「――じゃあ、また後で」

てっきりそう言って出て行くものと思っていた。
朝早くから一緒にサーキット入りをし、それからずっと同じ場所に居る。――とはいえ、それは単なる「同じ場所で同じ空気を吸っている」というだけで、隣に居るわけでもなく、話をするでもなかった。
レース前の喧騒に包まれたガレージで、フランソワーズは誰からも話しかけられる事もなく放置されていた。きっとこのまま忘れ去られてレースが始まるのだろう――そう思った。
けれども不満はない。
何しろ、初めての雰囲気だったし、何より――009でもない「レーサー・島村ジョー」の姿を見られるのは新鮮だった。
真剣な表情、硬い声。時には激しく口論したり。
それは、009として戦地に赴く時とは似て非なるものであり、普段は決して見ることのできない姿である。
だからフランソワーズは、せめて誰の邪魔にもならないようにと、ひっそり片隅に佇んでいた。

そろそろグリッドへという段階になって。

ふと、ジョーが顔を上げた。誰かを探すように。
まさか自分が探されているなどとは思わないフランソワーズは、遠くから彼を見つめにっこり笑んで小さく手を振った。
唇だけで「頑張って」と言って。

「――フランソワーズ」

しかしジョーは、真剣な表情を崩さずやって来たので、何か――起こっているのではないかと緊張した。
ネオブラックゴーストとの戦いが終わってから、事件らしい事件や陰謀というのはなく、いつもはすぐに終わるミッションばかりだった。
けれども、そうではなかったのだろうか。
もしかしたら、ジョーは009としていち早くそれらを感知したのかもしれなかった。だから、レースとはいえ防護服を持ってきており――

思わず身を固くし、同時に耳と目のスイッチを入れようとする。

が。

「こら。違うよ」

耳のスイッチを入れるときの癖で――耳に触れていた手を掴まれた。
そのまま、指先にちゅっとキスされてしまう。

「えっ、だって――」

まさかここでそんな事をするとは思わなかったので、フランソワーズは真っ赤になって手を引いた。
が、離してもらえなかった。

「うん。ゴメン。そんな顔してた?」
「ええ」
「違うよ。――大丈夫」
「・・・本当?」
「うん。なんにもない、大丈夫」
「・・・良かった」

ほっと安堵しつつも、だったらジョーはなぜここに来たのだろうと思った。

だって、もうすぐ――本当にもうすぐ、始まるのに。

「・・・ジョー?」

手を離してくれない。

「ね、もうそろそろ・・・」
行かないと。
そう言ったはずだったのに。

「うん――」

無言の彼から受けたのは、唇へのキスだった。そっと触れただけの。

「じ、ジョー」

こんな場所で。みんながいるのに。

思わずうつむいてしまう。

「だめだよフランソワーズ。ちゃんと僕を見て」
「・・・だって」
「――ちゃんと聞いて。いい?」

ちらりと見上げると、褐色の瞳が優しく見つめていた。

「いってきます」

「!?」

意味がわからず、目で問いかけると、ちょっと拗ねたようにジョーは唇を尖らせた。

「――ちゃんと言ってくれよ。いつもみたいに、さ」
「いつも、って」
何が?

「いってきます、って言ったら何て言うんだっけ?」
「・・・いってらっしゃい?」
「そう。それ」

でも今はレースに行くだけなのに。

「ここで待っててくれるんだろう?・・・だからさ。僕はすぐ帰ってくるから」
ねっ?言ってよフランソワーズ。とねだる声にしょうがないひとねと小さく呟く。

「すぐ帰ってくる、って、リタイヤだったら許さないわよ?」
「ん。肝に銘じます」
「事故でパーツの交換ていうのも駄目よ」
「はい」
「よろしい。――じゃあ」

いってらっしゃい――

 

そうしてレースは始まった。

 

***

 

ポールポジションから始まったレースは、ジョーにとって慣れているサーキットということもあり――終始トップを独走で終わった。観客から見れば、スタートそのままのポールトゥウィンで面白味がなかったかもしれない。が、ジョーとクルーは面白さなど求めていなかった。

チェッカーを受けて、ウイニングランに入り――ドライバーであるジョーはもちろん、ピットクルーも大喜びであった。
とうの昔にガレージはお祭り騒ぎだった。

「ホラ。フランソワーズ、こっちに来て」

古株の女メカニックが手招きする。

「え、でも――」

モニターを見つめ、ひっそりと涙ぐんでいたフランソワーズは、突然名前を呼ばれ驚いた。
こんなシーンで自分が呼ばれるなど思ってもいなかったのだ。

「早く。ジョーが呼んでる」
「え?」

だってジョーはまだコースに出ていて――

見上げたモニターには、声援に応えて走るジョーの姿があった。

「ホラ――早く」

無理矢理渡されたヘッドホンから聞こえてきたのは――

「――フランソワーズ?」
「ジョー?」
「勝ったよ」
「ええ、見てたわ。・・・おめでとう」
「今夜はお祝いしてくれる?」
「だって、祝賀パーティでしょう?」
「そんなの抜けるさ」
「駄目よ、主役なのに」
「イヤだ、抜ける」
「ジョーったら」
「――今夜は離さないよ」
「えっ?」

それっきり通信は途絶えた。
思わず、今の会話を誰かに聴かれていないかと辺りを見回すが、ジョーと話していたフランソワーズに注意を払っている者はいなかった。

――ジョーのばか。

普段、公衆の面前でそういう事を口にはしない彼なのに、勝利に酔っ払っているのに違いなかった。

・・・もう。いったいどういう意味・・・

そう思いつつも、頬が熱くなってゆくのだった。

 

ヘルメットを脱ぎ捨て、全てを排除し、ジョーがガレージに駆け込んで来たのはそれからしばらくしてからだった。
チーム全員が拍手で迎える中、ジョーは手を上げて答え、ハイタッチを繰り返しながら――フランソワーズの元へまっしぐら。

「フランソワーズ!」
「きゃっ」

そのまま抱き上げ、高い高いをするようにしながらぐるぐる回る。

「ジョーったら」

ともかく、気のすむまでやらせるしかなかった。
とはいえ、周りのスタッフに冷やかされながら、大騒ぎされながら――というのは恥ずかしくて顔から火がでる思いだった。
ガレージ内をぐるぐると一巡りしてから。

改めて抱き締められ、耳元でそうっと言われた。

「――ただいま」

髪はヘルメットのせいでくしゃくしゃで、全身は汗で濡れており――お世辞にも「さわやかな」音速の騎士とは言えなかった。
でも。

「・・・おかえりなさい」

フランソワーズはそうっと彼を抱き締めた。

 

***

***

 

ウイニングラン中のジョーの様子を伝えるために、チームラジオがずうっと流されっぱなしだったと知ったのは、それからしばらくしてからだった。
生中継の、全国放送。一番困ったのは、実況と解説であっただろう。(その時、どちらも黙り――訳すことは控えたという)
いくら英語での遣り取りだったといっても――二人の会話は全国のF1ファンが知るところとなった。

 

 

当のふたりがそれを知るのは、一週間後の中国グランプリの時である。