2009年のバレンタイン
〜逆チョコ大作戦〜
それは、2月14日まではまだ随分と早い1月末日のことだった。 ギルモア邸のリビングで読書をしていた僕は、ひとの気配でふと顔を上げた。 「・・・どうかした?」 横のソファに座っていたのはフランソワーズ。 「外は寒かっただろう?誰か車は出してくれたかい?」 僕には声がかからなかったから・・・誰かお供はすぐ見つかったのだろう。 「あのね。ピュンマにお願いがあるの!!」 お願い? 「うん?なにかな――・・・」 言いかけて、慌てて黙る。 「ジョーに伝えて欲しいの!」 何を? 僕の無言の凝視にちょっと顔を赤らめ、もじもじと両手の指を組み合わせながら。 「・・・あのね。「逆チョコ」って知ってる?」 彼女の言うところをまとめると、ここ日本ではバレンタインデーには女性が男性に愛の告白をすることになっているのだが、今年はその逆、つまり男性から女性への告白もありということになったらしい。 ・・・なんとなく、話の行き着く先が見えてきた。 「ジョーにね、その「逆チョコ」の話をして欲しいの」 うーむ。 「つまり、フランソワーズは奴からチョコが欲しいと、そういうわけ?」 思い切り背中をどつかれて、一瞬息が詰まった。――死んだらどうする。 「だって、ジョーは逆チョコとか、そういうの全然知らないもの」 そりゃそうだろう。僕だっていま初めて聞いた。 「だから、お願い。ジョーに、それとなく伝えてくれないかしら」 いったい奴に何をねだるつもりだ。 「おいおい、あんまり無茶なモンねだるのはどうかと思うぞ?」 ・・・・・。 「・・・・ええと。確認していいか?」 眉間を軽く揉みながら問う。急に頭痛がしてきたのはなんでだろう? 「まさか、まだもらってないのか?」 今の話の流れからわかるだろうが。 「だからその、・・・ゼロゼロナインの」 きらきらした瞳で期待するようにこちらを凝視するフランソワーズ。 「あ、もしかして、ジョーの愛情!?」 じゃあいいじゃないか・・・と言いかけた僕の声は、当然彼女の耳には届いていない。 「まだまだ足りないもの!」 ――知らん。 「だから、――ね?お願い。ジョーにそれとなく言ってね。いい?それとなく、よ?」 ・・・これはミッションなのだろうか?
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正直言って、フランソワーズからのミッションは気が重かった。 大体、ジョーに「逆チョコ」というシステムを紹介し、なおかつ奴がフランソワーズへそういう行為をするようそれとなく促すなどできるわけがない。 僕は重い心を抱えながらジョーの部屋へ向かった。
フランソワーズからミッションを一方的に言い渡されたのが昨日の午後のことである。 ノックの音にジョーは物憂げにドアを開け、ぼうっとした顔で椅子を勧めた。 「もしかして寝起き?」 だったら時間を改めよう――と腰を浮かしかける。彼の寝起きの機嫌は最悪なのだ。 「・・・いや。大丈夫。え・・・と、2時間前には確か起きていたはず・・・たぶん」 口の中でぼそぼそ言う、対面に座るジョーは、ぼさぼさの前髪に顔を隠され表情はわからない。 「――で、何?」 声に迷惑そうな色が滲む。 「ああ。その・・・バレンタインデーって、知ってるよな?」 言いにくいことこの上ない。軽く咳払いをしてから、ひといきに言ってしまおう。 「今年はどうやら男が女にチョコを贈るらしい」 そんなの知るか。菓子業界の策略だろ。不況だから、少しでも菓子が売れるようにと何かイベントにこじつけての。 「だからだな。お前からも、その・・・誰かにあげたらどうかとそういう話だ」 ごめん、フランソワーズ。それとなく言うなんてこと、このての話では無理な相談だ。 「誰かって、誰」 お前も察しろよ。 「それは、お前があげたい人だろ」 ジョーはなにやら考え込んでいるようだった。相変わらず前髪が顔を覆って表情は全くわからなかったけれど。 「・・・それって、歳暮や中元と同じ感覚なのだろうか」 男性も世話になった女性にチョコを配ってあるかねばならない――とは、「逆チョコ」の存在意義として考えにくかった。 「・・・で。どうしてそんな話をわざわざ」 ええと。 「新しい情報は知っておいたほうがいいと思ってさ。ちなみにお前は14日は何してるんだ?フランソワーズとデートか?」 そういえばそうだった。毎年、バレンタインデーにはファンの集いなるものに出席しなければならず、その日は朝から夜遅くまで不在にしていたっけ。帰宅時には両手に持ちきれないほどのチョコレートを伴って。 「メンドクサイなあ。ファンの子たちにもあげるのかな」 「まあともかく、教えてくれてありがとう、ピュンマ。事務所に聞いてみるよ」 ジョーが携帯電話を取り出したので、流れで僕は腰を上げた。
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その日の遅くに僕はフランソワーズに捕まっていた。 「ピュンマ、それでジョーには言ってくれた?」 きらきらと蒼い瞳で見つめられる。その目は僕への期待で溢れていた。 「ああ、いちおう言うには言ったけど」 ただ、彼にどう聞こえていたのかまでは知らない。 「そう。良かった。ありがとうピュンマっ」 ぴょんと軽く跳ねて、一瞬僕の頬に唇をあてる。 「どういたしまして。でもちゃんと伝わったかどうかまでは責任持てないぞ」 いちおう、他の奴にも内緒のミッションだったので、僕とフランソワーズは並んでキッチンで後片付けをしており、この会話はその後になされたものだった。もちろん、キッチンなぞいつ誰が踏み込んできてもおかしくはないが、夕食後の後片付け中という時間帯にはひとけが途切れるのだ。入ってきた者は否応なく手伝うはめになるのだから。 ――殺気。 「――フランソワーズ」 僕は背後に感じる尋常ではない殺気にさっと気を引き締める。何者かはわからないが、ギルモア邸に侵入しここまで来るとは只者ではない。ともかく――フランソワーズを背後の敵から守るように胸のなかにひきよせる。 「ピュンマ?どうし」 まったく、リビングにいるみんなは何をやってるんだ。敵がここまで来るには絶対にリビングの前廊下を通ったはずなのに。 「でも、ピュンマ」 状況を全くわかっていないフランソワーズ。その肩に両手を置いてなだめると、僕は素早く振り返った。 「誰だ」 すると、キッチンの様子を窺っていたらしき人物がゆらりと姿を現した。 「――なんだ。ジョーか」 僕は大きく息を吐き出すと緊張を解いた。 「おどかすなよ」 しかし。 「おい、ジョー・・・」 なぜジョーが殺気を放っていたのかわからない。その矛先も。 「――ジョー?どうしたの?」 しかしフランソワーズは全く何も感じていないようで――何故だ――きょとんと蒼い瞳を丸くした。 「ちょっと来て」 フランソワーズの手首を乱暴に掴むと、有無を言わさず彼女をひきずるようにして出てゆく。 「えっ、おいちょっと――」 フランソワーズは僕に後片付けの続きをお願いと小さく言って、ジョーにされるがままに出て行った。
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ジョーは無言のままフランソワーズの手を掴み二階へ上がり、乱暴に自室のドアを開け、その中へ放るように彼女の手を離した。その背後で音高くドアが閉められる。 「ジョー、いったいどうしたの?」 全く状況が掴めず、フランソワーズは軽く首を傾げる。 「なんだか乱暴だわ。今日のジョー」 「俺」という一人称に、フランソワーズの眉間に微かに皺が寄る。彼が自分をそう言う時は、何か――彼の心の平穏が乱された――があった時なのだ。 「前に――約束したはずだよね、フランソワーズ」 突然言われても、いったいどの約束のことなのかフランソワーズにはわからない。頭の中でどの約束なのか考えてみる。が、ジョーはその時間もくれる気はないようだった。 「なのに、どうして破るんだ」 約束を――破る? 「破ってないわ。私がジョーとの約束を破ることなんてないじゃない」 それは半分嘘だったけれども、ミッション中に彼との約束を守らないのは、そうするのがベストと考えられる時だった。 「ふん。忘れたのか」 意地悪そうな声音にフランソワーズもむっとしたように言う。 「一方的に約束っていったってわかるはずないでしょう?いったいどの約束のことを言ってるのよ」 前髪の奥に覗く瞳がきらりと光る。睨むようなその視線の強さにフランソワーズはため息をついた。 「・・・またそんな顔して。あなたがそういう顔をする時って――」 何かを誤解している時。 「もうっ・・・今度は何?」 両手を腰に当てて、胸を張ってジョーを見つめる。 「どうしてそうヤヤコシイやき方をするのかしら」 今の返答で、はいヤキモチやいてました――と肯定したことにジョーは気付いていない。 「ピュンマを殴り飛ばせと?大声でわめけと?」 ああ、やっぱり。 「・・・さっき、ピュンマのほっぺにちゅーしたの、見てたのね」 ほっぺにちゅーと聞いて、ジョーは組んでいた腕を解いた。 「俺は別にっ・・・!」 悪びれずに言うフランソワーズへ、ジョーは手を伸ばしかけ――しかし、彼女の肩を掴む事はせず、再び手を引いた。 「――御礼って何だ」 視線を彷徨わせたのはフランソワーズのほうだった。ジョーは彼女から目を離さない。 「俺に言えないことか」 ピュンマは直接言えと言っていたが、こういうのは人づてで聞いた方が絶対うまくいく。と、フランソワーズは思っていた。 「――ふうん。だから最近、俺を避けてるんだ?」 意外な話だった。 「避けてないわよ?」 起こしに来てくれないし。と小さく言う。 「だって、それはレッスンが早い時間からあるから、だから――」 昨日一日、ジョーは次のレースの予定等の打ち合わせで出掛けており、帰宅したのは時計の針が24時を随分すぎてからだった。 「・・・部屋に来てくれなかった」 ポツリと言ったジョーを見つめ、フランソワーズの唇に笑みが浮かぶ。 全く、どうしてこの人はいつもこうなのかしら。 「・・・ジョー?私だってあなたに会いたかったのよ?」 フランソワーズはジョーに近付くと、彼の胸に手をかけて背伸びをし、彼の唇に自分の唇をくっつけた。 「――まだ嘘だと思う?」 ジョーはそのままフランソワーズを抱き締めると、唇を重ねていた。
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