「お姐さんメカニック」

 

 

「――じゃ、このセッティングでいってみよう」
「んー・・・これ?どうかなぁ」
「コラ。誰に向かって言ってる」
「いてててて。わかったよ。頼りにしてる、って」
「フン。宜しい」

いつものように、古株の女メカニックとドライバーであるジョーの、じゃれあいにも似たミーティング。
ふざけて遊んでいるようにも見えるが、それでも誰よりも信頼しあっているのだった。
何しろ、この二人の付き合いは長い。ジョーがまだF1ドライバーではない頃からである。
ジョーのドライビングの癖を知り尽くしているメカニック。
駄目なものは駄目、無理なものは無理、とはっきり言うが、ジョーの出す無茶なセッティングも、いいと思ったものは多少の無理をしてもこなしてしまう。
お互いに恋愛感情は全く介在していない。在ったこともない。そんな関係だった。

 

***

 

昼休み。

ぶらぶらと散歩に出ていたメカニックは、ふと――何か揉めているような声を耳にし、そちらへ歩を進めた。
見るとそこには、金髪碧眼の少女と警備員の姿。

「だから、関係者以外は入れません、って」
「だって私、関係者ですもの」
「そんなの聞いてませんよ」
「嘘よ。だってジョーは」
「そう言って入ろうとするファンが多いんですよ。さ、行った行った」
「だって、・・・島村ジョーに連絡してください。絶対、忘れているだけなんだから」
「駄目駄目。帰りなさい」
「イヤです」

メカニックは少し目を細め――彼女が何者なのか思い出した。

「すみません。彼女は私の知り合いなんです」
と、割って入る。

揉めていた二人が「え?」と同時に彼女を見た。それに向かってにっこり微笑んで。

「連絡しておくのを忘れてしまって・・・すみません」
警備員に頷く。
「そ。そうですか。そういうことなら――」
ちらりと闖入者を見つめ、
「だったら島村ジョーの名前を出したりしないで、そういえばいいのに」

そう言って、いったん事務所に引っ込み、出てきた時は、通行証を手にしていた。
「これを首からさげていなさい。じゃないと、また他で止められるから。――全く、知り合いなら前もって言ってくださいよ」
なおもブツブツ言っている警備員を見送ったあと、改めて二人は向き合った。

「あなた――ジョーのカノジョでしょ?」

 

***

 

背が高くて、大柄で――綺麗なひと。

それがフランソワーズの、彼女に対する第一印象だった。
着ているつなぎは油で汚れていたけれど、ウエーブのかかった長い髪に縁取られた顔は殆ど化粧をしていないにも拘らず、赤い唇と長い睫毛を有しているのだった。
真っ黒い瞳が煌く。

「あの・・・」

一体このひとは誰なのだろう?自分の事を知っているようだったが。

「ん。気にしないで。――ったく、ジョーのヤツ。すっかり忘れてるってどういう了見だ」

ジョーのヤツ。

彼のことをそう言う女性を見るのは初めてだった。

なんだかとっても――仲が良さそう。

胸の奥に、もやっとしたものが広がったが、心の中で顔をしかめ、それを振り払った。

違う違う。――なんでもそう結びつけるのって良くないわ。

気を取り直してにっこり笑って言った。

「ありがとうございます。・・・フランソワーズ・アルヌールです。ジョーとは――」
「ん。知ってる。恋人だろう?」
「え。あ、・・・ハイ」

他人にずばりと「恋人」と言われるのは初めてだった。なので、なんだか照れてしまい――頬が熱くなった。
「恋人」と指摘されるのも初めてなら、それに「はい」と頷いて肯定するのも初めてだった。

「――ええと。アイツならここを行って曲がったところの先の・・・」
説明しようとしてやめる。
「――絶対、迷うな。・・・一緒に行こうか」
「いいんですか?」

お昼休みなのに・・・と言うフランソワーズの声に、にっこり微笑む。

「大丈夫。タバコを買いに出ようとしてただけだから」
「タバコ・・・すみませんっ」
「いいのいいの。禁煙しろっていう神の采配に違いない」

しばし並んで歩きながら。

「アイツとは付き合いが長いんだ」
「そうなんですか?」
「ヤツがまだずうっと格下のドライバーだった頃からだから――ん、何年になるんだろ?」

ジョーが格下のドライバーだった頃。
それは、自分が彼と出会うずっと前ではなかっただろうか。

「ヤンチャでね。トラブルは耐えなかったけど、車に関しては真剣だったなぁ」

ヤンチャ・・・?

意味がわからず、フランソワーズはただ微笑んだ。

「あんな乱暴なヤツが最高峰まで上り詰めるとは・・・まぁ、いつかはって思ってはいたけどね」

軽く肩をすくめて笑う彼女に、ジョーの話をもっと聞きたくなった。
昔の彼を知っている彼女。
過去のジョーは、いったいどんなひとだったのだろうか。

「それが今はこーんなカワイイ恋人がいるなんてね」

カワイイ恋人と言われ、頬が熱くなる。

「あの、どうして私の事・・・」

ジョーに聞いたのだろうか?
ジョーは彼女に話していたのだろうか?

「ん。ヤツの財布に写真が入っていたからさ。――ソレを見つけた時のアイツ、まータイヘンだったよ。返せ返せってうるさいし」
でもメカニック全体に回しちゃったけどね。とニヤリと笑う。
「そんなに大事なら落とすなってことさ」

ジョーったら。
そんなにあちこちで落としているとは知らなかった。

「――で、今日はどうしたの」

今日は、といってもフランソワーズがここに来るのは初めてだった。

「あの、・・・」
ジョーに差し入れを。と、言いたいけれど言えなかった。
何しろ、彼は仕事中であり合宿中なのだから。
いくら昨夜彼が電話で「来ても大丈夫」と言ったとはいえ、こんなことで会いに来たと言うのも恥ずかしかった。
口ごもるフランソワーズを優しく見つめ、メカニックは口を開いた。

「――あの、さ」
「はい?」
「ジョーってさ。今でもその・・・終わった後はタバコを吸うの?」
「・・・え?」
「昔っから、必ず一本吸ってたからね。今は禁煙しているみたいだけど、どうなのかなーってちょっとした好奇心」

にっこり。
隣を歩くフランソワーズに微笑む。

「いくらやめろって言っても駄目だった。――髪に臭いがつくから、やめて欲しかったのにさ」
「・・・・」
「そう言うとふざけてわざと煙を吹き付けてくるんだよね。・・・ったく」
「・・・・」
「だから今はどうなのかな、って。ちょっと気になった」
「・・・・」
「気、悪くしたらゴメン。なんとなく聞きたくなった」
「・・・イイエ」

足が震えている。
差し入れが入った紙袋を提げている手は、きつく握りしめられて真っ白だった。
先刻振り払ったはずの胸のモヤモヤは、今や真っ黒い雲のようにフランソワーズの心の中に広がっていった。

このひとは、ジョーの昔からの知り合いで――お付き合いしていたひとなのだろうか?
でも、そんな話は聞いたことがなかった。・・・隠していた?
ということは、もしかしたら今でも――?

彼女とジョーの親密度が測れず、フランソワーズは混乱した。

 

しかし。

 

「あの」

足を止める。

「なに?」

つられて相手も足を止める。

「――嘘、ですよね?」
「ん?」

発した声は、か細くて情けないくらい震えていた。
こんなんじゃだめだわ、と自分を叱咤して、フランソワーズは一回咳払いをし――お腹に力を入れた。

「嘘、言ってるんですよね?」

にっこり。
何とか笑えた。

「――なんでそう思うのかな」

目を細める相手にしっかりと向かい合う。

「だって、もしあなたがジョーとお付き合いしてたとしたら、ジョーの――彼のプライベートなことを、他人にそんな風に話してしまうわけないですから」
「ふうん?」
「あの、だから・・・嘘、言ってるんですよね?」
「さて。どうだろうね?」

胸の前で腕を組み、まっすぐ見つめてくる黒い瞳をしっかりと見返す。逸らさない。

「本当に付き合っていたと言ったら?」
「だったら余計、言わないと思います。・・・ジョーはそういうの、好きじゃないし、彼に嫌われるようなことをお付き合いしている人がするわけないですから」
「――なるほど」

フランソワーズをじっと見つめる。
真っ赤な顔をして、今にも泣きそうに目が潤んでいるのに――唇を噛み締め、それでも何とか笑顔を作ろうと頑張っている。肩が震えているのに。

「その、嘘だというのはどっちに対してかな」
「どっち、って・・・」

フランソワーズの目の前にぴっと指を立てる。

「ひとつ。ジョーと私が昔付き合っていたこと。ふたつ。ジョーは終わったあとに煙草を吸うということ。どっちに対してそう言うのかな」

フランソワーズは息を吸い込むと一気に言った。

「――ポイントはふたつもありません。両方とも同じことです。だから、嘘というのは全部に対してです」
「嘘なんかじゃない、って言ったら?」
「それも嘘です」
「ふうん?」
「あの、どうして――」

 

 

***

 

 

 

しまった。忘れてた!!

 

お昼休みになって、支給されたお弁当を半分ほど食べたところで気がついた。
今日の昼に、フランソワーズが差し入れを持って来てくれることになっていたのを。
食べかけの弁当をそのまま放り出し、駆け出した。
ここの警備員は皆優秀であり、いくら「島村ジョーの関係者です」と言っても絶対に通してはくれないのだ。
彼からの連絡が前もってない限り。
そして、その連絡を――ジョーはきれいさっぱり忘れていたのだ。

ジョーがいる棟と正面玄関は遠い。
加速装置が使えたら一瞬なのにと思いながら、ともかく、自分の能力を最大限に使って全力疾走する。

 

――と。

遠目にもわかる、愛しいひとの姿。

 

あれ?どうして建物の中に居るんだ?

ここは既に正面玄関からはだいぶ入ったところのはずで――連絡をしていなかったフランソワーズがここまで来れるはずがないのだ。
けれども、向こうに見えるのはどう見てもフランソワーズだった。

 

が。

 

・・・何をしてる?

メカニックと対峙しているフランソワーズ。
ジョーからはフランソワーズの後頭部しか見えないので、どんな表情をしているのかはわからなかった。
が、反対にメカニックはフランソワーズの頭ひとつぶん大きいので、彼女の頭ごしにこちらを向いている顔が見えた。

――アイツ!!

その表情を見て、ジョーは本当に加速装置を使えないのが悔しくなった。
何故ならばそれは――彼が知っている、彼女が何か悪ふざけをしている時の顔だったから。

「――フランソワーズ!!」

 

 

***

 

 

ジョーとお付き合いしていた人が、彼のプライベートなコトをぺらぺらと他人に話すはずがない。
彼を好きな人が、彼が困ることをするはずがないし、彼の好きになった人がそんなことをするはずがない。

だから、これは嘘。
このひとはジョーと仲良しだから、私をからかっているだけで――

自分に言い聞かせるように心の中で繰り返す。
ともすれば挫けそうになりながら。

このひとはジョーと寝てなんかいない。
だって、言ってることは全部嘘なんだから――私をからかっているだけなんだから――

とはいえ、何故そんな嘘を自分に言い出したのかもわからなかった。
彼女の真意が掴めない。

「あの、どうしてそんなことを――」
言うのですか、と訊こうとしていたフランソワーズだったが、横から風のように現れた人物に遮られてしまった。

「――フランソワーズ!!」

声とともに、さっと抱き締められた。自分とメカニックの彼女との間に入るように。守るように。

「フランソワーズ。大丈夫?」

ジョーは、胸の中にしっかり抱き締めたフランソワーズに小さく訊いた。微かに頷くのを確認してから、改めてメカニックを睨むように見つめる。フランソワーズを彼女から死角になるように自分の体で隠して。

「――何言った?」

低い声でメカニックに問う。

「んー?別に。」
「別にって顔じゃないだろ。――ったく。いらんこと言ってねーだろうな」
「いらんことは言ってない。必要なコトだけさ」
「ふん。どうだかな」
「信用がないなあ」
「当たり前だ」

フランソワーズをしっかり抱き締めて離さないジョーをヤレヤレと見つめる。

「そんな顔しなくたって、彼女を獲って食ったりしないよ」
「――アヤシイ」
「あらだって、私・・・ええと、フランソワーズ、だったよね。――とっても気に入っちゃったんだからさ」
「――気に入った?」
「そ。アンタには勿体無いよ全く」
「本当かどうか怪しいんだよ。さっき何を話してたんだ」
「女同士のヒミツ」
「・・・女じゃねーくせに」
「何か言った?」
「別に」

フンと目を逸らすジョーを見つめ、いたずらっぽく微笑む。

「ふふ、いいじゃない。この子、私の嘘八百に騙されなかったわよ?」
「嘘八百って、やっぱり言ったんじゃないか!」

噛み付かんばかりのジョーの剣幕に苦笑する。

「まあまあ。いいじゃない。アンタの事、ちゃーんと信じてる芯の強い子よ」
「だからって――」

腕の中のフランソワーズが泣いていないことを確かめ、再びメカニックを睨みつける。

「一体、何を言った?」
「ん?――ジョーは終わったあと昔はタバコ吸ってたけど、今も吸ってるの?・・・って」
「なっ・・・・!!」

かあっと赤くなる。

「嘘八百にもほどがあるだろっ!これは打ち上げの席じゃねーんだぞっ」
「ハイハイ。悪かった、って」
「全然、悪いって顔してねー」
「元々こういう顔です。――アンタの大事な子がどの程度なのかちょっと気になっただけ」
「だから、ってそういう試し方をしなくてもいいだろうが。心配するにも程がある」
「だから悪かった。って。――フランソワーズ?」

ジョーの腕に守られているフランソワーズの頭をつんとつつく。

「ごめんね。そういう訳だから、さっきの話はぜーんぶ、嘘。この私がコイツと付き合うわけないし」
こんなメンドクサイ奴、私はゴメンだね。と続ける。
「私にはちゃあんと愛する夫がいるからね。・・・安心した?」

何か言い返そうとするジョーを制し、

「ともかく、ジョーを宜しくね。こう見えても結構、いいヤツだからさ」
「結構、って何だよ?」
「フン。いいヤツは大事な彼女との約束を忘れたりしないだろ?」
「う」

言葉に詰まるジョーをふふんと見て、じゃあねと背を向ける。
けれども数歩行ってから振り返った。

「――あ。・・・ジョー、タバコ持ってない?」
「ん――」

腰のポケットから取り出して放る。

「お前、禁煙してたんじゃなかったか?」
煙草を受け取りながら、顔をしかめて言う。

「――時々だよ。吸ってるの」
「テスト中はやめとけよ。データが狂う」
「わかってる」

メカニックの姿が消えてから、ジョーは改めて腕の中のフランソワーズを見つめた。
そうっと腕を緩めて、壊れ物を扱うように。

「・・・フランソワーズ?」

顔を上げた彼女は、頬を赤く染めて瞳を潤ませ――笑顔になろうと頑張っているようだった。

「――私、信じなかったわ」
「うん――ありがとう。頑張ったね」

その瞬間。
ぶわっと涙が溢れ、泣き顔になった。

「わっ。――フランソワーズ?」
「だって――だって、・・・頑張ったもん。・・・・ジョーのこと、信じてたから、だから・・・」

ともすれば、彼女はジョーの昔の恋人で、今もそばにいるんだ・・・と嫉妬しそうになった。
そして、ジョーがなぜ一度も彼女の話をしたことがないのかも考えそうになった。
けれど、疑うことはしたくなかった。
もし彼女がそういう関係のひとならば、とうの昔にジョーはそう話してくれているはずだ。そう思った。
何故なら、彼は自分が悲しむような隠し事は絶対にしないから――そう信じているから。

だから。

彼女が言っていることは全部、嘘。

おそらく彼女はジョーと仲が良くて――自分を試しているだけだ。
ジョーのことを「ヤツ」と呼ぶくらい仲良しなのだから、おそらくジョーの「カノジョ」というのがどんな人物なのか気にして――心配したのだろう。簡単に騙されて、「今は吸ってないわ」等のジョーのプライベートをぺらぺら喋るような子なのだろうか、と。

「――うん。ありがとう」
「全部、嘘なのよね?」
「当たり前だ。・・・ったく。アイツが言ったこと信じてないよね?」

こくんと頷きながら、それでもなかなか涙は止まらなかった。

「――フランソワーズ」

彼女がこんな風に試されるのは納得がいかなかったけれど、それもこれも自分を心配しての行動だった――というのはわかっていた。例え、99%が悪ふざけの領域だったとしても。
そして、フランソワーズがそれにつられること無く、自分を信じてくれたことはかなり――嬉しかった。
こんな風に腕の中で大泣きするくらい、心の中で葛藤があったはずなのに。

「・・・フランソワーズ」

優しく名を繰り返す。髪を撫でて。

「・・・泣かないで、フランソワーズ」
「・・・・」
腕の中で首を横に振る。どうあっても止まらないようだった。

「・・・しょうがないなぁ」

そう言うと、フランソワーズの頬を両手で挟み上向かせ――そうっと唇を重ねた。

 

 

***

 

 

***

 

 

ジョーが戻ってみると、食べかけだった弁当はすっかり片付けられてしまっていた。
まだ半分残ってたのに――とがっくり肩を落とすと。

「ホラ。飯が途中だったんだろ」

手元に新しい弁当が放られた。慌てて受け取りながら
「食い物を投げるな」
と、声のしたほうを睨みつける。

そこには先程の女メカニックがくわえ煙草で立っていた。

「――仲直りした?」
「なんだよ仲直りって。そもそもオマエが波風立てようとしたんだろ?」

弁当のフタを開けて、さっそく食べ始める。

「ま、いいじゃないか。波風立たなかったんだから」
「・・・・」

ジョーは食べるのに忙しくて答えない。

「――あの子はオマエにもったいないよな。もっと他にいいのがいそうなのにさ」
「・・・るさいな」
「カワイイし、イイ子なのに男の趣味が悪いとはね」
「ほっとけよ」
「大事にしなきゃーいかんぞ」
「言われなくても」

フン、と鼻を鳴らして去って行こうとする彼女に、フランソワーズから受け取った紙袋を差し出す。

「――コレ。フランソワーズから」
「何?」
「皆さんでドウゾ、だってさ」
「ふうん――?」

中を覗くと、そこにはプリンが十数個入っていた。ちゃんと保冷剤も入れられて。

「へぇ――」
ひとつ取り出すと、四方八方から見つめる。

「凄いな、手作りじゃないか」
「今朝早起きして作ったんだよ」
「いい彼女だな。――じゃ、遠慮なく」
「あ。俺の分・・・」

ジョーが慌てて手を伸ばすと、彼女はため息をついてひとつ取り出した。

「――ホラ。これだろう?」
「?」
「御丁寧に名前が書いてある」

見ると、カップに「ジョーの」と書いてあった。

「他のと何が違うんだろうなぁ」
「――味が違うんだよ」
「へぇ。何味?」
「教えない」
確か、愛情がいっぱい入っているからとか何とか言っていた――とは言わない。

メカニックは嬉しそうに言うジョーを見つめ、ため息をつき――紙袋を持ち直した。
歩き出したが、ふと足を止め振り返った。

「ジョー。口紅がついてる」
「えっ?」
「――そこ」

自分の唇を指し、ここだってばと教える。

「・・・・」

ジョーが微かに赤くなって、ぐいっと唇を拭ったところで

「――なんてね。嘘」
「――!!」
「ったく、騙されるなよ。ちゅー、したんだ?」
「うるさいっ。それ、早く配りに行けよっ」
「ハイハイ」

明日はフリー走行で明後日が予選。
もちろん、フランソワーズもやって来る。が、絶対にピットには来ないように言わなければ――と、固く心に誓うジョーだった。