―2―
兄が出て行ったあと、フランソワーズは庭をぼんやりと見つめていた。
***
黒い幽霊団に囚われの身となっていた自分。何度も脱出を試みたものの果たせず、最後には身体も心も疲れ果て、どうにでもなれという気持ちになっていた。 「――きみ。そこのお嬢さん」 暗闇の中で誰かの声がする。 「――誰」 紹介もされずに殿方に声をかけられるなど初めての経験だった。 「しっ。静かに。私の声が聞こえるね?」 聞こえる――と言ってしまっても大丈夫なのか自信がない。 「あの――あなたは」 部屋にあるたったひとつの窓。 「・・・どうしてここに」 どうして、ではなく、どうやってと訊くべきだったかもしれないと思ったのはほんの一瞬。 「怖がらないで。私はきみを助けに来たのだから」 その時、月が雲から顔を出した。 「――あなたは」 シマムラ子爵。 「フランソワーズ。助けに来た。私と一緒に来るんだ」 全身に震えが走ったのは、彼が躊躇せず一歩自分の方に踏み込んできた恐ろしさと、紹介もされておらず旧知の仲でもないのにファーストネームを呼ばれた嫌悪感と、それから―― フランソワーズはじりじりと後退していた。 「い、イヤ」 がっしりした手に両肩を捉まれてしまった。 「イヤっ!!離してください」 子爵とフランソワーズの目が合った。 「このままじゃ・・・何ですの?」 一瞬視線を外すが、手は離さない。 「目をつむっていたほうがいい」 何をするつもりなの――と訊く間もなかった。 永遠とも思われる時間だったが、おそらくほんの数瞬のことだっただろう。 「大丈夫?」 心配そうに自分の全身に目を走らせる子爵に、フランソワーズは胸がどきどきした。 「え、ええ。・・・少し動悸がしますけれど、きっとすぐおさまりますわ」 手首を掴まれ連れて行かれた先には一頭の駿馬が待っていた。 「さあ、早く」 子爵は優れた乗り手だった。 このひとはいったいどういうひとなんだろう? 噂通りの恐ろしいひと――とは、既に思えなくなっていた。 「あの、・・・ひとつ伺っても構わないでしょうか」 やっと人心地ついたのは、長い時間走った後で古びた建物の中に落ち着いた後だった。 「何だい?」 子爵はグラスをふたつとブランデーと思しき瓶を手に戻って来た。 「あの、あなたはどうして・・・」 ふたつのグラスにブランデーを注ぐと、子爵はフランソワーズにグラスのひとつを手渡した。 「飲むといい。気分が良くなる」 そうして、古ぼけたソファにどさりと腰を降ろした。 「・・・あの、」 面識も何もないのに。ずうっと前に、遠目に見ただけなのに。なのに、どうして――? 「・・・私も黒い幽霊団に捕まっていたのだ」 ブランデーをひとくち含む。 「――私も改造されたのだ。常人では跳べない高さを跳べるようになり、重さを全く感じずにものを持ち上げられるようになり、落ちても死なない体になった」 さらにひとくち。 「しかし、彼らの目的はそれだけではなかった。体の中身もまるごとそっくり機械と入れ替える計画を立てていたのだ。それを聞いた時、他に囚われている者がいることを知った。それがきみだ」 フランソワーズは声もない。 「きみもそうなるところだった。今は、耳が多少聞こえやすくなっていると思うが、あのままあそこにいたら、次は――」 助けてもらった事に感謝の意を伝えようと口を開いたフランソワーズは、ふとある事に気がついて眩暈がした。 「追っ手がくるのではないですか?こんな――こんなところでのんびりしていては」 にやり、と笑みが広がる。 「きみを助ける前に首謀者は始末してきた。後は――追っ手がかかっても大したことはない。この辺り一帯は私が声をかけた腕のいい者たちが占めている。今夜中に決着がつくはずだ」 もっともなフランソワーズの声に、子爵は笑みをひっこめ、真剣な瞳でじっと見つめた。 「それは・・・あなたとゆっくり話す時間が欲しかったのだ」 確かに、兄は自分を子爵に紹介するなど絶対にしないだろう。 「しかし、私はひとめ見た時からずっと・・・もっと近くで見たいと思っていた」 まっすぐに見つめてくる栗色の瞳は、以前見た時のような荒んだ恐ろしい色はしていなかった。そこにあったのは、優しさと不安だった。 「・・・私が怖いかい?フランソワーズ」 紹介されてないのに勝手にファーストネームを呼ばれるのは、不快に思わなくなっていた。 「いいえ」 そう、怖くなかった。 フランソワーズは、今日、月の光に浮かび上がった彼の姿を見た時に全身に走った震えについて考えていた。 「怖くなどありませんわ」 怖くない。ただ、この――不安げに揺れる栗色の瞳をどうにかしたかった。何を心配しているのかわからないけれど、何も不安に思うことはないのだと言ってあげたかった。 「ジョー、あなたこそわたくしが怖いのではありませんか?」 フランソワーズはグラスを置くと、子爵の方へ進んだ。 「――怖くなどありません。助けていただいてありがとうございます。まだ御礼を言ってなかったわ」 うるさそうに右手を顔の前で振ると、子爵は立ち上がった。 「・・・そろそろ行こう」 きっと、このまま送り届けられたらそれっきりになってしまうだろう。 フランソワーズは心を決めた。
|