世界が揺れた。
――彼は私のものなんだから。
それは最終通告であり、ジョーにとっては死刑宣告と同等のものだった。
まさかそんな効果を狙ったわけではあるまい。が、ジョーは本当にダメージを負った。
「・・・彼、って」
聞き返すな。
聞いてどうする。
どうするつもりだ?
自身に問いかけ、己を律するつもりだった。が、心と体はばらばらで、ジョーの意に反して勝手に口が言葉を放っていた。
「いやよ。いくらジョーでも彼はあげないわ」
必死な様子のフランソワーズ。
ジョーは笑うべきか落ち込むべきか、あるいは怒るべきなのか自分でもわからなかった。
――あげないわ、だって?
要らないよ。きみのカレシなんか。
本当の相手を確認したってしょうがないじゃないか。
ジョーが自分のなかに深く深く落ち込んでいくのを知ってか知らずか、フランソワーズはしょうがないわねと腰に手を当てた。
「見るだけよ?いい?」
――連れてきてるのか。ここに。
「ちょっと待っててね」
まったくもう、誰に聞いたのかしらと言いながらフランソワーズが部屋を出て行く。
残されたジョーは床を見つめながら、逃げるなら今かなとぼんやり考えていた。
いつかフランソワーズを正しい相手に渡す日がくる。
それは想像していたし、覚悟もしていた。
けれど、当の相手に対面するかどうかは考えもしなかったのだ。何故なのか自分でもわからない。
自分のなかで「その相手」は、のっぺらぼうか真っ黒に塗りつぶされた影のようなものであって明確な形をとってはいない。おそらく、見たくないからなのだろう。だから想像することもしなかった。辛くて出来なかったのだ。
「ジョー、お待たせ」
明るい声がして、ジョーは逃げる時を失ったことに気がついた。
今さらもう遅い。
この地球上の全人類のなかでもっとも会いたくない人物がいま、ここに来てしまった。
ジョーは逃げも隠れもできないと腹を括った。
こうなったら、堂々と対面するしかない。フランソワーズをよろしくと――言うしかない。どんなに言いたくない言葉であっても。
「ほら。御挨拶して」
促す声が妙に明るく感じられ、ジョーはうちのめされた。
いくら本当の相手がやってきたからといって――そんなに明るく別れを告げる準備をしなくてもいいじゃないか。
少し意地悪な気持ちになる。
ここで僕が、嫌だ君をわたさないと言ったらどうなるだろうか。
相手は困るだろうが、フランソワーズはもっと困るだろう。何しろ、彼氏の前で昔の男が渡さないとごねるんだ。
――修羅場だな。
そんな修羅場はとうの昔に何度も経験していたが、その時とは状況が違っていた。
昔はそういう場面でも淡々としていた。去ってゆく相手にどんな思いもなかったし、大体――別に好きでも何でもなかったのだ。ただ向こうが一緒にいたいと言ったから一緒にいただけで。それが向こうの男の下へ行きたいと言われたからといって引き止める気がおきるわけがない。はいどうぞ、と軽く笑みを浮かべて言ったものだった。
だから、今の状況は全く経験がない。
行かないでくれ。
行くな。
そんな言葉で惨めにすがることはしたくない。
けれども、そんな風にすがって泣いて願えば、もしかしたらフランソワーズはこちら側に留まってくれるかもしれない。
そう思うと、どんなにかっこ悪くて情けなくても、やってみてもいいかなと思った。
自分のプライドも男としての誇りも――フランソワーズを失うことに比べたら些細なことだった。
そんなもの、無くたっていい。フランソワーズがそばにいれば、僕は。
ジョーが心を決めて顔を上げた――途端。
「にゃあ」
鼻を引っかかれた。
「!?」
「こら、だめでしょ!」
めっ、と腕のなかのものを叱るフランソワーズ。
「・・・え」
――彼氏、って。
「フランソワーズ、彼、って」
「ええ。この子よ。預かったの。本当は頂いたんだけど、ほら、私たちっていつ長期不在にするかわからないでしょう?だから飼うことはできないわ、って言って。今日の夜には迎えがくるから、ほんのちょっとだけの間なんだけど」
「・・・彼」
「ええ。可愛いでしょう?でも駄目よ、それまでこの子は私のものなんだから。いくらジョーだって、渡さないわよ?」
――彼。
「・・・彼氏ができた、って」
「ええそうよ?私の彼氏」
「・・・フタマタだって」
「そうよ?いけない?」
「・・・いい、けど」
「うふ、ちょっとの間だけ三角関係ね」
ジョーはがっくりと膝をついた。
「あら、ジョー?どうしたの」
「・・・なんでもない」
仲間の他愛無い小話をちゃんと聞かなかった自分が悪い。彼氏ってなんのことさと割って入って問えばよかった。
紛らわしい話をするなと怒ってもいいかもしれない。が、ちゃんと聞かないで早合点した自分もどうかと思う。
もちろんそれは、ひとえにフランソワーズを失いたくないがための、決定打を受けたくないがための、自己防衛本能に他ならないのだけれども。
「・・・なんでもないさ」
なんだか涙が出てきて、ジョーは膝を抱えると膝頭に額を押し付けた。
――なんだよ、猫一匹に一喜一憂して僕はバカか。
情けなかった。
でも、ほっとしていたのも事実だった。
フランソワーズはまだここに居る。
自分のそばに。
もうしばらくは。
「ジョー?」
フランソワーズの腕から子猫が飛び降りてジョーの背中に着地した。滑り落ちそうになって爪を立てる。
「ジョー?」
フランソワーズも膝をついてジョーの顔を横から覗きこんだ。
「ジョーったら。どうしたの?急に。どこか痛い?それとも何か――きゃっ」
抱き締められ、フランソワーズは目を丸くした。全く意味がわからない。
ジョーの行動が意味不明なのはよくあることだけれど、それでも今日はどこか――変だ。
「ジョー?」
なんでもない――でも今日はこうしててくれ。
そう耳元で繰り返され、フランソワーズはわけがわからないながらも頷いた。
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