「ただいま」

と、言ったところで答える人はここにはいない。
けれども、ギルモア邸に住んで、みんなが居る事に慣れてしまった身としては、ここには誰もいないとわかっていても、つい「いってきます」「ただいま」を言ってしまうのだった。
なので、今日もきちんと「ただいま」と言って玄関のドアを閉めた。

「おかえりなさーいっ」

奥からそんな声が響いたと思ったら、あっという間に何かが首筋にかじりついた。
御丁寧にジャンプして、無理矢理ジョーの腕の中におさまって。

「・・・・フランソワーズ?」

ここに自由に入れるのは、自分以外にはフランソワーズしかいない。だから、いま腕の中に飛び込んできた柔らかいものはフランソワーズなのだろう。が、何故彼女がここにいるのか理解できず、とりあえず名前を呼んで確認してみる。

「なぁに、ジョー」

ジョーに抱き上げられているフランソワーズは、彼の首筋に回していた腕を解いて、改めて彼の顔を見つめた。
褐色の瞳と蒼い双眸が出会う。

「・・・なんでここに」
「なんででしょう?」
軽く首を傾げ、嬉しそうに彼の顔を見つめる。
「・・・クイズ?」
「制限時間はあと5秒」
「んー・・・・えっと」
勝手にクイズを出題され、勝手に回答者にされても、異を唱えず律儀に参加するのだった。
「ハイ、時間切れっ」

そう言って、ちゅっと彼の頬にキスをひとつ。

そして、そうっと前髪をよける。
「――困った顔してる。私がここに居たら困る?」
久しぶりの逢瀬なのに、あまり嬉しそうではないジョーに表情が曇る。
「困らないよ。なんでいるのかなって思っただけ」
「いつでも来ていいよって言ったじゃない」
「そうだけど、それにしても――」
「・・・来ないほうが良かった?」
「そんな事は言ってない」
「だって、全然嬉しそうじゃない」
「フランソワーズ」
ジョーはため息をつくと、フランソワーズを下に降ろした。不満そうに唇をかすかに尖らせる彼女に苦笑する。
「・・・僕が嬉しそうじゃない、って?」

低い声で言った瞬間、あっという間にフランソワーズをその腕の中に捕えてしまった。
「そんな事を言うのはどこの口だ?」
「――んっ」

ちゅーされるっ。と思い、ぎゅっと目を瞑ったフランソワーズだったが、両頬をむにっと引っ張られ、目を開けた。
「イタイっ・・・なにするのよっ」
「フン。可愛くない事を言うからさ」
「だって」
「どうしてそういう事を言うのかなぁ。酷いよな。僕が嬉しくないだろう、だって?傷つくなあ」
本気で言ってるような声音のジョーに、だんだんうつむいてしまう。
「・・・だって」
「――ね、フランソワーズ?」

このままずうっと怒ったままなのだろうかと悲しくなっていたフランソワーズは、自分の名を呼ばれて思わず顔を上げた。
途端に、唇を奪われてしまった。
「――!」
心の準備を全くしていなかったので、本当の不意打ちだった。
「――っ」
微かに抵抗を示すものの、全く離れる気配がない。それどころか、どんどんキスが深くなってゆくのだった。
「・・・・」
いつもより執拗だった。こんなジョーは知らなかった。
「・・・・っ」
頭の奥がしびれてくる。
「ん・・・ジョー、やめ」
離れない。

 

気付いた時は、リビングのソファに座っていた。ジョーの姿は、ない。
ぼうっとした頭で考える。が、霞がかかっているようでまとまらない。

「・・・ジョー?」

不安になり呼んでみる。
すると、背後から彼の手が出現し――首筋から腕を回され、抱き締められた。

「何?」
「・・・ううん。・・・何でもない」

そうっと首を巡らせ、見つめた彼の顔は――優しい瞳で自分を見つめる、いつものジョーだった。
――いや。いつもより・・・甘い?

「・・・お腹空いたでしょう?」
そんな顔のように見えたから、そう言ってみた。
「うん。空いてるね。でも、後でいいよ」
「じゃあ、お風呂・・・?」
「それも後でいいよ」

じゃあ、一体?

ジョーはフランソワーズの耳に唇を寄せ、何かを囁いた。――途端、フランソワーズは耳まで真っ赤に染まった。

「もうっ・・・・ジョーのばか」

 

 

そもそも自分は、彼にちゃんと「おかえりなさい」を言いたかっただけなのだ――と、思い出したのは、それからしばらくしてからだった。
ジョーの鼓動を近くに聞きながら、ともすれば眠りの世界へ誘われてしまいそうになるのを必死で堪える。
そして。

「――おかえりなさい」

おそらく既に眠ってしまっているであろう彼へ。
少し待ってみたが、やはり眠ってしまったのだろう――答えはなかった。

でも――いいわ。だって、ジョーの鼓動をこんなに近くで聞いていいのは、私だけなんだから。

それに、その規則正しい音を聞いていると――ああ、還ってきたんだなぁと安心するのだった。
何処に行ったとしても、彼が最終的に還るのは私のところ。
そう信じてはいるものの、離れているとそれが揺らぐこともあった。特に、シーズン中は。
恋人はレーサー。
だからシーズン中は、車に彼を獲られてしまったような気分になる。
それが彼の仕事であり、自分だって彼が車を愛するのと同じようにバレエを愛しているのだから、つまりはそういうことなのだ――と、わかってはいても。
全世界に配信される、彼の映像。
全てのファンが見守るインタビュー。彼の声を何万人ものひとが聞く。
彼の視線もカメラが捉えてしまえば、すぐさま世界へ配信されてしまう。
どうあっても、独り占めできやしない、レーサーの彼。

だけど、今は。

会いたくて会いたくて、仕方のなかったひとが、ここにいる。

「・・・ふふっ」
微笑みながら、眠っているジョーの頬に指先でそうっと触れる。それから、鼻梁をなぞり、唇へ。

この唇が、自分の名前を呼ぶのが好き。
甘えるように呼ぶこともあるし、指示を出す硬い声の時もある。そのどれもが好きだった。

それから、そっと瞼に触れる。
今は閉じられているけれど、その奥にある褐色の瞳。

その瞳に見つめられると、何でもできそうな気がする。
いつもは前髪に隠れて片方しか見えないけれど、今は――彼が目を開けば、両方の瞳が見える。
褐色の双眸に見つめられるのも、見つめるのも好きだった。

満足したように、彼の胸に頬を寄せて目を閉じる。
耳に鼓動を聞きながら。

すると、自分を抱いている彼の腕に微かに力がこもった。きつく、抱き直される。

「――フランソワーズ?」

微かな小さい声で呼ばれるけれど、目は開けない。
既に半分は夢の世界に居るのだから。
とはいえ、彼に名前を呼ばれたのが嬉しくて――唇に笑みが浮かんだ。
きっと、眠っても彼の夢を見るのだろう。そう思った。
目を閉じても会える。彼は――いなくならない。安心して眠りの世界へ誘われていった。

だから、耳に囁かれた言葉が、現実なのか夢なのかわからなかった。
――が、どちらでも良かった。どちらの彼であっても、ジョーには違いないのだから。

 

「――ただいま」

 

 

 

 

 

 

翌朝、大量の食材に目を丸くしたものの――出来上がった数々の料理を全て残さず食べたのはさすが009と言うべきだろう。

右手には箸を持ち、左手にはフランソワーズを抱いて。
テーブルに並べられた彼の好物と、膝の上に抱いたフランソワーズが差し出すものを交互に食べながら。
しかも、それが全く苦しそうではなく――むしろ、満足げな笑みを浮かべているのだ。

「はい。あーん」
「ん」

フランソワーズの差し出すアップルパイをかじり、箸で甘い卵焼きをつつき。
いったい今、何を食べているのか怪しいものである。口の中では色々な味が混ざり合っているのに違いなかった。

「おいしい?」
「うん」
「良かった。まだまだたくさんあるのよ」
「へぇ。それはいいね」
「でしょう?」

次々に追加される料理にも全く動じない。
ジョーはとにかく、フランソワーズの作るものなら、いくらでも食べられるのだ。

「明日から、またしばらく食べられないんだよな」
残念そうに言う。
明日からは、サーキットで調整の日々が待っている。

「あら、届けに行くわよ?」
「ん――」

ちょっと考え。

「いや、いいよ」
あっさりと断る。
「・・・行ったら迷惑?」
サーキットは彼の職場であるし、レースでもない時に行くのは仕事の邪魔になるのだろう。
そう思ったから、声に残念そうな色は滲ませない。

「そうじゃないよ」
しゅんと肩を落としたフランソワーズの髪にキスをして。
「――きみを他の男に見せたくない」
スタッフは男性の方が格段に多いのだ。
「あら、大丈夫よ。――他のひとに目移りしたりなんてしないわ」
「そうじゃなくて」
「だって、・・・ジョーしか見えないもの」
「・・・そういう意味で言ったんじゃないんだけど」
まあ、いいか――と、とりあえずは納得してみる。そして、コーヒーをひとくち。

「だって、他の男のひとなんて、へのへのもへじにしか見えないんだから!」

一瞬、コーヒーが気管に入りそうになる。
咳き込みながら、そんな冗談聞いたことないぞ・・・と彼女の顔を見ると、冗談ではなく本気で言っているようなのだった。
「本当よ?みーんな、へのへのもへじ!」
「・・・へのへのもへじなんて、よく知ってるね」
「テレビで観たの。ちゃんと書けるわよ?」
書きましょうか?という声に、いいよ書かなくてと慌てて止める。

「全く・・・他でそういう事言うなよ」
「どうして?」
惚気てるように思われるからだ――とは言わず。ただ黙ってフランソワーズを見つめた。
全く――彼女にはどうあっても勝てない。たぶん、ずっと。

音速の騎士だの、最強の戦士だの言われているけれども、彼女が相手なら連戦全敗なのだ。

 

この蒼い瞳に見つめられる権利は、誰にもやらない。

 

 

「――ねぇ、フランソワーズ?」
「なあに?」
「これ全部食べたら・・・」
じっと蒼い瞳を見つめる。
「ついでにきみも食べていいかな」
「――もうっ、何言ってるのよ」
食べたばっかりでしょう・・・と言いつつ、ジョーの瞳に負けそうになる。

「知らない。・・・ジョーのばか」

 

でも、好き。

 

 

 

 

 

 

「・・・好きにすれば?」