきゃわからないでしょう?それとも何?あなたには未来が見えるの?ううん。もしも未来が見えていたとしても、それで諦めてしまうの?」 そうじゃないでしょう――とフランソワーズは続けた。 「決定した未来なんてないって言ってくれたのはジョーじゃない。でも、今のあなたはただ逃げているだけ。ねえ、逃げたらそれは消えてなくなるの?レースがなくなる?圧倒的な差がなくなるの?」 自分の力だけではどうにもならないもどかしさ。それをフランソワーズはわかって言っているのだろうか。 「性能が上のマシンに乗ったら、誰でも勝てるの?どんな素人ドライバーでも簡単に勝っちゃうようなそんな簡単なものなの、レースって」 少し笑ったようだった。 「――そうだな」 しばらくして、フランソワーズの耳に響いた声は先刻までの彼の声より力がこもっているように思えた。 「・・・そろそろ落ち込むのをやめないと、勝利の女神とやらに逃げられそうだ」 それは困る。 「そうよ?逃げるわよ?」 だからジョーは、逃げられないように勝利の女神を腕のなかに捕えた。 「あら、やっと顔が見れたわ。ジョー。お久しぶり」 そうして笑ったのは、いつもの彼だった。 「ともかく、勝負ぱんつのことはどうでもいいわ。大体、本当はジョーがひとりで勝手に言ってることなんだし、私はもう知らない。そもそも今はそれどころじゃないでしょう?ぱんつよりレースの心配をするべきなんだから。違う?」 隣をすたすた歩くフランソワーズにやや小走りになってついていきながら、ジョーはくるりと向けられた瞳にちょっと詰まった。 「・・・ええと」 そうしてフランソワーズの足がぴたりと止まった。 「・・・歩くの速いよフランソワーズ」 あるよ。と小さく口のなかで呟く。 フリー走行が終わったあとのパドックであった。 「なんでそんなに怒るんだよ」 怒ってるよ。 「ジョー?聞いてる?」 思わず直立不動になるハリケーン・ジョー。 「――だからね。昨日から言ってるでしょ?勝負ぱんつなんてものに頼らなくても、あなたはじゅうぶんに実力も運もあるんだから」 実はこのくだりはジョーは昨夜から数十回となく聞いている。フランソワーズはずうっと同じ事を繰り返ししゃべっているのだ。 本当に。 ちょこっと疑ってみる。が、すぐにそれがばれてしまった。 「ジョー!?ちょっと酷いわ、私はジョーを思って言っているのに」 軽く相槌を打ち始めたジョーをフランソワーズが目を細めて見ていた時だった。 「きゃっ」 フランソワーズの髪が舞い上がる。 「いやん、ジョーっ!」 ジョーは咄嗟にフランソワーズの腰に腕を回して抱き締めた。もちろん、ワンピースの裾が舞い上がるのをブロックするためだ。 「もうっ、何するの、は・・・恥ずかしいじゃないっ」 とはいえ、彼の腕を解くでもなく、フランソワーズはただ両手で顔を覆ったのみだった。 「え、だって風で裾が」 ――彼女に甘えるハリケーン・ジョー。 さすがにスクープはされなかったけれど、目撃した関係者は多く、しばらくその話でもちきりだった。 「いや、俺は甘えていたわけではなく、風で裾が」 言い訳しても誰も聞いてくれなかったという。 4月15日 現地に来るの来ないのと、ふたりがあれこれ考え言い出せずにいたけれども、実は日本からとっても近い場所がいま現在の「現地」であった。つまり――次のレースは上海だったから。 「まあ!あんなに言ったのに穿いてなかったのね?」 咎めるような恋人の視線を避けつつジョーは答えた。 「いやー・・・ちょうど洗濯中だったというかなんというか」 ホテルの部屋である。 「――予選の時に穿いちゃったんだよ」 ぶすっとした顔でジョーが答える。 「え。まさか、嘘でしょう?」 フランソワーズはもどかしそうにジョーの腕を解くと彼の膝から下り立った。 「まさか一枚しか持ってきてなかったの!?勝負ぱんつ!」 *** そんなわけで、その後の二人の議題は どうやって二日間勝負ぱんつを穿くようにするか になってしまった。 いったい自分たちは何の話をしているのだ? 「・・・なんでレース前にぱんつの心配なんかしてるんだろうな」 あれは普通にただのおそろいのぱんつなのに。 「なんか・・・緊張感、ないなあ」 ジョーが笑う。一緒にフランソワーズも笑った。
春と冬をいったりきたりはっきりしない。
前日に最高気温が20度を超えたかと思うと、今日は9度と真冬並み。なかなか冬物をしまうことができない。
おまけに天気も安定しないから、洗濯物が乾かない。もちろん、乾燥機を使えばどうってことないが、それでも天日で干すのと違うわけで、フランソワーズとしては是非とも太陽に出てきて欲しかった。
しかし。
両手で膝を抱えて。額をその膝頭に預けて。
もちろん、彼のこの姿はレースの結果と切っても切れない関係がある。つまり、今季は未だに結果を出せていないのだ。
だから落ち込んでいる。
それはわかる。
がしかし、およそ――ジョーらしくない。
今までの彼であれば、レースの結果が思わしくないからといって変に落ち込んだりはしない。反省はしても後悔はしない。常に「次にどう活かせばいいか」を考え行動し、そして結果を出そうと頑張った。
けれども、今季はどうしたものか、それが無い。
五分五分の開発力であれば――エンジンの差、マシンの性能の差が僅差であれば、否、そうでなくても圧倒的な差がなければ、ジョー自身のドライバーとしての腕でカバーできる。そういう自信がある。
しかし。
圧倒的に性能が違うマシンでは勝負にすらならない。
開発にかける資金の差なのか。
あるいは、能力のある開発者がいるかいないかの差なのか。それだって、やはりマネーの問題がついてくる。
最高スピードが遅くてはストレートで追い越される。
それに。
フランソワーズは自分の選んだ男性がそんな駄目男などとは思っていないし、自分の眼力には自信があった。
少なくとも、ジョーに関してはそうだった。
横から顔を覗きこむけれど、ジョーはフランソワーズの視線を避けるように頭を動かしてしまうから、彼の表情も捉えることができない。
けれど。
ジョーは一般的な男子とは違う。
もしもそう言ったら更に――落ち込むことだろう。
何しろ「嫌いになるわよ」ではなく「嫌いよ」なのだ。そんな些細な言葉の違いでジョーは簡単にどん底までいってしまう。では、だったら「そんなジョーは嫌いになるわよ」と言ってみたらいい。そうも思ったが結局やめた。
どちらにしろ、「嫌い」という言葉がフランソワーズの唇から放たれるのをジョーは好まない。
そんなわけで、慰める語彙を使い果たしたフランソワーズには、既に彼にかけられる言葉はなかった。
フランソワーズはその内容がどうであれ、答えが返ってきたことに勇気を得て続けた。
「・・・そうじゃないけど」
「信じるのは自分自身の力でしょう?それも今は信じられないの?」
「・・・それだけじゃどうにもならないんだよ」
「どうして?」
「・・・基本的なものから差がついているんだ。何をどう頑張ったところで負けは目に見えている」
「ジョーには見えているんだ?凄いわねぇ」
「・・・そのくらい誰にでもわかるよ」
「あら、そうかしら。だって私には見えないわ」
「それはフランソワーズが部外者だから」
「そうね。確かに部外者だわ。でも、ジョーのことに限っては専門家よ?」
「・・・なんだよそれ」
「私はジョーを信じてるってこと」
「・・・好きじゃないよ」
「だっていまそうじゃない」
「・・・そうじゃないけど、でも」
「私はなにも、できないことを無理矢理やれとか言ってるわけじゃないわ。気合でどうにかするとかいう精神論をぶつつもりもない。ただ、できることをやろうとしないのがむかつくのよ」
「・・・やっても無駄だから」
「そんなの誰が決めたの」
「・・・なくならないよ」
「ほら。知ってるじゃないの」
「そうだけど。でも――」
「違う」
「でも今のあなたが言ってることってそういうことよ?」
「違う。――性能が上であり、かつ腕もいいドライバーが乗るんだ。叶うわけない」
「ふうん。ジョーより腕のいいドライバーっているんだ?」
「いるさ、そりゃ」
「でも、運を味方につけているドライバーってジョーしかいないと思うんだけど?」
「運?」
「そうよ。でね、運も実力のうちなんでしょう?だとすれば、やっぱりジョーは強いのよ」
「そんなの、誰が決めたんだ」
「誰って・・・私」
「はあ?」
「勝利の女神だもの私。その私がついているのよ」
「でも負けたよ」
「それは、勝利は次にとっておいたのよ」
「――なんだよ、それ」
「いいの、そのへんは女神の采配次第なんだから」
「・・・俺は毎回勝てるほうがいいんだけど」
「あら、そうしたら私の有難味がなくなるでしょう?」
「出し惜しみ?」
「企業秘密よ、ノーコメント」
「――企業秘密、か・・・」
フランソワーズは何も言わない。ただジョーの背中に頬を寄せて、彼の声が彼の体のなかから聞こえてくるのを待った。
「うん、久しぶり」
「懐かしいわ」
「うん」
「嬉しい」
「うん」
「いつものジョーね」
「うん。落ち込むのはもう飽きた」
「ええと、じゃないでしょ」
「別に速くないわ。ジョーは男の人なんだから、どうってことないくせに」
「どうってこと・・・」
きみは怒ると歩くのが速くなるんだよ――とは、さすがに言えない。
いつもなら、フランソワーズはこんなに堂々と歩いたりはしないのだけれど、どうやら怒りでどうでもよくなっているようだった。
「怒ってないわ」
「いや・・・」
という語尾はジョーの口の中で消える。どうしても空気中に「音」として振動させ伝播させる勇気が出ない。
ただでさえ、蒼い瞳はいつもよりも深く厳しい色を湛えているのだ。それを更にどうにかさせるなんてとてもじゃないが出来なかった。
「えっ、ああ、ハイっ、聞いてます!」
ただ、それは決して嫌がらせではなく本当にジョーの事を心配して言っているのだから、ジョーとしてはただ耐えるしかなかった。
嫌がらせ――じゃ、ない・・・よ、な?
「えっ、あ、いや」
「だから、ぱんつなんかに頼る必要なんかない、って言ってるのよ、わかる?」
「え、ああ。うん。そうだね、そう・・・」
一陣の風が吹きぬけた。
「うわっ」
が、舞い上がったのはもちろんそれだけではない。
今日のフランソワーズはとても薄くて軽い素材のワンピース姿だった。ふわふわひらひらと揺れて、ジョーの視線を落ち着かなくさせていた。だから、実はジョーがフランソワーズの話にあまり集中していなかったのは彼だけのせいではないといっても過言ではない――のかも、しれない。フランソワーズ本人はわかっているのかいないのか定かではなかったけれど。
その、ジョーが秘かに大注目してはらはらしていたワンピース。フランソワーズの膝上10センチほどだろうか。
それももちろん、風とともに盛大に舞い上がった。咄嗟のことでフランソワーズは反応できない。
が、しかし。
フランソワーズの恋人は反射神経に優れたF1パイロットであり、最強の戦士でもあった。
ほんの一瞬、いや、刹那の出来事だったので――フランソワーズ本人が気付いた時には、ジョーは自分の前でひざまづいて腰に抱きついているという異様な光景となっていた。
「もうっ、知らないっ」
もちろん、前レースから二週間も空いたから、ジョーのチームはいったん本拠地に戻ってマシンの整備を行っていたわけだけれど。
けれどもこうしてまた一緒に居られるわけだから、そんなことは今やふたりにとってはどうでもいいことだった。
「勝負の時にしか穿かないって自分で言ってたじゃない。それとも何かしら?他に何か個人的な勝負事でも?」
「えっ、なんだよ個人的な勝負事って」
「さあ。自分の胸にきいてみたら?」
スイートルームで広いのにも拘らず、ふたりはずいぶんぴったりとくっついて座っていた。
いや――ソファのうえに座っているのはひとりきりである。何しろフランソワーズはジョーの膝の上に座っているのだから。
ジョーはフランソワーズの体に腕を回してぎゅうっと抱き締めていた。だから、腕の中の恋人から尋問のような視線を浴びせられてもどうにも逃げようがなかった。
「嘘じゃないよ、予選だって大事な勝負なんだから」
「そうじゃなくて!んもう、ジョーったら!」
心なしかちょっぴり寂しげな顔になった彼を上からじいっと見下ろして。
もちろん、予選が終わってすぐ洗濯して乾燥し翌日の本戦に備えればいいだけの簡単な話には違いない。
予選のあと着替えた時に、すぐフランソワーズに渡してそれを持ってフランソワーズはホテルに戻り洗えばいいだろう――という作戦と手順を完璧にまとめあげた。
が。
そこまで真面目な顔で打ち合わせて――お互いに顔を見合わせた。
「知らないわよ。そもそもジョーが勝負ぱんつなんて言い出すから」
フランソワーズは知らなかったけれど、ジョーが笑ったのは数週間ぶりのことであった。
4月10日
「――あのさ。その・・・」 電話の向こうから聞こえる声は、なぜかいつもと違って妙に歯切れが悪くもじもじとしていた。 「なあに?」 何か言いあぐねている様子のジョー。フランソワーズは務めて明るく聞き返した。 「うん・・・その、さ」 何かよっぽど言いにくいことなのだろうか。 「うーん・・・」 あと何かないかしら。 「何?」 唸っているのが聞こえたらしい。 「あら、話ってさっきから何にも話してないのに何をどう聞いてくれというのかしら」 我ながら意地悪だ。が、そもそもジョーが何を伝えようとしているのかもじもじしているのが悪い。もじもじし始めてから有に5分は経っている。さっき時計を見て確認した。 「・・・だから、その」 軽く咳払いをして、ジョーは続けた。 「――こっちに来れないかな」 妙な早口であった。 「こっち?」 って、どっち? 軽く首を傾げたフランソワーズが見えたわけではないだろうが、まるで見えたかのようにジョーが答えた。 「だから、――ここだよ」 なぜかイライラしたような声。 「何よ、わからないわよもう」 フランソワーズは電話を耳に当てたまま部屋のなかをぐるぐる歩く。途中でカレンダーをめくってみたり、あれこれしながら。 「だからさ。・・・来て欲しいって言ってるんだよっ」 逆ギレしたかのように、ぶつけるように放たれた言葉。 「ほんとうはわかってるんだろっ」 フランソワーズは小さく舌を出した。 「だからさ、その・・・」 次のレースまでに自分のところへ来て欲しい。 「――うふっ。しょうがないわねぇ、ジョーったら!」 既にフライトチケットをとってあり、荷造りもすんでいるというのは内緒であった。 「うるさいな、放っておいてくれ」 顔を見たくて。 これ以上、いじめると本当に――拗ねて泣いてしまいそうだったから、フランソワーズはここで切り上げることにした。 「すぐに行ってあげるから、泣いちゃ駄目よ?」 小さく、うるせーと返ってきた。 「ジョー?言葉遣いが良くないわ」 彼が自分から「来い」と呼ぶ時は、あまり良い兆候ではない。 フランソワーズは唇に笑みを浮かべ、小さく言った。 「――会いたいから、行くわ」
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