|    ―2―   兄が出て行ったあと、フランソワーズは庭をぼんやりと見つめていた。思うのは「彼」と初めて会った時のこと。自分はその瞬間に彼に恋をしてしまった。
   ***   黒い幽霊団に囚われの身となっていた自分。何度も脱出を試みたものの果たせず、最後には身体も心も疲れ果て、どうにでもなれという気持ちになっていた。 「――きみ。そこのお嬢さん」 暗闇の中で誰かの声がする。今までよりもよく聴こえる耳を持ったのを実感した瞬間だった。何しろ、おそらくそれは囁き声だったはずなのに、自分の耳にははっきりと聞こえたのだから。まるで耳元で話されているかのように。
 「――誰」 紹介もされずに殿方に声をかけられるなど初めての経験だった。次は何をされるのだろうと怯えていた身には、その声が優しかろうが厳しかろうがどちらでもよかった。自分はこの、誰にもわからない場所で改造されてしまうのだ――とわかっていたから。
 「しっ。静かに。私の声が聞こえるね?」 聞こえる――と言ってしまっても大丈夫なのか自信がない。しかし、月明かりを背にして窓辺に立ったそのひとは、どうも敵ではなさそうだった。
 「あの――あなたは」 部屋にあるたったひとつの窓。が、その先に広がっているのは海だったはずだった。
 そして、この部屋は尖塔の一番上にあるのだ。断崖絶壁の向こう側から現れるなどできるわけがない。普通の人間には。
 「・・・どうしてここに」 どうして、ではなく、どうやってと訊くべきだったかもしれないと思ったのはほんの一瞬。目の前の黒尽くめの男は、ひらりと身軽に跳んで部屋へ侵入を果たしていた。
 思わず一歩引く。
 「怖がらないで。私はきみを助けに来たのだから」「助けに?――いったい、あなたは」
 その時、月が雲から顔を出した。蒼白い月の光のなかに浮かび上がったのは――栗色の瞳と栗色の髪をつ青年だった。
 「――あなたは」 シマムラ子爵。このあたり界隈の土地をしきっているという、下層階級の生まれの若者。「子爵」の称号は金で買ったものだという。
 乱暴者で手がつけられず、卑しい身分の者とも平気でつきあっているという噂だった。
 以前、遠目で見たことがあったが、全身黒尽くめのその姿は印象的だった。そして何より忘れられないのが――荒んだ冷たい瞳。その瞳がこちらを向いた時は恐ろしくて、すぐ兄の影に隠れたものだった。
 その彼がいま、自分を助けに来たと言う。
 「フランソワーズ。助けに来た。私と一緒に来るんだ」 全身に震えが走ったのは、彼が躊躇せず一歩自分の方に踏み込んできた恐ろしさと、紹介もされておらず旧知の仲でもないのにファーストネームを呼ばれた嫌悪感と、それから―― フランソワーズはじりじりと後退していた。理由はないが、この差し出されている手に捉まったら、もう逃れられないような気がしていた。
 「い、イヤ」「フランソワーズ。時間がないのだ」
 「イヤ!あなたとなんか行かないわ」
 「ダメだ。来るんだ」
 がっしりした手に両肩を捉まれてしまった。 「イヤっ!!離してください」「ダメだ。このままじゃ、きみは」
 子爵とフランソワーズの目が合った。 「このままじゃ・・・何ですの?」「――いや」
 一瞬視線を外すが、手は離さない。躊躇したのはその一瞬だけだった。次の瞬間、子爵はフランソワーズを担ぎ上げていた。
 そのまま一歩で部屋を横切り、窓枠に立ち上がった。
 「目をつむっていたほうがいい」「えっ!?」
 何をするつもりなの――と訊く間もなかった。ひらり、と空中に身を躍らせた子爵はフランソワーズをしっかりと抱えたまま降下していった。
 重力のまま落ちてゆく体。悲鳴をあげる事もできず、ただ子爵の首筋に掴まるだけだった。が、降下しているうちに、自分はこのまま死んだりなどしないという根拠のない安心感が湧いてきた。きっと、かすり傷ひとつ負うこともなく地面に立てるだろう。シマムラ子爵。噂ほどには怖くないかもしれない。何しろ今は――世界中の誰よりも頼りにできる。
 目をつむるのも忘れ、フランソワーズはただ海面に映る月の光を見つめていた。
 永遠とも思われる時間だったが、おそらくほんの数瞬のことだっただろう。無事に地面に降り立った時、安堵感よりもむしろ――彼の腕から離れる恐怖感の方が強かった。
 「大丈夫?」 心配そうに自分の全身に目を走らせる子爵に、フランソワーズは胸がどきどきした。 「え、ええ。・・・少し動悸がしますけれど、きっとすぐおさまりますわ」「そうか。乱暴な手段を使ってすまなかった。が、一刻も早く助ける必要があったのだ」
 「一刻も早く?」
 「ああ、それは――ともかく、こちらへ」
 手首を掴まれ連れて行かれた先には一頭の駿馬が待っていた。 「さあ、早く」 子爵は優れた乗り手だった。フランソワーズは彼の胸のなかで縮こまり、早く着けばいいのにと祈ることしかできなかった。
 何故なら、馬は彼女が経験したこともない速度で、闇の中を疾駆していたのだから。
 危なげない手綱さばきと完全に彼にコントロールされた馬の動き。こんな乗り方をするひとは見た事がない。
 このひとはいったいどういうひとなんだろう? 噂通りの恐ろしいひと――とは、既に思えなくなっていた。今の救出劇で自分にかけられた言葉ひとつとっても、優しく思い遣りがあるように思えた。世間が言うような、荒くれ者でも乱暴者でもないようだった。
 「あの、・・・ひとつ伺っても構わないでしょうか」 やっと人心地ついたのは、長い時間走った後で古びた建物の中に落ち着いた後だった。誰も住んでいる気配のない邸。冷たく闇に沈んでいた。が、中に入ると暖かく、何よりここは安全のように思えた。
 小さなランプの光だけが闇の中にふたりの姿を浮かび上がらせている。
 「何だい?」 子爵はグラスをふたつとブランデーと思しき瓶を手に戻って来た。 「あの、あなたはどうして・・・」 ふたつのグラスにブランデーを注ぐと、子爵はフランソワーズにグラスのひとつを手渡した。 「飲むといい。気分が良くなる」 そうして、古ぼけたソファにどさりと腰を降ろした。 「・・・あの、」「――どうして私がきみを助けに行ったのか、気になるかい?」
 「ええ」
 面識も何もないのに。ずうっと前に、遠目に見ただけなのに。なのに、どうして――? 「・・・私も黒い幽霊団に捕まっていたのだ」「――え?」
 「きみよりも前に。そして――改造された。不思議ではなかったか?どうやってあの場所がわかったのかと。更に言えば、あの高さを降りて足も折らず何ともないのはどうしてなのかと」
 ブランデーをひとくち含む。 「――私も改造されたのだ。常人では跳べない高さを跳べるようになり、重さを全く感じずにものを持ち上げられるようになり、落ちても死なない体になった」 さらにひとくち。 「しかし、彼らの目的はそれだけではなかった。体の中身もまるごとそっくり機械と入れ替える計画を立てていたのだ。それを聞いた時、他に囚われている者がいることを知った。それがきみだ」 フランソワーズは声もない。 「きみもそうなるところだった。今は、耳が多少聞こえやすくなっていると思うが、あのままあそこにいたら、次は――」 助けてもらった事に感謝の意を伝えようと口を開いたフランソワーズは、ふとある事に気がついて眩暈がした。 「追っ手がくるのではないですか?こんな――こんなところでのんびりしていては」「いや。大丈夫だ」
 にやり、と笑みが広がる。 「きみを助ける前に首謀者は始末してきた。後は――追っ手がかかっても大したことはない。この辺り一帯は私が声をかけた腕のいい者たちが占めている。今夜中に決着がつくはずだ」「でも、だったら、早く家に帰るのが得策ではないかと」
 もっともなフランソワーズの声に、子爵は笑みをひっこめ、真剣な瞳でじっと見つめた。 「それは・・・あなたとゆっくり話す時間が欲しかったのだ」「・・・わたくしと?」
 「ああ。――フランソワーズ、きみは私を恐ろしい荒くれ者だと思っているだろう?生まれも卑しく、下層階級の出だと」
 「それは」
 「だから、正攻法では私がきみとこうして話す機会を持てるなど思ってもいない。アルヌール伯爵が許すわけがないからな」
 確かに、兄は自分を子爵に紹介するなど絶対にしないだろう。 「しかし、私はひとめ見た時からずっと・・・もっと近くで見たいと思っていた」「・・・子爵」
 「どうか、ジョーと呼んでくれ」
 「ジョー」
 まっすぐに見つめてくる栗色の瞳は、以前見た時のような荒んだ恐ろしい色はしていなかった。そこにあったのは、優しさと不安だった。 「・・・私が怖いかい?フランソワーズ」 紹介されてないのに勝手にファーストネームを呼ばれるのは、不快に思わなくなっていた。 「いいえ」 そう、怖くなかった。遠目に彼を見た時に感じた恐怖はあとかたもない。いや、そもそも本当に恐怖など感じていたのだろうか?
 それよりも、むしろ――
 フランソワーズは、今日、月の光に浮かび上がった彼の姿を見た時に全身に走った震えについて考えていた。あの時はただ驚いたのと、状況を理解するのに必死だった。だから、恐ろしさで震えているものだとばかり思っていた。
 が、もしかしたら、そうではなかったのかもしれない。
 「怖くなどありませんわ」 怖くない。ただ、この――不安げに揺れる栗色の瞳をどうにかしたかった。何を心配しているのかわからないけれど、何も不安に思うことはないのだと言ってあげたかった。 「ジョー、あなたこそわたくしが怖いのではありませんか?」「なぜ?」
 「わたくしは黒い幽霊団に改造された身なのです。・・・耳がとてもよく聞こえるのです。・・・今までよりも、ずっと」
 「私も改造された身だ。きみよりもずっと」
 フランソワーズはグラスを置くと、子爵の方へ進んだ。 「――怖くなどありません。助けていただいてありがとうございます。まだ御礼を言ってなかったわ」「構わない。そんなことは大したことじゃない」
 うるさそうに右手を顔の前で振ると、子爵は立ち上がった。 「・・・そろそろ行こう」「あら、でもまだ何も話しておりませんわ」
 「夜が明ける前に伯爵邸に送らなければ」
 「兄はもう寝ています。夜が明けてからでも構わないではないですか」
 「・・・しかし」
 「わたくしはもう少し、ジョー、あなたと話していたいのです」
 きっと、このまま送り届けられたらそれっきりになってしまうだろう。今、このひとをもっと知っておかなければ一生後悔する。
 フランソワーズは心を決めた。恐ろしくなどない。自分を助けてくれた優しくて頼りになって、そして何かを怖がっているこのひとをもっともっと知りたい。
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