「気になるメール」
ジョーの名誉を守るとすれば、不可抗力だった、と言い添えるしかない。 これだけは確かである。 「……」 ジョーはフランソワーズの携帯電話を手にしたまま微動だにしなかった。目は画面に釘付けである。 「……」 自然と指が動いてメールを消去しようとしたところではっと気が付いた。 自分はいま何をしようとした? 違う。 そんなんじゃない。 これは、そんなんじゃないんだ。 フランソワーズに男性からメールがきた。しかも内容はなんだか楽しげである。 ジョーは胸がざわざわした。なんだか凄く落ち着かない。 どうってことない。 この胸のざわざわ感は、昼御飯を食べ過ぎたせいに違いない。
―1―
決して彼が能動的に行ったわけではない。
『この前はありがとう。次は僕がおごる番だね。楽しみにしているよ』
短いメールの文面は、それでも必要なことは過不足なく伝えきっていた。
一人称が僕ということは男性だろう。女性の場合もあるが、確率としてはかなり低い。
文面は日本語であるから、相手は日本人だろう。(ムッシュウ・アズナブールならフランス語のはずだ)
差出人はジョーの知らない名前である。
これでは嫉妬に狂った小心な男ではないか。しかも彼女の携帯を勝手に触り、勝手にメールを見たという。
開いたまま置いてあったフランソワーズの携帯にメールが着信した。それだけのことなのだ。
決して、見ようと思って携帯を触ったわけではない。
フランソワーズ、メールがきてるよと親切心で携帯をデリバリーする途中、何かの拍子でメールが開いてしまったのだ。
たかがメール、どうってことないじゃないか。そう、トモダチだろう。フランソワーズにはトモダチが多いのだから。
トモダチと食事に行くのはふつうのことだし、メールのやりとりだって当たり前だ。
「ジョー、私の携帯見なかった?」 「探してくれたの?ありがとう」 ジョーはあっさり携帯を離した。 「メールがくるはずなのよ――あ、きてるわ」 楽しそうな横顔にジョーの胸のざわざわは更に大きくなった。 「フランソワーズ、あのさ」 ソイツは誰だ。 とは口が裂けても訊けない。言ったら、無断でメールを見たのがばれてしまう。例え不可抗力であったとしても。 「今度、外に食事に行こう」 フランソワーズの目が携帯画面から離れこちらを見る。 「本当?」 携帯をどうでもいいようにポケットにしまうと、フランソワーズはひょいっとジョーの腕にぶらさがった。 で、ソイツは誰。 いやいや、きっとトモダチだろう。どうでもいい。 「どこかいい店、知ってる?」 ということにして、探りを入れてみる。もしかしたら、『この前はありがとう』の『この前』行った店というのが出てくるかもしれない。ジョーは少し意地悪い気持ちで思った。フランソワーズが失言すればいい。そうすれば、堂々と誰と行ったのだと胸を張って訊くことができる。 しかし。 「そうねぇ……じゃあ、ネットで調べてリストにしてみるわ」 これはいったいどういうことなのだろう。『この前はありがとう』ってどこかで食事したわけじゃないのか?いやでも、『次は僕がおごる』とはっきり書いてあった。だからてっきり―― ――食事じゃないのか? では、いったい何だ。 「ジョーったら険しい顔しちゃって。さてはもう後悔してるわね?」 でももう遅いわよと楽しそうに言うフランソワーズに、別にそんなんじゃないよとそっけなく返す。 「怒らなくてもいいじゃない」 犯人の特定ができないばかりかヒントさえ手に入らなかったのだ。不機嫌にもなるというものだろう。 「――怒ってないよ」 フランソワーズを腕からもぎ離し、ジョーは背を向けた。 「怒ってるじゃない」 背中にフランソワーズの声。 「――怒ってないよ」 振り返りそう言うと、ジョーはフランソワーズの両腕を掴みそのまま壁に押し付けた。 「えっ、何、ジョー」 なんなのというのに耳を貸さず、ジョーはフランソワーズの手首をまとめて頭上に掲げると、その唇を貪った。フランソワーズがあっけにとられているのをいいことに首筋へ唇を這わせる。 「んん、ジョー?いったい――」 何が起こっているのか把握しかけたのか、フランソワーズが体を動かし抵抗を試みる。が、ジョーは自分の体を押し付け彼女の自由を奪う。 「ジョー?」 平気で隠し事をする恋人なんて、何をしたっていいんだ。 「メールだわ。何かしら」 しかも普通にメールを読んでいる。 「ん。ジョー、くすぐったい」 フランソワーズは少し身じろぎしたものの、ちょっと首を傾げジョーに与えている。それが優位に立たれているような、どこかあやされているような気がしてジョーはますます不機嫌になった。 またソイツとメールなのか。 ジョーは思わずフランソワーズの首筋を強く吸っていた。 「やだ、ジョー。それはダメよ。痕が残るでしょ」 恥ずかしいって何だ。誰かに見られたらか。 ――その誰かってつまりソイツか。 ソイツなのか。 ジョーは思わず歯を立てていた。痕が残って困るのなら、もっと困ればいい。 しかし。 フランソワーズは困ってはくれなかった。 怒ったのである。 「ん!ちょっとジョー、やめて頂戴」 フランソワーズがジョーの脛を蹴り上げると、ジョーはあっさりと引き下がった。が、うなだれたままゆらりとこちらを見る彼は非常に危険だった。 「……なんでだよ」 それが、甘えているわけでもじゃれているわけでもなく、本当に食したいかのように聞こえてくるから不思議である。
―2―
フランソワーズが風のようにやって来た。
ジョーを見つけ、彼の手のなかの携帯も見つけた。
「なあに?」
だから代わりにこう言った。
「えっ?」
「ウン。たまにはいいだろう。僕とデートでも」
「ええ。嬉しいわ!」
「私の知ってる店でいいの?」
「うん。僕はあまりそういうの得意じゃないから、フランソワーズの行きたい店でいいよ」
「へ?リスト?」
「そうよ。行きたいお店はたくさんあるもの」
「……そうなのか」
「ええ。うふ、私に任せるなんて言って後悔したって知らないわよ?」
「……」
それがいけなかった。
フランソワーズが急に膨れたのだ。
「怒ってない」
「怒ってるわ。ジョーが私の好きな店でいいって言ったのに」
「だから怒ってないって」
まったく人の気も知らないで。
知らない男と平気でメールする女。そしてそれを恋人に隠す女。更に恋人の目の前でそのメールを読む女。ジョーには手がかりさえ与えない。まさかの二股なのか、あるいはそれ以上なのか。
ともかく、彼女は過去にどこかへ男と出かけ、そして次の約束もしているのだ。そういう女なのだ。
可愛い顔して可愛い声で平気でそういう――
「うるさい」
ジョーはそんな気持ちでいた。フランソワーズの携帯が鳴るまで。
フランソワーズはジョーに全体重をかけられ壁に押し付けられているにもかかわらず、平然とポケットから携帯を取り出した。まるで縄抜けするようにジョーの手から自分の右手をあっさりと引き抜いて。
何故かフランソワーズを横取りされた気分になり、ジョーは噛みつくようにフランソワーズの首筋を責めた。
そもそも最初から不機嫌なのである。従って、今やジョーは全身不機嫌の塊と化していた。
僕が目の前にいるのに、メールが優先なのか。
「残ったらなにかまずいのか」
「当たり前でしょう。恥ずかしいわ」
「フン」
「ちょっと」
「……」
「痛いでしょ。吸うのはいいけど食べるのはダメっ」
「何が?」
「なんでダメなんだよ」
「ダメに決まってるでしょ。何よアナタ。私を食べたいの?」
「当たり前だ」
否、ジョーはあるいは本気で言っているのかもしれなかった。フランソワーズを噛み咀嚼し体内に入れたいという具合に。
歪んだ愛情である。
飢えた手負いの獣のようなジョーにフランソワーズは脅えた。何をされるかわからない。
――と、ふつうなら逃げるところである。 フランソワーズは逃げなかった。 逃げる代わりに、手負いの獣に向かって手を伸ばしたのである。 まさに好機と獣が目を光らせた途端。 「イタッ痛いよフランソワーズっ」 引き剥がそうと必死になるが、フランソワーズはがっちり噛みついたまま離れない。しかも耳に噛みついたままジョーの首筋に両腕を回してきたのだ。 「む、むぐぐぐ」 一時間の格闘にも感じたが、実際のところはほんの数分だっただろう。 「いい加減にしろっ」 二人の頭上から水が降って来た。ずぶ濡れである。 「――ったく。さかりのついた猫のケンカじゃあるまいし」 よくよく見れば、ピュンマもジェロニモもいる。一様に顔をしかめている――というより、呆れている。 「本気のケンカも大概にしろよ」 いったいどのあたりから観客がいたのかさっぱりわからない二人である。 「フランソワーズもだ。お返しにジョーを食べてどうする」 そこでジョーが我に返ったようにフランソワーズに詰め寄った。 「そ、そうだ!そのメールはいったい誰」 携帯画面にメールを呼び出すと、フランソワーズはジョーに見せた。 「一斉送信になってるでしょ?私個人に充てたものじゃないわ」 再びきな臭くなってきた二人に、二杯目のバケツ水がプレゼントされた。 「いい加減にしろよ。お前ら」 バケツを空けたのはピュンマであった。よくよくみれば、その隣にいるジェロニモもバケツを手にしている。時と場合によってはこれもプレゼントされる仕組みだろう。 「風邪ひいちゃう。ジョーのせいよ」 「……もう一杯浴びたいか?」 ジェロニモの静かな声に二人は口を閉じると、着替えてこなくちゃと揃って出て行った。 「で……これは誰が後始末するんだ?」 眼中にないんだろうよ。
―3―
実は脅えてもいなかった。
獣の――ジョーの耳を噛んだ。けっこう本気で。
ジョーの首が絞まる。耳も今にも噛み千切られそうだ。
「痛いよふらっ……げほごほほ」
どうにもこうにも膠着していたところへ突然。
きょとんと目を見開き辺りを見回す二人の目に映ったのは、バケツを持ち苦い顔をしているハインリヒであった。
「ジョーもジョーだ。ヤキモチも度を過ぎれば変態だぞ」
「へんたっ……僕は」
「フランソワーズを食べたいなんて真顔で言っちゃイカンだろ」
「だって、ジョーったら酷いんだもの」
「くだらんヤキモチだって気付かないお前さんじゃないだろーが」
「……だって、ジョーのヤキモチって酷いんだもの」
「お友達よ?」
「男だろ」
「そうよ」
「一緒にどこかに行ったんだろっ」
「ええ。……みんな一緒にね」
「……みんな?」
「そうよ――ってジョー!酷いわ、ひとのメールを勝手に見たのね!」
「不可抗力だ」
「……まったくもう……どうせ見るんならちゃんと見ればいいのに……」
「だけど次は僕がおごるって」
「そういう決まりなの」
「アヤシイ」
「本当よ?疑うなら自分で訊けば?ホラ、電話するから」
「いいよそんなの」
「だって疑ってるじゃない」
「いいって。もう疑ってない」
「ほんと?電話するのがメンドクサイだけじゃないの」
「本当だって」
「こっち向いて言ってくれなきゃ信じないわ」
「うるさいなぁ。本当だって」
びしょぬれになった二人は慌てて立ち上がった。
「えっ、なんだよソレ。もとはといえばフランソワーズが」
あとには水浸しのリビングが残った。
「アイツらにやらせるに決まってる。まったく、じゃれてるのかケンカしてるのかよくわからんが部屋でやれってこった」
「ホントだね。でもまぁ……」