2009年のバレンタイン
〜逆チョコ大作戦〜

 

 

それは、2月14日まではまだ随分と早い1月末日のことだった。

ギルモア邸のリビングで読書をしていた僕は、ひとの気配でふと顔を上げた。
その日は午前中に降っていた雨も止んで、少しずつ晴れてきたけれども風の冷たい、そんな昼下がりの午後だった。

「・・・どうかした?」

横のソファに座っていたのはフランソワーズ。
買い物に行っていたのか、コートにマフラー姿で頬と鼻が微かに赤い。

「外は寒かっただろう?誰か車は出してくれたかい?」

僕には声がかからなかったから・・・誰かお供はすぐ見つかったのだろう。
と、廊下を買い物袋を提げたジェロニモが通ってゆくのが見えたので、フランソワーズの答えを聞くまでもなかった。最近のジェロニモは自分のSUVに人を乗せたくて仕方がないらしく、誰かがどこかへ出かけるとなると積極的に足を提供している。
けれどもフランソワーズは僕の質問は全く耳に入っていなかったようで、ずいと身を乗り出すと内緒話をするかのように顔を近づけた。

「あのね。ピュンマにお願いがあるの!!」

お願い?

「うん?なにかな――・・・」

言いかけて、慌てて黙る。
危ない。
彼女の「お願い」はろくでもないことの方が多い。ジョーへの「お願い」と僕への「お願い」は種類が全然違うのだ。もちろん、どっちの「お願い」の方がいいのかなんてことはとてもじゃないが答えられないけれども。(いちおう、それでも僕への「お願い」の方がまだマシだとだけ言っておこう)

「ジョーに伝えて欲しいの!」

何を?

僕の無言の凝視にちょっと顔を赤らめ、もじもじと両手の指を組み合わせながら。

「・・・あのね。「逆チョコ」って知ってる?」
「逆チョコ?・・・さあ?」
「さっき、コンビニで見たの。「今年は逆チョコ」って」

彼女の言うところをまとめると、ここ日本ではバレンタインデーには女性が男性に愛の告白をすることになっているのだが、今年はその逆、つまり男性から女性への告白もありということになったらしい。
僕としては、そんなのどちらも菓子メーカーの陰謀だと思うけどね。だいたい、他の国ではチョコレートを贈るなどという習慣はないし、女性から男性へとかそんなのも決まってない。男女構わず好きな人へ花などを贈る・・・という博愛の日だったような気がするんだけど。
ともかく、その「逆チョコ」というのが今の彼女の最重要課題らしかった。

・・・なんとなく、話の行き着く先が見えてきた。

「ジョーにね、その「逆チョコ」の話をして欲しいの」
「・・・僕が?」
「ええ。それとなく」
「何で」
「ピュンマの言う事ならちゃんと聞くもの、あのひと」

うーむ。

「つまり、フランソワーズは奴からチョコが欲しいと、そういうわけ?」
「ヤダ、ピュンマったら!!」

思い切り背中をどつかれて、一瞬息が詰まった。――死んだらどうする。

「だって、ジョーは逆チョコとか、そういうの全然知らないもの」

そりゃそうだろう。僕だっていま初めて聞いた。

「だから、お願い。ジョーに、それとなく伝えてくれないかしら」
「フランソワーズがチョコを欲しがってるぞ、って?」
「もうっ、違うわよっ。チョコはどうでもいいの。欲しいのはもっと別のものなんだから!」
「別のもの、って・・・」

いったい奴に何をねだるつもりだ。

「おいおい、あんまり無茶なモンねだるのはどうかと思うぞ?」
「もうっ、違うってば!私が欲しいのは、ジョーの愛だけだもの!!」

・・・・・。

「・・・・ええと。確認していいか?」

眉間を軽く揉みながら問う。急に頭痛がしてきたのはなんでだろう?

「まさか、まだもらってないのか?」
「何を?」
「何を、って――だから」

今の話の流れからわかるだろうが。

「だからその、・・・ゼロゼロナインの」
「ジョーのなに?」

きらきらした瞳で期待するようにこちらを凝視するフランソワーズ。
――こりゃだめだ。すっかり思考がとっちらかってるらしい。

「あ、もしかして、ジョーの愛情!?」
「・・・ああ、それ」
「やだわ、もうもらってるわよ。でもね、」

じゃあいいじゃないか・・・と言いかけた僕の声は、当然彼女の耳には届いていない。

「まだまだ足りないもの!」
「・・・欲張りさんだな」
「いいの!だってジョーも欲張りだもの!いっつも、足りないよって言うのよ?私はたくさんあげてるのにね?」

――知らん。

「だから、――ね?お願い。ジョーにそれとなく言ってね。いい?それとなく、よ?」

・・・これはミッションなのだろうか?

 

 


 

 

正直言って、フランソワーズからのミッションは気が重かった。

大体、ジョーに「逆チョコ」というシステムを紹介し、なおかつ奴がフランソワーズへそういう行為をするようそれとなく促すなどできるわけがない。
そういうのって、強制されてするものでもないだろうし。
直接フランソワーズがジョーに「お願い」と可愛く言えば事足りるのではないだろうか。

僕は重い心を抱えながらジョーの部屋へ向かった。

 

フランソワーズからミッションを一方的に言い渡されたのが昨日の午後のことである。
なぜ昨日のうちにそれを遂行しなかったのかというと、ジョーが不在だったためであった。そもそもジョーが在宅していればフランソワーズは奴と買い物に行っただろうし、そこで彼は「逆チョコ」とは何ぞやを目にしたはずだった――が、世界はそううまくはできていないらしい。
ともかく、そんなわけで昨日のうちにそれをすませるわけにはいかず、今日になってしまったというわけだった。
どうでもいいが、こんなメンドクサイかつクダラナイことはさっさとすませてしまいたい。

ノックの音にジョーは物憂げにドアを開け、ぼうっとした顔で椅子を勧めた。

「もしかして寝起き?」

だったら時間を改めよう――と腰を浮かしかける。彼の寝起きの機嫌は最悪なのだ。

「・・・いや。大丈夫。え・・・と、2時間前には確か起きていたはず・・・たぶん」

口の中でぼそぼそ言う、対面に座るジョーは、ぼさぼさの前髪に顔を隠され表情はわからない。

「――で、何?」

声に迷惑そうな色が滲む。
これは何かしているところを邪魔してしまったのかと周囲をそれとなく見回すも、特にそれらしい痕跡は見つけられなかった。机に置いてあるパソコンの画面もブラックアウトしているし、読みかけの本があるわけでも書きかけの何かがあるようでもなかった。

「ああ。その・・・バレンタインデーって、知ってるよな?」
「知ってる。それが?」
「その、」

言いにくいことこの上ない。軽く咳払いをしてから、ひといきに言ってしまおう。

「今年はどうやら男が女にチョコを贈るらしい」
「フーン・・・何で」

そんなの知るか。菓子業界の策略だろ。不況だから、少しでも菓子が売れるようにと何かイベントにこじつけての。

「だからだな。お前からも、その・・・誰かにあげたらどうかとそういう話だ」

ごめん、フランソワーズ。それとなく言うなんてこと、このての話では無理な相談だ。

「誰かって、誰」

お前も察しろよ。

「それは、お前があげたい人だろ」
「・・・・」

ジョーはなにやら考え込んでいるようだった。相変わらず前髪が顔を覆って表情は全くわからなかったけれど。

「・・・それって、歳暮や中元と同じ感覚なのだろうか」
「は?」
「・・・義理チョコとかあるだろ。だから」
「男の場合は関係ないんじゃないか?僕は詳しくないから、そこまでは知らないけれど」

男性も世話になった女性にチョコを配ってあるかねばならない――とは、「逆チョコ」の存在意義として考えにくかった。

「・・・で。どうしてそんな話をわざわざ」

ええと。

「新しい情報は知っておいたほうがいいと思ってさ。ちなみにお前は14日は何してるんだ?フランソワーズとデートか?」
「仕事だよ」
「仕事?」
「・・・ファンの集い」
「・・・ああ」

そういえばそうだった。毎年、バレンタインデーにはファンの集いなるものに出席しなければならず、その日は朝から夜遅くまで不在にしていたっけ。帰宅時には両手に持ちきれないほどのチョコレートを伴って。

「メンドクサイなあ。ファンの子たちにもあげるのかな」
事務所は知ってるのだろうか――とブツブツ言う。

「まあともかく、教えてくれてありがとう、ピュンマ。事務所に聞いてみるよ」
「あ、ああ。役に立ってよかったよ」

ジョーが携帯電話を取り出したので、流れで僕は腰を上げた。
奴に真意が伝わっているかはともかく、役目は果たしたぞと思いながら。

 


 

 

その日の遅くに僕はフランソワーズに捕まっていた。

「ピュンマ、それでジョーには言ってくれた?」

きらきらと蒼い瞳で見つめられる。その目は僕への期待で溢れていた。

「ああ、いちおう言うには言ったけど」

ただ、彼にどう聞こえていたのかまでは知らない。

「そう。良かった。ありがとうピュンマっ」

ぴょんと軽く跳ねて、一瞬僕の頬に唇をあてる。

「どういたしまして。でもちゃんと伝わったかどうかまでは責任持てないぞ」
「いいのよ、たぶん大丈夫だから。やっぱりピュンマは頼りになるわ」

いちおう、他の奴にも内緒のミッションだったので、僕とフランソワーズは並んでキッチンで後片付けをしており、この会話はその後になされたものだった。もちろん、キッチンなぞいつ誰が踏み込んできてもおかしくはないが、夕食後の後片付け中という時間帯にはひとけが途切れるのだ。入ってきた者は否応なく手伝うはめになるのだから。
だから、僕たちは周囲を気にせず話していたのだけど。

――殺気。

「――フランソワーズ」

僕は背後に感じる尋常ではない殺気にさっと気を引き締める。何者かはわからないが、ギルモア邸に侵入しここまで来るとは只者ではない。ともかく――フランソワーズを背後の敵から守るように胸のなかにひきよせる。

「ピュンマ?どうし」
「しっ。・・・何かいる」
「――えっ?」

まったく、リビングにいるみんなは何をやってるんだ。敵がここまで来るには絶対にリビングの前廊下を通ったはずなのに。

「でも、ピュンマ」

状況を全くわかっていないフランソワーズ。その肩に両手を置いてなだめると、僕は素早く振り返った。

「誰だ」

すると、キッチンの様子を窺っていたらしき人物がゆらりと姿を現した。
ぼさぼさの前髪に隠された顔。表情は全く読めない。

「――なんだ。ジョーか」

僕は大きく息を吐き出すと緊張を解いた。

「おどかすなよ」

しかし。
僕がたった今感じたのは確かに殺気であった。それも尋常ではないレベルの。

「おい、ジョー・・・」

なぜジョーが殺気を放っていたのかわからない。その矛先も。
ジョーは無言でキッチンに入り、音もなく進む。そうして僕の肩を乱暴に除けて、僕の背に隠れていたフランソワーズに相対した。
もしかして、奴が殺気を放った相手は――フランソワーズ、か?

「――ジョー?どうしたの?」

しかしフランソワーズは全く何も感じていないようで――何故だ――きょとんと蒼い瞳を丸くした。

「ちょっと来て」

フランソワーズの手首を乱暴に掴むと、有無を言わさず彼女をひきずるようにして出てゆく。

「えっ、おいちょっと――」

フランソワーズは僕に後片付けの続きをお願いと小さく言って、ジョーにされるがままに出て行った。
いったい・・・なにごとだ?

 


 

 

ジョーは無言のままフランソワーズの手を掴み二階へ上がり、乱暴に自室のドアを開け、その中へ放るように彼女の手を離した。その背後で音高くドアが閉められる。

「ジョー、いったいどうしたの?」

全く状況が掴めず、フランソワーズは軽く首を傾げる。

「なんだか乱暴だわ。今日のジョー」
「・・・俺はいつもこうだよ」

「俺」という一人称に、フランソワーズの眉間に微かに皺が寄る。彼が自分をそう言う時は、何か――彼の心の平穏が乱された――があった時なのだ。
胸の前で腕を組んで。前髪を鬱陶しそうに軽く頭を振って。

「前に――約束したはずだよね、フランソワーズ」
「約束?」

突然言われても、いったいどの約束のことなのかフランソワーズにはわからない。頭の中でどの約束なのか考えてみる。が、ジョーはその時間もくれる気はないようだった。

「なのに、どうして破るんだ」
「――え?」

約束を――破る?

「破ってないわ。私がジョーとの約束を破ることなんてないじゃない」

それは半分嘘だったけれども、ミッション中に彼との約束を守らないのは、そうするのがベストと考えられる時だった。
平和な日常では、殆ど破ったことはないと言い切ってもいい。

「ふん。忘れたのか」

意地悪そうな声音にフランソワーズもむっとしたように言う。

「一方的に約束っていったってわかるはずないでしょう?いったいどの約束のことを言ってるのよ」
「ほらやっぱり忘れてる」

前髪の奥に覗く瞳がきらりと光る。睨むようなその視線の強さにフランソワーズはため息をついた。

「・・・またそんな顔して。あなたがそういう顔をする時って――」

何かを誤解している時。
怒っていたはずだったが、気が抜けた。

「もうっ・・・今度は何?」
「何って何だよ」
「どうせまた何かヤキモチやいてるんでしょう?」

両手を腰に当てて、胸を張ってジョーを見つめる。

「どうしてそうヤヤコシイやき方をするのかしら」
「・・・ヤヤコシイ?」
「そうよ。わかりにくいもの」
「だったらどうしろというんだ」

今の返答で、はいヤキモチやいてました――と肯定したことにジョーは気付いていない。

「ピュンマを殴り飛ばせと?大声でわめけと?」

ああ、やっぱり。

「・・・さっき、ピュンマのほっぺにちゅーしたの、見てたのね」
「・・・・っ!!」

ほっぺにちゅーと聞いて、ジョーは組んでいた腕を解いた。

「俺は別にっ・・・!」
「たかが、ほっぺにちゅーよ?御礼のキスよ?何がいけないの」

悪びれずに言うフランソワーズへ、ジョーは手を伸ばしかけ――しかし、彼女の肩を掴む事はせず、再び手を引いた。
こうして抱き締めて有耶無耶にしてしまうとフランソワーズは必ず怒るのだ。
手のやり場を失って、仕方なく自分の身体の脇に下ろす。ぐっと拳を握って。

「――御礼って何だ」
「え」
「ピュンマに何を頼んだんだ」
「えっと、それは・・・」

視線を彷徨わせたのはフランソワーズのほうだった。ジョーは彼女から目を離さない。

「俺に言えないことか」
「ちがっ・・・そうじゃないわ!そうじゃない・・・ケド」
「ケド、何?」

ピュンマは直接言えと言っていたが、こういうのは人づてで聞いた方が絶対うまくいく。と、フランソワーズは思っていた。
だから、「逆チョコ」の話をするよう頼んだなどと言えるはずもなく、ただ黙るしかない。

「――ふうん。だから最近、俺を避けてるんだ?」
「えっ?」

意外な話だった。

「避けてないわよ?」
「いいや、避けてる」
「避けてないってば」
「避けてるだろう?――朝だって」

起こしに来てくれないし。と小さく言う。

「だって、それはレッスンが早い時間からあるから、だから――」
「送らせてくれてもいいじゃないか」
「ジョーはまだ寝てるもの。それに、ジェロニモが車を出したいって」
「ほら。俺を避けてる」
「もうっ。どうしてそれが避けてることになるの?」
「昨日も一日顔を見てない」
「すれ違いだっただけでしょ?私はジョーがいつ帰ってきたのかも知らないのよ」

昨日一日、ジョーは次のレースの予定等の打ち合わせで出掛けており、帰宅したのは時計の針が24時を随分すぎてからだった。

「・・・部屋に来てくれなかった」
「当たり前でしょう?寝てたもの」
「・・・会いたかったのに」

ポツリと言ったジョーを見つめ、フランソワーズの唇に笑みが浮かぶ。

全く、どうしてこの人はいつもこうなのかしら。

「・・・ジョー?私だってあなたに会いたかったのよ?」
「嘘だ」
「本当よ」
「だったら」

フランソワーズはジョーに近付くと、彼の胸に手をかけて背伸びをし、彼の唇に自分の唇をくっつけた。

「――まだ嘘だと思う?」

ジョーはそのままフランソワーズを抱き締めると、唇を重ねていた。
フランソワーズはジョーのキスに応えながら、ピュンマにしたお願いは何かを答えずにすんだわとほっと胸をなでおろした。