「――じゃあ、また後で」 てっきりそう言って出て行くものと思っていた。 そろそろグリッドへという段階になって。 ふと、ジョーが顔を上げた。誰かを探すように。 「――フランソワーズ」 しかしジョーは、真剣な表情を崩さずやって来たので、何か――起こっているのではないかと緊張した。 思わず身を固くし、同時に耳と目のスイッチを入れようとする。 が。 「こら。違うよ」 耳のスイッチを入れるときの癖で――耳に触れていた手を掴まれた。 「えっ、だって――」 まさかここでそんな事をするとは思わなかったので、フランソワーズは真っ赤になって手を引いた。 「うん。ゴメン。そんな顔してた?」 ほっと安堵しつつも、だったらジョーはなぜここに来たのだろうと思った。 だって、もうすぐ――本当にもうすぐ、始まるのに。 「・・・ジョー?」 手を離してくれない。 「ね、もうそろそろ・・・」 「うん――」 無言の彼から受けたのは、唇へのキスだった。そっと触れただけの。 「じ、ジョー」 こんな場所で。みんながいるのに。 思わずうつむいてしまう。 「だめだよフランソワーズ。ちゃんと僕を見て」 ちらりと見上げると、褐色の瞳が優しく見つめていた。 「いってきます」 「!?」 意味がわからず、目で問いかけると、ちょっと拗ねたようにジョーは唇を尖らせた。 「――ちゃんと言ってくれよ。いつもみたいに、さ」 「いってきます、って言ったら何て言うんだっけ?」 でも今はレースに行くだけなのに。 「ここで待っててくれるんだろう?・・・だからさ。僕はすぐ帰ってくるから」 「すぐ帰ってくる、って、リタイヤだったら許さないわよ?」 いってらっしゃい――
そうしてレースは始まった。
***
ポールポジションから始まったレースは、ジョーにとって慣れているサーキットということもあり――終始トップを独走で終わった。観客から見れば、スタートそのままのポールトゥウィンで面白味がなかったかもしれない。が、ジョーとクルーは面白さなど求めていなかった。 チェッカーを受けて、ウイニングランに入り――ドライバーであるジョーはもちろん、ピットクルーも大喜びであった。 「ホラ。フランソワーズ、こっちに来て」 古株の女メカニックが手招きする。 「え、でも――」 モニターを見つめ、ひっそりと涙ぐんでいたフランソワーズは、突然名前を呼ばれ驚いた。 「早く。ジョーが呼んでる」 だってジョーはまだコースに出ていて―― 見上げたモニターには、声援に応えて走るジョーの姿があった。 「ホラ――早く」 無理矢理渡されたヘッドホンから聞こえてきたのは―― 「――フランソワーズ?」 それっきり通信は途絶えた。 ――ジョーのばか。 普段、公衆の面前でそういう事を口にはしない彼なのに、勝利に酔っ払っているのに違いなかった。 ・・・もう。いったいどういう意味・・・ そう思いつつも、頬が熱くなってゆくのだった。
ヘルメットを脱ぎ捨て、全てを排除し、ジョーがガレージに駆け込んで来たのはそれからしばらくしてからだった。 「フランソワーズ!」 そのまま抱き上げ、高い高いをするようにしながらぐるぐる回る。 「ジョーったら」 ともかく、気のすむまでやらせるしかなかった。 改めて抱き締められ、耳元でそうっと言われた。 「――ただいま」 髪はヘルメットのせいでくしゃくしゃで、全身は汗で濡れており――お世辞にも「さわやかな」音速の騎士とは言えなかった。 「・・・おかえりなさい」 フランソワーズはそうっと彼を抱き締めた。
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ウイニングラン中のジョーの様子を伝えるために、チームラジオがずうっと流されっぱなしだったと知ったのは、それからしばらくしてからだった。
当のふたりがそれを知るのは、一週間後の中国グランプリの時である。
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